第七章
ゑびす屋、午後七時半。
何故か黒木の間でなく、真の部屋である椿の間に姫香と世理奈は呼ばれた。
宿に帰るなり、二十分程外で坐っていてくれと指示された二人は廊下の椅子で暫く待機していた。
そうして間も無く「入っていいぞ」と真が扉を開けて二人を招き入れた。
「随分待ちましたけど、何してたんですか」
少し不機嫌そうに世理奈が充電を済ませたスマホをテーブルに置いた。
「ちょっと説明に情報が必要だったんだ。新たな発見もあったしな」
客室の背もたれ和座椅子を勧められて世理奈は坐った。
その右隣に腰掛けた姫香も不思議そうにテーブルの上に乗っているタブレットとノートを見つめた。ノートには略した日本地図が書いてあり、そこには何本もの直線がペンで引かれている。
「それなら私達が一緒でも良かったんじゃないですか」
「まあ、理由があるんだよ。それは後で話す。じゃあ、始めようか」
世理奈の斜め左に坐った真はタブレットの画像を操作しながらスマホでXへ電話をかけた。
今度は皆の耳に届くようにスピーカーでである。
「やあ、さっき様々な画像が送られてきたんだが。これはどういった類かな、坂城君」
Xがいきなり不愉快な笑いで説明を求めた。
真は冷静に返した。
「もちろん謎が解けたんだよ。その補足のためのデータだ」
「今度は期待して良いんだろうね」
「さあな。ただ、俺が知り得る知識の中で導き出した結論とだけ言っておく。それがそっちの解答と符合するかは保証しない」
「ふふ、それは構わない。では披露してもらおうか」
「その前に」と真はタブレットの画像を滑らせて一つの色鮮やかな寺社の唐門の写真を世理奈と姫香に見せた。
「本題より先に聞いて欲しい話がある。それがこの兎の彫刻だ。そっちに送ったデータ順に説明する」
真は
その虹梁と下の
世理奈が尋ねた。
「これはどこの門ですか」
真は二人に向いて説いた。
「滋賀県琵琶湖の竹生島・
「徳川と豊臣?」
「ああ。波兎の方は世理奈が日御碕神社で言ったように謡曲・竹生島から取られている。勿論、因幡の白兎伝説が残る神社を除いてだが。さて、この三羽の兎が彫られた宝厳寺唐門は元々大坂城の極楽橋の門だった。それがやがて秀吉を祀る京都の豊国廟へ、そして最終的に竹生島に移された。それが慶長七年、一六〇二年だ。翌年には徳川家康が征夷大将軍になり江戸に幕府を開いている」
「え、謎は日御碕神社ですよね。どういう事ですか」
時系列に歴史を語られるもその相関関係に疑問を持つ世理奈に真は「前置きだから聞いてくれ」と一旦根本の質問を制した。
「この竹生島への唐門移築は豊臣秀頼の
「且元って賤ヶ岳七本槍のですか。大坂の陣で豊臣家を裏切ったあの」
「世理奈も
「あ、そうか。出雲大社も豊臣が関わっていたんだっけ」
横から姫香が真の解説を思い浮かべて手を合わせた。
「後の寛文の時に造り直されたがな。秀頼は秀吉に倣って寺社に財を投じた。秀吉の死後は追善供養も含んでいたから、特に近畿地方の寺社造営に力を入れた。故に秀頼は京で人気があった。寺社造営は家康の入れ知恵というより豊臣の権力を示す一つの方法でもあっただろう。だが、その豊臣を煙たがり、また排除したいと企む者がいた」
「当の家康ですね」
「うん。家康は関ヶ原以降大坂の仲介役にもなっていた且元を巧みに利用した。竹生島の唐門移築は家康の意向だった。豊国廟の社僧でもあった
真は次のスライドへとXに伝え、別の門の写真へと変えた。
「その兎に繋がるものとして、さっき話した京都北野天満宮のこの三光門にも兎の欄間彫刻がある。それは銀色の三日月に照らされて瑞雲の下で波の上を飛び跳ねる二羽の白兎だ。そしてこの神社も秀頼が再建している」
「あ、波の兎ですね」
「そう、こっちは宝厳寺と違い波兎だ。ただ、俺はこの波兎を初めて見たときに途轍も無い違和感を覚えた。何故北野天満宮にこの彫刻があるんだろうと」
「何か変なの」
今度は姫香が尋ねた。
真は尋ね返した。
「姫香、この神社に祭神として祀られているのは誰だ」
「菅原道真だよね」
「じゃあ神社が造営された理由は」
「詳しくは無いけど、遠くの地に流されてそこで亡くなってその怨霊が祟ったから」
「粗方は正解だ。九百一年、左大臣だった藤原時平の
「
世理奈が歴史用語で補足した。
真は手にしていたペンを正解とばかりに上下に振った。
「道真は太宰府で二年後の九百三年に亡くなった。その後、左遷の原因となった時平の病死を皮切りに次々と関係者が死去した。それが道真の怨霊だとの噂はあっという間に広がった。道真の死から二十七年後、京都の清涼殿に雷が落ちて多くの死傷者が出た。それを目撃した時の醍醐天皇も体調不良となり三ヶ月後に
「で、先輩、波兎の彫刻に違和感というのは」
「竹生島の謡曲から波兎になったのは話したよな」
「はい」
「あの物語の中で船に乗せてもらったのは誰だった」
「それは醍醐天皇の廷臣…………あ!」
その彫刻を見直した世理奈はと胸を衝かれた。
誰も着目しなかった全く新しい創意である。
真は「理解したな」という視線を返して言った。
「菅原道真を祀る北野天満宮に左遷を決めた醍醐天皇の臣下の話である波兎の彫刻を秀頼はどうして掲げたのか。いくら謡曲が創作であれ不敬と思われても仕方ない。それも本殿の正面の三光門にだ。それに銀の月というのは天皇家の旗、つまり錦の御旗である日月旗の月像の銀の色を表しているのかもしれない」
「確かに」
「波兎は記号としての火伏せと多産の意味もある。麹騒動で以前社が焼けているからその護りとしての役目もあっただろう。しかし謡曲・竹生島はこの時代広く知られていた。秀頼とてその由来くらい知っていたに違いない。もちろん道真が太宰府で天皇を恨んでいたという記述はない。様々な災害を道真の祟りのせいにしたのは残された人間の勝手な解釈だ。とはいえ別に火伏せなら波兎でなくても良かったはず。秀頼はそれでもここに竹生島のシンボルである波と兎を持ってきたかった。
「隠されたメッセージですか」
興味津々に世理奈が身を乗り出して聞いてきた。
真は言った。
「実は三光門の兎の下には竹と虎の蟇股、そして兎の上、即ち頂点には唐獅子の蟇股がある。この門は秀頼の命で慶長十二年に建立されている。造営の棟札の表には秀頼と普請奉行である且元の名があり、裏には豊臣家御大工・森田重次の名が記されている。それに札には記されていないが、後に日光東照宮の建築に携わった中井正清もこの造営に参与している。彼は徳川方の大工だ」
「ごめん、真、何を言ってるのかさっぱり見当が付かない。何でまだ京都の話なの」
日御碕神社の謎解きのはずが、その前置きとしても長く、理解に苦しむ状況に姫香が問い掛けた。
真は、徐々に話すからと左掌を上げた。
「家康は豊臣家五大老の筆頭だったが、関ヶ原後の徳川家と豊臣家の関係は微妙になった。江戸幕府を開いた同年に家康は秀頼へ孫の千姫を嫁がせた。これで両家は親類になったものの二年後に家康は将軍職を息子の秀忠に譲った。これは武家の棟梁の座は秀頼に渡さないという露骨な表明だった。そして翌年には家康は駿府で隠居の身となった。が、家康の力が衰えた訳じゃない。駿府で家康は大御所となり、江戸の将軍秀忠はその命に従うという二元政治を行った。完全に天下は徳川に移行しつつあった」
「よく知られている正史ですね」
知識として当然という素振りで世理奈が相槌を打った。
すると真は挑み顔で世理奈の瞳を注視した。
「じゃあ世理奈はこの時の秀頼の心境をどう思う」
「そ、それは豊臣の地位を脅かされるならやっぱり焦りますね……」
気圧される眼差しに世理奈は言い淀んだ。
真は質問で畳み掛けた。
「かといって巨大な徳川と戦をするのは?」
「避けたいです」
「大坂城に籠城して戦うという選択肢もあるが」
「関ヶ原で
「だろ。だから秀頼はその願いをこの三光門に込めた」
真はタブレットに映る三光門の虎と兎の蟇股の拡大写真を二人に改めて見せた。
「姫香なら知っているだろう。虎と兎が何を指すかを。南宮大社で何度も目にしたはずだ」
「あ、家康と秀忠!」
「そう。彼らの生まれ年の動物だ。そして家康が寅年というのは当時周知されていた。秀忠が卯年というのも恐らくある程度は知られていたに違いない。さて、この門の蟇股の画像をよく観てくれ。一番下に左を向く虎、中段に二匹の白兎、これは先頭が後ろを振り返っている。実はこの見返り兎の構図自体は珍しくない。宝厳寺の兎もそうだし、出雲大社の八足門の欄間彫刻もこの見返り兎だ。話を三光門に戻すが、兎の上段に右を向く唐獅子がいる」
「そうだね」
「ところがこの梁を飾る蟇股には視覚的なトリックが隠されている」
「視覚的トリック?」
「実はこうして画面を下に向けるともう一つ別の大蟇股が現れる」
真はタブレットの画面を指で引き上げた。そうすると下から大きめの唐獅子の蟇股が姿を現した。
「一番下に見える唐獅子の蟇股は少し離れた中央の冠木の上に設置されている。この上部の三つの動物がある梁とは間隔があるが、距離を置いて見上げるとまるで四段の彫刻があるように錯覚する。そして最上段の唐獅子とは向きが逆で左を向いている」
「うん」
「この三体の動物彫刻は門を潜って振り返って見える位置にある。即ち門の裏側だ。そして下の大唐獅子の蟇股は立体的に彫られ、両面から同じ唐獅子が裏表に見えるようになっている」
「どういう意味?」
「つまり下の唐獅子は門を潜る前は右、潜って振り返れば左を向いているんだ。よく思い出してくれ、神社に向かって右が上位なのを」
「あ、普通はそうでしたね」
世理奈が相槌で肯定した。
「その大唐獅子蟇股を無視して見ると、虎の蟇股だけが左を向いている。これは一番下に設置してあるにもかかわらず上位だと示している。対して中段の兎と上段の唐獅子は右を向いている。二羽の先頭の兎は頭が振り返ってはいるが体は右だ。そして上部の唐獅子が豊臣を統べる秀頼を指しているならばこの構図から何を読み取れるか」
「えっ、先輩。じゃあこの蟇股の図は豊臣家が徳川家より力は無いものの地位は上だと訴えているんですか」
「訴えるというよりそんな天下を願ったんだろうよ」
豊臣家の悲劇を熟知しているだけに真は哀傷を込めた目で三光門の画像を細見し、画像を境内図に切り替えた。
「もう一つ、それに関わる彫刻が北野の境内にある。それは拝殿だ。拝殿は桁行七間という横に広い向拝があって中心の柱に内に向き合った阿吽唐獅子の木鼻、獅子鼻がある。そしてその奥には天満宮の印ともいえる牛の蟇股がある。それからその向拝の離れた両端には外向きの阿吽虎の木鼻が飾られている」
「虎の木鼻ですか」
「
「へえ」
「それと向拝の寅鼻の直ぐ両横には
更に別の解釈も出来ると真はタブレットの画像を三光門に戻した。
「先の波兎の面とは逆の、つまり正面には天満宮の
「あれ、大阪城の飾りは金の虎と鶴ですけど」
モデルの仕事で大阪城を訪れて、その外観を覚えていた世理奈は言った。
真は困った顔で少しだけ笑った。
「それは縁起が良いからと近年変えられたものだ。夏の陣図屏風に描かれた鳥は鶴でなく鷺。木鼻もそうだが天満宮に虎が多いのはそのせいかもしれない。天満宮は秀吉の思い出の場でもあるし、秀頼の信仰する寺社でもあった。だから大坂城の図案を持ち込んだのかもしれない。まあ、これは飽くまでも一推察だけどな。ところで北野天満宮造営には徳川の大工も関わった。となると当然彼らはこれらの蟇股を見ているし、家康もしくは秀忠に逐一報告もされただろう」
「いえいえ、先輩それは無いでしょう。だってそれなら方広寺の鐘名事件の前に徳川方から難癖をつける絶好の機会を与えてしまいます」
「いや、慶長十九年の方広寺の事件は文字だったからトラブルになったし、家康が決定的に豊臣家を敵と見なしたのは慶長十六年の二条城の会見以降だと言われている。畿内の庶民は無事成功した会見を無邪気に祝ったが家康は違った。しかし北野天満宮の造営終了はずっと前の慶長十二年だ。それに蟇股の場合、波兎も竹と虎も唐獅子も珍しくない。文句のつけようがない」
「それはそうでしょうけど。それでも結構
「そうだな。秀頼はこの時十四歳になっている。時世も読めたし、分別も付いていた。家康はこの年に隠居した。だから秀頼は三光門の一番下に虎を配置した。中段の兎は秀忠だが、秀忠は秀頼にとって妻・千姫の父だから義理の父親でもある。故に秀頼は家康より秀忠に豊臣家を補佐してくれるよう祈った」
「秀忠にですか」
俺はそう推量していると真は頷いた。
「秀忠の妻は浅井三姉妹の三女・
「そういえばこの頃の徳川と豊臣両家には浅井姉妹が深く関わっていましたね」
「うん。しかし大事なのはここからだ。星欠けの三光門の上には北極星があったと伝わる。それはつまるところ天帝の星、天皇だ。父秀吉は天皇の補佐であった関白だった。関白は元来、近衛家、一条家、九条家、
「文禄四年から任官無しでしたっけ」
「ああ、そのため秀頼が関白の座に就くと待望されていた。事実、三宝院座主の義演は慶長七年に、翌八年には毛利輝元も秀頼が関白に就任する噂を日記や書状に書き記している。だがそうはいかなかった。関ヶ原の翌年に九条兼孝が家康の画策で関白に再任した。秀頼はやがて内大臣に昇進するも年齢的に無理だと関白は見送られ、慶長十年には
一旦息を整えて真は言葉を継いだ。
「武家の棟梁は徳川家に、関白職は五摂家の手に渡った。この時点で豊臣家はもう政治的に負けていたんだ。それでも秀頼には天下人となった秀吉の後継という
そして真は三光門の柱の左右についた内向きの二つの木鼻を示した。
「この阿吽の木鼻は拝殿の唐獅子とは違い獏だ。獏には秀頼の不戦の意志が見られるが、その悲願も空しく慶長二十年、大坂の陣で豊臣家は滅亡し、豊国神社と豊国廟は破却された」
「…………」
二人は彫刻の斬新な解釈に黙ってしまった。
真は解説を連ねた。
「ここで主題である日御碕神社の謎に入ろう。虎の蟇股が家康なのは先刻承知の通り、秀忠の兎を除き、他の十二支で有名な徳川将軍がいる。それが辰年生まれの三代目徳川家光だ」
「そうでしたね。先輩が大学時代に話していた日光東照宮の五重塔の東側に並んでいる蟇股でしたっけ。でもあれって十二支の東西南北の方位にたまたま合致しただけって説もありますけど」
「それなんだが、一六四三年に家光が高野山に造営した家康と秀忠の
「あの、今は家光本人が辰年生まれって話ですよね」
「そうだ。でもそれは一般人が知らなくても良いんだ。ここでの蟇股は一種の暗号のようなものだからな」
「益々訳が分かりません」
「じゃあ日御碕神社の造営を決めたのは」
「徳川家光です」
「だったら難しい話じゃない。日御碕神社に謎を秘めるとしたらそれは家光本人か、もしくは彼に近しい人間だろう」
「もしかして誰かが裏で指示したの」
天海が、という名前を呑み込んで姫香が目で合図した。
それを汲み取った真は額を掻いて答えた。
「何とも言えないが日御碕神社は日光東照宮の後に建てられているからアドバイスはあったかもしれない。もしかしたら松平直政も意匠に関わっていたかもしれない。けどそれには確証がない。但し、関係者は幕府の大工を使って日御碕神社の蟇股に理由付けをした。家光が辰年でその蟇股が龍だというのは最も重要な含みを持つ」
「徳川家の暗号がみさきさんに?」
「別に財宝の在処とか、世間を驚かせるものじゃないけどな。それは方位に関する秘密なんだ。世理奈はそもそも不思議に思わなかったか。いくら順式和尚に請われてようがどうして徳川家が江戸からこんな遠く離れた神社を造営したかと。それも一六六七年の出雲大社より二十三年も前にだ。それも着手したのは京極家」
「……そう言われてみれば。雲州松平家が理由じゃないですね」
腕を組んで考える世理奈に真は微笑した。
「それは追々説明するよ。さて、家光が祖父の家康を異常なまで敬愛していた事実は広く知られていると思う。だから家光はこの神社に蟇股という形で自分と家康を組み入れた。姫香なら心当たりがあるよな」
「あ、うん。多分、虎と龍の蟇股の位置がポイントって事だよね」
「そう!」と真はペン先を向けた。
「それがこの謎の核ともいえる。俺はすっかり見落としていたんだよ」
「先輩、でも虎の蟇股なんて何枚もありましたよ。それに龍も」
「ああ。視認出来る範囲で虎は五枚、龍は飛竜を入れて三枚。それと秀忠の生まれ年である兎が一枚」
「徳川三代ですね」
「虎が多いのは家光がいかに家康を神のように慕っていたかの表現でもあるのだろう。日沉宮と神の宮、そして楼門にも虎と龍の蟇股がペアで見出せる」
真はタブレットの配置図の全体像から各社をズームして二人に指し示した。
「確かにそうですね。でもさっきの先輩の言い分ですと、虎と龍は単に厄払いの意味にしかならないんじゃないですか」
「いや、秀頼の時と家光の蟇股は意義が異なっているんだ。それに竜虎の多さは深意を悟られないための方策かもしれない。木を隠すなら森の中。それだけ散らばっていれば誰も謎と思わない」
「先輩、焦らさないでそろそろその謎を教えて下さいよ」
待ちきれない子供のように世理奈は体を揺すった。
真は真剣な表情でもう一度配置図を示した。
「先ずは手始めに秀忠の波兎の蟇股だ。ここは神の宮本殿の北西、天門に位置する場所にある。天門は怨霊の出入り口だけど、そこを封ずると子孫長久家門繁栄となる。そこを秀忠の兎で護った」
「へえ」
「そして徳川家光の龍は三枚あるが肝心な場所がここだ」
真は神の宮の白狐の後ろ正面の蟇股を指さした。
「俺は白狐に気を取られすぎた。もちろん世理奈が指摘した松平家の狐を表しているのかも知れないし、俺が話した大黒天の話もあるだろう。しかしそれよりもこの正面の位置にある龍の蟇股は、家光が須佐之男命だという証に他ならないんだ」
「え?」
「日沉宮と神の宮に一枚ずつの虎と龍の蟇股。これが今回の謎の中核となる。日沉宮は天照大神が祭神だ。家康は初代将軍、家光は三代目。家光が天照大神でないのは明らかだろう。ならば日沉宮の龍ではない。それに父秀忠の兎は既にここの神の宮本殿に出ている。それより神の宮には一枚の龍しかない。それが拝殿真正面だ。となれば白狐はカモフラージュの可能性がある」
「まさか、そんな」
驚く世理奈に真は更なる意表を衝いた。
「そうして家康はといえばもちろん日沉宮の虎だ。それは当然天照大神を指す」
「タイムです」と世理奈はタブレットを取り上げて日沉宮の配置図を見直した。
「先輩、話が飛躍しすぎですよ。日沉宮の拝殿正面には松竹梅の蟇股しかありません。それにここには虎の蟇股が三枚あるんですよ。日沉宮にあるから家康が天照大神って推論は乱暴なんじゃ……」
「そうかな。さっきも言ったろう。木を隠すなら森の中って。他の二枚はある意味目くらましだ。重要な蟇股は本殿の右手中央にある虎だ」
「いえ、ですから本殿だからって」
「俺も臆測で話している訳じゃない。ちゃんと目に見える証拠がある」
「証拠?」
「ちょっとタブレットを返してくれ。それを示してやる。Xも日沉宮本殿右側面の画像に着目してくれ」
真は世理奈から受け取ったタブレットで日沉宮側面の全体写真を指で示した。
「竹と虎の蟇股はこの側面の五枚の蟇股の中心にある。そしてその蟇股から真っ直ぐ屋根の方へ視線を移すとそこに何が現れる?」
「…………あ、ああ」
世理奈と姫香は真の指先が行き着いた妻飾りの赤い太陽に息を呑んだ。
正しく測ったように虎の真上に存在している。
「これが家康が天照大神だという絶対的な証だ。あの妻飾りの太陽・月・星は三貴神にも当てはまるが、太陽を家康に見立てる彫刻でもあったんだ。だったら家光は星か月の下に無いとおかしいという反論もあるだろうが、家光の龍は既に須佐之男命として神の宮の正面にある。従ってこれは家康のための位置なんだ」
そしてその補足としてと真は証拠立てをした。
「覚えているだろうが日沉宮には三猿の蟇股がある。日御碕神社は日光東照宮の後に建てられた。日光東照宮の三猿は五重塔と本社の直線上の
「でも日光の三猿とは猿が並んでいる順番が違いますよね」
「そうだな。しかし、日御碕神社の三猿と同じ並びの蟇股を俺は知っている。それは茨城県の筑波山神社拝殿の側にある日枝神社に飾られている。そこは日光東照宮の少し前の年に家光によって造営された」
「日光の前に? 三猿って日光が初めてじゃないんですか」
世理奈の疑問に対して真は日沉宮の三猿の蟇股を示した。
「いや、三猿の思想は元々『論語』に記されているんだ。礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ。他に中国の『不見不聞不言』の教義が天台宗の留学僧から日本へ伝えられたともいわれている。ここの日沉宮の三猿の蟇股をもう一度よく見てくれ。中心が見ざる、左が聞かざる、右が言わざるだ。神社は神から見て中心、左、右という優位の並びがある。ほら、不見不聞不言の言葉通りに並んでいるだろ」
「あ……」
「また筑波山は江戸から鬼門の位置にあったため家康は江戸城鎮護の霊山と定め、後に徳川将軍家の祈願所になった。その筑波山の日枝神社、そして日光東照宮、それから日御碕神社の三猿は家康を象徴するものといっていい」
それともう一つと真は言った。
「日沉宮拝殿正面右手の神馬と大和松の並びがある。この二枚は特別だ」
「特別ってどういう事ですか」
「正面残り四枚は菊、葡萄、粟、紅葉と鹿。これらは全て秋を表している。特に鹿と紅葉の葉は夏から秋に移り変わっているんだろう、青葉と紅葉が混ざり合っている。神の宮拝殿の羊と紅葉の蟇股の紅葉が全て青葉なのとは対照的だ。だから秋でない神馬と大和松の二枚は何かしらの意味を持つ。それが家康と家光に関わる逸話だ」
「家光の?」
「家光は度々病にかかり、その都度回復したんだが、その時に霊夢を見ている。東照宮、これは日光でなく江戸城の二の丸東照宮の事だが、その社から松の葉を口につけた馬が飛んできて、その松の葉には亡き家康からの御神酒が浸してあり、その露を受け取った家光は病気が癒えたとある。これは春日局が寛永十七年、一六四〇年に奉納した東照大権現祝詞の一節なんだ」
「あ、馬と松の蟇股ですね」
「うん、この逸話の蟇股もまた天照大神の日沉宮が家康の社だと印象付けるものだろうな」
「これがみさきさんの謎なんですか。家康が天照大神で家光が須佐之男命」
心底驚いた表情で世理奈は真の新説に瞠目した。
「天皇の和文体の勅命である
「はー」
「そして赤い太陽が沈む先は、海の彼方の神々の住まう常世だ。丁度家康の虎の反対側には不老不死の霊薬とも称えられた橘の蟇股がある。橘は別名『
「ははー」
「そしてここからがメインの謎となってくるんだ。それは日御碕神社の社の配置にある。もう一度この配置図を見てほしい。日沉宮は元々の社があった経島の方向を向いている。だからこれは一見奇妙でもなんでもないように映る。そして神の宮は姫香が疑問を持ったように東北東から西南西に向けて建っている。実はその二社の建てられた向きに秘密があるんだ。それを解明出来たのには姫香と眺めていた日没の太陽にあった」
「あ、真、あれがヒントになったって話してたね」
「そう、太陽の道だ。太陽が通るラインで有名なのが夏至と冬至だ。日御碕神社においての太陽の進行方向は夏至の場合、神の宮の背後から昇り、そして日沉宮の方へ向かい沈んでいく。冬至の場合、楼門の方角から昇った太陽は神の宮と逆の方へ沈む。もちろん、夏至は一年で最も太陽が出ている時間が長い日、冬至はその逆だというのは言うまでもない。日御碕神社はその夏至と冬至の太陽の向きを元に建てられた。この神社の成り立ちを思い返してくれ。太陽の神・伊勢神宮が昼ならば日御碕神社は夜の社だ。それは夏至・冬至の昼と夜の長さを表している」
「あ」
「そしてそれは世理奈の言った蟇股の陰陽にも繋がる。それは昼と夜、伊勢は陽、日御碕は陰。それと姫香が気付いた十二支にも関わる」
「え……十二支って」
姫香が小野家を憂えて顔を曇らせたが真は笑って否んだ。
「心配するな。呪いとかの件じゃない。今度は陰陽五行の話なんだ」
「五行ですか」
唐突な説に世理奈が目をぱちくりさせた。
真はノートに書いた五つの漢字を見せた。
「万物は木・火・土・金・水の五つの元素から成り立っているとする。それはまた十二支にも関連付いた。欠落した蟇股に十二支の猪と牛と犬を配置した場合を想定してみたら面白い事が判明した。門客人社の鼠は五行でいう所の水で季節は冬だ。他の十二支の蟇股を観察したら大凡が五行の塊、もしくはラインで固まっていた」
続いて真は色分けの枠と文字を書き込んだ図に画面をスライドさせた。
「Xも次の画像を見てくれ。陰陽五行には五行同士に
真は配置図をまた示した。
「神の宮の卯は木。これは季節は春。そして神の宮拝殿から日沉宮の拝殿と幣殿に繋がるラインの未、午、そして巳。これは火を表し季節は夏だ。本殿の三猿は申で金を表し季節は秋。これを基に考えると一つの季節に三つの蟇股となる。そうすると欠損した蟇股が埋まるんだ。門客人社の裏の二枚には冬を表す亥と丑、そして日沉宮幣殿の欠落には秋を表す戌が入る。となると姫香が言っていた鶏でない酉が近くにある鶯と梅になるんだろう。同じ考えで木の塊では神の宮拝殿右の虎が寅に当たり、正面の龍が辰になると思う。楼門の所に冬の蟇股が固まっているのは冬至の日の出を指すんだろう」
「ふうん。本当にそういう配置になってますね」
「江戸後期の『出雲神社巡拝記』には伊勢で日の出を拝み、出雲で日の入りを拝むと安泰だと記されている。昼と夜、夏至と冬至。それが日御碕神社の秘密なんだよ。そしてもう一つの隠された謎がある」
真はXに「次の画像へ」と伝えてタブレットの新しい絵を滑らせた。
そこには縮図となった日本地図が載っていて、真はそのまま指で拡大して日御碕神社の場所を示した。
「この日本地図には横に一本の線が引いてある。日御碕神社から伊勢神宮内宮を結んだものだ。それは日が昇る神社から日が沈む神社へのライン。逆からだが日御碕神社から伊勢神宮に向けてそのラインを辿っていくと…………」
真は続け様、その画像を指でスライドで移動していき、ある地点でその動きを止めた。
そこには田畑と住宅地に囲まれた一基の前方後円墳が現れ、引いた線はその上を通過していた。
「ここは奈良の宝来山古墳。
「あれ、倭姫ってどこかで聞いたような」
「姫香には以前話したぞ。伊勢神宮が今の場所に定まるまで……」
「あ、各地を代わりに旅した人だ」
「単刀直入に言うとそうだな。倭姫は初代
「真、まさかこの線って」
「ああ、レイラインだ」
「レイラインってオカルトの? 先輩ってそういう如何わしいもの信じてなかったんじゃありませんでしたか」
世理奈が思わず眉根を寄せた。
軽笑した真は理由を明らかにした。
「パワースポットとかを無理矢理結び付けるようなものは今でも眉唾だとは思っているが、暦の上の線には意外と該当している部分があると思う。さっき話した冬至夏至も世界各地で古くから知られていた。天文遺跡が世界中に残っているのがその証だ。暦は農業において種まきや収穫時期を知るのに重要だった。太陽や月の動きで人間は暦を決めた。だからそれは日本においても同じだった」
概ねスピリチュアル否定派であっても、昔はそれがまかり通っていた時代であり、文化や歴史の一部分を担っているため全てを探求の対象外と追い遣る事は出来ない。
真は言った。
「言い伝えによると、日御碕神社の神の宮は紀元前五百三十六年に現在地へ遷座した。次いで伊勢神宮内宮は紀元前四年に鎮座した。そして日沉宮は九百四十八年に村上天皇の命で遷座している。その村上天皇の側には陰陽師もいただろう。陰陽師は天体観測や暦を作る他、
「村上天皇の時なら陰陽師は安倍晴明ですか」
「詳しいな、世理奈。しかし、晴明が村上天皇から日本刀の修理を依頼されたのは後の九百六十年だ。一〇〇〇年と一〇〇二年には出雲の国から晴明に給料が支払われている記録があるから何かの繋がりはあっただろうが日御碕神社には関わっていない。とはいえ飛鳥時代から存在する陰陽師は江戸時代にも活躍している。安倍晴明の流れである
「それって天海大僧正ですよね」
曖昧に濁していた人物に世理奈がズバリと切り込んだ。
真は不可解な顔で笑った。
「晴明といい、よく知ってるな」
「天海の場合、歴史番組で何度もやってますから。江戸だけじゃなく日光東照宮もそうですよね。今更って感じです」
「そうか。とにかく寺社をどこに建てるか。もちろん、神託や地理的な問題もあっただろうから一概には認められないが、陰陽師による太陽や星の向きや季節を参考にしたというのはあり得ない話じゃない」
「季節?」
「例えば『ご来光の道』と呼ばれる北緯三十五度二十二分のレイラインには春分と秋分の日の太陽の進行上に建っている社が多くある。緯度にズレがあるものの千葉の
「竹生島って例の秀吉の門が移転された所?」
今度は姫香が真を不思議そうに眺めた。
「うん。家光は後に竹生島へ三重塔を模した六十数センチの金蒔絵小塔をおさめている」
「家光が、どうして」
「理由は様々あるだろう。さっきも話したが、家光の母は江姫、大坂の陣で亡くなった淀の方の妹だ。竹生島は浅井家の氏神だった。江は竹生島へ度々寄進を行っている。後に葵紋のついた
「とばり?」
「社殿の前に掛ける幕だよ。家光は母親に倣い、竹生島へ小塔を寄進したのかもしれないが果たしてそれだけが理由だっただろうか。家光にとって秀頼は従兄弟に当たる。家光が十一歳の時に秀頼は自害した。面識はないもののどんな心境だっただろう。そしてその妻であった姉の千姫は大坂城から助けられ本多
「そんなに」
「天樹院になろうとも元々は秀頼の妻。不幸が連鎖した千姫は本多家で秀頼の祟りを鎮めようと祈祷を依頼していたし、自ら天満宮を建立して祈りも捧げていた過去がある。弟である家光もその秀頼の霊を慰めるために小塔を竹生島へ寄進したかもしれない。彼岸である春分・秋分の日に竹生島から日の沈む方角の社は日御碕神社だ」
真は地元民である世理奈に視線を投げた。
「まさかそれで家光はみさきさんの造営を決めたんですか」
「そうとも考えられるというだけだがな。ちなみに家光は江戸城内の二の丸東照宮の霊廟を建てる際でも東面して建てるべしと神意を伺うためにクジを引かせている。ところで家光は豊臣家が滅びた後、寛永年間に豊国神社の再興を認可しようとしたらしい」
「ええっ、そこって家康の命で壊されたんですよね。何で三代目の家光が」
驚愕した世理奈が咎めるように問い返した。
「京都奉行所の与力であった
「それにしても……」
信じられない行為ですね、という世理奈の口を止めて真は言った。
「人の心理なんてそれぞれさ。それに当時の時代背景もある。例えば日御碕神社の日沉宮遷宮の勅命を出した村上天皇はその最たる人物と言っていい」
「村上天皇がですか」
「彼の父は先の醍醐天皇だ。清涼殿の落雷の三月後に崩御し、後は息子の朱雀天皇が世を治めた。ところが、彼は病弱な上、平将門と藤原純友が九百三十五年とその翌年に乱を起こした。そして九百三十七年には富士山が噴火。それに何度も立て続きに起きた地震や洪水。朱雀天皇はやがて弟に玉座を譲り渡した。それが村上天皇だ。即位は九百四十六年。兄の統治下の災難を見ていた村上天皇は神仏にすがりたい気持ちだったろう。即位翌年北野天満宮が創建され、同年、伊勢神宮の斎宮であった
「正に神頼みですね」
「何故出雲の日御碕神社が遷宮に選ばれたかは判らない。ただ、紀元前五百三十六年に安寧天皇が神の宮を遷座させている。大和において出雲は北西、つまり乾の方角にあり、伊勢神宮とは対極の日が沈む国だった。徽子女王は伊勢神宮の斎宮であったから天津神との繋がりを持っていたのだろう。伊勢神宮は日の昇る『陽』で日御碕神社は日の沈む『陰』。村上天皇はその陰の地に天照大神の宮を新たに建て、陰陽の力を融合させる事で世の乱れを治めようとしたのかもしれない。神宮寺などの伽藍を日御碕神社に建てたのもその時だと伝わっている」
「そんな理由が」
「さて、話を家光に戻そう。京都養源院は淀の方が父、浅井長政と祖父久政を祀るために創建されたが、大坂の陣の後は秀忠の妻である江が翌年、そこで自害した淀と秀頼の菩提を弔っている。一六三九年、豊臣と徳川両軍の大念仏法要を執り行った寛永寺護国院に対し家光はその功績を讃え、大黒天の画を寄贈している」
「はー」
「ところで先の宝厳寺は聖武天皇の夢枕に立った天照大神が、竹生島に弁財天を祀る寺院を建立するよう告げたのが始まりだとされている。出雲大社の本殿は秀頼が一六〇九年に造営した。家光はそこには関与せず一六三五年に日御碕神社の造営を命じた。それから一六四〇年には春日局が出雲大社へ家光の嫡子が産まれるよう要請している。しかしそこはまだ秀頼が建てた本殿のままだった」
「何が言いたいんですか、先輩は」
「さあな、そこは自分で考えてくれ。さて、この日御碕神社から伊勢神宮を何故結んだかと言えば今日調べた蟇股が関係してくる。家康の虎が天照大神で家光の龍が須佐之男命なのはもう理解してくれたと思う。このラインは実にそれを表している。東の伊勢神宮から昇る太陽は家康で、日が沈む日御碕神社では須佐之男命の家光がいる。つまりそれは昼夜家康と家光が日本を護っているという隠れた決意なんだ」
「それがみさきさんの秘密」
世理奈は驚いてタブレットの蟇股配置図をもう一度見直した。
ただの飾りだと思っていた彫刻にまさかこんな壮大な寓意が秘められていたとは考えてもいなかった。
「太陽のレイラインはそれだけじゃない。世理奈は知らないだろうけど俺達は日光東照宮から南宮大社に向いてのレイラインを以前調べている。それは最終的に京都の御所の近くを通る。今回分かったのはそれが夏至と冬至の日の出日の入りのラインだった事」
「え、そうなの」
姫香が驚いて向いた。
「ああ。京都から夏至の日の出の方角は日光東照宮。つまり禁裏は否が応でも家康の眠る東照宮からの日の出を眺める形になる。日光東照宮は字の如く東を照らす天照大神なんだ。逆に冬至の日の入りは禁裏へとなる。日照時間からすれば夏至にはとても敵わない。そして日光から昇った夏至の太陽は日御碕の沖へ沈む」
「はあ、日光とみさきさんってそんな風に繋がっていたんですか」
「こうして東日本は家康が、西日本は家光が護る形式ともなった。日御碕神社の蟇股にはそんな謎が隠されていた……X、俺の見解は以上だ。そっちの持論と合っているか聞かせてくれ」
真はタブレットの電源を落として締め括った。
即座にスマホから小さく拍手が流れてきた。
「素晴らしい! これこそが正しく我々が求めていた答えだよ。よくこんな短い時間で謎を解いてくれたね。予想以上の結果だよ。正しく歴史家・坂城真の本領発揮といったところか」
「相手が相手なだけに賞賛されても嬉しくない」
にべもなく真は冷徹に愚痴を吐いた。
「まあ素直に喜びたまえ。それともう一つの方の謎は解けたのかな」
「……それにはまだ時間が掛かる」
「何だ、君らしくない」
「日御碕神社の謎を解いて一杯一杯なんだよ。期日は明日の昼までなんだろう。それまで待っててくれ」
悔しさを滲ませた顔で真は通話を切った。
「もう一つの謎って何ですか、先輩」
何も知らない世理奈が無邪気に顔を輝かせた。
辟易した体で真は手を振った。
「依頼者の現在の居場所を見つけ出せっていうゲームだよ。ふざけているだろ」
「え、居場所を? 本当に変な依頼者ですね」
「全くだ。しかしこれに関しては日御碕神社は係わりないから」
「何か特定するヒントあるんですか」
「あるにはあるが、まあ、暫く一人で考えてみるよ。協力してもらう時は世理奈も呼ぶ。その時まで姫香とくつろいでいてくれ」
「はあ、そうですか」
「真、大丈夫なの」
世理奈を横目に姫香が不安げに寄ってきた。
何てことはないと真は立ち上がりノート一式を持つと寝室へ歩いていき、そこへ胡座をかいて姫香に言った。
「取り敢えずお前と世理奈は黙ってテレビでも観ていてくれ。そうだ、バラエティーみたいな騒がしいのが却って良いな。俺はこっちで一人でじっくり考えてみるよ」
姫香は頼まれた通りにテレビのスイッチを入れた。すると丁度画面にお笑い番組が放送されていて出演者のゲラゲラ笑う声がのべつまくなしに流れていた。
姫香は真にへ振り返った。
「真、音、邪魔じゃない?」
「いや、騒々しい方が集中出来るから。もっとボリューム上げてくれ」
「これくらい?」
姫香はリモコンで音量を調節した。
「ああ。それくらいで」
部屋の中は結構な音量が響いた。
「ああー、先輩、うち。あまり防音きかないですからもう少し落としますよ」
うるさそうに耳を塞いだ世理奈がリモコンを取り上げ、ボリュームボタンを押した。
「悪いな……あ、そうだ、ちょっと姫香こっちに来てくれ。いや、世理奈はまだいい。姫香だけで。少しお前に確認してほしいものがあるんだ」
「私に?」
姫香はその頼みに従って真の側にやって来ると静かに開いたノートを見せられた。
中には短い文章が書き連ねられている。姫香はその内容に目を通し、「えっ」と驚いた小さな声を出したが、それ以降はノートの内容をじっと眺めていた。
暫くして「了解か」と真が確かめた。
姫香は黙って三度頷いた。
「後、追加で」と真は姫香の耳元で何かを依頼した。
姫香は視線で了解を表し、Xへ電話して、世理奈に聞こえないよう咲耶の安否をささやき声で再確認した。
それとほぼ同時に真も少し離れてどこかに電話を掛けていた。
「あ、夜分にすいません。坂城ですけど、あれ、あいついませんか。ちょっとした用件があったんですけど…………まだ来客中ですか。じゃあ後でまた掛け直します」
それから真は電話を切るなり世理奈を呼んだ。
「すまん、世理奈、お前も来てくれるか。協力してほしいんだ」
「あ、はい。分かりました」
「ああ、スマホはそこに置いたままでな」
「はい」と世理奈は真の言葉に従い、怪訝な顔付きでやって来た。
が、唐突に耳元によって「黙って読め」と真にめくったノートを眼前に突き付けられた。
「…………あ」
世理奈はノートの書き込みを黙読した途端、小さく溜息を吐き、真と姫香を見てから肩を落とした。
そして三度小さく頭を下げ、うるさいテレビの近くにスマホを放置したまま二人を静かに廊下へ連れ出した。
ノートを手にした真は世理奈を先頭に忍び足で階段を上がった。そうして二階の廊下を歩き、やがて一番奥の左側の部屋の前で立ち止まった。
入口の上には「
世理奈は真に振り向いたが、真は開けろと顎で合図した。
指図されるまま世理奈は渋々鍵をカチャリと静かに開けた。
そのタイミングを見計らい、真は急に世理奈を押し退け室内へ素早く押し入った。
そこには浴衣を着た男女二人が机を前に背中を向けて座っていたのだが、真はその内の金髪男の頭頂部を後ろから筒状に丸めたノートで思い切り殴りつけた。
スパーンという乾いた音が部屋中に響き渡った。
「いってえー!」
金髪頭は悲鳴を上げて振り返った。
真はその顔を確認するとノートを握ったまま口元をヒクヒクと痙攣させて言った。
「今晩は、鶺鴒部隊のミスターX。居場所も突き止めたぞ。これで全ての任務完了だな」
部屋に入った姫香もその金髪の人物を見て驚いた。
幼馴染みの戸塚剣吾である。
「け、剣吾! どうしてあんたがここにいるのよ」
「よお、姫香。久し振りだな」
頭をさすった剣吾が反対の手を挙げ挨拶した。
「よお、じゃないわよ。あんたがXって何」
混乱する姫香だったが、奥のトイレから現れたもう一人の女性を見るや更に驚いた。
この旅館の浴衣をきちっと着た咲耶である。
「お、お母さん」
「あら、姫香。それに真君も。あらあら、世理奈ちゃんまで。何、剣吾君、もう見破られちゃったの? てっきり明日まで時間掛かると思ってたのに」
「え? え? これは一体どうなってるの」
姫香は皆を見渡してもっと混乱した。
幼馴染みの剣吾と、その隣に見知らぬ小さな女性が一人。そして母親が共通の部屋に集まっている。
真は机の上にある剣吾の変声器に繋がったスマホを掲げて姫香に明言した。
「全部首謀者の剣吾が仕組んだ狂言誘拐だったんだよ。八咫烏もその下の組織なんてのも全て嘘っぱち。俺達は最初から騙されていたんだ。世理奈も、いや、ゑびす屋の女将も全員ぐるだったのさ」
「当たり! 一日早いけどこういう事なのよー」
いつの間にか奥に移動していた咲耶が笑顔で「マイ誕生日ドッキリ大成功」とマジックで書いたスケッチブックを二人に振ってみせた。
「ど、ドッキリ?」
一瞬目を白黒させた姫香だったが、状況をやっと理解したためか咲耶の側に寄り掛かかるなり「お母さんの馬鹿! 私本当に心配したんだからね」とわんわん泣き出してしまった。
咲耶は想定外の事態に困り果て、
「ごめんね。私の誕生日だから真君の歴史推理ショーを生で観たくて。剣吾君に相談したら、折角だからサプライズでもしましょうと旅館の人に協力してもらって色々計画を立てたのよ」
「咲耶さん、正座!」
姫香を
「真君、これはその……」
「聞こえませんでしたか。もう一度言いましょうか」
「あ、いえ」
咲耶は真の静かな憤りに黙って屈従した。そして真は残りの三人もぐるりと睨んだ。
「剣吾と天花さんも正座。世理奈、連帯責任でお前もだ」
主犯格の二人はその迫力に唯々諾々と畳の上に座ったが、世理奈は私は単に協力しただけですと弁明しようとした。が、空恐ろしい雰囲気にのまれ諦めて正座した。
真は十分ほど四人にガミガミと説教した。冗談でもやって良い事と悪い事がある、そしてもしも自分達が警察に連絡していたら大騒動になっていただろうと。
「あの、先輩……」
世理奈が正座したまま小さく手を挙げた。
頭上から真は世理奈を「あ?」と見下げた。
「ごめんなさい。謝罪しますから勘弁して下さい。それに私はともかく戸塚夫妻が足が痺れて限界みたいです」
「姫香、どうする。許してやるか」
後ろで涙を拭っていた姫香も恨みがましい目で他の三人に目を据えた。
「皆さん、本当に反省してますか」
すると四人は揃って「ごめんなさい」と頭を下げた。
「それならもう正座崩してもいいです。でも、お母さん、お願いだからこんな馬鹿げた真似は二度としないで。ショックで心臓止まりそうだったんだから」
「はい、もうしません」
足を戻してシュンと落ち込む咲耶に真が言い足した。
「咲耶さん、本当に姫香はあなたを案じてたんですよ。もちろん俺もです。一度白バイ警官が声を掛けてきた時本当に通報しようかと迷いましたし」
「先輩、それなんですが」
と世理奈が遠慮がちに弁明した。
「一応私の叔父さんが県警のお偉いさんなのでサプライズを事前に報せてあるんです。ですから誘拐騒ぎにはなりません」
「そうなのか」
「はい、でも今回は確かにやりすぎました。大変申し訳なく思ってます」
「まあ、それなら俺もこれ以上咎めない。あ、そうだ、姫香、紹介が遅れたがこちらが剣吾の奥さんの天花さんだ」
真は剣吾の隣に座っている天花に手を向けた。
姫香は「あ、はじめまして」と頭を下げたが真は笑った。
「何言ってるんだ。初めましてじゃないだろ。お前、天花さんに会うの二回目だぞ」
「え、初めてだよ。だって私、剣吾の結婚式出席してないもん」
「そういう意味じゃない。昨日ここの一階で占ってもらっただろう」
「は?」
「ほら、黒いローブ着てた」
「え、え! シエル・フルール先生なんですか!」
やっと気付いた姫香は天花の前に驚いて坐った。
「ちゃんと挨拶するのは初めましてですね。戸塚天花です」
右手を差し出す天花に姫香は何とも言えない表情で握手を返した。
天花はじっと姫香を観た。
「改めてやっぱり綺麗な方ですね、姫香さん」
「そ、そうですか。えへへ」
「馬鹿、照れてる場合か」
真は呆れた目を細めて訳を明かした。
「あの占い、丸々仕込みだぞ」
「仕込みって」
「俺達の内情を剣吾から聞いてりゃ誰だって当てるだろ。俺は部屋を模様替えしないから遊びに来てた剣吾は細かく知ってるし。それにどうせ黒いフードで隠れてた耳には通信機があって、それでここから剣吾が逐一指示していたんだろうよ」
「あはは、ばれてましたか」
悪びれもなく天花は陽気に笑って小さい舌を出した。
真も姫香の隣に腰を下ろして天花に言明した。
「そもそもの綻びは天花さんだったんですよ。あまりにも言い当て過ぎたのはもちろんですが言葉で馬脚を現しましたね。島根県人を装っても天花さんが最後に口にした『ぐぶりーさびたん』というのは「どういたしまして」という沖縄方言です。俺はその時に天花さんの正体に気付くべきでした。別名もそのまんまでしたしね」
「そのまんま?」と姫香が首を傾けた。
「シエルもフルールもフランス語だ。シエルは天、フルールは花」
「あー! ホントだ」
「しかし、剣吾たちも詰めが甘かった。女将が『出雲でよく当たると評判の占い師』と勧めていたにもかかわらず、ネットには一切その名前を見つけることが出来なかった。もし評判ならいくつか情報が載っているはずだ。これで女将がXの仲間だと確信を持った。そして娘である世理奈もな」
「あれ、発覚したのそこからですか」
世理奈が額を叩いて悔しがった。
ここで剣吾が片笑んだ。
「でも真の事だ。それだけで俺達の正体を看破した訳じゃないだろ」
「そりゃあな。Xが剣吾だと怪しんだのは様々な疑念を統合した末の結論だ。重なった偶然も時には真実を表す」
「どういう事だ」
「先ず昨晩、俺が部屋を出てXに電話をしていた時、騒がしく走り回る子供達が二階へと駆け上がっていった。それから即座に電話が切れた。そして今日ヘリのローター音で俺の会話が途切れた時にお前は電話を切った。これはスマホ越しにお前が近くにいると悟られないためだ。違うか」
「そうだ。でもマイクモードを使えば関係ないだろ」
真は剣吾のスマホを指さした。
「はは、お前が新しく買った仕事用のスマホなら声の分離は通常通話でも可能だけど、今お前がプライベート用に使っている機種はその機能はついてないんだよ。もちろん咲耶さんのスマホにもだ。だからお前は念のために電話を切ったんだ。が、ヘリの音には神経質になりすぎたな」
「何」
「お前は結婚式の後で俺を新居兼事務所に招いた。しかし場所柄なのか窓の外からは飛行機やヘリの音がかなり鳴っていた。だからお前が本当に沖縄にいるなら今回のヘリの音も気にしなかったはずだ」
「う」
「だが、それでもアリバイは崩れただろうさ」
真は人差し指を立てた。
「俺はお前の家から帰り際、隣の住人からチラシを渡されていた。それは騒音公害に関してで、毎日その計測結果を事細かな時間と共にネットに載せていますという内容だった。俺は何となく覚えていたからそこへアクセスしてみた。そうしたら今日はヘリは飛んでいたがあの時間とは合致しなかった。お前が電話を切らなくても最終的に露顕していただろうよ」
「それだけか」
「じゃないぞ。お前も天花さんと似たミスをいくつか犯した。一つは俺が島根の詳細な旅行スケジュールを教えていないのに、お前は『八咫烏結社がスサノオとアマテラスに関わるのか。それとも赤い社殿に何か』と聞いてきた。この辺りで赤い社殿で須佐之男命と天照大神が共に祀られているのは日御碕神社しかない。なのに何故お前が俺達の居場所を知っていたか」
「ああ、不覚だった。無意識にやっちまったか」
「もっとあるぞ。お前は前から俺の恩師をモリと間違えていて今回もプロフェッサー・モリと発音した。敢えて今まで指摘しなかったが教授の名字は
「ほう」
「問題はどうやってXが俺達の動向を監視しているかだった。俺は蟇股を観察しながら考えていた。旅館の中はカメラを仕掛けられるが問題は移動している外だ。俺も姫香もスマホに盗聴アプリは入っていない。そして何よりライブ映像だ。見渡してみても監視をするドローンは飛んでいない。無音のドローンも存在するが軍事用で一台二千万円以上する。いくら秘密組織とて高々俺の研究にそんな物を使うと思うか。パラボラスコープという百メートル近い音を拾えるハンディマシンもあるが、当然それは人間が対象物に向かって使用する。しかし日御碕神社は比較的開けた場所だしこそこそと隠れる場所も少ない。よってその可能性もない。そうなれば消去法で考えは一つ。それが内通者を潜り込ませる策だった」
真は世理奈に視線を向けた。
「剣吾は俺と世理奈が同じ大学であるのをどこかから知った。世理奈は有名人だったからな。ここが実家であるもの知られていただろう。それで剣吾は多分駄目元でこの旅館に尋ねて世理奈に協力を申し出た。世理奈は俺が大学時代剣吾の話をしたから覚えていたんだろう。悪戯好きな世理奈はその申し出に乗り剣吾達のスパイとなった」
「ですね。母から戸塚夫妻の提案の連絡を受けた時はびっくりしました」
「だろうな。しかしスパイになったのはいいが連絡手段を考えねばならなかった。それがライン電話なのは後で気付いたよ。世理奈は肩掛けしたスマホをアウトカメラの方ばかり向けていた。そして画面を見せないよう俺達の死角からカメラを構えていた。それに動画撮影にしては止めるステップもなかったからずっと撮影が継続されていた事になる。俺にマイクをつけさせたのは剣吾達へ鮮明な音声を届けるため。それで世理奈がX達のカメラマンであり一味なのが分かった。たまに彫刻でなく姫香にカメラを向けていたのは一緒に画面を覗いていた咲耶さんからの依頼もあったはず」
「あれ、それも気付かれてましたか」と世理奈はあっけらかんと白状した。
姫香は状況を思い出して納得した。
「そっか、それで重栖さん、不自然に背後にばかりいたのね」
「それだけじゃない。剣吾はまだ世理奈と会う前から俺達の車内の会話も、出雲大社の様子も全て聞いていた。だからその情報元が咲耶さんだと確信するのは困難じゃなかった」
「お母さんが?」
「咲耶さんも自分のスマホを通信手段にして会話を剣吾へ流していたんだ。そして剣吾達夫婦の正体を悟られないよう『変な男達に捕まった』とミスリードしたんだ」
「お母さん!」
「はいはい、もう怒らないでよ、姫香ちゃん」
「俺が日御碕神社に行くのを予め教えておいたのは咲耶さん一人だ。姫香に内緒でスケジュールを立てたいからと言われてな。咲耶さんはそれを剣吾達にリークしていたんだろう。だから剣吾はこの計画を立てた。それと不測の事態に備えてスマホも咲耶さん、剣吾、天花さん、世理奈の四台があればお互いの通信が可能になる。あ、姫香、ついでに言っておくけど、お前が連絡取ってた斎と、多分、橘さんも剣吾達の一味だから後で問い詰めてみるといい」
「ええっ! 何で知ってるの」
「突然十二支の話とか七福神の神使とかお前が言い出した時に直ぐ勘付いたよ。あんなの斎達くらいしか思い付かない。お前もデータを送りつつ席を外して色々助言をもらいに行ったんだろ。それと剣吾が知るはずもない南宮大社の謎を熟知していたからな。斎が暴露したとしか考えられなかった」
「まあ、今回関わった人間には全員口止めされたけど」
剣吾は思い出し笑いをして肯いた。
対して姫香は「もう誰も信じられない」と愚痴を吐いた。
「そして極め付きがさっき俺と姫香が同時にお前に電話を掛けて、お前が俺の電話に出ず天花さんが代わりに出た事だった。来客なんて天花さんに嘘をつかせたまではは良いが、オンオフの切り替えにうるさいお前が夜に仕事なんかするもんか。これでお前がXだと確信したんだ。そして天花さんが俺を占ったとき、執拗に『太陽』という言葉を刷り込ませようとした。袖に隠していた太陽のカードをイカサマで出してな。あれはもしも俺が謎に迷った時のヒントを予め提示するためだろう」
「くそっ、一々正解だよ。それでお前が俺の正体を見抜いたのは理解したが、この部屋にはどうやって辿り着いたんだ」
「ふふ、Xがお前だと仮定したら容易かった。あの『難波くりふ』というコードを解く鍵はアナグラムだ。だからこの部屋だと思い至ったのさ。そして謎に悩んでいる振りをして姫香と世理奈にこのノートを見せつけた。お前なら俺の泊まっている部屋にまでは監視カメラをつけていないと踏んだ上でな」
真は見開きの二ページに大きく書かれた文章を剣吾に示した。
最初のページは姫香宛てで【姫香、静かに読め。Xの居場所はもう特定した。ここの二階の一室だ。これから俺とお前は世理奈を連れて忍び足でそこへ行く。分かったら黙って三回頷け】と記してあり、次の世理奈へのメッセージには【声を出さずにこれを読め。お前がXの一味なのは既に気付いている。だから盗聴器代わりとなっているスマホを机に置いたまま静かに俺達と一緒に廊下へ出ろ。そして二階の鶺鴒の間へ行き、こっそりと鍵を開けろ。お前はマスターキーを持っているはずだ。了解したら三度頷け】とあった。
「ちぇっ、真には朝飯前だったか」
「ちなみに姫香には海岸のテラスで世理奈がXの仲間だと知らせたぞ」
「あのー、二人だけで納得せずに話して話して」
咲耶が目を輝かせて詳しく知りたがっていた。
見れば世理奈も姫香も興味津々の顔付きを向けている。
「何だ、剣吾。姫香はともかく皆にはこの部屋の名前を説明してないのか」
「それを含めての推理ショーだからな。展開を話してやったらどうだ」
「仕方ない」と真は剣吾に指示して大和絵の暗号を画面に示させた。
「昔、俺と剣吾はよく文字を入れ替える暗号、即ちアナグラムで遊んでいた。俺はそれを覚えていたからこれもアナグラムだと推理して、ネットの『アナグラム生成アプリ』にこのナニハクリフの六文字を入れて検索したんだ」
「あれ、それナンバとも読めますよね」と世理奈が指摘したが真は即座に否定した。
「この大和絵は清少納言だ。『枕草子』に出てくる難波の読みはナニハ」
「あ」
「それに剣吾は
「真、形はこうでもはないだろ」
剣吾は半笑いしたが、不意にある場面を思い返し突然姫香に向いた。
「姫香、お前、咲耶さんの車の中で俺のこと滅茶苦茶けなしてただろ。幼馴染みなのにヒデーな」
「うるさい、盗聴犯と誘拐犯。それに真はあんたの事、嘘はつかないし誰かを騙す事をしないって褒めてたのよ。なのにその信用を踏みにじるような真似して……」
逆に責められた剣吾はたじろいで真に救助の視線を向けたが真はそっぽを向いた。
「姫香の言う通りだな。よし、今日で友達やめるか」
「真ー、そりゃねえぜ」
「冗談だよ。さて、アナグラムの六文字は並べ替えると六×五×四×三×二で七百二十通り。その中から見慣れた古語が一つ目に留まった。それが『にはくなふり』だ。これは日本書紀の神代上にも出てくる」
「にはくなふり?」
聞き慣れない言葉に咲耶が首を捻った。
真は約言した。
「大抵は知らないですよね。ですからここからもう一つ。大和絵には強風に舞う雪の写真が重っています。これは吹雪く様子です。古語では『ふふく』とも言います。つまり逆に考えて読みやすいよう暗号に濁点を入れろという剣吾の暗示なんです。それが『にはくなぶり』という言葉になるんです」
「あ、にはくなぶりですか! 納得です」
ここで世理奈が思い合わせて手を叩いた。
「さすが世理奈は悟ったようだな」
「そりゃもう。何たってここの若女将でもありますから」
「……真」
拗ねて姫香が真の袖を引っ張った。
真は微苦笑した。
「ああ、ちゃんと説明するから。にはくなぶりというのは『にわくなぶり』。鶺鴒の古い名前なんだよ」
「鶺鴒の」
「剣吾は自分の部隊名は神使と話していた。それでピンときたんだ。鶺鴒は出雲大社の海蛇以外の神使……とも言われているからな。一部で」
「なんで自信なさげなの」
「それが探しても出典が見当たらないんだ。根拠がない説にはさすが公言を憚るな。小泉八雲が
「そうですね。うちの旅館も見慣れた野鳥という理由で部屋に名前をつけていますが、大社さんの神使が鶺鴒というのは聞きませんね。兵庫のおのころ島神社には鶺鴒石がありますけど」
「そういえばここの旅館に来たとき結婚式で鶺鴒の置物見たね」
「鶺鴒台だな」
ここで剣吾が突如姫香に向いてにやりと笑った。
「なあ、姫香。ところで何故鶺鴒が結婚式で使われるか、その理由知ってるか」
「え、おめでたい鳥だからじゃないの」
「どうおめでたいかは? 真が日本書紀に出てたって言ったろ」
「知らないわよ。何よ、もったいぶって」
「じゃあ、簡単に教えてやる。イザナギとイザナミの神産みの話は聞いただろ」
「そりゃあまあその程度は」
「でもその二神は最初やり方が分からなかった。その時に鶺鴒が飛んできて目の前で尾っぽを上下に振ったんだ。それを見た二神は理解して次々と国や神を産んだんだ」
「え、何、剣吾。全然意味不明なんだけど」
ポカンとする姫香の周りでは咲耶と世理奈が笑いを堪えているし、天花も困った顔で姫香をチラチラと眺めている。
そして真とは視線が合ったら気まずそうに逸らされた。
剣吾は一層おかしそうに話した。
「姫香、お前、本当にウブだな。夫婦が子供を作る時にはどんな体勢で何をするんだ」
「は?」
それでも理解しない姫香に天花が近寄ってその耳元で「実はね、姫香さん」と委細を教えた。それから間も無く姫香の顔が真っ赤に染まった。
「馬鹿剣吾! 変態! セクハラ!」
「おいおい、えらい言われようだな。俺は親切心で教えたんだぞ」
「それがセクハラだっていうのよ!」
「ケーン、姫香さんが困ってるでしょ。からかうのはそこまで。ごめんなさいね、ケーンも悪気があって言った訳じゃないの。誤解しないであげてね」
弁解して天花はもう一度姫香に耳打ちした。
「実はこのドッキリの一番の目的は姫香さんと坂城さんをくっつける事なの。ケーンの発案でね。みんな協力してくれたのよ」
「剣吾が」
「それと長年誤解させたからってケーンなりの罪滅ぼしでもあったの。ここは縁結びの地、出雲でしょ。だからちょっとやり過ぎたけど二人が謎を解いて事件を解決していく過程で結び付きが強くなるんじゃないかって。それと世理奈さんもバックアップしてくれたのよ」
すると天花は男連中から離れるように姫香と部屋の隅へ移動し、世理奈を呼んだ。
「世理奈さん、二日間悪役に徹してくれてありがとう。さすが未来の女優さん。名演技でした」
「演技って」
戸惑う視線を向けると世理奈が申し訳なさそうに姫香へ頭を下げた。
「ごめんなさい、八神さん。私、来年からキー局でドラマデビューが決まっているの。主人公の恋愛相手を横取りする悪い友達役。だからどれだけ自分の演技が通用するか一度生で試したかった。で、今回の話に乗ったって訳」
「え、え。じゃあ真を好きっていうのも」
「大々的に売り出してくれる事務所的に恋愛はNG。それと私、島根の観光大使でもあるしね。浮いた話はマイナスなの」
「また騙された……でも、重栖さん、あなた、きっと名女優になれると思う。頑張って」
「だんだん(ありがとう)」
何だ、滅茶苦茶良い人じゃないのと姫香は世理奈の評価を一変させ右手を差し出した。
世理奈は笑顔で握手に応じた。
「お幸せにと二人を祝福するわ。ただ……」
今度は世理奈が姫香を引き寄せ耳打ちした。
「真先輩をずっと好きだったのは嘘じゃないのよ。もしあなたが先輩をこの先不幸にするなら私が周到にかっさらっていくから覚悟しててね」
姫香から離れて再度微笑む世理奈に姫香は呆れ笑いをした。
「あなた、やっぱり嫌な人ね」
そうして女子三人は真達の所に戻ったのだが、二人は何故か
ヒートアップする議論に天花が一驚して間に入った。
「どうしたの、ケーン」
「いや、真がな、今日の謎解きを無闇に否定してくるから」
「否定ってどういう事、真」
姫香も心配して真の腕を取った。
「どういう事も何もそのままだ。あんなのは謎解きでも何でもない。俺は剣吾がXだって悟ったから剣吾が好きそうな説に蟇股を混ぜてそれらしく上書きしただけだ」
「上書き?」
「五行の配置もレイラインも全部俺が咄嗟に思い付いたデタラメなんだよ」
「えー」
「剣吾のことだ、どうせ楼門を除く社に必ず飾られた鴨の蟇股も賀茂氏と関連付けようとしたはずだ。徳川家は元々賀茂の一族だという説もあるからな。それに八咫烏は賀茂氏の一部が取り仕切っているという。なら、お前はそこから今回の結社のヒントを得たんだろう」
「ご名答だ」
「しかし、剣吾、お前は奇妙だと感じなかったのか。楼門の五行が冬至の日の入りを表すなら、神の宮夏至の日の入りは春でなく夏じゃないと
「待て待て真。それはともかく、あのレイライン上の垂仁天皇陵は俺も気付いてなかった。見事な解明だ。垂仁天皇といえば埴輪とか相撲とか出雲にも関わりがあるし。そうなると伊勢と出雲が更に繋がるだろ。出雲大社の第一回目の造営も垂仁天皇だと言われているし、日御碕神社はその祖神だ」
「あのな、そのスタートラインがそもそも間違っているんだ。天皇の陵墓は宮内庁が
「そりゃそうかもしれないけどさ」
「そもそも直線上にあればなんでも価値がつくなら今回の伊勢日御碕ラインには阪神競馬場もあるんだぞ。お前はあそこに天照大神と須佐之男命をむりやりこじつけるのか」
「いや、あそこは昔はただの田畑だったろうが」
「お前の理屈ではそうなるんだよ。いいか、日御碕神社は縁起物の蟇股の位置こそ工夫はあったが、ただそれだけだ」
「真よ、正論でガチガチなのはどうかと思うぞ。もっと謎として楽しもうぜ。俺の持説は日御碕神社の冬至の日の出の方角が和歌山の熊野に向いてる。ほら、
「あのな、剣吾、梁塵秘抄は単なる歌謡で地理的な謎なんて無い。それに俺は学者だ。史学は科学と同じで正しい立証が必要なんだ。世間受けする逆説・仮説は愉快だろうがロマンと正史を同一にするな。一級資料を探して時間を掛けて解明していく。それが俺の仕事だ。大体さっきも言ったが今回は社内の全ての蟇股が見られた訳じゃないんだ。謎があったとてパーツが揃っていなければ全く意味を成さない」
「ちぇっ、お前に何を聞かれても答えられるように徹底的に調べて理論武装して待ち構えていたんだがな。海底遺跡とかも調査したんだぞ。でも結局言い負かされた」
「秘密結社の八咫烏を持ち出してきたのは逆効果だったな。あんな組織なんて所詮はありもしない都市伝説に過ぎないのさ。まあ、あれでお前の正体に近付けたのも事実だ。しかしお前も咲耶さんの頼みとはいえよくこんな酔狂に付き合ったもんだ」
「別に誕生日ドッキリってだけで協力したんじゃないからな。姫香を思う親心に感動したというべきか」
「……親心?」
「咲耶さんはお前に息子になってほしいんだってよ」
「は?」
「相変わらずそういうの鈍い奴だな。ほら、俺の力作」
と剣吾は自分の鞄から二つ折りにされた一枚のA3用紙を取り出して真へ手渡した。
開けてみると真は一瞬で固まった。
何と左上に婚姻届の文字が見え、右の下にはカラス文字で書かれた熊野牛王神符が書き込まれていた。
約束を破ったら死ぬという誓約書を関係付けた手作りの婚姻届である。
そして妻になる人の欄には既に姫香の名前と住所と本籍が記されてあった。
字の癖から咲耶の文字なのは一目瞭然であった。
「……おい、剣吾。こりゃ一体何の真似だ」
「良い出来だろ。その牛王神符は苦労したんだぜ。その印は一説によると天照大神と須佐之男命の
すると周りが口裏を合わせていたのか「プロポーズ! プロポーズ!」と手を叩いて連呼し始めた。
姫香は予想外の展開に驚いたが真っ赤になって真をチラチラと見ていた。
そんな周りが盛り上がる中、手書きの熊野牛王符の婚姻届を真はビリビリに破った。
「結婚は神聖なものだ。こういうノリで決めるもんじゃない」
すげない眼差しで真は周りを冷視した。
まさか破り捨てるとは想像しておらず周りがシインと静まり返る中、姫香は振られたと失意に張り裂けそうになる胸を押さえた。
「姫香」
真は静かに姫香の前に寄った。
「……うん」
俯いて姫香は応えた。
「昨日の昼、蕎麦屋で俺に電話があっただろ。あれ、実は名古屋の大学からなんだ」
「大学?」
姫香の顔が上がった。
真は少し笑んで言明した。
「来年から准教授として教鞭を執ってほしいと連絡があった。特別に講師を飛ばしての大抜擢だ。孟李教授が強く推薦してくれたらしい」
「それ本当! わあ、おめでとう」
姫香は自分事のように狂喜して思わず真に抱き付いた。
真はその体を力尽くで離した。
「あ、ごめん。真、つい嬉しくて……」
姫香はまた首を垂れた。
真はその目の先にポケットから何かを取り出してそれを仰々しく差し向けた。
「これやる。熊野大社で姫香用に買っておいたんだ」
姫香は顔を戻してそれを受け取った。
手に取ると漆が塗られた黒い丸櫛である。側面には赤い雲も描かれていた。
「……私に? 斎にじゃなくて」
「姫香にだ!」
いつになく強調して真は会話を繋げた。
「いつか決心がついた時にと思ってあの神社で買っておいたんだ。まさか今日渡すとは思ってなかったけど。その……それはお守りの一種だし、髪をとかすのにも使える」
「あ、ありがとう。でもこんな古風な櫛、私に似合うかな」
いつか決心がついた時という所が気になったものの自分のために買ってくれたと聞いた姫香は照れ臭く笑った。
もしかしたら最後のプレゼントになるかもしれないがそれでも嬉しかった。
「はあー、八神さん、あなたもっと真剣に歴史を学びなおした方がいいわ。人生損するわよ」
二人のやり取りを後ろで見ていた世理奈が激しく深い溜息を吐いた。
「もう勉強は勘弁してよ。今日散々学んだから」
姫香は悲しみを帯びた笑みを浮かべた。
しかし世理奈は笑止顔で説明をした。
「思い違いしないで。櫛名田姫の伝説もそうだけど、それ以上に櫛を渡す行為には別の決意があるの。江戸時代、男性が櫛を女性に贈るのは求婚の証だったのよ」
「……え?」
一瞬間を置いて姫香は真に視線を向けた。
真はぎこちない赤い顔を背けていた。
「真先輩も先輩で伝え方が不器用過ぎです。何を当たり前の事言ってるんですか。櫛は元来髪をとかすものですよ」
うるさい、と小声で反論した真は姫香に向き直った。
「その…………婚約指輪とかは給料が貯まるまで待っててくれ。櫛はそれまでのアレだ、担保だと思ってくれればいい」
「真!」
婉曲的にプロポーズされた姫香はもう一度真に抱き付いた。そしてまた泣き出した。
「馬鹿、泣く奴があるか」
「だって、やっとずっと願っていた望みが叶ったんだもん。こんな嬉しい話ってないよ。嬉しい、本当に嬉しい。出雲の神様ありがとう」
真は軽く抱きしめ返し、姫香に確かめた。
「本当に俺でいいのか。つまらない男だぞ。後悔するかもしれないぞ」
「絶対後悔なんてしない。真じゃなきゃ嫌だ。真じゃなきゃ一生独身でいる。私、真が大好きだよ。愛してる」
「…………ありがとう、姫香。これからよろしくな」
途端、周囲がわあっと盛り上がった。
「よかったな、姫香、真。おめでとう」
「姫香さん、おめでとう。言っておくけど、二人の相性が最高だって占いは本当ですからね」
「ありがとう、皆さん。騙した事もこれで全て帳消しです」
姫香は泣きながら笑った。そして咲耶が、
「よし! みんなで大浴場に入ってから今夜は大宴会よ。私の奢りだからぱーっとやりましょう。世理奈ちゃん、女将さんに御馳走沢山用意してと連絡しておいてね」
と弾けると更にみんな盛り上がった。
「真先輩、おめでとうございます」
姫香が次いで嬉し泣きで咲耶に抱き付くのを見た世理奈が真の前でニコリと祝福の笑みを送った。
「歴史だけじゃなく女心の研究も忘れちゃ駄目ですからね」
「ありがとう、世理奈。色々世話になったな」
「いいえ。今日の謎解き面白かったです。ただ、私的に別の謎が一つ解けてないんですけど」
「別の謎?」
「それがさっき県警の叔父さんに電話したんですけど、今日は白バイの出動が無かったって言うんです。後、ハスラーの盗難なんて報告されていないって。勘違いじゃないかと笑われました。私も直接車内から島根県警の白バイ隊員確認しましたし、見間違いじゃないですよね」
「ああ、叔父さんの方の勘違いじゃないか。報告が遅れてるだけかもしれない」
「そう、ですよね。あ、私もお風呂呼ばれてるみたいです。では後に」
女性達は皆忙しなく一階の大浴場へと下りていき、男二人だけが部屋に残された。
一件落着した剣吾は肩をすくめ真に戯けた笑みを向けた。
「さてと俺達も女性陣同様大浴場に行くか」
真は鼻で笑って呟いた。
「やれやれ、出雲の神々がお節介を焼いてくれたのかね」
「何か言ったか」
「何でもない。それより、剣吾。お前スマホ、テーブルに置き忘れてるぞ」
「おっといけね」
と剣吾が振り返ってスマホを手にした途端、バイブと共に着信音が鳴った。
しかし何故か剣吾はぎょっと体を揺らしその電話に出ようとしなかった。
「どうした、剣吾。出ないのか」
画面を見た後、呆然とこちらを向く剣吾へ真は聞いた。
「それが、これなんだが」
剣吾は真にスマホ画面を示した。
何とそこには〇四〇から始まる電話番号が表示されていた。
「え、〇四〇ってとっくに廃止になってる番号だろ」
真も訝しがって剣吾を見た。
着信音は止むことなくずっと鳴り続けている。
剣吾は意を決して通話ボタンを押し、真にも聞こえるようスピーカーで応答した。
「もしもし」
そうすると向こうから変声器を使った低い声が流れてきた。
「今晩は。夜分に失礼致します。坂城真様と戸塚剣吾様ですね。私はそちらで話題にあがっていた八咫烏と申します……」
了
日御碕神社の蟇股をご覧になりたい方はこちらのサイトへどうぞ→https://japan-geographic.tv/shimane/izumo-hinomisaki.html
日沈む処の神使~出雲竜宮の赤烏~ 法信佑 @hoshinatasku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。