第5話𓉔𓍢𓍯𓈖~不穏~

 アヌビスの洞察力には皆一様に舌を巻く。人が気付かぬ様な些細な事にさえ焦点を当て、その考察はその先の見えない部分にまで及ぶ。


 ホルスと違い、生まれつき体があまり丈夫ではなかった彼は、その欠点を埋めるかの如く魔術や頭脳の鍛錬に労力を割いた。もっとも、神上がることが出来れば体の心配などしなくても良くなるのだ。体術はそれから磨いても遅くはないとアヌビスは考えていた。



「これは……。」

 数人の神官達を引き連れて霊安室にやってきたイシスはその光景に目を疑った。


 つい先程まで寝台に横たわっていた神官達の遺体が跡形もなく消えている。端から遺体などなかったのではないかと錯覚するほどに。


 呆気に取られているイシスの横でアヌビスは身を屈め、真剣な顔つきで何かをじっと見つめている。すでに彼の意識は別の所にあるようだ。


「何を見ているのです?」

 イシスは眉をひそめ彼の目線の先を辿った。

 

 その視線を感じ取ったアヌビスはさっと身を引いて寝台の角を指差した。よく見ると小さな黒いシミのようなものが付着している。


「それは……。」

「おそらく血、ではないでしょうか。」


 この異様な光景をも凌駕した彼の興味とは、わずかに残る血痕だった。しかしその痕跡を不審に思う者は1人もいない。


「ここに運んだ者が拭き忘れたものではないのですか?」

 イシスの言葉にアヌビスは静かに首を振る。


「神官達が殺されたのは至聖室。ここに運ばれてくる遺体はすでに清拭を終え、身を清めたものだけ。ミイラとなり埋葬されるまでのいわば待機室です。殺された神官の血が付着することはまずあり得ない。」


「では一体誰の血だというのです?」

 まるで狐にでも化かされたような顔でイシスは答えを迫った。


「この血が殺された神官達ではなく、遺体を運び出そうとした犯人の物だったとしたら。」


 想定すらしていなかった回答にイシスは眉をひそめる。


「どういうことです?」

「死体を運ぼうとした者もまた、何者かに襲われた、という事ですよ。」


 いよいよ訳が分からなくなったイシスは閉口し、アヌビスが再び口を開くのを待つしかなかった。


「ここに僅かですが剣で切ったような跡があります。」

 そう言ってアヌビスが指差したのは正面の壁。大きな鳥が翼を広げた壁画が描かれたその中心、鳥の瞳の部分だった。確かにその部分だけ切り傷のように鋭く削れている。


 壁や床に使われている石灰岩は加工がしやすく、装飾を施す神殿や墓などに使われる。裏を返せば傷つきやすく、他の素材より強度は劣る。それを証明するかの如く、こうして証拠を刻み込んでしまっている訳だ。


「帯剣しているということは、神官ではあり得ない。侵入者を断罪しようとしたという可能性も潰れます。第一、剣の心得のない者が1人で立ち向かうなんて無謀すぎる。」


 そこで、とアヌビスは顔の前に人差し指を立てた。


「俺は一つの仮説を立てました。消えた遺体に何らかの価値があった場合、それを知り得た者同士の奪い合いに発展したと考えれば一連の流れに説明がつきます。」


 イシスは説明を受けながらもどこか虚ろな目をしていた。亡くなった神官達に思いを馳せているのか、傷付いた壁を茫然と眺めまるで何かに耐える様に固く拳を握っている。


「ただ、まだ疑問も残ります。まず至聖室に遺体を放置した件。最初から遺体が目的なら、暗に殺し、見つからない様に持ち帰ればいい。母上が言ったように、まるで見せつけているかのような派手な殺し方だったのも気になる。そして誰が遺体を持ち帰ったのか。これが最も気がかりです。双方で揉み合いになった後、結局どちらが遺体を持ち帰ることになったのか。そもそも神官達を殺したのはそのどちらかなのか、また別の誰かなのか。それもわかりません。」


 アヌビスの話を黙って聞いていたイシスがやっと口を開く。


「貴方の推理はだいたい分かりました。」

 その声は微かに震え、確かな怒気を含んでいた。


「殺した犯人、その遺体を奪い合った者達の特定、そして最も重要なのは遺体を取り戻すことです。その者達にとって遺体にどんな価値があろうと、殺された彼らを思う私の気持ちに勝るはずもありません。大事な神官達が死して尚、得体の知れない者達の手によって蹂躙されることなど決してあってはならないのです。」


 イシスは小さく息を吐き、周りにいた神官達を見回して言った。


「私はしばらくここを空けます。私が留守の間、この様な参事が再び繰り返されることのないよう皆気を引き締めなさい。」

 

 主の言葉を受け、神官達の顔に緊張が走る。


「私が戻るまでの間、この神殿の主はアヌビス。彼に責任の一切を預ける事とする。彼の命令は今後、豊穣の神イシスの命であると心得よ。」


 思ってもみない展開にアヌビスは驚愕し、動揺を隠せない。


「母上、それは……。」

 いくら何でも荷が重すぎる。アヌビスが堪らず声を上げた。


「母の命を断るのですか?」

「い、いえ……ですが。」

 

 自信がないとは言えず口籠る。

 イシスは息子の肩にそっと手を置くと微笑んだ。


「心配いりません。貴方は皆をまとめる力量も、策を練る才格も十分に持っているのです。まずは己を信じる所から始めなさい。」


「……善処します。」

 アヌビスは言い得ぬ不安を抱えながら母の言葉に応えるしかなかった。




 ――とは言え面倒な事になった。


 頭を整理しようと籠った部屋の中でアヌビスは頭を抱える。

 

 ただでさえ問題が山積みだというのに、ここにきてさらに難題が降りかかるとは。


 何も起きなきゃいいが……。


 母が不在の間何事もなく時が過ぎてくれれば、少なくとも自分はこの神殿の主として日々の業務を全うするだけでいい。いわばお飾りだ。


 だが同時に利点もある。特に今回の事件に関してやはり情報を集めるには現場に滞在し、神官達への聞き込みや調査を行うのが最も効率的だ。母がいつまで外出するかは不明だが、この機をうまく使い事件を解決へと導ければこれ以上要らぬ心配をかけずに済む。


 アヌビスがふと視線を上げると、壁に描かれた絵が目に入る。そう言えばここは幼い頃のホルスと自分の部屋だった。壁の絵は当時ホルスがいたずら書きしたものだが、描いた本人があまりにも泣き喚くものだから、代わりに自分が怒られたのを覚えている。

 

 アヌビスは壁を見つめながら、その何とも言えない絵面に笑みを零す。芸術的と言えばそう見えなくもない。しかしこれがこの神殿の神官達を描いたものだと聞いた時はさすがに耳を疑った。説明を受けても尚そのようには見えてこないのである。何十人と並ぶ神官達。その超大作をしばらく眺め、アヌビスははっとした。


 違う、思い出に浸っている場合ではない。

 アヌビスは緩みかけた頬を引き締めるとすぐに事件へと頭を戻した。ホルスの行方も未だ不明のままなのだ。


「アヌビス様。」

 その意を汲んだかのように耳元でキオネの声が響いた。


「見つかったのか?」

 その声を聞いた途端アヌビスは思わず立ち上がる。


「いえ……。ナイル川の上流あたりで気配が消え、追えなくなりました。周囲を探しましたが、見つけたのは羽1枚だけで……。申し訳ありません。」


 嫌な予感がする。

 アヌビスはキオネの言葉に言い得ぬ不安を覚えた。


「ただ周囲に別の気配が。」

叔父セトか?」


 ホルスにいくら放浪癖があると言っても、こうも長時間音沙汰がないとなると事件か事故のどちらかを疑わざるを得ない。そうなると必然的に挙がるのは彼の名だった。


「あれは神ではない。人間のものです。」

 キオネの答えはアヌビスの予想を裏切るものだった。


「何だと……?」


 セトはおろか神のものでもないとなると話が見えてこない。半神とはいえ人間にやられてしまうほど柔ではない。


 考えを巡らすアヌビスの脳裏にふとある光景が浮かび上がった。

 

 あの時感じた違和感。


 もしかしてあいつか…?

 アヌビスの額に僅かに汗が滲む。


 これはとんでもない事態だ。何も起きないでくれと願ったアヌビスの願いは早くも崩れ去った。


 アヌビスは見張りの神官に声を掛け、すぐさま部屋を飛び出した。


 気づいてしまったのだ。


 この神殿にがいる、と。

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