第75話𓄿𓇋𓆓𓍯𓍢~Unconditional love~

 甲高い耳鳴りと共に、アヌビスの頭を割れるような痛みが襲う。頭を抱え、項垂れる兄の異変に気づいたホルスはすぐに駆け寄り、名前を呼ぶ。しかし酷く遠くから聞こえるその声はまるでもやが掛かったように不明瞭だ。


『俺が憎いかアヌビス』

 いつかのセトの言葉が脳裏を掠める。その意図を察しながら何故自分をそばに置いたのか。今更そんな疑問が首をもたげた。


『ならば憎み続けろ。それこそがお前を——』


「真の強さへと導く」

 その痛みに耐えきれず膝を折るアヌビスの元にゆっくりと歩み寄り、セトは続けた。


「何故俺がオシリスの息子、ともすれば寝首を掻くかもしれないお前を引き入れたか分かるか」

 セトは屈み込みその目線を合わせると、挑発的な笑みを浮かべる。


「素質があるからだ。俺と同じく邪神としての素質がな」


 彼にそう告げられても、アヌビスは特に驚かなかった。体ごと闇に呑まれていくような、度々感じるこの感覚はやはりその予兆だったのだと、疑念が確信へと変わった瞬間、アヌビスは清々しささえ感じていた。セトに感化され徐々に闇に蝕まれていくこの感覚を今更不快とも思わない。


 苦悶の表情から一転。アヌビスの顔から一切の感情が消える。


 突如視界が反転し、何が起こったのか分からぬまま、ホルスは馬乗りになった兄の顔を呆然と見つめる。こちらを見下ろすその顔は曲がりなりにも血を分けた兄弟に向けたものとは到底思えない。


「まさかこの年で取っ組み合いの喧嘩でもしようっていうんじゃあ……ねえよな」

 首に短剣を当てがわれ、背中に冷たいものが走る。少し角度を変えればたちまち肌を切り裂き、噴き出した鮮血が辺りを血の海に変えるだろう。


「アヌビス……?」

 ホルスが呟いたその名前に彼は首を傾げる。

「おい冗談だろ? お前は自分の名前すら忘れちまったのか?」

 その腹を蹴り上げ、死の恐怖から何とか脱出したホルスは相手の出方を伺う。彼とこれ以上戦いたくはないが相手が戦闘態勢である以上こちらもそうせざるを得ない。


「お前が誰だか知らないが敵だという事は分かる」

「何言ってんだ。俺はお前の——」


 顔面に振り下ろされたその拳を見切るのが遅れ、ホルスはとっさに右腕で顔を防御ガードした。すると幸か不幸か身に着けていた腕輪が盾となり、目の前で真っ二つに割れてしまった。一度は突き返されてしまったが、またいつか返せる日が来ると信じ、大切に身に着けていたそれは鈍い音を立てて地面に転がる。


 防戦一方だったホルスの動きが一瞬にして切り替わる。それは腕輪を壊された怒りか悲しみか。スナップを利かせた重たい蹴りが鳩尾に入ると、アヌビスはその場に蹲り、こちらを睨め付ける。その隙にホルスは割れた腕輪を拾い上げ、懐にしまった。いつかの兄弟喧嘩のような殴り合いが数分続いた後、アヌビスは再び短剣を手にする。


 身構えるホルスを尻目に投げられた短剣はその耳を掠め、背後にいる男の元に届く。セトがその短剣を弾く瞬間、剣の下にできたその影から何かが飛び出した。今まさに剣を振り下ろそうとするアヌビスとセトの視線がかち合い、両者はまるで時が止まったような錯覚を覚える。


 だがその速さはやはりセトの方がわずかに勝っていた。渾身のだまし討ちが不発に終わり、敵の面前で無防備になったその体をあの時と同じ砂の刃が貫いた。


「アヌビス……!」

 悲痛な叫びが耳朶を打つ。同時にアヌビスは気づいた。その刃が貫いたのは自分ではなく、目の前に立つ彼女の一身だという事に。


「ネフティス……!」

 自分を庇うようにセトの前に立ちはだかった彼女は自らを盾とし、大量に血を流しながらその場に立ち続けている。


 ネフティスは血塗れの両手をセトの肩に乗せ、不敵に微笑んだ。


「……一体何をするつもりだ」

「何って、貴方を道連れにするのよ。私の血で濡れた今ならその体に剣も通るでしょ?」


 ネフティスは地面に転がったオシリスの剣に目をやり、それからホルスに目を向けた。


「この体ごと彼を貫いて」

 まっすぐとこちらを見つめるその瞳は彼女が本気である事を示していた。


「そんな事できる訳——」

「この悪夢を終わらせなければ……人も神々も永遠にこの男のいいなり。だから私は託すわ。未来の王となる貴方に。……今こそ負の連鎖を断ち切るべきよ」

「その手を放せ!」

 彼女の最後の足掻きに気圧されながらセトは声を荒げる。

「……絶対に放さない」

 大量の血を流しながら、彼女は魔力を最大限引き出し、肩を掴む手に力を込める。その気迫は長年彼女を支配してきたセトでさえも恐怖を抱くほどに凄まじいものだった。


 ホルスは歯を食いしばり、父の剣を構える。そしてその剣が体を貫く瞬間、アヌビスは母の最期の声を聞く。


「……やっと貴方を守ることができた。こんな母親でごめんね」


「感謝します

 その亡骸を抱きかかえ、アヌビスはそれに応えるように呟いた。その言葉をまるで聞いているかのようにネフティスはうっすらと微笑み、頬を伝う涙が乾いた砂の上にポタリと落ちた。



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