第47話𓎡𓄿𓎡𓍢𓋴𓇋𓏏𓍢〜確執〜

 再び相まみえた二柱の間には、言い知れぬ緊張感が漂う。張り詰めた空気の中、目の前の冷ややかな瞳が再びイシスの心を抉った。


「貴方が眷属を?」

 イシスは我が子に問いかけた。セトの元に送った眷属は数多の歴戦をくぐり抜けてきた猛者であり、アヌビスが一人立ち向かえるような相手ではない。


「足止めとは周到だが、こいつがすでに神上がっている所までは考えが及ばなかったようだな」


「――まさか」

 セトの言葉はイシスにまたも衝撃を与えた。頭もよく努力家で、筋も悪くない彼ならいずれ神上がるだろうと予想してはいたが、まさかこんなに早く、事もあろうにこの男の元で神として成熟を遂げるとは思ってもみなかった。


「——ッ」

 直後、突きつけられた現実に打ちひしがれるその体を更なる衝撃が襲う。腹部に焼けるような痛みが走り、背後でネフティスの悲鳴が聞こえる。朦朧とする意識の中、我が子の悲痛な顔が目に焼き付いた。


***


 兄と和解し、研究室に戻ったホルスははっと息を飲み、顔を上げた。そのまま地上へ戻ろうとするホルスの腕をトトが掴む。


「ちょっと待ってどこへ行くの? まだ話が終わって――」

 引き留めるその声もまるで耳に入っていないかのようにホルスはその手を振り切り、何かに導かれるようにして研究室を出た。


 階段を駆け上がり外に出た瞬間、荒れ狂う砂塵が視界を覆った。嵐の中に淡々と身を投じるホルスを追ってきたトトが叫ぶ。


「待って! 一体何を——」 

 びゅうびゅうと吹き荒れる鋭い風の音に己の声すら掻き消され、意思疎通もできぬまま見失ってしまった。


 行かないと。

 ただ一言、心の中に最後に響いたホルスの声は焦燥と決意に満ちていた。


***


 剣が己の体を貫いている。そう自覚するのに数秒を要した。周囲に広がる鮮血にイシスは惨敗を悟る。

 

「哀れだなイシスよ」

 

 背後から憎き男の声がする。目の前の息子に気を取られ、背後に迫った男の気配に気づけなかった。その拘束も、同じく息子との再会に気が動転したのだと思うと妹を責める気にもなれない。何にせよ、彼を相手に生半可な術を使うべきではなかったのだ。


 顧みたとてすでに遅い。血溜まりはみるみるうちに広がり、周囲はまさに血の海と化した。


 ——まさかこんな所で死ぬ事になるなんて。

 全てを奪われた。夫も、アヌビスも、神官でさえも。守る事も救う事もできずただ強大な悪の前に屈している自分がこの上なく情けない。


 朦朧とする意識の中、イシスは自身に貫通した刃を通してラーに最後の一撃を見舞う。強力ないかずちを諸に食らった彼は一瞬で意識を失い、まるで糸が切れたようにその場に倒れ込む。


 そうして意識が途切れる寸前、別の声を聞いた。非難するのではない、ただ純粋に自分を呼ぶ声が。それに応えようと、イシスは遠のきかけた意識を必死に呼び戻す。ふいに体が抱き起こされ、その視界にうっすらと映る顔が確認できた。


「……ホ、ルス……?」


 歪んだ視界に今にも泣き出しそうな息子の顔が映る。一体どこで聞きつけたのか、窮地を知り駆けつけたであろうその額にはじんわりと汗が滲んでいた。


「治療は僕が。君には君のやるべき事があるでしょ」


 あの後どうしてもホルスを放っておけなかったトトはその後を追い、彼の援護に回る事にした。この惨事を前に、ついて来て正解だったとトトは安堵の息を漏らす。

 

「ああ。——頼む」


 頷いた青年の姿の彼にいつものような余裕はない。心なしか表情も強張っているように見える。魔力を使い、手際よく止血を行う彼を横目にホルスは立ち上がり、彼が張った障壁の外へと踏み出す。そして今まさに踵を返そうとしている兄を呼び止めた。


「母上を放って一体どこへ行くつもりだ」

 そう問いかけたものの、セトの傍に平然と佇む彼がもはや自分の知る兄でない事は明白だった。


「帰るぞ」

「……よろしいのですか?」

 興が冷めたというようにセトが帰宮を促す。


知恵の神ジェフティ。あいつとやり合うのは面倒だ。どの道あの状態ではイシスもしばらく動けまい」


「おい、ちょっと待て!」

 こちらを見ようともしないアヌビスに痺れを切らし、ホルスは腕を伸ばした。しかし引き止めようとしたその手は彼に届かず空を切る。


 地面から蔦のように伸びる影が全身に巻きつき、がんじがらめにされたホルスは目の前の兄を睨みつける。


 こんなに近くにいるのに——。

 見えているのに届かない。怒りともどかしさが心を支配する。それが心の距離のようにも思えてホルスは悔しさを滲ませる。


「何で母上を見捨てた? 直接血の繋がりがなくても俺達を育ててくれたのは——」

「言いたい事はそれだけか?」

 ホルスの言葉を遮り、アヌビスは冷たく言い放った。


「お前、一体どうしちまったんだよ……?」

「やはりお前は何も分かっていない。理解して欲しいとも思っていないがな」


 突き放すような言葉にも、ホルスはめげることなく食らいつく。


「じゃあお前は俺の気持ちが分かんのかよ? お前を死ぬ程心配してるこの気持ちが!」 

 

 ホルスは前のめりになり、アヌビスに迫る。


「いいか。気持ちってのは言わなきゃ伝わんねえんだ。お前はいつもいつも、それをひた隠しにする。苦しいとか、辛いとか、叫び出しそうになる事もいっぱいあっただろうに、それを表情にすら出さねえ。そんな奴の気持ち分かるかよ!」


 心の内を全て打ち明け、燻っていた心がわずかに晴れる。


「俺、諦めねえから。絶対にお前を連れ戻す」

 

 その言葉にアヌビスは冷笑を浮かべる。


「俺は自らこの道を選んだ。お前達の元に帰るつもりはない。これ以上俺に関わるな」


 彼はそう言い残し、セトと共に姿を消した。

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