第3話𓊃𓇋𓎡𓇌𓈖〜事件〜

 目の前の景色が闇に溶け始めた頃、アヌビスは強い焦燥感に駆られていた。ため息を漏らす度注がれる視線も煩わしくて仕方がない。

 

 辺りにはすでに夜の気配が満ち始めていた。だが日暮れまで、と釘を刺したにも関わらず母の神殿の前にホルスの姿はない。代わりに門番が二人、こちらの様子を伺うように何度も視線を送ってくる。アヌビスはそれを睨むように一瞥すると、彼らは慌てて視線を外した。


 そもそも自分達が住む神殿は下界においてエドフと呼ばれる場所に位置しており、彼の翼を使えば母の神殿があるフィラエまで、ものの数分で辿り着ける筈だ。


 とはいえ母をこれ以上待たせる訳にもいかない。万が一その身に何か起こったのだとしたら尚更悠長にしている暇はなかった。


「あの……アヌビス様、そろそろ……」

 その心境を汲み取ったかのように見かねた門番の一人が声を掛けてきた。


「分かってる。――キオネ」

 

 アヌビスが呟くと、背後の影がズルズルと伸び、やがて獣のような形を成した。影から這い出てきたそれは一見狼のようにも見えるが、獣が纏う空気がこの世のものではない事を告げている。漆黒の体毛に琥珀色の瞳。夕闇に溶け込んだその姿はまるで冥界ドゥアトに住む混沌かいぶつのようだ。


「はい」

 アヌビスの声に反応するように男性とも女性とも取れぬ奇妙な声が返事をした。


「できるだけ早くあのバカを探して連れ戻せ。……それと」

 アヌビスは正面を向いたまま呟くように言った。


「その周囲に別の気配がないか探れ」


「御意」

 キオネと呼ばれたは主の言葉に何の疑問も呈さず、ただ仰々しく頭を垂れて夕闇に消えていった。


 アヌビスはそれを見送ると、すぐに神殿の中へと足を踏み入れた。


 ちょうど夜の儀式の時間帯なのか、パピルス(注)やら供物やらを持った神官達が目の前をせわしなく通り過ぎていく。幼少期に世話になった顔馴染みの者ばかりだが、余程忙しいのか誰一人としてアヌビスに気づく者はいない。

 

 その様子に何か殺伐としたものを感じ取ったアヌビスは自然と歩を速める。


 巨大な柱が立ち並ぶ列柱室を抜け中庭へ出ると、その先に人影を発見した。


 母だ。

 アヌビスは吸い寄せられるように母の元へ駆け寄った。


「久しぶりですね。アヌビス」

 懐かしい母の声と微笑は幼い頃の記憶そのままだ。アヌビスはその胸に飛び込みたい衝動に駆られたが、もはや大人である自分に気づき踏みとどまる。


「はい。母上はお変わりありませんか?」

「ええ。献身的な神官達のおかげで不自由なく暮らせています」


 しかしその言葉とは裏腹にその顔には翳りが見える。やはり呼ばれたのにはそれなりの理由があるのだろう。健在な母を見て一度は安堵したアヌビスだったが、その様子に再び不安が首をもたげた。


「ホルスはどうしたのです?」

 聞かれる事を予想していたとはいえ、いざ母を目の前にすると言い繕う事など出来なかった。結局アヌビスはその経緯と共に事実を明かす。


「そうですか……。仕方ありませんね」


 予想とは裏腹に母の反応は意外にもあっさりしていた。まるで想定していたと言わんばかりの表情にアヌビスは苦笑する。


 ホルスは幼い頃から何か気になるものを見つけるとそれに夢中になり、いつの間にかどこかへ消えてしまう放浪癖があった。当時は子供特有の好奇心で済まされたが、これがホルスの性格なのだと母も気づいたに違いない。


 イシスは小さく息を吐き、改めてアヌビスの方を見据えた。その顔に先程までの柔和な雰囲気はない。


「昨夜神殿が何者かに襲撃され、至聖所で祈りを捧げていた数名の神官が命を落としました」


「なっ……!」

 その言葉にアヌビスは言葉を失う。そしてここに来て初めて違和感の正体に気づいた。神官達の態度も母の表情も全てそれが原因だったのだ。もしかしたらあの供物もパピルスも、神ではなく冥界ドゥアトに旅立つ死者に手向けるものだったのかもしれない。


「母上は? お怪我はありませんでしたか?」

「ええ。私は別室にいたおかげで襲撃は免れました。ですが神官達の尊い命が奪われてしまったことが悔しくて仕方がありません」


 口調こそ穏やかだがその声は怒りに震え、固く握られた拳からは犯人への憎悪が見てとれる。その悲痛な思いが伝わってくるようでアヌビスは思わず目を伏せた。


 この世には三つの世界がある。神が住む天界、人間の住む下界、そしてアアルの野を含めこの世を去った者が住む冥界である。


 これらの世界が交わる事はないものの、それぞれが重要な役割を持ち互いに影響を及ぼし合って存在している。天界に神官という人間がいるのは、人々の願いや祈りを神に届け、また神の言葉を人々に伝える為だ。彼らは神と人とを繋ぐいわば仲介役であり、至聖所に祀られた神像はその媒体である。


 神官が御神体となる神像に向かって毎日祈りを捧げるのはその為だ。そしてその信仰心と祈りが神に力を与える。図らずもそういった相互作用によって世界は均衡を保っているのだ。


 しかし当然ながらその信仰心は自身に対するものでなくてはならない。他神の信仰心を利用したり、奪う事は出来ないのである。


 これら事実を全て踏まえると、至聖所を狙った犯人の目的はおのずと絞られる。また複数の神官を手に掛けている事から、特定の人物への怨恨である可能性も低い。


「像は無事だったのですか?」

 アヌビスは徐々に冷静さを取り戻し、事件について聞き取りを始めた。犯人の目的がこの神殿の主である母を陥れる事だとすると、力を享受するのに必要な神像を狙ったと考えるのが妥当だろう。


「ええ。室内は特に荒らされた様子はなく、整然としていました。ただ神官達の遺体だけが無惨にも……」


 イシスは当時を思い出すかのように苦悶の表情を浮かべた。その様子から察するにかなり凄惨な現場だったに違いない。アヌビスは心を痛めながらも無理やり思考を戻した。彼らを弔う為には犯人を特定し捕えなければならない。


 像に異変がなかったのは意外だが、争った形跡もない事から暗殺に長けた人物であり、さらに至聖所に行くまでには厳重な警備と人の目を搔い潜かいくぐらねばならず、犯人は相当な手練れである事が伺えた。


「知っての通り至聖所にはこの神殿で最も強力な結界を張っています。私が許した者でなければ入る事が出来ない絶対領域。それを無理やりこじ開け侵入する事が出来るのはやはり同じ神でしかあり得ません」


 しかしエジプトに存在する神の中で最も魔術に長けた母の結界を破る者などいるのだろうか。アヌビスはそう思ったが、イシスの脳裏には既にある神の名が浮かんでいた。


「——セト。きっとあの男に間違いありません。これは私に対する宣戦布告です」


 その名を聞いた途端、アヌビスの心に何とも形容しがたい感情が湧き上がってくる。あらゆる負の感情をない混ぜにしたようなそれはアヌビスの心を侵食し、全身の血を沸き立たせた。


 ——セト神。

 エジプト史上最も利己的で残虐な神。目的の為ならば家族だろうと手に掛ける野心家である。


 彼は兄であるオシリスを殺し、自らが王の座についた。しかし戦争の神であるが故に誰も太刀打ち出来ず、慈悲の心を持ち合わせていない彼に異を唱える事は死を意味していた。安泰の世は暴力によって奪われ、暴力によって統治されているのである。


 そしてイシスの夫であり、アヌビスの父であるオシリスを手に掛けたセトは二人にとっても最大の敵だった。


「母上。」

 アヌビスは何とか気持ちを鎮め、母に語りかける。


「今回の件に叔父セトが絡んでいる可能性は十分にあります。ですが一連の行動が、感情のまま突発的に動く奴の行動とはかけ離れているように思うのです。それに全てを手に入れた男が今更我々に接触してくる理由も不明です。何か意図があるのか、或いは別の誰かが手を引いているのか分かりませんが、慎重に行動するに越した事はありません」

 

 アヌビスの言葉にイシスは少し平静を取り戻したのか、再び小さく息を吐いた。


「貴方の言う通りですアヌビス。見ない間に随分と大人になったものです」

 イシスはそう言ってかすかに微笑んだ後、首を振った。


 ――いえ、貴方は元々そういう子でしたね。

 自身の思いだけに捉われず、多方面からものを見る冷静さと柔軟さはかつてこの世界を治めていた夫オシリスとよく似ていた。



「イシス様!」

 親子の会話に割って入るように中庭へ駆け込んで来た神官の顔は今にも倒れそうな程に蒼白だった。緩みかけていた空気が再び張りつめる。


「何事です?」

 神官は血の気の引いた顔でイシスの前に跪き、言った。


「遺体が……。ワアベト(注2)に安置していた神官達の遺体がありません」

 

 イシスは驚いて眉を上げる。


「……どういう事ですか?」


「消えてしまったんです。まるで始めから何もなかったかのように」


(注)同名の植物から作られた紙のようなもの。同植物は様々なものに加工されたが本書では紙を指す。主に契約文書や会計文書などの公的文書、また神に捧げる呪文や葬祭文書など宗教文書を記す媒体として使われた。


(注2)「純粋な場所」という意味のミイラを安置する場所

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