2部
第52話 𓋴𓇋𓈖𓇌𓈖〜深淵〜
復讐。
これがあいつを見殺しにしてまでやるべき事だったのか?
しかしいくら懺悔してみても、ホルスが帰ってくることはない。
志半ばだったばかりか、最も信頼する兄に裏切られその生涯を終えた。そうではないのだと、否定してやる事もできずに。
その命を守れなかったばかりか、俺は最後まであいつを裏切り続けた。
俺は一体何の為に――。
「行くぞ」
失意に嘆く青年を現実へと引き戻す男の声はひどくあっさりとしていた。無残に横たわるその亡骸を一瞥し、セトは自ら破壊した
俺が今ここにいるのは、この男を殺して悪夢を終わらせる為だ。
――これ以上何も奪わせない。
弔意に浸る事すらできないままアヌビスはその後に続いた。彼が何を企んでいるのか、背後から様子を伺う。残骸の前でしゃがみ込んだセトはその手に光る何かを手にする。それが何なのかアヌビスにはすぐ分かった。
心臓だ。
持ち主の体を離れた今も未だ生命力に溢れたそれはセトの手の中でドクドクと脈を打っている。
魂が宿り、持ち主の思考が詰まった心臓は生き物の核と言える。またこの世で死したものが永遠の命を得る為に必要なものである事から、別で保管される他の臓器とは違い、唯一死者の
ここから出てきたという事はこれは彼女のものだろうか。アヌビスは力尽き、深い眠りに落ちたかのような女の顔を俯瞰する。
それをどうするのかとアヌビスは目の前の男に問う。いや、聞かなくとも答えは分っていた。だが聞かずにはいられないのだ。
自らの手で彼女を窮地に追いやってしまった事を後悔する。だが助ける事はできない。傷ついた母、そして弟を見殺しにしたように今の自分にはどうする事もできないのだ。
心臓を掴む手に力がこもる。今にも消え入りそうな命の灯をアヌビスは黙って見ている事しかできない。
「——ッ」
突如その顔を歪ませ、右腕を庇うように抱えたセト。アヌビスがその異変に気づいた時には彼の腕はすでに無数の木の枝に覆われていた。その皮膚を突き破り、腕から指先までを一気に侵食したそれは、ついに彼の手から心臓を奪い取る。
セトの手を逃れた心臓はまるで何かに導かれるようにして本来在るべき場所、その持ち主の体へと還っていく。
「まさか、オシリス……? いや、違うこれは
その不意打ちに一瞬兄の面影を見たセトはセトは喉の奥で声を押し殺すように笑った。
「あの男の真似事で俺を煽ったつもりか? 一度拾った命を自ら投げ出すとは。もはや滑稽だな」
セトはどこかで見ているやも知れぬ反逆者に向かって言葉を続ける。
「俺に喧嘩を売った者が生き延びられると思うな」
自身の心臓を取り戻し、おもむろに立ち上がったメレトセゲルはこの地を後にする二柱の神の背中をぼんやりと見つめる。愁を帯びたその表情。彼女の頭からはこの地を守り抜いてきた数千年の記憶が抜け落ちていた。
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