第48話𓏏𓍯𓎡𓇌𓂋𓍢〜解〜

「お前、謝るつもりだったんじゃないのか?」


 彼らが去った後、耳の奥で聞こえたその声にホルスは苦笑した。修復するどころか、より一層溝が深まってしまった気がする。


「……仲直りってこんなに難しかったっけ」


 独りごちるホルスを現実に引き戻したのは、イシスに付き添うトトの声だった。自力で起き上がれるまで回復した母に駆け寄ったホルスは思わず安堵の声を漏らす。


「傷ついた皮膚や臓器は修復済み。バイタルサインも全て正常範囲だ。経過を見て自然治癒に切り替えよう」


 死の淵を彷徨うほど深い傷を負った腹部は彼の魔術によって見事に縫合され、まるで正気の感じられなかった顔には血色が戻りつつある。ホルスは知識だけではないトトの医療技術に舌を巻いた。


「まさかジェフティ様に命を救って頂く事になるとは。本当に感謝致します」


 母は座ったまま深々と頭を下げる。かつてこの国の王妃であった母が遜《へりくだ》った姿を見せるのは夫、つまり王のみだった。だが共に過ごした数日間で、彼が一目置かれる理由をホルスはすでに理解していた。

 

 一つだけ、腑に落ちない事と言えばその呼び名である。その頭の中に浮かんだ疑問を彼は当然の如く拾い上げた。

 

「ジェフティというのも僕の名前だよ。とりわけ古い知り合いなんかがそう呼ぶことが多いね。この国が多国籍化するにつれ、トトという名前が浸透したんだ」


「この男、国家神などと偉ぶってはいますが、その歴史からすればジェフティ様の方が遥かに古く、知恵の神として何千年も前から信仰されていたのですよ」


 イシスは未だに微動だにしないラーに侮蔑の眼差しを向けながら言った。


「彼が僕より遥かに多くの信仰を集めたのは事実だ。世間はいつだって、強い神を求めるからね。国の情勢が不安定であればある程、その傾向は強くなる。未来を憂い、不安を払拭する為に強い指導者を求めるのは当然の事だ」


 弱肉強食。それは自然界では当然の摂理だ。だが我々には秩序を重んじ、他人を慈しむ心がある。神の地位と力関係について深く考えた事はなかったが、この世界においてもやはりそれらに抗う事は不可能なのだろうか。その事実を妬むでもなく冷静に受け止める彼がいつにも増して大人びて見えた。


「それが間違っているのです。この世界はマアトの秩序によって保たれている。暴力に屈してはならないのです。いくら力を持とうとも、愛と良識のない者にこの世を治める資格はありません」


 そう言って立ち上がろうとするイシスをトトが引き止める。


「言いたい事は分かるけど、その体じゃ彼らに立ち向かう事はできない。それに精神的にも追い込まれてる筈だ。今は休息が必要だよ。——ホルスの為にもね」


 ふと、息子の方に顔を向けたイシスは自分を心配するその顔を見て小さく息を吐いた。


「……そうですね。少し、休むことにします」


「母上。俺、絶対アヌビスを連れ戻します。あいつは自分の意志でセトの元へ行った。でもそれにはきっと理由がある。兄としていつも俺を見守ってくれたあいつが俺達を本当に憎んでいる筈がないと。それに——」


 言葉を区切り、おもむろに目を閉じたホルスが再び目を開けると、イシスははっと息を呑んだ。


「ラーホルアクティ。貴方なのですか?」

 琥珀色に光を放つその瞳は間違いなく、あの時自分が手に掛けた、愛する息子だった。


 ラーホルアクティがゆっくりと頷くと、イシスはぽろぽろと涙を流し始める。


「ごめんなさい。私は貴方を——」

 懺悔するように頭を垂れたイシスの体をラーホルアクティは強く抱きしめる。その小刻みに震える体と涙が全てを物語っていた。


「私のエゴで貴方の尊厳を、そして生きる権利をも奪ってしまった。許して欲しいとはいいません。でも——」


 弱々しい母の腕。その抱きしめる手に力が籠る。


「生きていてくれて——ありがとう」


 耳元に響いたその言葉がまるで魂を浄化するかの如く染み渡る。自分は愛されていたのだと、ウジャトの言葉が確信に変わった。


「話は全て冥界ドゥアトにいたウジャトから聞きました。彼女も俺と同じくホルスの体の中に宿っています。母上は何も悪くありません。悪いのはこの男」


 目の前で伸びている父親を一瞥し、ラーホルアクティは続けた。


「自分の肉体はすでに消滅したものだと思っていましたが、まさか父が自らの魂の器としているとは思いませんでした。どのみち呪いに蝕まれた身。この肉体も次第に朽ちていく事になるのでしょう。――ですが俺は、もう自分の運命を呪う事をやめました。冥界ドゥアトでホルスと約束したのです。諸悪の根源であるセト、そしてラーの二柱を共に打ち倒すと。——もうこれ以上、母上の苦しむ顔を見たくはありません」


 肉体はなくとも、その魂と揺るがぬ意志が、体に伝わってくる。ホルスは胸が熱くなるのを感じた。


「ホルス、君への心配は杞憂だったみたいだ。イシスは僕が責任を持って治療するから、あとの事は君達に任せるよ」


「ああ。分かった」


 ありがとう、とホルスは呟く。母を抱き抱え、無言で踵を返すその背にホルスは何度も感謝した。彼がいなければ母は確実に命を落としていただろう。


 しかしそれと同時にホルスは自分の不甲斐なさというのも身に染みて感じていた。


 自分がもっと強ければ。

 そんな思いがホルスの胸を締め付ける。


「憂うのはこの男をどうにかしてからだ」


 弱気になるホルスに喝を入れるかの如く、再び兄の声が耳に響く。ホルスは目の前の男に目をやると、全身をまじまじと見つめた。


「死んでは……ないよな」

「恐らく気を失っているだけだ。あと数時間もすれば意識を取り戻すだろう」

 冷静な兄の言葉がホルスの不安を煽る。


は我々が処理します」


 突然背後から響いた声にホルスは驚いて振り返る。中心に女。そして神官らしき男女が数人彼女を取り囲むようにして立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る