第4話𓎡𓄿𓎼𓇌〜影〜
生まれつき虚弱体質だったアヌビスは幼少期、その大半を室内で過ごした。また喘息の気があった為に激しい運動などは避けなければならず、さらに猛暑が厳しいアケトの時期には日を浴びる事さえ出来なかった。故に友人と呼べる者は一人もおらず、話し相手といえば眷属であるキオネとホルスだけ。
だがアヌビスにとってそれらは何の枷にもならなかった。神上がる事で丈夫な体が手に入る事は知っていたし、元々内向的な彼とって大勢の友人たちと外で走り回るより一人静かに書物を読む方が性に合っていたのである。
ホルスが外で狩りや農業に従事している間、アヌビスは魔術書や歴史書などあらゆる分野の書物を読み漁った。それらは彼の探求心を刺激し、分析、考察を重ねる事によって得た知識や思考は彼自身の糧となり、後に最大の武器となる。彼の思慮深さや高い洞察力はその体質が産んだと言っても過言ではなかった。
「これは……」
神官からの報告を受け、大神官、そしてアヌビスと共に現場へと駆けつけたイシスはその光景に目を疑う。
ミイラを安置する為に常設されたベッドは全部で十二床。その内の半分が神官達の遺体で埋まっていた。そう、ほんの数時間前までは――。
彼らは確実に殺されていた。皆一瞬のうちに剣で喉を掻っ切られ、自分が殺された事も気づかぬまま死んで行ったに違いない。ともすれば遺体は勝手に消える筈もなく、自然と誰かが持ち去ったのだという考えに至る。
一方、事件の前日から体調を崩し、先程神官から報告を受けるまで床に伏せっていた大神官メリモセの顔は青白かった。それは体調のせいばかりではないだろう。運良く難を逃れたとはいえ、自分の代わりに儀式に参加した仲間が殺されたのだ。
「一体誰が——」
茫然と立ち尽くす二人の横を素知らぬ顔で通り過ぎたアヌビスはまるで吸い寄せられるように正面のベッドへと歩み寄った。
「何を見ているのです?」
ベッドの前で身を屈め、何かを凝視している彼にイシスは怪訝な顔をして尋ねる。
アヌビスは返事をする代わりにさっと身を引いて木製のベッドの縁を指差した。よく見るとそこには黒いシミのようなものが付着している。
「それは……?」
「おそらく血ではないでしょうか」
その言葉にイシスは嫌悪感を露わにした。神殿という聖域において何故これ程までに血が流れ、尊い命が奪われる事になったのか。イシスは至聖所での凄惨な光景を思い出し、顔を歪ませる。
しかしベッドにこびり付いたその血痕が彼らを殺し、遺体を持ち去った犯人に結びつくとは到底思えない。
「ここに運んだ者が拭き忘れたものではないのですか?」
イシスは思わずそう問うた。しかしアヌビスは静かに首を振る。
「ミイラが作られるのはこことはまた別の場所。
「では一体誰の血だというのです?」
まるで狐に摘まれたような顔でイシスは答えを迫る。
「遺体を持ち去った犯人か、あるいはまた別の——」
「どういうことです?」
ここで今まで沈黙を貫いてきたメリモセが初めて疑問を口にした。死者が蘇る訳でもなし、何故加害者である犯人が血が滴る程の傷を負う事になるのか些か疑問だったのかもしれない。
「遺体を持ち去ろうとした犯人もまた、何者かに襲われた可能性があります」
いよいよ訳が分からなくなった二人は閉口し、彼が壁際に向かって歩いていくのをただ見ているしかなかった。
この国で神殿など重要な建造物に使われる石材はそれらを後世にまで残す為、頑丈で風化しにくいものが使われているが、その中でも比較的加工がしやすい石灰岩は装飾を施す壁などに多く使われている。それを証明するかの如く、その壁にはある証拠が刻まれていた。
「僅かですがここに小さな傷があります。斜線状に残るこの傷は恐らく剣によるものではないかと」
そう言ってアヌビスが指差したのは正面の壁。
「帯剣しているという事は、神官ではあり得ない。侵入者を断罪しようとしたという説も潰れます。第一、剣の心得のない者が1人で立ち向かうなんて無謀すぎる」
そこで、とアヌビスは顔の前に人差し指を立てた。
「俺は一つの仮説を立てました。消えた遺体に何らかの価値があった場合、それを知り得た者同士の奪い合いに発展したと考えれば一連の流れに説明がつきます」
イシスは説明を受けながらもどこか虚ろな目をしていた。亡くなった神官達に思いを馳せているのか、傷付いた壁を茫然と眺めている。
「ですが今のところ、全て憶測でしかありません。神官を殺した犯人と持ち去った犯人は同一人物なのか。だとすれば一度放置した遺体を持ち去った理由は何なのか。それぞれが単独犯であれば彼らにはそれぞれに別の動機と目的があった事になります。さらに、別の人物も加え奪い合いになった遺体には一体どんな価値があったのか。様々な疑問が残りますが、今現在遺体を所持している犯人を特定出来ればそこから糸口が見つかるかもしれません」
「——貴方の推理はだいたい分かりました」
イシスはアヌビスの意見をひとしきり聞いた後、吐息混じりの声でそう言った。
「殺した犯人、遺体を奪い合った者の特定、そして最も重要なのは遺体を取り戻すことです。現世での生活が叶わぬならせめて、アアルの野で彼らが幸せに暮らせるよう全力を尽くしましょう」
かなり疲労しているようだが、それでも犯人への憎しみが彼女を奮い立たせているように見える。大いに頷きたい所だが、アヌビスは母の言葉に違和感を覚えた。
人々がその肉体をミイラとして保存するのは、
しかしアヌビスは口を噤んだ。母がそれを口にしないのは神官達への愛であると直感したのだ。母がどれ程彼らを大切にしているか、幼少期ここで暮らしていた当時から理解していた。
母はまだ諦めていないのかもしれない。そう思った時アヌビスの中にも自然と闘志が湧いてくるのを感じた。犯人が誰であれ悪人は悉く断罪すべきであり、また全ての善人には幸せになる権利が与えられるべきである。巨悪が統べるこの世界で、疲弊し忘れてしまいそうになるその熱意をアヌビスは思い出した。
イシスは小さく息を吐き、改めてアヌビスの顔を見据えた。
「私はしばらくここを空けます。その間はアヌビス、貴方がこの神殿の主。貴方のその頭脳で事件を解決へと導くのです」
「ちょ、ちょっと待ってください! いきなりそんな……。」
予想外の言葉にアヌビスは動揺を隠せなかった。いくら何でも荷が重すぎる。
「安心なさい。この神殿の神官達にはすでに全て伝えてあります。」
「どちらへ行かれるのです?」
言葉少なに踵を返すイシスをメリモセが引き止める。彼もアヌビスと同様に困惑の表情を浮かべていた。
「用が済んだらすぐ戻ります」
有無を言わせぬ無言の圧に二人は言葉を飲み込む。そして彼女が去っていく様子をただ黙って見ているしかなかった。
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