ヘリオポリス ー九柱の神々ー

第３８話𓎡𓇋𓍯𓍢𓂧𓄿𓇋〜兄弟〜

「なぁホルス。もし俺が——。」

　もしあの時あの言葉の続きを聞く事が出来ていたら、何か変わっていただろうか。

　目的地へと向かう最中（さなか）、ホルスは地上を見下ろしながらそんな事を考える。

　しかしいくら考えてみても答えが見つからない。アヌビスが一体何を伝えようとしていたのか、ホルスには未だ分からないままだった。

　まさか、本当に戻らないつもりなのか？

　一瞬、そんな不安が胸を掠めホルスは首を振る。

　考えたって仕方がない。今はやるべき事をやるだけだ。

　ホルスは気を引き締める様に小さく息を吐いた。

　 ホルスが向かったのは王の神殿。しかしその目に飛び込んできたのは以前の様相とはかけ離れた瓦礫同然の建物だった。

　何が起こったのか分からぬまま、ホルスはゆっくりと地上に降り立つ。

　神殿と呼ぶには些か疑問が残るそれをよく見てみると、建物が崩壊した原因が見えてきた。

　まさか本当に焼け落ちてしまっているとは。

　ホルスは先日自身の目が映した映像と何一つ変わらぬ光景に愕然とした。ラーと対峙したあの日、未来の映像として目に映ったのはまさにこの景色だったのである。

　故意か過失か。ほぼ全焼の状態ではそれすら判断できない。どちらにせよ力ずくで王座まで奪い取った男が、火事ごときで命を落とす訳がない。ではセトは一体どこへ行ったのか。

　何一つ状況が掴めない中、ホルスは何気なくその残骸に手を触れた。

　微かに残る魔力の気配。恐らく火事の要因であろうその気配にホルスは戦慄を覚えた。

　——知っている。この気配、感触を。

　かつて自分に流れ込んできたものだ。忘れる筈もない。

　これは——。

「こんな所で何してる。」

　聞き馴染みのあるその声にホルスはゆっくりと振り返った。そして複雑な表情を浮かべる兄の顔をしかと見据える。

「何って、待ってたんだよ。お前を。」

　その言動を嘲笑うかの様にアヌビスは目線を逸らし冷笑を浮かべる。

「……やはり思う事は同じか。」

　しかしそんな兄の態度にホルスも負けじと食い下がる。

「何で神殿を燃やしたんだ。」

　僅かに感じる魔力が兄のものだと分かった時、ホルスの中に微かな希望が生まれた。自分達を見捨てたわけではないのだと、そう思った。

　しかしその希望を打ち砕く様にアヌビスは再び嘲笑を浮かべる。

「勘違いするな。俺はお前の味方じゃない。俺に火を放てと、命じたのはセト自身だ。——それもお前の母であるイシスの前でな。」

　その事実を伝えられても尚、表情一つ変えないホルスにアヌビスは自嘲するような笑みを浮かべる。

「やっと理解したか？　お前は信じたいだけだ。俺が家族を裏切る筈がないと。」

　アヌビスの言葉にホルスは静かに首を振った。

「……お前が俺を恨むのは当然だ。何も知らなくて、知ろうともしなくて……。お前1人に全て背負わせた事、本当に悪かったと思ってる。俺はお前が苦しんだ事も、父上が殺された事すら知らないで王になるなんて言ったんだ。それを許してくれとは言わない。俺の事は一生恨んだっていい。……でも、この国を、俺達を思って全てを託した父上の意志だけは捨てないでくれ。」

　そう言って差し出された手に握られていたのは、神殿を出たあの日アヌビスが置き手紙と共に残していった父の形見だ。しかしそれを見る彼の表情はやはり冷たく、眉一つ動かさない。

「この期に及んでまだそんな事を。お前が俺をどんな風に見ているのか知らないが、全てお前の思い込みだホルス。何故俺がその腕輪を置いていったのか、その意図すら組み取れないのか。」

　アヌビスは鬱陶しいとばかりにホルスを睨み付けると、その顔めがけていきなり拳を振るった。

　ホルスはその不意打ちに驚きつつも、とっさに身を屈めギリギリの所でその拳から逃れる。しかし空を切った拳の風を裂く様な音にホルスはぞっとした。

　本気だ。

　避けるのが1秒でも遅ければ鼻をへし折られていただろう。ホルスはこれがただの喧嘩ではない事を悟った。

　しかし驚いたのはホルスだけではない。攻撃を仕掛けたアヌビスもまた、ホルスの成長と身体能力に驚いていた。

「何すんだよ……！」

「お前には借りがある。覚えてるだろ。俺の顔を思い切り殴った事。」

　ホルスは兄の執念深さを再認識した。要するに、殴られたら殴り返さなければ気が済まないのだ。魔術に長けているアヌビスがそれを封印してまで殴る事に固執するのは、やられた方法でやり返したいという彼の拘りなのであろう。

　懺悔も含め、1発ぐらいなら殴られてやってもいいと思っていたが、身内に向けたとは思えない殺意の籠った拳にホルスの中で何かが切れた。

「ぜってー殴られてやんねぇ。てかそんな拳で当たんのかよ。」

「何とでも言うといい。そうやって調子に乗る所がお前の悪い癖だ。」

　今度の攻撃は思いがけず真横から飛んできた。いわゆるミドルキック。アヌビスの蹴りが肋骨あたりを直撃し、ホルスは思わず蹲る。

「俺は殴るとは一言も言ってない。拘りなどと抜かす奴が真っ先に死ぬ。」

「ッ……だったらお前の得意な魔術でも何でも使ってこいよ！　拘ってんのはお前だろ！」

「わざわざお前の得意な方を選んでやってるのに馬鹿なのかお前は。」

「……ッ倒れても知らねぇからな！」

　それから兄弟喧嘩という名の派手な殴り合いは、お互いが血まみれになりその体力がなくなるまで続いた。

「いい加減降参しろ。半神の癖に何なんだその体力は……！」

「今、何て……？」

　アヌビスの言葉にホルスは思わず聞き返した。

「俺はもうお前とは違う。神上がったんだよ。セトの元でな。」

　ホルスははっとした。そう言えば昔から体の弱かったアヌビスがこれだけ動き回っても発作はおろか息すら切らさないのは不思議だった。

　まさか自分の知らない所で、よりにもよって仇の元で神上がるなんて思いもしなかった。

「温いんだよお前は。いつまでも半神のお前と神上がった俺の違いがなんだか分かるか？　——覚悟だ。何を犠牲にしても必ず達成するという覚悟がお前にはない。わかったらさっさと消えろ。」

　冷たく言い放ったその言葉はホルスの心に深く突き刺さる。

「その通りだアヌビス。……だが、殴り合いとはそれこそ温いのではないか？」

　突然響いたその声に2人は息を呑んだ。

「セト……お前……！」

　ホルスが殴りかかろうとするのを突如現れた障壁が拒む。

「アヌビス！　何で邪魔すんだよ！　そいつは父上を……！」

「久しぶりの再会だというのに随分な挨拶だなホルス。」

　セトは敢えて障壁から抜け出し、まるで挑発でもする様にホルスの目の前まで歩み寄る。再び殴りかかろうとするホルスの体を大量の砂が纏わりついた。

　一瞬にして身動きが取れなくなったホルスは、何とか逃れようと砂の中でもがく。しかし砂とは思えない程硬くなったそれはホルスの体力をもってしても到底破れるものではなかった。

「俺はお前を絶対に許さねぇ。父上を殺し母上を悲しませた事も、アヌビスを唆（そそのか）して奪った事も全部……！」

　ホルスの言葉にセトは嘲笑を浮かべる。

「唆しただと？　随分めでたい頭をしている様だから教えてやるが、こいつは自ら望んで俺の下についた。つまりお前達より『強さ』を選んだんだ。実際俺の元に来て即座に神上がったのだからその選択は間違っていなかった。——そうだろ？」

　その言葉にアヌビスは静かに頷く。

　いや、違う。アヌビスはそんな奴じゃ……。

　そんな奴じゃ、ない……。

　否定したい気持ちが、揺らぐ。

　まさか本当に——。

　ホルスは血が滲むほど噛み締めた唇から嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪える。腹の底から湧き上がってくる抑えようのない怒りがホルスの中に渦巻き始める。

　もうこれ以上大切な人を奪われるのは嫌だ。

　ホルスを押さえ付けていた砂が突如破裂音と共に弾け飛ぶ。自由になったホルスの背中から何枚もの羽がセトに向かって飛んでいく。

　鋭利な刃物と化したそれらを受け止めるか如く砂の障壁が現れ、いずれも標的に届くことはなかった。

　しかしホルスは怯まない。羽を広げ、今度は自分自身が突っ込んでいく。稲妻の様な速さにアヌビスは瞬きすら出来なかった。

「アヌビス、よく見ておくといい。これが殺し合いだ。」

　ホルスの拳が目前に迫っても、セトは一切の焦りを見せずそう言った。

　ドス、と鈍い音がしてホルスは息を詰まらせた。一体何が起こったのか分からぬまま目の前が真っ暗になる。

「——ッ」

　アヌビスは息を呑み、声を上げそうになるのを必死に堪える。

　横から食い入る様に見つめるセトの視線に晒されながら、鋭利に尖った砂の塊、その先が弟の体を貫くその様をアヌビスは黙って見ているしかなかった。

　弟の最期でさえ涙一つ流す事が許されないとは。

　その過酷な運命をアヌビスはこの時初めて呪った。

　——ああ、これで本当に『さよなら』だ。

　……守ってやれなくて、ごめん。