第2話 𓋴𓄿𓇋𓎡𓄿𓇋〜再会〜

 とにかく直接会って話を聞くほかない。先陣をきって歩き出すホルスの肩をアヌビスが掴んだ。


「お前、まさかその恰好で行くんじゃないだろうな?」

 

 訝しげな視線が全身に注がれ、ホルスはようやくその意味を理解した。改めて見る自分の姿は土で汚れ、その体だけでなく白い筈の腰布シェンティまでもが文字の如く土色に変色していた。


『そのようなお姿で誰が貴方を神と慕いましょう。どうか、神としての自覚をお持ちくださいますよう。』

 ふいに神官の困惑した顔が蘇り、ホルスは思い立ったように踵を返す。


「悪い、すぐ戻る!」


 突如その背に生えた翼が周囲の砂を巻き込みながら瞬く間にホルスを空へと導いた。


「遅くても日暮れまでには戻れ。分かったな」

「じゃあ着替えを頼む」


 調子のいい奴だ。アヌビスはそう言う代わりに小さくため息をついた。二人からすれば何気ないやりとりに過ぎないが、傍から見れば完全に親子のそれである。

 

 ホルスは兄の険しい顔を見下ろし、ひらひらと手を振った。



「あちぃ」

 容赦なく照り付ける日差しの下、滑空するホルスは天に向かってその不満を吐き出した。当然口にしたところで状況が変わる訳ではない。いや、完全な神であればあるいは可能なのかもしれないが、少なくとも今のホルスにその力はなかった。


 太陽に近いせいかその暑さは地上の比ではない。ジリジリと肌を焼かれる感覚に、人間に丸焼きにされる鳥の気持ちが少し分かるような気がした。


「はぁ……」

 ようやく川に辿り着き、火照った体を水の中に沈めたホルスはその心地よさに思わず声を漏らす。ゆっくりと目を閉じ、川の音と水の感触だけに意識を向けると、まるで自分とナイルが一体になったような感覚に陥る。


 ホルスは不思議とこの感覚が好きだった。こうする事で頭の中のもやが晴れていくような気がするのだ。

 

 ホルスはしばしの間水の中に身を委ね、体が完全に冷えるのを待つ。全身の泥を洗い流し、ようやく川から上がったホルスは濡れた髪を掻き上げ、水を吸った腰布シェンティの端を絞った。


 そろそろ行かなきゃな。

 

 いくら自分に放浪癖があると言っても今回ばかりはすぐに戻るつもりでいた。それに着替えがあれば無理に乾かす必要もない。首を振り、髪を滴る水滴を払い落とすとホルスは再び翼を広げた。


「――ッ!」


 飛び立とうとした瞬間、ドン、とまるで誰かに背中を押された様な衝撃がホルスを襲った。踏ん張ろうにも、大きくつんのめった体を支えるには遅すぎた。


 水飛沫を上げ、川に逆戻りしたホルスはすかさず川岸の方を振り返った。しかしそこには誰もいない。文句の一つでも言ってやろうかと思っていたのに拍子抜けだ。


 しかし異変はこれだけではない。泳いで岸へ上がろうとするホルスの耳に入ってきたのは更なる悲劇の音だった。


 不穏な音に耳を澄ませるホルスの背筋に冷たいものが走る。

 まさか、でもそんな筈は――。

 

 ホルスは自分の中に立てた仮説を自ら否定した。ナイル川が氾濫するのは通常、夏の間のアケト(氾濫期)だけだ。今の時期はあり得ない。

 

 しかしその予想は現実となってホルスの前に現れた。心地良かったせせらぎの音はいつの間にか腹に響くような轟音へと変化し、目の前の景色がみるみるうちに濁流へと飲み込まれていく。

 

 ――まずい。

 そう思った時には既に身動きが取れなくなっていた。それどころか水面に浮いている事すら困難なこの状況に危機感を募らせる。もがけばもがく程逆効果である事も頭では分かっているのだが、命の危機が迫るこの状況で冷静でいられる程経験を積んでいる訳ではなかった。

 

 当然、体力を消耗し濁流に飲まれていく様をただじっと見つめる人影にホルスが気付く筈もない。


 ――このまま死ぬのか?


 濁流に呑み込まれ、朦朧とする意識の中でホルスは漠然と死の恐怖を感じた。


 嫌だ、死にたくない。

 誰か、誰か助けてくれ。


 父上……!


 何故かその時心の中で父を呼んでいた。物心ついた時には既に幻と化していた幻影をホルスはずっと追い求めていた。いつか会えるのではと淡い期待を抱いて――。


 するとそれが合図であったかのようにふっと体が軽くなるのを感じた。轟々と流れる川の音が消え、冷たい水の感覚も、息苦しさすら感じなくなった。


 これは冥界ドゥアトの片鱗なのだろうか。しかし自分はまだ裁かれるほどの善行もまして悪行も行ってはいない。


「……ルス」

 誰かに呼ばれた気がして、ホルスは辺りを見回し声の主を探した。


「ホルス」


 はっきりと聞こえたその声にホルスははっとした。同時に微かに残っている幼い頃の記憶が蘇る。


「お前はまだへ来るべきではない」

 声と共に現れた人影にホルスは目を見開く。


「父上……!」

 父の記憶はほとんど無い筈だった。その声も、顔すらも朧気だというのに、ホルスは何故だかそれが父親だとすぐに理解した。


「久しいな。我が息子よ」

 息子を真っ直ぐと見つめるその目は慈愛に満ち、その声には王座に即く者の威厳が感じられた。

 

 ホルスの中で幼い頃からずっと胸にしまい込んできた感情が溢れ出す。


「ずっと――。お会いできる日を夢に見ていました」

 

 その言葉に一瞬驚いたオシリスは息子の表情を見てすぐに表情を曇らせる。期待と歓喜に満ち溢れたその表情は、死者に向けられたものではない。


 ああ、この子はまだ知らぬのだとオシリスは思った。

 

「ホルスよ。私が今ここにいる理由をお前は知らぬようだ。ならば父として、そして冥界ドゥアトの王として真実を伝えねばならぬ」


 冥界ドゥアト

 それは死者が人として最後の審判を受けた後、アアルの野(注)に行く為に通る道だとされている。その死の世界の王である理由。それは父の表情を見れば分かる事だった。

 

「お前達がこの世で命を落とさぬ限り会う事は叶わぬ」

 とどめを刺すかの如くオシリスははっきりとそう言った。


「何故……」

 掠れた声が口から漏れる。しかし声になっているのかさえ怪しかった。


「私はこの川で弟、お前にとっては叔父であるセトに殺された。その後冥界ドゥアトへと下り、私はそこで再び王となったのだ」


 父上が叔父セトに殺された……?

 頭の中で反芻してみてもまるで実感が湧かない。


 ホルスは母から父は別の国の王になったのだと聞かされていた。まさかそれが冥界ドゥアトだったなんて。


 いずれ会えるだろうと呑気に構えていたホルスは鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。


「何故です……? 何故父上は殺されなければならなかったのですか!」

「ホルス。辛いだろうがこれが事実だ」


 突き放すように告げられた言葉がホルスの胸に突き刺さる。受け止められる筈がない。突如として突きつけられた冷酷な事実に体の震えが止まらなかった。


「全て話してやりたいが、お前は今生死の境目にいる。死の世界にいる私と話してそいるのがその証拠。これ以上ここに留まれば、お前もこの世界にひきずり込まれてしまう。――生きるのだホルス。生きてこの世の王となり、あの男から直接話を聞くがいい」


 ――俺が、王に?

 父の言葉にホルスは面を食らったように固まる。今まで自分が王になるなど考えた事もなかった。確かに自分はかつてこの世界の王であった父の息子だ。しかし物心ついた時には父の姿は既になく、セトがこの世を統治していた。


 それが当たり前だと思っていた。今までも、そしてこれからも。


「セトは私を殺す事で王位を奪った。しかしホルス、それは本来お前にあるべきものなのだ。その運命から目を背けてはならぬ」


 父の姿が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れ始める。


お前の瞳ウジャトの瞳で混沌の世を照らすのだ……」


 その言葉を最後に父の姿は霞の向こうへと消えていった。


 待って!

 待ってください父上……!


 父の腕を掴もうとした手は虚しく空を切り、ホルスは意識が遠のいていくのを感じた。


注)裁判にて審判を受け冥界ドゥアトの試練をくぐり抜けた者だけが行けるとされる楽園。人々はそこで永遠の命が手に入れることができた。

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