ソレがいた場所2
「おやぁ?こんな所にどうして子供が?」
扉の前で呆然と立ち尽くす子供の僕は、背後から聞こえてきた間延びした声に振り返った。
「おじさん、だぁれ?」
「おじさんかぁ、うへへ、参ったなぁ。これでもまだ20代なんだけど。まぁ坊やから見たらおじさんだよねぇ。誰か一緒に来てないの?」
そう言いながら、よれた白衣を着た男性はキョロキョロと周囲を見る。
「ここ、どこ?」
「ん〜、残念だけどそれは秘密なんだよねぇ。教えちゃうとおじさんクビになっちゃうから。ごめんね〜。それで、誰かと来たの?」
再度の問いかけに、僕はふるふると首を横に振った。
「ここは入っちゃ駄目な所なんだ。危ないからねぇ。先生とかお友達から聞いてない?」
僕は再び首を横に振る。
「そうかぁ。ここに来るまで誰にも会わなかったのかい?」
今度は縦に首を振る。
「う~ん、だいぶ偶然が重なっちゃったみたいだねぇ。こんな奥に子供がいるから、てっきり誰かがトチ狂って家族でも連れてきてしまったのかと思ったよ。そうなったらその人も捕まえなきゃならなかったから、まぁよかったと言えばよかったのかなぁ。さぁ、そしたらおじさんと一緒に上に戻ろうかぁ。」
そう言って彼、おじさんの差し出した手を取らずに、好奇心に駆られた僕はパッと踵を返してドアに向かって駆け出した。おじさんは慌てて引き留めようとしたみたいだったけど、僕はそれよりも早くドアを押し開けていた。
そこは大きくて真っ白で、天井の高い部屋だった。
何人かの白衣を着た人達が、透明な壁で囲われた大きな虫かごのような小部屋の周りで何事かを話していた。
そして、その小部屋の中にいたのはなんと言えばいいのか、黒い、霧のような、モヤのようなものでできた人型の何かだった。
少し薄暗い場所なら見失ってしまいそうなその人型は、この白い部屋の中ではくっきりとその存在を認識する事ができた。
「ちょっとちょっと、ダメだよぉ入ったりしたら。万が一アイツに見られたりでもしたら……あ~、遅かったかぁ」
後ろから僕の肩を掴んだおじさんは、しかしすぐに諦めたようなため息と共に僕の肩から手を離した。
彼の言葉通り、虫かごの中で何をするでもなくぼんやりと立ち尽くしていたと思われるそれが、いつの間にかこっちを見ていた。
顔も何もないのに、こっちを向いたソレがニヤリと顔を歪めたのが何故か分かった。そしてそのままソレはこちらへ近付いて来ると、透明な壁に両手を着けてじぃとこちらを覗き込むように見つめていた。まるで、動物園で珍しい動物を見つけた子供のように。
ソレの動きに気付いた何人かが僕達に気付いたようで、焦ったようにこちらへ来ておじさんに何事かを言っていたが、僕は小部屋の中からこちらを見つめるソレに、まるで魅入られたかのように目が離せず、話の内容は頭に入って来なかった。
そして、無意識の内に一歩、二歩とそれに近付いて、再びガッと肩を掴まれた。
「ダメだよぉ。さすがにこれ以上近付いちゃまずい。アイツも初めて見た子供にすごく興味を持ってる。何が起こるか僕にも分からないからねぇ」
「おじさん、あれなぁに?」
肩越しにおじさんを振り返り問いかけると、おじさんは苦笑いで首を傾げた。
「いやぁ、なんだろうねぇ。おじさん達もよく分かってないんだぁ。だからここであれを観察してるんだよ。今の所分かっているのは、あれは雑食性だって事と、あ、雑食性って分かる?分かんないか。お肉も野菜もお魚とかもなんでも食べるって事だよ。それと、餌をやっている限りアレはとても大人しいって事。油断はできないけどねぇ」
「主任、喋りすぎでは」
横にいた白衣の男性がおじさんに話しかけると、おじさんは笑いながらヒラヒラと男性に手を振った。
「あはは、いいのいいの。どうせアレを見ちゃったし、見られちゃったんだ。入念に処理を掛けてから上に戻すから、ここの事なんて全部忘れちゃうよぉ」
そう言っておじさんはケラケラと笑っていた。
「それとねアレには面白い習性があるんだよ。アレはねぇ、お互いを認識した相手が自分の事を覚えている限り、その意識の中にある自分の存在を目印にして、どこにいても見つけ出す事ができるのさぁ。すごいだろぉ?」
その言葉に、再びソレに目をやった。まだこちらを見つめている。
「ホントにねぇ、どこにいても追いかけて見つけるんだ。そして見つけた後はね、その人を食べてしまうんだ。途中にいつも食べてる餌があっても、何があっても、一度飢えたあいつは標的にした誰かを追いかけて食い殺すまで決して止まらない」
「僕も食べられちゃう?怖い……」
自分もその対象としての条件を満たしてしまったのだと、幼心にも理解できて、思わずおじさんのよれた白衣をギュッと掴んだ。
「怖いよねぇ。だったらこっちへおいで。怖く無くなるお
僕はおじさんに手を引かれて部屋から出た。去り際に振り返ると、閉まりゆくドアの隙間から、なおもこちらを見つめるソレの姿が目に映った。
おじさんと一緒に入った部屋で僕は椅子に座らされて、何かの機械のようなものを頭に被せられた。
「僕、食べられちゃう?」
なおも怖がる僕に、おじさんは相変わらずへらへらとした顔で笑いかけた。
「へーきへーき。言っただろう?アレは、自分を覚えている人間を追いかけてくるんだ。逆に言うと、自分を覚えていない人間は追いかける事ができないのさぁ。だからね、アレを見た事自体を忘れてしまうのが一番の対策ってワケ」
「忘れる?」
「そう、忘れる。ほら、目をつぶって。痛くないからねぇ。君は全部忘れるのさ。ここへ来た事も、おじさんの事も、聞いた事も、そして、アレを見た事も。羨ましいねぇ、僕もアレの事を忘れられるものなら忘れたいんだけどねぇ。もう僕は忘れられないんだ。長く関わりすぎて、頭にアレの存在が染みついちゃったのさぁ。おっと、さてさて、準備完了だ」
しばらくして、僕はなんとなく眩暈に似たような感覚に襲われた。
おじさんはなおもペラペラと喋り続けていたが、何を言っているのかよくわからない。気持ち悪さと共に、意識が遠くなっていく。
「もう、ここへ戻って来てはいけないよ。決して、ね」
薄れゆく意識の中で、おじさんのその言葉だけがはっきりと聞こえた気がした。
あぁ、なんという事だろうか。
僕はここへ来るべきではなかった。戻って来るべきではなかった。
思い出すべきでは、なかった。
ふと振り返り、先ほど通り抜けた壁を照らした僕は、気付いた。気付いてしまった。あれは閉じかけていたんじゃない。
あの分厚く重厚な壁は、何者かのとてつもない力によって引き裂かれていたのだ。
「あいつだ……あいつがやったんだ」
きっと、アレを閉じ込めるためのものだったのだろう。しかし無意味だった。アレはきっと、飢えてしまったのだ。飢えさせてしまったのだ。
もうここには誰もいない、奴に餌を与える人は誰もいない。
いなくなったから飢えたのか、それとも、飢えさせたからいなくなったのか。
どちらにしろアレは、餌を追い続けるのであろう。
飢えては追い、また飢えては追い。その過程で奴を見て、そして奴に見られる人もいるだろう。そして餌の候補はどんどんと増えていく。
そして今、僕もその候補となってしまった。戻ってしまった。
怖い、体の震えが止まらない。
いてもたってもいられなくなった僕は、もつれそうになる脚を必死に動かして、あの施設から逃げるようにして帰った。
いつになるのかは分からない。僕が死ぬまでに、僕はアレの標的にはならないかもしれない。でも、次の瞬間にもアレが僕を食おうと目の前に現れるかもしれない。
僕はその恐怖を抱えて毎日を生きねばならないのだ。
暗い夜道に、部屋の隅にわだかまる暗闇に、なんでもない物陰に、僕はソレの姿を幻視するのだろう。
短編集〜ソレがいた場所 他〜 時任桂司 @tokitoukeiji
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