第19話𓉔𓄿𓉔𓄿𓍯𓇋𓄿〜母親〜

 燃え盛る炎の中、イシスはただ茫然とその扉を見つめていた。


 セトと共に消えてしまった息子。

 捨てられた神殿と殺された妹、そしてそれをただ呆然と眺める事しか出来ない自分。


 火を放たれ、辺りは火の海と化しているというのに、まるで現実味がない。目の前で起こっているものだとはとても思えなかった。



 ——逃げなくては。


 そう思うのに体が鉛のように重い。



「……姉、さん。」


 背後から聞こえたその声にイシスははっと振り返る。


「ネフティス……!」

 イシスは弾けるように立ち上がると妹の体を抱き上げる。


「貴方……生きていたの?」

 顔色こそ蒼白だったが、その目はしっかりと自分を見据えている。


「姉さん……私、あの子に救われたわ……。」


 溢れんばかりの涙がその頬を濡らす。


「……何を言ってるの?あの子は——。」




「イシス様!早くここから逃げてください!出口にもじきに火が回ります、手遅れになる前に非難を!」


 その声にイシスは顔を上げた。


 ——見覚えがある。

 彼女はバステトの神官だ。


 彼女に続き数人の神官達がぞろぞろと中に入ってきた。




「何をしているの? 早く逃げなさい!」


 最後に入ってきた人物を見てイシスは目を見開いた。


 バステト神本人だったのである。


 まさか彼女自らがこの火の海に飛び込んでくるとは思ってもみなかった。


「彼女から話は聞いた。アヌビスの事、もう少し早く知らせるべきだったわ。ごめんなさい。……何があったかは知らないけど今はここから逃げる事を考えなさい。」


 バステトの一喝で我に返ったイシスはよろよろと立ち上がる。

 しかし腰が抜けてしまったのか上手く歩くことが出来ない。


「イシス様、私の肩におつかまり下さい。出口までご案内致します。」


 神官は失礼致します、と言ってイシスの腕を自分に肩に回した。


 はっと後ろを振り返るイシスに神官が呟く。

「ご安心ください。ネフティス様もご一緒にお連れ致します。」





数時間後——


 火は無事に消し止められたが、その殆どを焼失し神殿としての面影はなくなっていた。


 一方イシスとネフティスの2人はバステトの神殿に避難し、事なきを得た。



「…この度は何とお礼を申し上げたらよいのか……。命をお救い頂き感謝しております。」


 イシスに続き、ネフティスも深々と頭を下げる。


「頭を上げて。とにかく今は休みなさい。2人とも顔が真っ青だわ。」






「……何があったのか、話してくれるわね?」


 休むようにと案内された部屋でイシスは問い詰めるように言った。


 ネフティスは泣き腫らした顔をさらに歪めて呟いた。



「あの子は…私をあの牢獄から救ってくれた。例えそれが取り入るための策の一つだったとしても感謝しているわ。」



「……何を言っているの?」


 全く意味が分からないというようにイシスはネフティスを見た。



「剣を贈った本人である貴方なら、あの剣の性質を知らない筈ないでしょう?」


 イシスははっとしてネフティスを見た。



「そう、あの子は私を殺すどころか傷つけてすらいない。」



「ではあの血は一体何だと……。」


 その剣はもちろん、その全身に血を浴びていたあれは一体。




——まさか。

イシスは思わず顔を覆った。


「……あれはあの子自身の血よ。そこまでしなければあの男を欺く事はできない。それを分かっていたのよ。」



「……何てこと!それじゃああの子は……。」



「セトに取り入る前日、あの子が私の部屋に来た時は驚いた。私にはとても合わせる顔なんてなかった。……けどあの子は冷静だった。そして私に言ったわ。『本当に悪いと思っているなら協力してくれ』と。」


 イシスは目を見開いた。


「それからあの子は貴方がオシリスの贈った剣を見せて私に死んだふりをする様に言った。そうすれば貴方も自由になれるからって。」


 そこまでしてセトに取り入る理由。

 

 イシスにはやはり自分達への復讐以外に考えられなかった。


「あの子やっぱり私達のことが許せないのね……。」


イシスの言葉にネフティスは首を振った。


「私はともかく、姉さんは違う。あの子が何をしようとしているのか分からないけど、姉さんを貶めようとしている訳ではないと思うわ。」


「……何故そう思うの?」


 イシスが問うとネフティスは自嘲気味に言った。


「あの子私に言ったのよ。貴方を母親だと思った事は一度もない、勘違いするなって。俺の母親はイシスだけだって。当然よね。貴方に責められるのが怖くてあの子を捨てたんだもの。」


 イシスは驚いて彼女を見る。


「そんな……!じゃあどうして……。」


「……分からないわ。でもあの子がセトの下につく以上もう味方同士ではいられない。」


「そんな……!あの子に救われたというのに貴方はまたあの子を見捨てるというの!?」


 イシスは今にも掴みかかる勢いでネフティスに迫った。


「……そうね。捨てたのは私なのに、あの子に言われたことがショックだった。そして目が覚めたわ。こんな所でいつまでも泣いてる場合じゃないって。これまでの償いをしなきゃって思った。」


 ネフティスは顔を上げ、真っ直ぐイシスを見つめた。


「だから姉さん。私も黙っているつもりはないわ。これ以上あの子を苦しめる訳にいかない。セトの手からあの子を救い出しましょう。私何でも協力するから。母親だって認めてもらわなくたっていい。2人に罪滅ぼしがしたいの。」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る