第2話𓊃𓇋𓎡𓇌𓈖〜事件〜

 アヌビスはその苛立ちを隠しきれずにいた。ため息を漏らす度注がれる視線も煩わしくて仕方がない。いつもなら軽く受け流す些細な事にさえ癪に障る。アヌビスが門番達を睨むように一瞥すると、彼らは慌てて視線を外した。


 しかし彼が苛立つのも無理はない。神殿前に設置された日時計はすでに第11時(注)を指し、約束の時間はとうに過ぎているというのに神殿の前にはこの通り困惑した顔の門番が2人立っているだけなのだ。


「あの……アヌビス様、そろそろ……。」

 しびれを切らした門番の1人がおずおずと歩み寄ってきた。


「分かってる。あと少しだけ待て。」

 ホルスの放浪癖は今に始まったことではないが、事が事であるため今回ばかりは見逃せない。


「キオネ。」

 

 アヌビスが呟くと彼の背後にできた影がズルズルと伸び、やがて獣のような形を成した。影から這い出てきたそれは狼のようだが、それにしては随分華奢に見える。漆黒の体毛に琥珀色の瞳が飛び抜けて目立ち、まるで瞳だけ宙に浮いているようだ。


「はい。」

 アヌビスの声に男性とも女性とも取れぬ奇妙な声が返事をした。


「できるだけ早くあのバカを探して連れ戻せ。……それと。」

 アヌビスは正面を向いたまま小さな声で付け加えた。


「見つけたら周囲に別の気配がないか探れ。」


「御意。」

 キオネと呼ばれたそれは仰々しく頭を垂れて夕闇に消えていった。


「……結局こうなるのか。」

 これ以上待っても現れないだろうとアヌビスは仕方なく1人で神殿に足を踏み入れた。


 大広間へ通されると、すでに人数分の椅子が用意されていた。全部で3脚。向かい合うように置かれた椅子を見てアヌビスはため息をつく。当然1脚は空席になる訳だ。


「久しぶりですね。アヌビス。」

 その声にアヌビスははっと顔を上げる。どう言い訳をしようか考えているうち、母に声を掛ける事すら忘れていた。しかしその柔らかな微笑は昔と全く変わらない。


 アヌビスは数年ぶりの母との再会に懐かしさと嬉しさで思わず胸に飛び込みそうになるのを抑える。もう子供ではないのだ。


「はい。母上はお変わりありませんか?」

「ええ。おかげさまで変わりなく、元気にやっていますよ。」


 アヌビスはそれを聞いて安堵した。数年ぶりの呼び出しに母の身に何か起きたのではないかと心配していたのだ。しかし安堵したのも束の間、母の視線が横にずれた。


「……ホルスはどうしたのです?」

 元より隠し通せる訳がないのだ。問い詰められてしまえば事の顛末を正直に話す他ない。


「そうですか……。仕方ありませんね。」


 母の反応は意外にもあっさりとしていた。まるで想定していたと言わんばかりの反応にアヌビスは苦笑する。


 イシスは小さく息を吐き、改めてアヌビスの方を見据える。その顔に先程までの柔和な雰囲気はない。アヌビスは察した。やはり、何かあったのだ。



「昨夜、神殿が何者かに襲撃され、至聖室にいた数名の神官が命を落としました。」



「……なっ……!」

 母の言葉にアヌビスは言葉を失った。広間の空気が突如として重苦しいものに変わる。


 神官達の顔が一様に疲弊していたのはそのせいだったのか。まったく悪い予感ほど当たるものだ。


「母上は大事なかったのですか……!?」

「ええ。私は奥の寝室にいましたから襲撃は免れました。しかし尊い命が奪われてしまったことが悔しくて仕方がありません。」


 その声は怒りで震え、拳は赤くなるほどに強く握られた。その悲痛な思いに思わず目を伏せる。


 少しの沈黙の後、アヌビスは思い出したように再び顔を上げた。


「祭壇は……! 祭壇は無事だったのですか?」


 至聖室が襲われたとなれば中にある祭壇を狙ったと見るのが当然だろう。


 祭壇とは神に祈りを捧げる場所、つまり神と人とを繋ぐ重要な媒体となる。また、神力の根源である信仰心や祈りの力を得る場所でもあり神殿の要と言っても過言ではないのだ。


「……ええ。犯人も流石に祭壇の結界までは破ることができなかったようです。」

 アヌビスは少し安堵した。エジプト神の中で最も魔術に長けた母自らが施した結界が破られたとあっては国の安寧をも崩しかねない。


 しかし祭壇だけでなく至聖室自体にも他の神の強力な結界が施されており、それを突破できる者は神でしかあり得ない。それもかなり神格の高い者である可能性が高いだろう。


「祭壇に強力な結界が張られている事は神の世界では周知の事実。それでも敢えて至聖室を襲い、神官達の命まで奪った。……これは私に対する宣戦布告です。」

 

 イシスは苦虫を嚙み潰したような顔で再び拳を握る。その脳裏に浮かぶ人物はアヌビスにも容易に想像できた。このような残虐な事をするのはあの男をおいて他にいない。


 ——セト神。

 エジプト史上最も残虐な戦争の神。


 イシスの夫、そしてホルスとアヌビスにとっては父であるオシリスを殺めた張本人である。


「母上。」

 イシスの言葉を静かに聞いていたアヌビスが口を開く。


「今回の件に叔父セトが絡んでいる事は可能性として充分あり得ます。しかしそれだけじゃない……何か裏があるように思えてならないのです。」


 イシスは意外そうな顔でアヌビスを見た。


「どういうことです?」



「イシス様!」

 アヌビスが口を開くのと同時に1人の神官が慌てた様子で部屋に駆け込んで来た。


「何事です?」

 神官は血の気の引いた顔でイシスの前に跪き、言った。


「霊安室に安置していた神官達の遺体がありません。」

 

 イシスは驚いて眉を上げる。


「……どういう事ですか?」


「消えてしまったんです。まるで始めから何もなかったかのように。」


(注)16時~17時

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