ヘリオポリス ー九柱の神々ー

第５１話𓎡𓇋𓍯𓍢𓂧𓄿𓇋〜兄弟〜

「俺は王宮に行こうとして——」

「あの王宮はもうない」

　口の端から流れる血を拭いながらゆっくりと立ち上がったアヌビスは淡々と言い放った。その言葉にホルスは眉をひそめる。

「俺が焼き払った」

「何で……！」

　父と過ごした唯一の思い出の場所を自らの手で消してしまうなどあり得ない。詰め寄るホルスの顔を冷めた目で見つめながらアヌビスは冷笑を浮かべる。

「やっと理解したか？　お前は信じたいだけだ。俺が家族を裏切る筈がないと」

「なぁホルス。もし俺が——」

　その時ふいに頭を掠めたのはある日のアヌビスの言葉だった。あの日から、二人の運命は大きく変わり始めた。もしあの時あの言葉の続きを聞く事ができていたら、何か変わっていただろうか。

　アヌビスの言葉にホルスは静かに首を振る。

「お前は裏切らない。絶対に」

　そう言って差し出された手に握られていたのは、神殿を出たあの日アヌビスが置いていった父の形見だ。

「お前が俺を恨むのは当然だ。何も知らなくて、知ろうともしなくて。お前一人に全て背負わせた事、本当に悪かったと思ってる。俺はお前が苦しんだ事も、父上が殺された事すら知らないで王になるなんて言ったんだ。気に入らなくて当然だ。……俺の事は一生恨んだっていい。でも、この国を、俺達を思って全てを託した父上の意志だけは捨てないでくれ」

「お前が俺をどんな風に見ているのか知らないが、全てお前の思い込みだ。何故俺がその腕輪を置いていったのか、その意図すら組み取れないのか」

　アヌビスは鬱陶しいとばかりにホルスを睨み付けると、その顔めがけていきなり拳を振るった。

　ホルスは不意打ちに驚きつつも、とっさに身を屈めギリギリの所でその拳から逃れる。しかし空を切った拳の風を裂く様な音にホルスはぞっとした。

　本気だ。

　避けるのが一秒でも遅ければ鼻をへし折られていただろう。ホルスはこれがただの喧嘩ではない事を悟った。

「何すんだよ！」

　外した事に苛つき、舌打ちをする兄にホルスは憤慨した。

　ホルスは兄の執念深さを再認識する。状況は変わっても、昔からやられたら是が非でもやり返さなければ気が済まないその性格は健在のようだ。彼の体術より魔術に長けているアヌビスがそれを封印してまでそれに固執するのは、やられた方法でやり返すという彼の拘りである。

　懺悔を含め一発ぐらいなら殴られてやってもいいと思っていたが、身内とは思えない殺意の籠った拳にホルスの中で何かが切れた。

「ぜってえ殴られてやんねぇ。そんな拳で当たる訳ねえだろ」

「そうやって調子に乗る所がお前の悪い癖だ」

　思いがけず真横から飛んできたミドルキックが肋骨を直撃し、ホルスは思わず蹲る。

「蹴りは有りなのかよ」

「拳だけとは一言も言っていない。くだらない事にこだわる奴が真っ先に死ぬ」

「だったらお前の得意な魔術でも何でも使えばいい。拘ってんのはお前じゃねえか」

「わざわざ不利な方に誘導するとは。馬鹿なのかお前は」

「うるせえ。人の事言えた口かよ」

　それから兄弟喧嘩という名の派手な殴り合いは、お互いが血まみれになりその体力がなくなるまで続いた。

「いい加減降参しろ。半神の癖に何なんだその体力は！」

「今、何て？」

　ホルスは思わず聞き返す。

「俺は神上がりを遂げた。軟弱なお前とは違う」

　確かに昔から体の弱かったアヌビスがこれだけ動き回っても発作はおろか息すら切らさないのはおかしい。まさか自分の知らない所で、よりにもよって仇の元で神上がるなんて思いもしなかった。

「そんな、どうやって」

「お前には関係ない」

　アヌビスがそう一蹴したのは、神上がったあの日の記憶の一切が頭から抜け落ちているからである。一体何が自分を神へと押し上げたのか、セトに言われるまで、神上がった事実さえ覚えていなかった。

「温いんだよお前は。いつまでも半神のお前と神上がった俺の違いが分かるか？　——覚悟だ。何を犠牲にしても必ず達成するという覚悟がお前にはない。分かったらさっさと消えろ」

　冷たく言い放たれた言葉はホルスの心に深く突き刺さる。

「その通りだアヌビス。……だが、殴り合いとはそれこそ温いのではないか？」

　一通りのやり取りを興味深そうに見ていたセトが突然割って入る。

　兄を止めるのに必死でその存在に気づいていなかったホルスは息を呑んだ。

「セト……お前……！」

　ホルスが殴りかかろうとするのを突如現れた障壁が拒む。

「邪魔すんな！」

　当然のように仇敵を守ろうとするアヌビスにホルスは声を荒げる。

「久しぶりの再会だというのに随分な挨拶だなホルス。あの時尻尾を巻いて逃げたお前が恐れもなく向かってくるとは一体どういう心境の変化だ？」

　セトは敢えてその障壁から抜け出し、目の前まで歩み寄った。その挑発的な態度に再び殴りかかろうとするホルスの体を大量の砂が纏わりついた。

　一瞬にして身動きが取れなくなったホルスは、何とか逃れようと砂の中でもがく。しかし砂とは思えない程硬くなったそれはホルスの体力をもってしても到底破れるものではなかった。

　確かにあの時の自分は覚悟より恐怖が勝っていた。アヌビスに指摘された通りだ。覚悟だけじゃない、その実力の差も奴を遠ざけた理由の一つだ。

「俺はお前を絶対に許さねえ。父上を殺し、母上を悲しませた事も、アヌビスを奪った事も全部！」

「さっき聞いただろう。こいつは自ら俺の下につく事を選んだ。つまりお前達より『強さ』を選んだんだ。実際俺の元に来て神上がったのだからその選択は間違っていなかった。——そうだよなあ、アヌビス」

　その言葉にアヌビスは静かに頷く。

　いや、違う。アヌビスはそんな奴じゃない。

　否定する気持ちがわずかに揺らぐ。

　まさか本当に——。

　ホルスは血が滲むほど噛み締めた唇から嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪える。腹の底から湧き上がってくる抑えようのない怒りが頭を支配した。

　もうこれ以上大切な人を奪われるのは嫌だ。

　ホルスを押さえ付けていた砂が突如破裂音と共に弾け飛ぶ。自由になったホルスの背中から黒く変色した羽が仇敵めがけて飛んでいく。

「落ち着け！」

　耳元に響くもう一人の兄の言葉をホルスは聞き入れられなかった。自らの中に生まれた黒い衝動を制御できない。

　刃物と化した羽を受け止めるように砂の障壁が現れ、その攻撃を防ぐ。だがホルスはすでに次の一手を打っていた。

　羽を広げ、今度は自分自身が突っ込んでいく。その稲妻の様な速さにアヌビスは瞬きすら出来なかった。まるで鎌鼬（かまいたち）のように鋭い風を身に纏い、砂の壁を破壊する。

風の勢いは止まらず、無防備になったセトの首を刎ねた。

「——ッ」

　まさに一瞬だった。アヌビスはその光景に息を呑む。

「この壁を壊した奴は初めてだ」

　その背後からたった今殺した筈の男の声がしてホルスははっと振り返る。首を刎ねたと思ったのは、セトに扮した砂の像だった。

　冥界（ドゥアト）で大蛇を瞬殺した見えない刃が再び牙を剥く。怒りに任せ、ホルスはセトの首を再び刎ねた。だが当然の如くそれも脆く崩れ去り、目の前で砂山と化した。

「アヌビス、よく見ておくといい。これが殺し合いだ」

「ホルス！　後ろだ！」

　そう耳元で声がした。だが体が反応する前に衝撃が全身を貫いた。

「アヌ、ビス……」

　朦朧とする意識の中でホルスは兄の名前を呼ぶ。何が起こったのか分からぬまま目の前が暗転した。

「——ッ」

　鋭利に尖った砂の塊、それが弟の体を貫いた瞬間、アヌビスは声を上げそうになるのを必死に堪えた。

　横から食い入る様に見つめるセトの視線に晒されながら、アヌビスは弟が息絶えるのを黙って見ている事しかできない。

　弟の最期でさえ涙一つ流せない。その過酷な運命をアヌビスはこの時初めて呪った。

　なぁ、ホルス。もし俺が——。

　俺が闇に染まってしまったらその時は——お前が俺を殺してくれ。

　あの時言えなかった言葉をアヌビスは反芻する。

　復讐に囚われ悪に徹するあまり、俺がお前を殺してしまった。

　教えてくれホルス

　俺は……俺はどうすればいい？