第36話𓍯𓅓𓍯𓅱𓄿𓎡𓍢〜交錯する思い〜

「……ッ」


 殴られた頬がまだ熱を持っている。出血はしたものの幸い骨までは折られていないようだ。

 あれからセトの神殿へ戻ったアヌビスは自室でため息をついた。


 ——痛い。


 それは身体的な痛みというよりもっと奥にある、心臓が掴まれるような苦痛であった。

 セトを殺すためとはいえ、あいつは仇に寝返った自分の事を軽蔑したに違いない。いや、その目的がある事すら知らないのだから、あいつの目に俺は全くの悪にしか映らないだろう。

 しかしそんな俺をあいつは待っている、とも言った。


 一体どこまでお人よしなんだ、とアヌビスは思う。以前それがお前の甘さだと叱った事があったが、今はそれが唯一の救いだ。



「アヌビス様、マギルでございます。」

 

 扉の向こうで響いたその声にアヌビスは安堵した。やはり敵に囲まれながら常に気を張っているのは疲れる。それに孤独だ。旧知の者が1人でも傍にいてくれるだけで心強いものである。


 しかし何故こんなにも日を要したのか。彼が出て行ってからもうひと月が経っていた。

 その間に自分は神上がる所まで来てしまったのだ。


 訳を聞こうと入室を促した直後、アヌビスはその姿に眉をひそめた。



「……一体何があった?」


 入ってきたのは彼1人ではなかった。


 その腕には見知らぬ女を抱いている。しかし女の顔には血の気がなく真っ青で呼吸をしているかも怪しい。


 さらにアヌビスの目に飛び込んできたのは女の脇腹に刺さった剣だった。その傷口からは未だ鮮血が流れ続けている。


 無理やり抜かなかったのは懸命な判断だが、適切な処置を施さなければ命が危ない。


 アヌビスは女の口元に耳を近づけ、胸の動きを見る。


「——息はあるな。そこまで運べるか。」


 アヌビスが奥のベッドを指差すとマギルは目を丸くした。


「しかしベッドが——。」

「シーツなら後で替えればいい。早くしろ。」


 この女が運よく神であったとしても、失血が致死量に達すれば人間同様命はない。 

 アヌビスはとにかく、目の前の命を救う事に集中した。


 しかしアヌビスには死んだ者をミイラとして復活させる事は出来ても、生きた者を治療した経験はなかった。


 しかしこの女が誰であれ、まだ息のある者をみすみす死なせる訳にはいかない。


「俺が目で合図を送ったら刺さった剣を抜いてくれ。」


「しょ、承知致しました。」

 

 動揺するマギルを横目にアヌビスは大きく息を吸い、自分の指先に意識を集中させた。

 そして今まさに血を流し続けている患部に手をかざす。

 

 ——今だ。


 アヌビスが視線を送ると、マギルは震える手で剣柄を掴み、ゆっくりと引き抜く。


 一か八か注いだ力が効いたのか、剣を抜いても血は噴き出してこなかった。

 

 アヌビスは安堵し、しばらく患部に手をかざしたまま傷口の様子を見る。とにかく今は止血さえ出来ればいい。後は本人の治癒力で何とかなるだろう。


「……どうやら、止まったようですね。」

 マギルから安堵の声が漏れる。


 アヌビスは頷き、大きくため息をついた。


 とりあえず一命は取り留めた。が、まだ予断を許さない状況である事は理解できた。

 やはり出血しすぎているのだ。その顔色とバイタルサインはいずれも生命の危機に瀕している事を知らせていた。


 アヌビスが脈を図ろうと女の手首を掴んだ時、その手首に不自然な跡がある事に気付いた。


「この跡は何だ……縄か?」

 アヌビスは顔をしかめる。

 

 ——この女、拘束でもされていたのか?


 そしてもう一つ、何かを発見したアヌビスは自身の服の中からあるものを取り出した。

 

 それは以前この部屋で見つけたピアス。


 アヌビスはそれを女の片耳に当てがった。

 

 ——やはり、同じだ。


 女は片耳しかピアスをしていなかった。それが今、この部屋で拾ったものと一致したのである。


 それが何を示しているのか、まだ定かではないが、少なくともこの部屋と女に何か関係がある事は推測できる。


「彼女は誰なんだ。それにこの縄の跡、一体何があった?」


 アヌビスは改めてマギルに問いかける。


「この方はハトホル様です。……実は以前私達が忍び込んだあの地下道の奥に監禁されていた様でして。」


「——何だと?」


 アヌビスは思わず声を上げた。


 ハトホル神と言えば愛と美の女神として人々から厚く信仰されている女神である。 

 加えて最高神ラーの娘である彼女が何故監禁されなければならないのか。


 アヌビスは額から嫌な汗が流れるのを感じた。


「それで、何故お前が彼女を介抱する事になったのかその経緯を教えてくれ。」


「はい。実はテフヌト様に会いに行った際、直々にお願いされたのです。監禁されていたハトホル様をしばらくの間匿っていてほしいと。あの夜お2人がセト様の目を盗んであそこに忍び込んでいたのもハトホル様を救い出す算段を付ける為だったと。」


 その話にアヌビスは眉を寄せた。


「待て。俺達はセトに仕える身だぞ。そこまでして救い出した大切な娘をまた敵に明け渡すなんて事——。」


「それを逆手に取っているのです。ハトホル様がいなくなった事がバレても、まさかこの神殿に匿われているとは思わないでしょう。私達は互いにあの地下道で鉢合わせました。と言う事は我々の動きもある程度あちらに知られていると言う事です。」


「あの2人に俺達がセトを裏切ろうとしている事もバレている、という事か?」


「はい。でもそれはあちらも同じ事。しかし共通の敵がいるとはいえ、味方かどうかと言われれば怪しいですが。」


「セトとラーは組んでいる。だがそれは表向きだけだったという訳か。」


「もしかすると互いに裏切る機会を伺っているのかもしれません。」


 じゃあエゼル——あいつもセトを裏切るつもりなのか?


 長らくセトの右腕として尽くし、陶酔していたあの男ですら主人を簡単に切り捨てようとするのなら、もはや誰を信用するべきなのか分からない。——いや、端から誰も信用してはならないのだ。

 

 アヌビスは改めて気を引き締める。


 相手の一挙手一投足まで観察し、違和感を炙り出す。


 そこに1ミリの情も入れてはならない。それは判断を鈍らせ、付け入る隙を与えることになる。


「ところで、彼女の脇腹に剣が刺さった経緯をまだ聞いていないが。それに俺達にそんな危険極まりない依頼をしてきたからには何か策があるんだろうな?俺達2人じゃ彼女を守るどころか全滅する可能性の方が高い。」



「——それは、わたくしから説明させてください。」


 突然響いた女の声に2人は驚いてベッドの方を振り返る。

 

 いつの間にか目を覚ましていたハトホルがこちらをじっと見つめていた。

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