第50話𓄿𓂋𓍢𓎡𓍢𓂋𓍢𓈖〜戦士〜
お前を必ず連れ戻す。
弟の言葉が頭を離れない。彼と向き合ったあの時、アヌビスはわずかに気持ちが揺らいだのを感じた。覚悟は決めたつもりだった。それなのに——。
「戻りたいか?」
「まさか。あり得ません」
患部を押さえつつ、アヌビスはその影を振り払うようにきっぱりと否定した。そうして歩いているうち、アヌビスは彼の向かう先が王宮ではない事に気づく。だがわざわざ聞くのも野暮な気がしてアヌビスはその言葉を飲み込んだ。
辿り着いたのは巨大な渓谷。その切り立った崖の上に二柱は立っていた。その雄大な景色にアヌビスは息を呑む。
「下界では王の墓が密集する場所だ。あの
メレトセゲル。名前しか聞いた事はないが、物言わぬ死者たちを何千年も守ってきたのだろう。
「偽りの王がここに何の用じゃ」
その会話に割って入るように、背後から棘のある声が響く。振り返る二柱の前に突如として現れた人物。その出立ちにアヌビスは警戒心を露わにする。
顔には怪しげな仮面を付け、その全身を
「いや、貴様など王とは呼べぬ。ただの外道じゃ。ここは気高き死者たちが眠る場所。お前達が来るような場所ではない。即刻立ち去れ」
仮面により、その表情を伺い知る事はできないが、こちらをよく思っていないのは明らかだ。
「今日は一段と気が立っているようだな
沈黙の神? 彼が?
想像とはまるで掛け離れた姿にアヌビスは困惑する。敵意を剥き出しにする荒々しいその姿は沈黙とは真逆の印象を受ける。
「何をするつもりか知らんが、お前らがここから立ち去らん限りわしはここを動かん」
「勝手にしろ。お前の許可など元から不要だ」
その言葉を一蹴し、セトは彼の背後に悠然とそびえ立つ
何が起こったのか分からぬままに霊峰が一瞬で崩れ去る。自らが守り抜いてきた死者達の嘆きを耳にしてメレトセゲルは憤慨した。
「何という事を……! やはりお前は生かしてはおけぬ」
怒り狂った彼ははセトに向かって突進した。
「アヌビス」
突然名前を呼ばれ、それが命令である事を理解したアヌビスは目の前の神と対峙する。
「どけ小僧。わしはあの男を——」
その憎しみの刃をアヌビスの影が弾き飛ばした。それでも彼は怯む事なくこちらに向かってくる。毛皮から次々と武器を取り出し、攻撃の手を緩めない。その動きこそ軽やかだが、打撃の威力は凄まじく、確実に急所を狙ってくるその動きはセクメトを連想させた。
しかし彼の動きを見てアヌビスは直感する。彼の力の源はあの霊峰なのだ。徐々に動きの鈍くなるその体を蔦状に伸びた影が捕える。
「何故ここに来たのか。俺に忠誠を誓うならお前には手放さなければならないものがもう一つある」
そのアヌビスの背後でセトは悠々と言葉を紡ぐ。
首元まで覆われた獅子の皮をその影が容赦なく剥ぎ取る。歴戦の戦士を思わせる神の毛皮の内側を見てアヌビスは目を細めた。丸みを帯びた華奢な体。獰猛な獣のような猛攻がこの体から繰り出されていたとは信じ難い事実だ。
「女か——」
アヌビスはその事実に驚きながらもその手を緩める事はしなかった。棘のように形を変えた影が彼女の首元に伸びる。
「心だ」
セトの意を汲むようにその先端が首に食い込む。巻きついた影に精力を吸われ、まるで事が切れたように気を失った彼女に、もはや逃れる術はない。
「やめろ!!」
その棘が首を貫こうとしたその瞬間、脳が揺れる程の衝撃がアヌビスを襲った。頬にじわりと鈍い痛みが広がり、口の中は微かに鉄の味がする。地面に転がったアヌビスは顔を上げ、目の前の男を睨みつけた。
「またお前か。関わるなと言った筈だ」
王宮に向かう途中、地響きのような轟音を聞きつけたホルスは歴代の《ファラオ》が眠るこの場所に駆けつけた。
まるでその怒りを抑えるかのように拳を握り、わなわなと震える弟の姿をアヌビスは冷めた目で見つめた。
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