ヘリオポリス ー九柱の神々ー

第３０話𓉔𓍯𓍢𓅓𓍯𓈖〜訪問〜

「アヌビス様、あの男が——。」

　アヌビスが再びうとうとし始めた頃、耳元にキオネの声が響いた。

　——コンコン

　それとほぼ同じタイミングで扉をノックする音が響く。

「……何だ。」

　マギルの奴忘れ物でもしたのか？

　アヌビスが素っ気なく返事をすると、その扉はすぐに開いた。

　しかし部屋に入ってきた人物を見てアヌビスは目を疑う。

「倒れられたと聞いたものですから様子を見に。」

　にっこりと笑うその男はベッドの脇に立ってアヌビスを見下ろす。

「エゼル……何故お前がここに。」

「おや、私がここへ来てはいけませんか？」

　明らかに邪険にされているというのに、エゼルは気にする様子もなく飄々とした態度で答える。物腰は柔らかいが、その胸中にどんな黒いものを抱えているか分かったものではない。

「……待て。という事はテフヌト神と一緒にいたのはお前だな、エゼル。」

　アヌビスが倒れた事を知っているのはあの時地下道にいた者しかあり得ない。

「ええ。私が正体を明かしてまでここに来たという事はどういう事か、貴方ならお分かりになりますよね？」

　——取引か。先を越されたな。

　アヌビスは心の中で舌打ちをした。

「何が望みだ。」

「話が早くて助かりますよ。」

　エゼルはそう言って顔の前で人差し指を立てた。

「といっても、あなた方に不利なお願いではありません。条件としてはむしろ同等。要はお互いの為に黙っていましょう、という事です。」

「地下道での一件を口止めしたいって訳だな？」

「ええ。私たちの動きもセト様に悟られる訳にいかないのですよ。勿論、あなた方があそこに忍び込んだ事も黙っています。——私達は地下道に近づいてもいない。これでどうです？」

「……口止めの件は分かった。だが一つ、お前に聞いておきたい事がある。」

「おや、何でございましょう？」

　エゼルはわざとらしく首を傾げてみせた。いちいち癇に障る奴だ、とアヌビスは思う。

「——お前の目的は何だエゼル。あそこには何がある？」

　アヌビスの問いにエゼルはわざと声の調子を変えて言った。

「嫌だなぁ！そんな怖い顔しないでくださいよ。私はただの神官。その一生を神に捧げると誓う身で一体何が出来るというのです？……でもまぁ、人間だからと言って神に敵わないとも思っていませんが。」

　エゼルの顔に一瞬黒いものがよぎるのを見てアヌビスは背筋が冷たくなるのを感じた。

「あそこに何があるかはアヌビス様、ご自身の目で直接確かめられたら宜しいのでは？　私は止めませんよ？」

　勝ち誇った様な顔でエゼルは再びアヌビスを見下ろした。

　出来るものならやってみろ、そう言われている気がしてアヌビスは舌打ちをした。

「話す気がないのならもういい。仕事に戻れ。」

「もう少し話していても良かったのですがッ……！」

　アヌビスの投げた食器がエゼルの言葉を遮る。すんでの所で避けられたそれはガシャンと音を立てて粉々に砕けた。

「戻れと言ったのが聞こえなかったのか？」

「……失礼致しました。どうぞごゆっくり、お休み下さい。」

　エゼルは張り付けた様な笑みを絶やさぬまま部屋を出て行った。

　掴みどころのない男とはああいう奴のことを言うのだろう。

　アヌビスは再び深いため息をつく。

　しかし王の右腕とはいえ、格上の者に臆することなく、しかも取引まで持ち掛けてくるとは。やはり警戒するに越したことはない。引き続きキオネに監視させるか。

　そうなるとマギルをテフヌトの神殿へ行かせたのは悪手だったか。先を越されてしまった以上こちらから取引を持ちかける事は出来ない。とはいえマギルもかなりのやり手だ。こうなれば彼の手腕に賭けるしかない。

　結局体のだるさと眠気に勝てずアヌビスは再び目を閉じた。

　セトに直接呼び出される事になったのはそれから数日後の事だった。

「お前はヘカの呪いを知っているか？」

　突然の質問にアヌビスは思わず主を見返した。

「神力を奪うという呪いでしょうか。以前読んだ文献に記載があったかと。」

　アヌビスも知ってはいたが、あの呪いを掛けるにはそれ相応の実力のほか、相手の真名が必要だ。しかし神の命とも言える真名を他人に教える事など有り得ない。その難易度から数ある呪いの中でも実現不可能であると言われた幻の呪術である。

「——そうだ。その呪いを解くための方法を探せ。」

　呪いを解く？

　アヌビスは耳を疑った。まさかその呪いにかかった者がいるというのか。

「ですが解く方法など——。」

「だからそれをお前にそれを探せと言っている。……まさか俺の命令を聞けぬとでも？」

　鋭い眼光に捉われ、アヌビスはそこから動けなくなった。

「俺の性格を理解しているお前なら分かるだろう？　命令に背いた者、また成果を挙げられなかった者。いずれも待っているのは『死』だ。」

　しかし元々幻の様な呪術を解く方法など本当にあるのだろうか。

　この難題にアヌビスはセトがこの機会にかこつけて自分を殺そうとしているのではないかとさえ思った。

　アヌビスは自嘲する。

　進むも地獄、退くも地獄。

　——ならば最後まで進むしかない。

　元よりその覚悟でここに来た筈だ。

　今更恐れる事などないだろう。

「その代わり、もしその方法を見つけた暁にはお前に神上がる方法を教えてやろう。」

　その言葉にアヌビスは思わず顔を上げる。

「安心しろ。俺は嘘はつかない。」

「——承知致しました。」

「……アヌビス様。呪いを解く方法なのですが。」

　部屋に戻ってすぐ、考えを巡らす主の邪魔をしないようキオネは遠慮がちに言った。

「何か当てがあるのか？」

「ええ。実はあの2人の会話を聞いていた所、トトという神が呪術に精通していると。しかしなかなかの曲者で、情報を与える事は滅多にないそうです。それも彼の気分次第だと。」

　会った事はないが噂は聞いたことがある。

　トトと言えば知恵の神だ。呪術だけでなく医術や語学、文明などあらゆるものに精通しているという。確かに彼ならば呪いについて何かしら知っているに違いない。

「会ってみる価値はありそうだな。」

　すぐにでも外出許可を得て会いに行きたいところだが、問題は彼が今どこにいるかという事だ。しかし流石にしらみ潰しという訳にもいかない。

　——これはまた、聞き込むしかなさそうだな。

　地道な作業になりそうな予感がして、アヌビスはため息をついた。

「トト様なら観測所にいらっしゃると思いますよ。」

　予想に反してその答えはすぐに見つかった。

　洗濯物を運んでいた神官に声を掛けた所、あっさりとその居場所を教えてくれたのだ。正直こんなに早く居場所が掴めると思っていなかったアヌビスは拍子抜けした。

　ここに来る前トトの元で働いていたのだというその神官はその場所や経路までを事細かに覚えていた。丁寧に地図まで書いてアヌビスに手渡す。

「あの方は気の赴くまま観測と研究に没頭する方なのでコミュニケーションを取るのはなかなか難しいかもしれません。常に一緒にいた私達でさえ、最後には解雇されてしまいましたから。でもお優しい方ですよ。ちょっと分かりにくいだけで。」

　……優しい奴が解雇なんてするか？

　神官の話を聞き、アヌビスには不安しか残らなかった。社交性など皆無に等しいというのに、それに加えて相手もそうだと言うのなら一体どのようにして情報を聞き出せばいいのだろう。

　大体こういうのはホルスの役目だ。あいつなら相手の懐に上手く飛び込んでいくだろう。

　アヌビスはため息をつき、神官から貰った地図を眺める。

　とにかくまずは会ってみるしかない。

「明日、早々にここを発つ。マギルにもそう伝えてくれ。」

「御意。」