第35話𓎡𓄿𓎡𓍢𓋴𓇌𓇋〜2人目の仇〜

「これはどういう事ですか? ——お父様。」

 厳しい口調で問いただすバステトの顔には肉親への明確な嫌悪が見てとれた。


「自業自得だ。その女が私にした事を忘れた訳ではあるまい。」


 母親にばかり気を取られていたホルスはここへ来て初めてその男の顔を凝視した。 

 神官の礼服を纏った男の顔に見覚えがある。

 ホルスは幼い頃の記憶を辿り、そして思い出した。


 それは母の神殿の至聖室にて毎日の儀式を任されていた神官だったのだ。

 

 ホルスは全てを悟った。 

 目の前のこの男が一体誰であるのかも。


「自業自得……? 母上があんたに何をしたっていうんだ。至聖室の神官の遺体を盗んだのも、メリモセを使って神官達をこの丘へ呼んだのもあんただろ。」


 ホルスは怒りを露わにし、ラーに迫る。


「だがその女はあろうことか最高神である私に呪いをかけた。一日毎に体が朽ちていく凶悪な禁術をな。」


 その言葉にホルスは耳を疑う。

 最高神ともあろう男に呪いをかけ得た者として密かに恐れていた人物がまさか自分の母親だったとは夢にも思わなかったのだ。


 それにバステトは負けじと反論した。


「王座を奪おうとすれば当然でしょう。それに加え言い訳しようのない悪行の数々。——むしろ自業自得なのはお父様の方です。」


 ここまではっきりものが言えるのはラーの娘達の中でも彼女だけだ。バステトにとって血の繋がりは左程重要ではなく、全ての判断は彼女の中の正義に委ねられている。


「その計画があった事は認めるが、実際に手を下し、王座を奪ったのはセト、あの男だ。」

 

 結果はどうあれ恨まれる原因を作ったのはラーの方だ。バステトからすれば呪いは当然の報いの様に思えた。


 最早開き直りととれるラーの態度と、終わりの見えない論争にトトはとうとうため息をつき、ホルスの方を見る。


「帰るよ。山を越えたとはいえイシスの体が心配だ。それに君の目だって——。」

「その目は治療で治せるものじゃない。」


 トトの言葉を遮ったのは部外者である筈のラーだった。


「ホルス。お前も気づいているだろう? その目が覚醒すればどれ程の力が手に入るか。」


 その言葉にホルスは一瞬眉をひそめた。 

 今まで顔も知らなかったこの男が何故自分の身に起きた事を把握しているのだろう。


「その目は一体誰の物だと思う?」

 

 挑戦的な目がホルスの心をざわつかせる。ホルスは自身の瞳に映る男の顔ををまじまじと見つめ、そして直感した。



「あの声……あんたなのか? まさかこの目も——。」


 ある時からホルスの耳に響くようになった不気味な声。その声の主が今まで母を苦しめ、挙句刺し殺そうとしたこの男だというのなら——。


 その事実にホルスは嫌悪感を露わにする。


「——そうだ。お前がその力を拒む程にその目は本来の機能を失っていく事になる。その呪術にお前も気づいていた筈だ。それでも尚、お前は頑なに私の呼びかけに応じようとしはしなかった。——何故だ? 何故お前は私の力を使おうとしない?」


 明確な怒気を含んだその声は周りの空気を震わせる程悪意に満ちている。ラーはその忿懣ふんまんをぶつける様にホルスを睨め付けた。




 瞬間——


 キーンという耳鳴りの様な鋭い音が耳朶じだを打つ。


 次いで割れる様な頭痛が襲った。余りの苦痛に視界が歪み、額には汗が滲む。


 

 そしてまた、あの声が聞こえてくる。


 

 ——コワセ。

 ——コロセ。


 ——ソシテスベテヲ

 



『テニイレルノダ』


 


 目の前に火花が飛ぶ。


 ホルスは何かに突き動かされるかの如く駆け出した。弾ける様に地面を蹴り、眼前に迫る標的目掛けて拳を振る。

 

 予備動作も、隙も全くない。

 普通の人間であれば間違いなく即死であろう拳をトトはギリギリで避けた。


 

 まるで全身が羽になったかの様に軽い。

 そして何より、よく


 ホルスは嬉々としてその拳を振るった。目の前にいるのが誰であろうと関係ない。今ホルスを突き動かしているのは激しい破壊衝動と加虐欲のみなのである。


「一体何が起きてるっていうの……。」


 我を失ったホルスの身体能力は最早半神のものではなかった。まさに隼が獲物を蹴落とすが如くスピードで猛攻を繰り返す。

 

 狂気に満ちた笑みを浮かべ、まるで別人の様に襲いかかって来るホルスに困惑しながらもトトは何とかその猛攻を受け流し続けた。


 このままでは埒が明かないと、反撃の機を伺っていたその時——。


 トトはずっと自分を追っていたホルスの視線が逸れた事に気づき、その目線を追う様に後ろを振り返る。



 それは鮮やかなアッパーカットだった。

 顎が砕けるのではないかと思う程食い込んだ拳が標的の体ごと宙へ押し上げる。


 予想だにしていなかった一撃に受け身を取る事さえ叶わず、ラーはそのまま仰向けに倒れた。



「——ッ何故……私はそんな指示など……。」


 ラーは仰向けのまま、ホルスを見上げる。その顔は当然の如く苦痛に歪んでいた。中身が最高神とはいえ、その器はやはり生身の人間なのだ。



「あんな気色悪い力誰が使うかっての。」


 先程までの狂気的な雰囲気を微塵も感じさせないあっけらかんとしたホルスの姿がそこにあった。

 


「あんたの力なんて使わなくたって俺は神上がるし、父上の仇だってとる。それにこれは俺の力だって胸張って言えなきゃ意味がねぇ。」


「ホルス、君まさか……。」


 強力な支配から自我を取り戻しただけでなく己の力でもってラーに一撃を見舞ったというのか。

 それに途中で意識が切り替わったとは思えない動きだった。


 ホルスの精神力と脅威的とも言える成長スピードにトトは驚愕した。


 

 ——という事は。



「目、見えてる?」

 トトは思わずホルスの顔を覗き込んだ。


「ああ。そういやよく見えるようになったな。力を受け入れるってこんなんでいいのか?」


 拒否はしたものの一時的に力を受け入れた事が功を奏したのだろう。右目の視力が回復した所をみるとラーのかけた呪術が解けた事に間違いはなかった。


 真意は定かではないが、一連の行動が全て計算し尽くした上でのものだったとしたら恐ろしい男だ。自覚がないにせよそれを素でやってのけたのだとしたらそれはもはや半神ではなく神に値するセンスだ。

 

 ——まさか、ね。


 トトは横目で盗み見る様にしてホルスを見た。その顔こそ普段通りだがその目にはいつもとは違う光が宿っているように見えた。

 

 ——いや、本当に光ってる……?


 トトがそう錯覚する程鮮やかな琥珀色の瞳がこちらを一瞥した。



「母上を頼んでいいか。」


 また何かのだろうか。

 急に発せられたその言葉にトトは言い得ぬ不安を感じた。

 

「……いいけど。今度は一体どこへ行くつもり?」


 トトは半分諦めつつ、そう聞いた。

 

 その問いにホルスは答えない。

 

 トトはため息をつき、その後ろ姿を見送る。

 

 

 行くなって言っても無駄だろうから、僕は止めない。


 だけどこれだけは約束して。



「——生きて。また帰ってくると約束して。君は僕の大切な——。」


 

 ——大切な友達なんだ。

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