第10話𓋴𓉔𓍢𓎼𓍯〜守護者〜
「ずっと貴方が来るのを待っていました。今こそお見せ致しましょう。守護者としてのあるべき姿を」
セべクの顔から笑みが消え、纏う空気は軍神どころか鬼神のそれだった。まるで別人のようなその姿にホルスは思わず立ち上がり、ゆっくりと後ずさった。
「ちょっと待て。何を――」
「ご心配なく。この剣に殺傷力はありません。——といっても私の加減次第ですが」
自分が聞きたいのはそういう事じゃない。ホルスは動揺し、助けを求めるようにクヌムを見る。しかしまたしても傍観を決め込んだ彼はこちらを見つめているだけで口を出す事も、ましてや仲裁するつもりもなさそうだった。
「一体どういう事だ。あんたは父を慕っていたんじゃないのか?」
その言葉にセべクは静かに頷く。
「『息子達を頼む』これがオシリス様の遺言でした。だからこそ私は今貴方と対峙しなければならない。貴方が本気で王になる事を望むなら、私もそれに応えましょう」
彼の顔を見てホルスは覚悟した。これが父の意志であり、セトを倒す為の試練の一つであるなら、立ち向かわなければならない。ホルスは固く拳を握る。
「貴方には剣の代わりにこれを」
突如目の前に現れた木製の人形。等身大程あるそれをホルスはまじまじと見つめた。しかしどうしても武器のようには見えず、おまけに気味が悪い。人間のような足が2本生えているが腕はなく、虚ろな目がじっとこちらを見つめている。
「……何だこれ」
人が布を被ったようなその姿に言いえぬ恐怖を感じ、思わず人形から目を逸らした。
「彼をあの柱まで無傷で守り切ってください」
セべクが指差したのは数十メートル程先にある巨大な柱。この部屋を支える一本なのだろうが、一際鮮やかな装飾がなされたそれはこちらから見てもかなり目立っている。
「要するに、あそこまで逃げ切ればいいって事だろ?」
簡単だ、とホルスは笑みを零す。普通に走っても10秒とかからないだろう。てっきり死闘でも繰り広げるのかと思っていたホルスは拍子抜けした。
「では、始めましょう」
ホルスは人形を抱えたその瞬間から自分の読みが甘かった事に気づかされる。それは中に鉄でも入っているかの如く重さで、抱えて飛ぶのには無理があった。それでも何とか走り出したホルスにセべクが問いかける。
「飛ばないんですか? あの時は木の幹ごと軽々と持ち上げてたじゃないですか」
野暮用と言いつつ、その様子を傍観していたのはクヌムだけではなかったらしい。完全に煽られているが、今その挑発に乗る余裕はなかった。
「おっと」
重さに気を取られているうち、いつの間にか距離を詰められ容赦ない一太刀が浴びせられる。ホルスは慌てて飛び退くが、間髪入れず次の一振りが頬を掠めた。
丸腰で両手の塞がったホルスが応戦出来る筈もなく、前に進むどころかじりじりと後退する一方だ。その後も幾度となく試みるが、セベクの猛攻に阻まれるばかりで一向に辿り着ける気がしない。
ホルスはおもむろにゴールを見つめる。柱まではまだ何メートルも先だ。楽勝だと思っていたその距離が今ではとてつもなく遠い。
「自身が置かれた状況、敵の強さを見誤り、戦況を見極められない者に待っているのは——」
一瞬目の前に閃光が走り、ホルスはやっと我に返る。
「死、のみです」
首元に冷たいものが当たり、それが剣だと分かると体が硬直した。
「何故、よそ見をしたんですか? これが敵なら貴方達、すでに殺されていますよ」
その切先がこの身を貫くことはない。だが実際に刃を突きつけられれば足がすくむ。まるで命を握られているような感覚にホルスの額には自然と汗が滲んだ。
「戦場では気を抜いた者から命を落とします。相手が一人の場合でもそれは変わりません。常に戦況を把握し、不測の事態に備え警戒を怠ってはなりません」
厳しい言葉と共にその刃から解放されたホルスは思わず膝から崩れ落ちた。そして顔を上げた瞬間、目の前の光景に再び戦慄する。
抱えていた筈の人形が真っ二つに割れ、地面に転がっていたのだ。殺傷力はないと断言しながらこの剣を本気で振るっていた彼に恐怖を感じずにはいられなかった。
「何を驚いているのです。戦とはこういうものですよ」
セベクはそう言って何食わぬ顔で再び剣を向ける。
「その羽は飾りですか?まだ活かしきれていないように見えますが」
セべクの挑発を受け流しながらその後も幾度となく挑戦するものの、目標まで一向に縮まらない距離にホルスは苛立ちを隠せずにいた。
「これに一体何の意味があるんだ?」
思わず口から出た言葉にセべクは動きを止める。叱責されると思い身構えたが、返ってきた言葉は意外なものだった。
「強欲で利己的なセトが何年もの間オシリス様に王座を許し、その陰に潜んでいた理由。それは一体何だと思いますか?」
確かにあの男の性格ならすぐにでも謀反を起こし、暴力の限りを尽くしてその地位を奪おうとするだろう。更に言えば、その即位にすら異を唱えそうなものだ。
「攻撃は最大の防御という言葉をご存知ですか?」
それはまさに今のホルスの気持ちを代弁したような言葉だった。身を守るよりも、攻めて脅威そのものを消す方が容易く、遥かに効率的だ。この時のホルスはそう信じて疑わなかった。
「それそれ! 俺はそれが言いたくて!」
あれは外国の兵法書だったように思う。幼い頃アヌビスに無理やり読まされたのを辛うじて覚えていた。知ってはいるが、今やっている事とは真逆のように思えた。
「あの言葉は文の一部を抜粋したものであって、攻撃の重要性を説いているのではありません。実際にはその逆、相手の戦意を喪失させる圧倒的な防御、或いは巧妙な戦略の重要性を指しているのです」
その言葉にホルスははっとした。
「じゃあ長年セトが王座を狙わなかった理由って……」
「ええ。当時の王宮には、敵を退ける為のオシリス様の知恵が詰め込まれていました。それは結界や敵を欺く仕掛けだけでなく、王宮に仕える全ての者に防衛術を教え込んだのです。あの方自身も太陽神ラーに匹敵する程の力を持っていましたから、戦いを仕掛けたところで返り討ちに遭う事が分かっていたのでしょう」
つまり、手を出さなかったのではなく、出せなかったのだ。ホルスは改めて父の偉大さを実感した。
「守りを固めるというのは一見非効率であるように見えますが、戦闘において体力や戦力の保持というのは非常に重要で、勝敗を左右する鍵になります。さらに新たな戦争の抑止にもなり非常に優れた戦術であると言えるのです」
「ああ……何か分かる気がする」
ホルスは過去アヌビスに悪戯を仕掛け、奇策をもって手酷く仕返しされた事を思い出す。故にその効果は身をもって立証済みだった。
「貴方には守りたいものはありますか?」
唐突に投げかけられた言葉。戦略とはまるでかけ離れたその質問にホルスは戸惑った。
ある。
そう答えるとセベクは微笑んだ。
「ならばその為に戦うのです。オリシス様が貴方を守り抜いたように、それが貴方を誰よりも強くする。クヌム様から聞きました。自分には王になる資格があるのかと。それはオシリス様も悩まれていた事でした」
「父上が?」
意外だった。名君と呼ばれた父が自分と同じ悩みを抱えていたなんて。
「ええ、貴方と同じです。ですが民の声を聞き、触れ合う事で彼らを心から慈しみ、守りたいと思えるようになった。オシリス様はそう言っておられました。触れ合い、心を通わせる事で芽生える感情もあるのです。ですから焦る必要はありません。それよりも今はセトを打ち倒すだけの力をつける事に集中すべきだと私は思います」
確かに憂いていても仕方がない。まだ理解できない感情があったとしても、それは王となってから考える事だ。
「一つ、ヒントを与えましょう。機を待つのです。ホルス」
その言葉をホルスは頭の中で反芻する。意味は理解できるが、彼が言う「機」が一体いつなのか、それだけが分からない。
だがこの修行にやっと意義を見出し、俄然やる気になったホルスは前を見据える。
分からないなら追求するしかない。
「もう一回頼む」
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