第54話 𓈖𓍯𓂋𓍯𓋴𓇋〜狼煙〜
「お前には関係のない事だ」
アヌビスはそう一蹴したが、一方のエゼルはまるで引き下がろうとしない。
「まあそう言わず、こちらへどうぞ」
そう言って彼は勝手に隣室の扉を開け中へと促す。その勢いに押され、アヌビスは隣室へと足を踏み入れた。
キオネの言う通り中は瓦礫の山だった。室内には埃が舞い、アヌビスは思わず顔をしかめる。
「で、井戸が何でしたっけ?」
この男、全部聞いていたのか。アヌビスは心の中で舌打ちをする。
「それを聞いてどうする気だ? 主にでも報告するつもりか?」
「滅相もない。私は協力したいのですよ」
嘘か真か、この男の発する言葉にはまるで信憑性がない。
「実を申しますと、あの井戸を作ったのは私なんです」
「……は?」
全く予想していなかった返答にアヌビスは間抜けな声を上げる。同時にこの発言すら嘘なのではないかという疑念が首をもたげた。
「お前が? 何故?」
「何故だと思います?」
こちらを揶揄っているのか、妙に勿体ぶるエゼルにアヌビスが鋭い視線を投げると、エゼルは肩をすくめ部屋の隅にある瓦礫を丁寧に外した。キオネの言った通りそこには小さな穴が開いており、外から覗いただけでも相当な深さがある事が分かる。
「こんなに深い穴をお前一人でどうやって」
「いえ、穴自体は最初からここにあったんです。それに私が手を加えて——」
彼の言葉を遮り、アヌビスはもう一度その穴を覗き込む。
この不恰好な穴、見覚えがある。アヌビスは遠い日の記憶に思いを馳せた。
これはホルスに悪戯され、仕返しをする為に自分が堀ったものだ。まさかこんな形で再会する事になるとは。
「万が一、という事があるでしょう? 如何なる時も備えというのは必要です」
確かに、この国において水源の確保は最重要事項だ。だがナイルの恵みがある限り、差し迫る危機が訪れる事はまずない。
「備えとは一体何に対してだ? 災害か? それとも——」
「そうですねえ。災害というよりは人災。いえ、神の怒り、とでも申しましょうか」
相変わらず薄っぺらい笑みを湛えながらエゼルは意味深な言葉を口にする。
「お前、一体何を企んでる?」
そう問い詰めてみても男の表情が変わる事はない。
「先程貴方は灌漑と申しましたが、この井戸はまさしくある場所に水を供給する為に作ったものです」
「ある場所?」
エゼルは一度扉の方に目をやり、すぐに視線を戻す。
「この王宮がかつての王、オシリス神の王宮と地下で繋がっている事はご存知かと思います。大規模な火事によって今や瓦礫と化してしまいましたが」
「まさかその王宮に?」
「ええ。私が作り上げた水路はまさにその地下道の天井に埋め込まれており、いつでも水が引けるようになっていました」
それを生活用水として使っていたというなら何も問題はない。だがこれだけ大規模な水路を作るのにはそれなりの理由がある筈。腹に一物を抱えているこの男が何を考えていてもおかしくはなかった。
心の中で渦巻くその疑念がいよいよ真実味を帯びてきた所でエゼルは急に立ち上がり、部屋の扉に手を掛ける。
「この井戸が必要ならどうぞご自由にお使い下さい。どう使おうと私は何も申しません。勿論、陛下に言うつもりもありません」
罠か、それとも本当にこの作戦に加担しようとしているのかは定かではないが、会話を聞かれてしまった以上、この男の良心に賭けるしかない。
「もう一つ、この王宮が元々誰のものだったのかお前は知っているか?」
当時ここは全くの屋外。建物など建っていなかった。という事はこの王宮は自分が穴を堀った後に建てられた事になる。この廃れ具合からしてかなり昔に建てられたものだと思っていたが、その歴史がわずか数年だという事にアヌビスは驚いた。
その質問にエゼルは今度ははっきりと首を振る。
「いえ、私がここに仕えるようになったのは四年程前になりますが、その時にはすでにここには誰も住んでいなかったように思います」
地下で繋がった王宮。母に聞けば何か分かるかもしれないが、立場上それは不可能だ。
未だ多くの謎と課題が残る中、それでもアヌビスは一つ、道が開けたことを実感した。
「では、幸運を祈ります」
敵か味方か、得体の知れないその男はそう言い残し部屋を後にした。
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