第1話 𓉔𓄿𓆓𓇋𓅓𓄿𓂋𓇋〜始まり〜

 かつてエジプトに存在した古代都市ヘリオポリス。原初の神が降り立ったこの地を眼下に生まれた半神ホルスは今年十七の年を迎える。かつての王の面影を残しながら幼さの残るその顔には満足げな表情が浮かんでいた。


「ま、こんなもんだろ」

 流れ落ちる汗を拭いながらホルスは鍬を担ぎ上げた。


 健康的な褐色の肌に銀糸の髪が映え、漆黒色の澄み切った瞳には彼の快活な人柄が表れている。

 

 ホルスは鍬を担いだまま伸びをするように天を仰いだ。


 快晴。

 まさに雲ひとつない青空を見上げながらホルスは深く息を吸い込んだ。心地良い疲労感を感じながらそっと目を閉じる。


「また人間の真似事か?」


 呆れた声にホルスははっと後ろを振り返る。

 目線の先には巨大な塔門パイロンに寄りかかるようにして立つ青年の姿があった。


「何だ。アヌビスか」

 見知った顔に安堵して、ホルスはたった今耕し終えた畑の脇に腰を下ろした。

 

 人間の真似事、というのは農業のことである。しかし食を必要としない神にとってその行為は何の意味もなさない。神は人々の豊穣の願いを聞き入れるだけで実際に鍬を持つ必要はないのだ。


 アヌビスと呼ばれた青年、彼はホルスの兄である。肌は青白く、筋肉は付いているものの男にしては線が細い。中性的というのがしっくりくる見た目だ。


 見ての通り二人には瞳の色以外に血縁関係を匂わせるものはなく、性格も真逆だった。愚直で明朗なホルスに対し、アヌビスには冷たい印象はあるものの物事を一歩引いた視点から見る思慮深さがある。行動力はあるが周りが見えなくなるホルスを諌めるのはいつも兄である彼の役目だ。


 性格の不一致というのは一般に不仲の原因として捉えられるが、バランスを保つという意味ではむしろ真逆である方が上手くいくのかもしれない。まさにそんな事を感じさせる関係だった。


「好き好んで鍬を使うような『物好き』には関係ないんだろうが、最近の人間は耕作に牛を使うらしいな」


 ホルスの農業への執心ぶりに嫌気がさしていたアヌビスは若干の嫌味を込めてそう言った。


 農業というのは大変な重労働だ。その負担を少しでも減らす為に人々は知恵を絞った。文明の利器を発明し、あるいは動物を利用する。そんな中、時代を逆走するように自ら鍬を持って作業する意味がアヌビスには理解できなかった。


「いいか、農業ってのは土台である土が大事なんだ。ナイルが良い土を運んできてもその後が雑じゃ意味がねえ。結局人の目で管理するのが一番だと思うぞ俺は」


 彼は農夫にでもなるつもりなのか、目を輝かせてそう力説した。まるで無邪気な子供のように。


 しかし気持ちまでも人間になりきっているのか、彼は度々自分の事をと言う。


 ——これだから困るのだ。アヌビスはその心情を吐露するかの如くため息をついた。彼は自分の立場をまったく理解していない。


 半神である自分たちはいつか完全な神となり人間達を見守る立場となる。ましてこの地を統治し、神の王であったオシリスの息子ともあろう者がこの有様では先が思いやられる。


「お前、これからどうするつもりだ。神上かみあがるつもりはあるのか?」


 アヌビスの唐突な質問にホルスは目をしばたかせた。


 創造神であるアトゥム・ラーを除き、すべての神は半神という形でこの世に生を受ける。彼の言う神上かみあがるとは、その半神が完全な神へと覚醒する事を言う。


 半神はいわゆる『人智を超えた力』は持ち得ているものの、老い、または病魔に犯される等の身体的な欠点においては人間と同等である。文字通り神と人間両方の性質を持った彼らは修行を積んで人々の信仰を集めることで覚醒し、完全な神となる。そうして神上がることで初めて一柱の神として認められるのだ。


 それに加えて最近『アメミット』という物騒な輩が暗躍しているという噂も聞く。半神狩りと称してまだ神になり得ない者達を次々と手に掛けているというが、その噂が本当ならいずれ自分達も標的となるだろう。身を守る意味でも神上がりは必須なのだ。


「そのつもり、ではあるけど……」

 ホルスの答えはやはり神の威厳とは程遠い弱々しいものだった。


 神になる瞬間とはどんなものなのだろう。ホルスはまるで他人事のように考える。体感するものなのか、あるいは誰かに啓示されるものなのか、判然としない。


「失礼致します」

 アヌビスが再び口を開きかけたその時、背後から別の男の声がした。振り返った二人の前には白い亜麻の布を身に纏った男が一人、片膝をつき、深くこうべを垂れている。


「イシス様がお呼びです」

 

 男がそう告げると二人は思わず顔を見合わせる。物心ついた頃から母とは別の神殿で暮らし、有事でなければほとんど会うことがなかった。まして二人揃って呼び出されるとは一体何事か。


 アヌビスも同じ事を思ったのか、やはり動揺を隠せない様子で立ち尽くしている。


「母上に何かあったのか」

 アヌビスが強い口調で問うと神官はおずおずと答えた。


「いえ、ただ話があるとだけおっしゃって、それ以外は何も……」


 随分歯切れの悪い返事だった。神官の態度が二人の不安をさらに搔き立てたのは言うまでもない。


「……わかった。すぐ行く」

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