第6話𓏏𓇌𓎡𓇋𓊃𓇋𓈖〜敵〜

 感情のまま半ば啖呵を切るような形で神殿を後にしたイシスはアヌビスを置き去りにした事を少しばかり後悔していた。

 

 しかし神殿の神官達はアヌビスにとっても皆昔からの顔なじみであったし、入れ替わりがあるとすれば病気や死別以外にない。それこそが神官達を大切に思っている何よりの証拠であり、また神官達が自分に絶対的な忠誠を誓う理由もそこにあるのではないかとイシスは思っていた。


 何より、彼ももう大人である。余程のことがない限り問題は起きない筈だ。そう自分に言い聞かせて、イシスは目的の場所へと向かった。


 イシスが向かったのは他でもない王の神殿である。イシスは一連の事件にはセトが絡んでいるという確信を持っていた。


 だが何故今更自分達に危害を加えるような真似をするのかイシスには不思議でならなかった。


 望むものは全て手に入れた筈だ。これ以上何を望むというのか。


 イシスはぎゅっと唇を噛む。あの男の強欲さと残虐性は神ならざるものだ。一刻も早く問いたださなければ。


 華美な彫刻が施されたオベリスクを横目にイシスはその先にある塔門に目を向ける。そこには眠そうに欠伸をしている神官が2人立っていた。

 

 王の警備も随分と手薄なものだ。イシスはその有様に嘲笑を浮かべる。


 しかし左程問題がないのも事実である。戦争の神相手に反旗を翻す者などいよう筈もない。その驚異的な強さと残虐性は周知の事実であり、彼自身もまた己の強さに胡座を掻いている事に間違いはなかった。


 イシスが塔門へと近づくと彼らは驚き、背筋を伸ばす。


「イシス様。本日は一体どの様なご用件で……?」

「王に謁見を。それ以外に一体何があると言うのです?」

 

 冷ややかな目線と怒気を含んだその声に、神官達はすくみ上がり、すぐさまその身を引いた。


 この時間ならまだ寝室には行っていないだろう。無論寝込みを襲うなどどいう無粋な真似はしない。


 広大な神殿だが、イシスの足に迷いはなかった。迷う事などある筈もない。かつて自分達が暮らしていた神殿なのだ。


 セトが夫を殺し王座を奪い取るまでは——。


 広間へと続く列柱室を歩いていると、イシスの存在に気づいた神官達が慌ててその場に跪く。突然の訪問に皆驚きを隠せないのだろう。時々こちらを盗み見る様な視線も感じた。


 だがそんな事はどうでもいい。何より彼を問いただす事が最優先だ。

 

 怒りを抑えさらに奥へと進むイシスの前に1人の神官がまるで行手を阻むかの様に目の前で跪く。

 

 その見た目、そして堂々たる振る舞いから察するに、神官の中でもかなり位の高い者である事が分かる。


「イシス様、セト様は只今会議中でして……。」

「会議?」

 

 イシスは思わず嘲笑った。この国を憂うどころか戦争しか頭にないあの男が会議など滑稽にも程がある。


「そこを退きなさい。」


 有無を言わせぬ物言いにも全く動じる事なく神官はその場に跪いたまま動かなかった。


 その様子にイシスはため息をつき、神官の肩に手を伸ばす。


「——ッ」


 その手が肩に触れた瞬間、神官の体がぐらっと傾き、そのまま床に倒れ込んだ。跪いたままその様子を窺っていた神官達はひいと悲鳴を上げ、石の様に動かなくなった神官を凝視する。


「心配いりません。意識を失っているだけです。」

 そう冷たく言い放ち、イシスは広間の入り口の前で深く息を吸った。


 足を踏み入れた瞬間、まるで時が止まったかの様に皆足を止め、こちらを凝視する。


 まさに会議中といった雰囲気で、中央の長机には何枚もの書類が山積みになっていた。神官の1人が驚きのあまり立ち上がった拍子に、その山が盛大に崩れていく。


 神官達が驚くのも無理はない。2人が顔を合わせるのは数十年ぶりであり、オシリスが殺された後は一度も会っていないのだ。


 呆気に取られる神官達を横目に、イシスは玉座の前に立ち男を見上げる。神官達は一体どんな会話がなされるのであろうとその様子を固唾を飲んで見守っている。


 褐色の肌に漆黒の長い髪を後ろで一つに束ね、その端正な顔立ちは横暴な性格を補って余りある程美しいと評判だった。


 それ故彼の周りには常に女性神の取り巻きが出来ていたが、当の本人は気にも止めずむしろ疎ましく思っていたようだ。もっとも、彼が王位に就いてその残虐性に拍車がかかってからは誰も寄り付かなくなったようだが。


 彼は書物を片手に豪華な玉座に座り、傍に何人もの神官達を侍らせていた。


 ——いいご身分だこと。

 イシスは嘲るように笑った。


 一方、セトは表情一つ変えず冷ややかな目でこちらを見つめている。曲がりなりにも血の繋がった兄弟に向ける視線ではない。


 その鮮やかな真紅の瞳はいつもイシスの心をざわつかせた。数多の命を無慈悲に奪い、流れた血のように見えるのだ。


 セトは氷のように冷たい視線をこちらに向けたまま口を開いた。


「姉上自ら神殿に足を運ばれるとは珍しい。余程大事な用なのであろうな。」

 

 そのわざとらしい口調と態度がイシスの神経を逆撫でした。生まれてこの方彼が自分を敬ったことなど一度もない。


「わたしが今日何故ここに来たか分かっているわね?」


 静まり返った広間にイシスの震えた声が響く。抑えきれない怒りと殺気がピリピリと伝わってくる。


「何のことだか。言いたい事があるならはっきりとその口で言え。」


 先程のへり下った態度を一変させ、セトは吐き捨てるように言った。


「神官達を手に掛けたのは貴方ね? そしてその遺体を持ち帰ったのも。直接手を下していなくても、息が掛かっている事は確かよ。目的は何? 言いなさい。」


 イシスが強い口調でけしかけるとセトはフンと鼻で笑った。


「さっきから何を勘違いしているのか知らんが俺は何もしていない。お前達に何が起きようがどうでもいい事だ。」


「この期に及んでシラを切るつもり? こんな事、貴方以外に誰がするっていうの?」


 我ながら、こんな短絡的な言葉を発するなんて思ってもみなかった。しかし夫のかたきを目の前にして冷静でいられる訳がないのだ。


「驚いたな。まさか何の根拠もなく俺がやったと決めつけるのか。お前はもっと考えのある奴だと思っていたが。」


 持ち前の思慮深さなど衝動的にここへ乗り込んだ時点で破綻しているのだ。今更理性的になる必要もない。


 イシスの中で何かが切れた。


「お前に私の何が分かる? 夫を殺した反逆者が知ったような口を聞くな。」


 腹の底からふつふつと湧き上がる悲しみ、怒り、そして憎悪。仇を目の前にしてその感情が堰を切ったように溢れ出す。


 空気が、揺れる。


 すると広間にいる神官達が次々と倒れ、苦悶の表情でその場にうずくまった。


 彼らは神に近しいと言っても普通の人間である。神から発せられるそのに耐えられる者などいるはずもない。


 対してセトは涼しい顔でイシスを見下ろす。


「何をそんなに怒っている? 神殿で何があったか知らんが俺は一切無関係だと言っているだろう。」


 セトはその気をものともせず立ち上がり、その顔をイシスの目と鼻の先まで近づけた。


「俺の気が変わらない内に出て行け。それとも息子諸共バラバラに切り刻んでやろうか? ——オシリスと同じように。」


 そう言って挑発するセトに全身の血が沸騰するような怒りが沸き上がる。

 

 しかし息子達を引き合いに出されればこれ以上刺激するべきではない。今の言葉もただの挑発ではないだろう。


 イシスは心を鎮めるように小さく息を吐いた。挑発に乗る事こそこの男の思う壺だ。


「貴方はいつも自分を狩る側だと思っているけれど果たしていつまで続くかしら。」


「鹿が虎に変わる事がないように狩られるものは一生狩られる運命だ。食物連鎖というのはそういう物ではなかったか?」


 そう思うなら思っていればいい。

 いつか必ずお前を王座から引きずり落としてやる。


 イシスは嘲るように笑って踵を返した。


「……それと、これ以上勘違いされるのも癪だから言っておくが、お前達を消したいと思ってる奴は俺だけじゃない。それを頭に入れておく事だ。」


「ご忠告感謝するわ。」


イシスはざわつく心を悟られまいと早足で神殿を後にした。




 ——ドンッ


 静寂を破るその音に神官達は身を震わせて主を見た。


 肘掛けにひびが入っている。

 しかしその行動とは裏腹に不気味に笑う主を見て神官達はギョッとした。


「ジジイ共が何か企んでいるようだな。……面白い。ならば高見の見物といこうか。」

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