ヘリオポリス ー九柱の神々ー

第３７話𓋴𓇋𓈖𓋴𓍯𓍢～突きつけられたもの～

「自分で刺しました。」

　彼女の言葉にアヌビスは耳を疑った。

「今、何て——。」

「わたくしは自ら、己の脇腹に剣を突き立てたのです。」

　きっぱりと言い放つ彼女の目はどこか虚ろで、目の焦点も定まっていないように見えた。

　「愚かな事を……。」

　すると言葉を続けようとしたアヌビスを遮る様にマギルが勢いよく頭を下げる。

「申し訳ありませんアヌビス様、私がついていながら……。まさかこの様な事態になるとは思わず止める事が出来ませんでした。」

「俺は彼女に聞いているんだ。——答えろ。自ら命を絶とうとした訳を。」

　その言葉にマギルは驚いて顔を上げた。

「自ら体に刃を突き立てる時、殆どの場合その恐怖から傷は浅くなる傾向にある。だがこの剣は臓器に達する程深く突き刺さっていた。——これは迷いのない覚悟を決めた者の傷だ。」

　その言葉にハトホルは冷笑を浮かべ２人を見やる。

「わたくしのこの行為が愚かだと仰るのなら父上やテフヌトが行った事はそれ以上の悪です。」

　そして彼女の表情は嘲笑から苦悶の表情へと変わった。

「父上にとってわたくしは娘ではなく単なる駒。わたくしは端から、人質としてここに連れて来られたのです。決して裏切らないその証として。」

　アヌビスが思わずマギルの方を見ると、彼は誤解だとばかりに首を振った。

　つまり彼女は救い出されたというより、何らかの理由で解放された事になる。あの２人にまんまと騙されたという訳だ。

「今更開放される事になった理由は？　……まさかその同盟とやらが決裂したとでも？」

「いいえ。わたくしが解放されたのはセトの意図した所ではありません。恐らく父上の策略です。人質がいなくなったとなればセトを攻める立派な理由になる。しかもそれが遺体で発見されたとなれば——。」

　そこまで聞いてアヌビスは背筋が凍る思いがした。

　自分達はもしかしてとんでもない事に巻き込まれたのではないか。——いや、もしかしなくても、確実に。

「父上やテフヌトはその事実を上手く隠したつもりでしょうけど、わたくしはとっくに気づいていました。自分が捨て駒にされた事に。」

「それはつまり——。」

「わたくしは殺され、そしてわたくしを匿ったあなた方に殺しの濡れ衣を着せるつもりでしょう。2つの勢力を一度に潰す事の出来る策略です。」

「何という事……。」

　憐れみの目を向けるマギルに対してアヌビスは怒りを露わにする。

「それなら尚更生き延びてやろうとは思わないのか？　ここで命を落とせばそれこそラーの思う壺だろう。」

　アヌビスの言葉にハトホルは静かに首を振った。

「いいえ。貴方は父の執念深さと恐ろしさを知りません。狙われたが最後、どんな手を使ってでも仕留めに来ます。しかし殺されるのではなく、自ら死を選ぶ事で直前に呪いをかける余地が生まれる。父を道連れにする事が出来るのです。……あの方は力を持ちすぎました。この国を、世界を破滅に追い込む事は目に見えている。同じ運命ならせめてこの世の為になる方を選びたいのです。」

　その壮絶な覚悟にアヌビスは自分を重ねた。自己犠牲というものがこれ程までに痛々しく重いものだとは。

　アヌビスはその時初めて自分の覚悟が揺らいだのを感じた。残る家族を悲しませてまで復讐を遂げることが果たして父の望んだ事なのだろうかと。

「運命だと？　だがあんたは生き延びた。そんなものが本当に存在するのだとしたらこれこそが答えだろう。」

　『生きろ』と、運命がそう言っているのだとしたら望まぬ死を受け入れる必要もない。

　だが俺は……。

　悪に屈し、絶望する者をアヌビスはもう見たくなかった。アヌビスの脳裏に再び無残に殺された父の姿がよぎる。

　——やはり自分がやらねば。

　強欲な者達が生んだ負の連鎖を断ち切らねばならない。

「騙されたとは言え、匿えと言われた以上俺は何としてもあんたを守らなきゃならない。それにあんただって一端の神である以上身を守る術くらいあるだろう。」

「でも……。」

　アヌビスの目に一瞬光るものを見た気がして、ハトホルは言葉を飲み込んだ。

　深く息を吸い、やがて覚悟を決めた様に

　その目には生気が戻り、こちらをしっかりと見据えている。

「——分かりました。貴方達に一度救われた身。もう一度貴方に預けます。そして生きると決めた以上、命運が尽きるその時まで貴方達と共に戦いましょう。」

　アヌビスは小さく頷き、持っていたピアスを手渡す。

「これ、あんたのだろ。」

　ハトホルは一瞬驚き、アヌビスの差し出したそれを大事そうに受け取る。

「これをどこで……。」

　ハトホルが不思議そうに尋ねる。

「この部屋だ。あの机の下に。」

「そうですか……。」

　ハトホルは物憂げな顔でその机を見つめた。

「ここは元々、ウジャトという女神の部屋です。わたくしにとって彼女は姉の様な存在でした。半神だった頃わたくしは体が弱く、彼女はそんなわたくしをいつも気に掛け本当の妹の様に接してくれました。このピアスはわたくしが20歳になった日彼女から貰ったものです。」

　彼女の話が全て過去形なのが妙に気になる。しかしそれをこちらから聞くのは無粋な気がしてアヌビスはただ黙って聞いていた。

「この部屋の天井、煤で汚れているのが分かりますか？」

　この部屋で目覚めた時から、気にはなっていた。しかし気になる所がありすぎて整理しきれていないというのが本当のところだ。

「今から約数十年前、この部屋で火事が起きました。実際には小火（ぼや）程度で済んだのですが、この部屋で眠っていたウジャトは顔の左側に火傷を負い、そしてどういう訳か、左目の視力まで失っていたのです。」

「誰がそんな事を……。で、その火傷と視力は回復したのか？」

　アヌビスの問いにハトホルは首を振った。

「いいえ。その炎には呪術がかけられていたようで、火傷も視力も回復する事はありませんでした。……あの時せめてトト様がいらっしゃれば或いは……。いえ、もしもの話はやめましょう。」

　——トト。あの男にはやはり能力以外にも底知れぬ何かを感じる。対峙してみて分かった事だが、中立的な立場を崩さないとはいえ、興味を持った者あるいは実力を認めた者に対してはある程度心を開く。

　こちら側に引き入れるまではいかずとも、協力を仰ぐ事ぐらい出来るのではないかとアヌビスは思っていた。

「それで、その後彼女はどうなったんだ？」

「彼女は呪いによってその後数日で命を落としました。ですがただ死を待ったわけではありません。自らの命が数日であると悟った彼女はせめてこの世の為に出来る事をと神官にあるものを託したそうです。」

「あるもの……？」

「ええ。呪いによって視力を失った左目です。彼女は自分に呪いをかけた何者かが、その目の能力に気付いて力を奪おうとしたのだという事に気づきました。ですが実際の所、視力を失っただけでその能力自体は奪われずに済んだ様です。」

「再び力が狙われ、悪用されることのない様託したという訳か。」

「はい。でもその目がどこへ行き、誰が受け継いだのか、それは分かりません。その神官以外、誰にも知らせる事はなかったそうです。」

「ちなみにその能力というのは、一体どの様な？」

　今まで黙っていたマギルが突然興味深そうに口を挟む。

「ウジャトは細い体に似合わぬ底知れぬ体力の持ち主でした。後になって分かった事ですが、それは左目の持つ回復能力が関係していました。つまり体を動かし始めた瞬間から体を回復させ、無限の体力を生み出していたという訳です。」

　それは確かにある程度使える能力ではあるが——。

「地味だな。」

　アヌビスの呟きに２人の視線が集まる。

「ええ、確かに。自然治癒力や、回復能力というのは人間ですら持ち得るごく自然の力。神とあらばその能力は何倍にもなります。わざわざ危険を犯して狙うものではありませんし、託す程大層な能力とも思えません。ですからわたくしは左目にはまた別の力があったのではと考えます。」

「成程。だがそれは分からず終いという訳か。」

　アヌビスはしばらくその場で何か考えるふりをしていたが、やがて何かを決意した様に顔を上げた。

「……少しの間ここを空ける。」

「お待ちください。一体どこへ行かれるというのです？　先程の話が本当ならもうじきラーが攻めてくるのでは——。」

「いや、その心配はない。」

　そう言い切るアヌビスに２人は戸惑いを隠せない。

「セトは気づいた。ラーの思惑にもハトホル、あんたがここにいる事にもな。」

「な、何を言っているのです。それでは——。」

　慌てる２人をよそにアヌビスは至って冷静に続ける。

「いや、これでいい。分かっているなら匿っている事をわざわざ隠す必要もなくなった。それどころか、俺が守らずともセトが全力であんたを守るだろう。……やはりエゼルはセトの犬だ。テフネトを裏切り、その作戦をたった今漏らした。」

「長い間張っていた苦労が報われました。」

　アヌビスに続いて誰とも知れぬ不思議な声が響き、２人は思わず辺りを見渡す。

「セトをずっと見張らせていた俺の眷属だ。」

　するとマギルがはっと顔を綻ばせる。

「思い出しました。キオネ。貴方なのですね。」

　マギルが懐かしそうに目を細めるとキオネははい、と短く返事をした。

　主人以外には無愛想な所も変わっていない。

「セトには上手く説明してくれ。そんなに長くはかからない。」

　２人が止めるのも聞かずアヌビスは部屋を出て行った。

「……笑っている場合ですか。」

　何故か笑みを溢すマギルをハトホルが咎める。

「いや、すみません。昔を思い出してしまいまして……。あの方がああやって全てを放り出して出ていく時は決まって反撃に出る時です。」

　言葉の意味が読み取れず、首を傾げるハトホルにマギルは再び微笑んだ。

「兄弟喧嘩ですよ。……まぁ今回ばかりはそう簡単にはいかないでしょうが。」