第六章

「じゃあ、最後の宮に行きますか」

 三人は一旦日沉宮の正面に戻って東北東の小高い上に建つ赤い社殿を振り仰いだ。

 二十三段の石段の頭上には、下から眺めるせいか日沉宮拝殿と同じ後面唐破風造りの拝殿が、大きく翼を広げた火の鳥のようにも見える。そして階段の登り口の右側には高札があり、「日本総本宮神の宮 御祭神・神素戔嗚尊」と記されていた。

 真はその文字にぐっと見入っていた。

「この神名は日本書紀での書き方だ。日御碕神社は天葺根命の末裔の小野家が神職を務めているからやはりこの表記になるんだろう」

「真」

 姫香が怪しさを称えた顔で神の宮周辺を四顧しこした。

「ん? どうした」

「この社が斜め向きに建っているのも不思議だけど、何で日沉宮より上にあるの? ここって須佐之男命が祭神なんでしょ。天照大神って須佐之男命には姉に当たる神様だよね。それが下の位置なんておかしくないかな」

「ああ、それについては諸説あるみたいだが、俺は日御碕神社の主な祭神は須佐之男命だと思ってる。出雲大社の国造家も最初は須佐之男命を礼拝していたし、出雲地方には須佐之男命を祀る神社が百六十以上も存在する。ここは言わば須佐之男命の国なんだ。だから神の宮は上の宮、日沉宮は下の宮とも呼ばれている。天照大神は伊勢神宮の、日御碕神社は須佐之男命という関係だと思えば不思議はない」

「え、どういう事」

 意味を図りかねていた姫香に世理奈が代言した。

「スポーツで例えれば天照大神にとってホームは伊勢で出雲はアウェーって話よ」

 真は、妥当な例えに朗笑して追加した。

「といっても社の大きさは格段に日沉宮の方が大きい。高さは神の宮の方が高い場所にあるけど面積は日沉宮の方が広い。それで両社のバランスを取っているのかもしれないし、単なる地形的な問題だったのかもな」

 真は腕時計の時間を確認した。

 空は未だ明るいが、殊の外説明に時間を要したせいか時刻は既に午後五時を回っていた。

「じゃあ、いよいよ神の宮の蟇股とご対面だ」

 世理奈は真の軽く階段を上っていく背中に尋ねた。

「先輩、気のせいかかなりウキウキしてません?」

「そう見えるか」

 逸る心を見抜かれた真は歩みを止めて振り返り、口角を上げた。

「実は教授から、日御碕神社の中で最も面白い蟇股が神の宮の正面にあると教えてもらっているんだ」

「ええー、教授の面白いは難解って言い換えでしょう」

「難解なのが愉快なんだよ。だから敢えてここはリサーチしてない」

 真は再度階段を上り始め、直ぐに神の宮の正面に立った。

 ところが向拝の上に掲げられた蟇股の意匠へ目を遣った途端、真はその奇怪さに固まってしまった。

「……び、白狐?」

 幾つかの笹を背景に右へ振り向く尾の長いまっ白な狐の姿がそこにあった。

「おいおい、ここは須佐之男命の社だぞ。どうして白狐彫刻が正面にあるんだ」

 思わず真は混乱した思考を吐き出した。

 白狐の蟇股は存在する。しかしそれは大抵稲荷や飯綱いずな権現に関する寺社にである。それも脇にあるならともかく須佐之男命を主祭神とする神の宮の真正面に存在するとは先ずあり得ない。

 日御碕神社の造営は寛永の年である。よって後世に作られた彫刻ではない。

 これはまたとんでもない蟇股に出会ったぞ、と真は困惑しつつ内心湧き出る好奇心を抑え切れなかった。

「この蟇股がそんなに驚く物ですか。ここから左奥に稲荷神社がありますけど」

 世理奈は驚き勇む真にその方向を指さした。

 興奮したまま真は言った。

「境内配置図で見たから覚えてるよ。祭神は倉稲魂命うかのみたまのみこと。須佐之男命の娘で京都伏見稲荷の主祭神でもある」

「だったら別におかしくないですよね。お狐さんはその御使いなんですから」

「世理奈、さっきの日沉宮の正面蟇股は何だった」

「は、えっと、松竹梅です」

「そう。それは最も天照大神に相応しい蟇股だった」

「ですね」

「じゃあお前は白狐が須佐之男命に似つかわしいと思うか。確かに倉稲魂命の神使は狐だ。しかし須佐之男命は違う。それに娘の神使を正面に持ってくるとは考えにくい。これは必ず須佐之男命に関しての真意を持つ蟇股なんだ」

 考えろと真は自分の額を拳で叩いて黙々と思念した。

「あのー、先輩、これは一旦保留にしませんか。もう十分近く経ちますけど」

 真の思索の邪魔をしないように黙って控えていた二人だったが、さすがに堪えきれずに提案した。

「ああ、すまない。もうそんなに経過してたか」

「ふふ、先輩は熱中するといつもこうでしたもんね」

「悪かったよ。そうだな、この白狐の謎は後に考えよう。ん?」

 真は向拝の左側に瞳を凝らす姫香に声を掛けた。

「姫香、どうした」

「真、これも木鼻なの? 象の頭の彫刻。向こう側にもあるよね。日沉宮のは唐獅子で阿吽だったからこれも阿吽の象なのかな」

 姫香の目先には怪しく笑んだような三日月目の象が長い鼻を伸ばしている彫刻が飾られている。

 口から長い牙が突き出て、これまた長い舌が口内に彫られている。

 対して反対側の象は軽く口を開けている。

 前者が吽行で後者が阿形である。

「そうだ。象の木鼻は象鼻ぞうばなと呼ばれている。とは言っても象も唐獅子と同様馴染みのない動物だったから一般的に想像上の生き物という観念があった。反対の阿形の象の口の中を見れば一目瞭然だ。本物の象にはあんな前歯は無いし、あるのは四本の奥歯だけだ。だからここの象鼻も空想の生物として彫られているのが判る」

「先輩、じゃあ象っていつ日本に持ち込まれたんですか」

 世理奈が根本的な質問をした。

 真は追憶して答えた。

「有名なのは吉宗の時代だな。ベトナムから運ばれた象は長崎港から江戸までの長距離を歩かされた。が、その前にも象は一四〇八年の夏、足利義持に献上され、戦国時代には大友宗麟と秀吉にも贈られている。そして家康にも一六〇二年に献上されている」

「家康にも?」

「公家の西洞院時慶にしのとういんときよしが書いた時慶卿記によればもっとも家康は間も無く秀頼にその象と一緒に虎を贈ったとされている。でもそうなると腑に落ちない点もあるんだ」

「何です」

「日御碕神社は日光東照宮の完成の後に造営が始まった。ただ、その東照宮の上神庫の妻の所に二頭の象が彫られてるんだが、それは下絵を担当した狩野探幽が想像で描いたとされている。けれど家康は関ヶ原合戦の二年後に実際本物の象を目視している。何故絵師にそれを書き留めさせなかったのか理解出来ない」

「じゃあどうやってここの象は彫られたんですか。鼻の長さとか耳の大きさとか歯とかは別として結構彫物方頑張ってますよね」

「それは元々象も獅子もデザインとして古くから日本にあったからだ。それが釈迦三尊像の脇侍で有名な普賢菩薩と文殊菩薩。慈悲を表す普賢菩薩は白い象に乗り、智慧の文殊菩薩は獅子に乗っている」

「だったら日沉宮と神の宮の木鼻はその仏教の文殊と普賢の二菩薩って事でしょうか」

「それはどうかな。木鼻は他にばくだったり龍や麒麟だったりするからここのは偶然かもしれない。象と須佐之男命は関係性がない。それでも白い象は仏教の守護獣だったからたまたまここにも採用されたんだろう。さあ、向拝の奥の拝殿の蟇股を観てみようか」

 三人は礼拝を済ますと、賽銭箱の横に立ち注連縄の下から覗き込むように三枚の蟇股を見た。

「正面は、荒れた波の上の瑞雲から現れる龍だな」

「小さいけど迫力あるね」

 楼門の龍のような恐怖はないけれど、渦巻く雲間からうねるように姿をみせ、三本の鋭い爪で雲を掴む緑色の龍を姫香もじっくり見つめていた。

「先輩、右の蟇股は何ですか。大和松に留まっている灰色の鳥は……」

「多分、色と形から山鳩だ」

「では左の鳥は? オレンジ色の花の前で地面で休んでいる?」

「あの花は葉の形からしてタンポポだな。鳥は………………」

 真は緑の胴体に青色の翼を持ち、長い尾羽が畳まれている鳥を思案に暮れた顔で細見した。

「体が横向きだからこれはこれまで一番難しい鳥類だな。綬鶏じゅけいにも思えるし、いや、銀鶏ぎんけいか。雉か、それとも羽を休めた孔雀か。雌かも。いや、雄でも羽根が抜けるとこんな風になるし……ううん、それともらんか。いやいや、頭の形状を考えるとそれは……」

「鸞?」

「鳳凰と同じく伝説上の鳥だよ。他の鳥は実在するんだが、江戸時代のデザインは実物とはかけ離れている場合が多いんだ。だから羽の色とかもバラバラだし。背景の植物で見当が付く鳥もいるけど、蟇股の鳥類は本当に困難なんだ。この場合尾羽が広がっていれば種類も特定しやすいんだが、これでは何とも」

「そういえば、今まで観てきましたけど、飛んでいる鳥の蟇股の方が数少なくないですか」

「……それはそうだな」

 世理奈の鋭い推察で真は写真に収めた鳥類の蟇股を計算したが、羽を広げている鳳凰を入れれば飛んでいない鳥はこれまで十五枚、飛翔する鳥は四枚と数倍も開きがある。

「それは単に飛んでいる鳥の彫刻が彫るのに難しかったんじゃないの」

 と姫香が隣で何気なく言い放った。

 真は再度蟇股を注視した。

「それも否定は出来ない。日光東照宮の彫刻に比べればここの蟇股の彫りは技量に差がある。躍動感のある彫刻は確かに彫るのに困難だ。しかし世理奈の見解も何かのヒントになるかもしれない……まあ、取り敢えず先に進もうか」

 真は拝殿の左右を確認した。

 左は奥まで続いているが、狭い通路の右側は回廊で行き止まりになっている。

「右側から見ていこう」

 真はそう言うとぐるりと足早に写真と記録を済ませ、狭い通路に横並びになっている二人に向いた。

「ここは壁側に三枚、そして裏側に一枚の蟇股がある。正面左から二枚はもう以前に確認済の蟇股だ。世理奈は分かるか」

 姫香の左でカメラを構える世理奈に真は声を掛けた。

「ええっと……二枚目は明白ですね。またお馴染みのモチーフ。笹、いえ、竹と虎ですね。口を開けて右後ろを振り返っている。一枚目は…………もしかして栗ですか」

「大正解」

 すると機嫌良く拍手する真へ隣の姫香が噛み付いた。

「さっきの栗はイガが緑色だったじゃない。これは茶色でしょ」

「これは成熟した栗だ」

「もう、何で統一しないの!」

「俺に八つ当たりしてもしょうがないだろ…………世理奈、どうした」

 不意に視線を遣ると呆然とした世理奈の表情が覗いた。

 そして何故か「成熟、未成熟」と呪文のように呟いている。

「世理奈?」

「あ、いえ、すみません……あのー、真先輩。お願いがあるんですが、ここまでのノートの中身見せて頂いて良いですか」

「ああ。構わないぞ」

 真は記録したノートを手渡した。

 世理奈は蟇股の配置図とそこに記された文字に一通り目を通し、最後にニンマリと白い歯を見せた。

「ありがとうございました、先輩」

 世理奈は嬉しそうな表情を隠さずにノートを返した。

「ひょっとして何か気付いたのか」

「そうですね。まあ、大した事はないかもしれませんが」

「何だ」

「んー、今はまだ内緒です」

 世理奈は自信に満ちた目を姫香に向けた。

 あの子まさか謎を解いたんじゃ、と姫香はその勝利を確信した顔に焦り始めた。

「あー、私、お手洗いに」

 姫香はスマホを握りしめると境内の周囲を見渡した。

「トイレならさっきの駐車場にあるわよ。どうぞごゆっくり」

 世理奈は見下した目線で姫香に手を振った。

「真、少しだけ待ってて」と姫香は小走りで階段を下りると楼門を抜けてハスラーが停めてある駐車所にやってきた。

 そして慌てふためいた指でライン電話を繋いだ。

「もしもし、斎。私」

「姫香ちゃん、どうしたの。まだ観察の途中でしょ」

 電話の向こうから斎の声が流れてきた。

 昨晩の約束通り斎は協力を申し出ていた。

「斎、私が送っている蟇股の写真届いている?」

「もちろんよ。さっきから和彦さんと一緒に照らし合わせているの」

「照らし合わせている?」

「実はね、私達日御碕神社の蟇股の配置は大方判っているのよ。和彦さんが出雲の関係者に連絡してくれてその図面を今朝メールで送ってもらったの」

「えー!」

「といっても飽くまでもこっちの図面は説明文だけよ。姫香ちゃんの写真と合わせて何とか完成させている所」

「だったら真が悩んでいる蟇股が何かそっちは全部知ってるんだよね。それ教えてもらってもいい? 私このままじゃあの子に出し抜かれて負けちゃう!」

「落ち着いて、姫香ちゃん。先ず何があったか教えてくれないとこっちも対処のしようがないわ」

 姫香は粗方世理奈の言動などを話した。

 そうすると電話から和彦の声が聞こえた。

「もしもし、八神さん。橘ですが、今、蟇股の詳細を八神さんが知るのは良くないと思います」

「ど、どうしてですか」

「坂城さんは歴史だけでなく建築にも造詣が深い。その彼が迷っている彫刻を素人の八神さんが見抜くというのはどうしても不自然に映ります。最悪私達と連絡を取って協力を仰いでいると気付かれたら坂城さんはどう感じるでしょうか」

「あ……それは……」

「それにまだ重栖さんが何を察知したかも確かでないですし、それが正解とも限りません。差し当たり終わるまで様子を見ましょう。私も斎さんも何か掴めばラインでお知らせします」

「姫香ちゃん、私も和彦さんと同意見よ。とにかく今は辛抱して観察を続けてね」

「うん、ありがとう斎、それに橘さん」

 姫香は電話を切ると再び神の宮へ戻っていった。


「お、帰ってきたな。遅かったから世理奈がもう一枚と裏の植物の蟇股を解いたぞ」

 息を切らせて馳せ戻ってみたら真の無慈悲な言葉が返ってきた。

 姫香は苛立って世理奈越しに不満をぶつけた。

「な、何で。待っててって言ったよね」

「は、いや、ここでお前を待っていたじゃないか」

「それは勝手に進めないでっていう意味もあったんだよ!」

「待て、姫香。そんな話してないだろ。お前どうかしてるぞ」

「どうもしてない! 逆に真も私の事全然理解してない」

「口に出さなきゃ分かる訳ないだろ」

「そんなの雰囲気で察してよ。だから真は大学でも友達少なかったんじゃないの」

「……」

 真は忽ち口を噤んで姫香を寂しそうに見返した。

 その打ち沈んだ表情に姫香はしまったと失言を直ぐさま後悔した。

 真とて自覚はしていた。昨日も自分は気の利いた事も言えないし、器用じゃないし面白くもない人間だと話していた。

 研究に没頭するあまりコミュニケーション不足であるのは自身も理解はしていた。

 それでも自分にとって大切なのは学問であり、付き合いの少なさはその犠牲だと考えていた。

 しかし研究者といっても教育者を目指す以上それはどこかで改めなければいけない瑕瑾かきんでもあった。

 それを幼馴染みの姫香から端的に指摘されたのは正直辛かった。

「八神さん、本当にもう帰ったら?」

 傷心の真を庇うように世理奈が怒りを越した冷酷な眼差しでなじった。

「酷い人ね、あなた。幼馴染みだからって人の心を傷つけていいと思ってるなら単なる傲慢よ」

「う……」

「どれだけ真先輩が学業に真剣に打ち込んできたかあなた知らないでしょ。多くのバイトをこなしながら欠席無しで講義に出てたのよ。それこそ寝食を忘れるほど熱中し、他の誰よりも真摯に史学に向き合ってきた。だからこそ優秀な成績をおさめて一足先に卒業した。先輩の恩師の教授だって唯一真先輩を認めていたんだから」

「………………」

「何、都合が悪くなると黙るタイプなの? 勝手なものね。私はあなたとは違う。先輩の交友関係がいくら狭かろうが、例え友達が一人もいなくてもそんなのはどうだっていい。私は史家としての先輩を心から尊敬してるし、すごく素敵だと思ってる。八神さんこそ真先輩の心中を全然察してない。あなたはここにもう要らない。宿に帰って岐阜に一人で戻る用意でもしたらいいわ」

「世理奈、もういいから観察の続きを」

 真は姫香の右隣へ寄り、蟇股を再び観た。

 姫香は首を項垂うなだれて謝罪した。

「真、あの、ごめん。私そんなつもりじゃ……」

「……別に謝らなくて良いよ。本当の事だしな。それより今は謎解きの方が大事だ。今日の目的を忘れないでくれ」

「うん、ごめんなさい」

「やれやれ、真先輩も人が良いですね。八神さん、あなた先輩の思いやりに感謝しなさいよ」

 と世理奈が半歩後ろから刺々しく皮肉を吐いたが、姫香は涙を溜めて心の中で何度も真に謝っていた。

「さて、一度に残りの二枚を改めて説明する。左は万年青おもとだ」

 先が尖っている細長い葉の群れの中に十粒ほどの赤い実を付けた植物を真は世理奈に振り返りつつ指さした。

「万年青は常緑の多年草で室町以前から観葉植物として人気があった。江戸時代には老母草おもとぐさとも呼ばれていた。中でも万年青を一躍有名にしたのは徳川家康だ」

「家康ですか」

「ああ、一六〇六年、慶長十一年、江戸城本丸に入る際、三河の長嶋長兵衛という家臣が家康へ三鉢の種類が違う万年青を贈ったと言い伝えられている。家康はその万年青を大層気に入って愛でたという。それ以来万年青は建築転居の贈り物として定番化した。万年青は名の通り常緑だ。それが不老長寿として縁起が良いと取られたんだろう。また家康は自ら薬を調合していたから、薬草としての万年青を喜んだのかもしれない。だから徳川の寺社には万年青の彫刻が多い」

「へえ」

「それに魔除けの要素もあると言われる。故に鬼門の方角に置くのが最良ともされた。この万年青の蟇股は拝殿の位置からしても鬼門に当たる」

「あ、確かにそうですね」

「それからその鬼門を防ぐもう一つの植物が、拝殿の裏手にあるこっちの椿の蟇股だ。椿は前にも説明したが魔を祓う。但しここの五輪の花は全て蕾だがな。この万年青と椿の二枚で守護している形になっている」

「ふむふむ」

「とはいえ、万年青鬼門説についてはいつから流布されたのかはっきりしないから配置は偶然かもしれない。じゃあ、今度は拝殿の左側に行こう」

 真は拝殿の正面に戻り、そして左手に回った。

 側に御砂之碑が見えると真は長く続く石畳の上で拝殿の左側面に振り向いた。

 そこには三枚の蟇股が飾られていた。

「姫香」

「……あ、うん」

 突然真から語り掛けられた姫香は恐る恐る顔を上げた。

「右手の動物と背景の植物、お前なら分かるだろ」

 姫香は先程見た葉の下で伏せて振り返る髭のある白と灰色の動物に視点を合わせた。

「葉っぱが青いけど植物は紅葉だよね。動物は山羊……じゃなくて羊かな。南宮大社の舞殿に飾ってあるやつだよね。江戸の初めにまだ羊はいなかったから山羊を彫ってあるって」

 饒舌じょうぜつに答えた姫香に真は記憶力を褒めた。

「ちゃんと覚えていたな。じゃあそのままその左隣の蟇股は何だと思う」

「えっと、後ろは唐松と、前は…………犬? 狐?」

 地面に坐っている動物の毛は全体的に茶色だが、腹は白い。口は尖っていないのに尻尾はふさふさと立っている。

 姫香は判別がつきにくい生き物に迷った。

 その困惑した表情へ同調するかのように真が苦々しく述べた。

「あれは姫香じゃなくても難しい。恐らく尻尾で狐だと思うが特徴が滅茶苦茶だ。憚らずに言うとあまり上手くない彫刻だと思う」

「子供の絵みたいなデザインだもんね。唐松の葉も大きすぎるし、全体的にバランスが悪い」

「あはは、率直すぎるだろ」と真は屈託無く哄笑した。

 突き抜けたようなカラリとした笑いに安心した姫香も笑み返して問い掛けた。

「真、その左の隣の蟇股は何」

 荒波に一羽の鳥が立ち、その後ろに三ツ矢のような五つの葉と小さな白い花が二輪咲いている。

「あれは鴨だな。植物は……これもまあ、あまり彫りの表現が上手くない蟇股なんだが、花の形からあれは沢瀉おもだかだろう」

「おもだか?」

「水生植物の一つで本当は葉の形がもっと矢じりに近い。沢瀉紋を見てもらえば明らかだ。ほら」

 と真はスマホで矢じりに酷似した家紋を示した。

 葉の両斜め上には小さな花もついている。

「この沢瀉紋は十大家紋の一つでもあるんだぞ」

「十大家紋って何」

「日本で広く用いられている十の代表的な家紋だよ。片喰かたばみ紋、桐紋、これは天皇家と共に豊臣家の紋でもあった。そして鷹の羽紋、つた紋、藤紋、茗荷みょうが紋、木瓜もっこう紋、これは織田信長の紋だ。そしてさっき出てきた井伊の橘紋、そして三つ柏紋。これは神職に多い家紋で熱田神宮の千秋家と、ここ日御碕神社の小野家が神紋に使用している。ここでも賽銭箱や神社幕や瓦にも用いられている」

「そうだっけ。蟇股ばかりに気を取られていたから気付かなかった」

「寺社は意外な所に面白い物が隠れているから視野を広くした方がいい。ちなみに三つ柏紋はここでは須佐之男命の伝説に繋がっている。最初に説明したの覚えているか」

「あ、投げた葉っぱが丘に落ちたっていう」

「それだ。さて、話を戻そう。十大紋の残りが沢瀉紋だ。沢瀉は葉の形から勝ち草と呼ばれて多くの武将が家紋として使った。特に有名な武将は福島正則だ。それは福島沢瀉と呼ばれている」

「へえ」

「鴨は水鳥、沢瀉は水生植物。これは火伏せの蟇股だろうな。さ、拝殿の蟇股はこれで終わりだ。次に行こう……世理奈?」

 珍しく毒舌も吐かず後ろで世理奈はスマホを構えたまま憮然と、「狐の蟇股、白狐」と独り言を繰り返していた。

「世理奈、行くぞ」

「あ、すみません。そうですね、行きましょう」

 真の促しで我に返った世理奈は大人しく真の後をついていったのだが、姫香はその表情が更に不敵に映って見えた。

「ここの幣殿には蟇股はないな。じゃあ本殿に向かうか」

 本殿は基壇の上にある。

 十段ほどの石の階段を上ると、長く続く白いコンクリートの通路が延びていて、少し左に曲がるとその先には赤い鳥居が建っている。

(あれが稲荷神社だな)

 稲荷社は今回探求の対象としない。

 真は確認を済ますと右を向いた。

 そこには檜皮葺の屋根を持つ玉垣に囲まれた本殿の側面が姿を現した。

「妻飾りは牡丹唐草」

 真は屋根を指さした。

 日沉宮の太陽・月・星と違い、ここでは唐草模様の葉の中で咲く大きな一輪の牡丹の赤い花が咲いている。

 唐草文様での彫刻だが、唐草自体は強い生命力や繁栄を象徴している。

 脇には小さな蕾らしきものもついている。

「花王ですね」

 世理奈が言った。

「ああ、しかし反対側にもきっと妻飾りと蟇股があるだろうに研究出来ないのは残念だ。それに本殿の正面付近も覆いがあって恐らく蟇股が隠されている。改めて正式な資料がほしいよ。修復に関わった工事なら大抵資料が残されているだろうし」

「そうですね。それより見えている蟇股ですよ、先輩」

 やたら乗り気になった世理奈が催促した。

 背中を押された真は玉垣に近付いて三枚の蟇股を見上げた。

「これはまた珍しい蟇股だ」

 真は写真を撮ってノートに記し始めた。

「右手の蟇股、オレンジ色の二輪は菊ですね。一つは蕾」

 世理奈が説明の前に半蔀の上の蟇股を指した。

 記載が終わった真は世理奈に満足げな目を向けた。

「もうある程度把握したな」

「隣も訳無いですよ。赤い扉の上の。唐松の枝に留まる鷹ですよね」

「が、ただの鷹じゃない。白鷹しらたかだ。白い鷹は霊鳥ともされて鷹の中でも格別だった。それに家康は鷹狩りが好きで熱中した。初夢の一富士二鷹三茄子は家康が好んだものの一つという説もある。それに鷹が仕留めた鳥は将軍家に献上された」 

「成程。他に何かエピソードあるんですか」

「うーん、白鷹か……立山の開山縁起に白鷹伝説はあるけどこことは全然関わりないからな。後はそうだな……日御碕神社じゃないけど出雲の鷹日神社が白鷹に関わってる」

「鷹日神社?」

 初耳の神社に姫香が真へ興味深く近付いた。

 真はスマホで松江にある神社の境内を検索して教え示した。

「天智天皇の御代、農民が日照りで困っている時、諸国を視察していた天皇はある夜白鷹が実った稲穂をくわえ現れる夢を見た。夢から覚めると外は雨が降り出していて民は救われた。夢の中で出雲の意宇から来たと鷹から告げられた天皇は白鷹を捜させた。それはとある森で見つかったがその白鷹は高皇産霊尊たかむすびのみことの使者であって、天皇は高皇産霊尊は天照大神の親神だとそこに社殿を建て天照大神を祀ったと延喜式に記載されている」

「そうなんだね」

「まあ、でもそれは鷹日神社の話であってこことは関わりないだろう。白鷹ね……その他は恵那の明智城が別に白鷹城と呼ばれていたな……」

「えっ、明智」

 驚いた姫香は意味深長に真へ向いた。

 真はその眼差しの理由をくみ取り小声で否定した。

「何が何でも光秀と天海に結び付けるな。それに明智城は一六一五年には取り壊されている。この蟇股とは無関係だ」

「何だ、面白そうだと思ったのに」とブツブツ文句を言っていた姫香を余所に真は最後の蟇股を指し示した。

「あれは波兎なみうさぎだ。瑞雲の一部が欠損しているけど二羽の白兎が波の上で跳ねている」

「波兎って竹生島のですか。琵琶湖の湖面に映った月に、そこに住む兎が波の上を走っているように見えるという謡曲ようきょくの」

「さすが秀才の世理奈だな」

「先輩に褒められるとこそばゆいです。確か醍醐天皇の時代でしたよね」

 真はその通りだと肯定して詳説した。

「『緑樹影沈んで 魚木に登る気色あり 月海上に浮かんでは兎も波をはしるか 面白の島の景色や』だな。醍醐天皇の廷臣ていしんらが三月半ばに琵琶湖の弁財天信仰で有名な竹生島へ参拝しようとしていた矢先、魚翁ぎょおう海女あまが乗っていた釣り船が通りかかった。彼らは船に乗せてもらい竹生島へ向かった。月に照らされた琵琶湖を見てうたったのがさっきの一節だ。島に着くと翁は龍神に、海女は弁財天に変わったという」

「それがこの蟇股なの?」

 真は姫香の問いに深々と頷いた。

「謡曲、つまり能の歌詞であるうたいは武家だけでなく町民にも広く親しまれた。謡曲・竹生島は室町時代に成立し、その美しい情景描写から生まれたのが波兎。それに波兎は安土桃山から江戸初期にかけて人気だったモチーフでもある。現に徳川美術館には家康が愛用したこの模様の羽織が保管されている。まあ、波が描かれているからここでも火伏せの比喩であるんだろう」

「あの振り向いている兎には何か訳があるの」

「いいや、特には無いよ。あれは彫刻によくある意匠の一つだ。対になっているモチーフ、もしくは一つだけの彫刻の場合も動きを出すための技巧だと思ってくれればいい。さて、これで立入が出来る範囲の全ての蟇股の観察が……」

「先輩、先輩。まだここの後ろにありますよ」

 いつの間にか世理奈が本殿の後ろ側を、玉垣の一番端の方から覗いて手招きした。

「おお、こんな所から見えるのか」

 真は世理奈に場所を譲ってもらい三枚の蟇股を確認した。

 世理奈は何故か嬉しそうにはしゃいだ。

「あれって、奥の向こうから咲いた椿、そして真ん中がまた万年青、そして一番こっちが大和松ですよね」

「ああ。大和松には球果きゅうか、つまり松笠がついている。しかし椿と万年青は拝殿の並びにもあったな」

「ああ、先輩、しーっしーいっ」

 世理奈が姫香の方をチラリと見て唇に人差し指を立てた。

「何だよ」

「良いですから。そろそろ謎解きしましょうよ!」

 喜色満面にそわそわした表情を隠さない世理奈に姫香はいてもたってもいられず「ちょっとごめん。また席外す」と言うなり、再度楼門の方へ駆けていった。

 その忙しない姿に真は違和感を覚えたが、「姫香、俺達楼門の回廊にいるからな」と大声で小さくなる背中へ伝えた。

 世理奈はきょとんとして聞いた。

「回廊ですか、先輩」

「うん、データの整理と謎解きに暫く時間が掛かるからな。あそこなら屋根があって日差しも遮れる。それに参拝者はもう完全に俺達だけしかいないようだし構わないだろう」

 真は周辺を見渡した。

 日御碕神社は知る人ぞ知る神社である。いくら日が高いとはいえ、夏の日の平日、それもこんな夕刻迫る時間に駆け込んでくる人間もいない。

「じゃあ行きましょう」と世理奈に急き立てられるまま、真は楼門左の回廊内部へ移動した。


 姫香がそこに戻ってきたのは二十分後だった。

「遅かったな」

 降ろしたリュックの側で折り畳みコンパクト椅子に腰掛けた真は、データの整理を終え、呼吸を荒げて帰ってきた姫香に待ちくたびれた声を掛けた。

 世理奈も待ち構えたように真が用意していた椅子に座っていた。

 西日の当たらない少し薄暗い場所を選んだせいか、真が手にしていたタブレットの光が真の顔をうっすらと照らしていた。

「ごめん、ちょっと」

「まあいい。丁度データのまとめが完成した所だ。そこの椅子に座ってくれ」

 姫香は促せられたもう一つの折り畳み椅子に座った。

「さて、俺は今までの蟇股の写真とデータをここの神社の配置図の上に重ねた。それがこれだ」

 真が示したタブレットの画像には蟇股が分かり易く各社ごとに重ねられていた。

 全ての配置図を指でピンチアウト(拡大)するとより詳細な蟇股の写真と記載の文字が書き添えられているのが見えた。

 真はその画面を眺めながら切り出した。

「今日の全体的な謎解きは何が謎なのか漠然としている。そこでまだ不明瞭な個々の点を踏まえて色々と考察したいと思う。保留にしていた蟇股の中で最も奇妙に映ったのが神の宮の白狐だ。俺は他の蟇股を観察しつつ考えていた。そして一つの結論に達したんだが……」

「あの、先輩。その白狐について私気付いたんですけど」

 世理奈が大きく挙手した。

「お、そうなのか。聞こうじゃないか」

 真は愉快げに世理奈に向いた。

「その、飽くまでも私の意見なので参考程度に」

「遠慮は要らない。言ってくれ」

「では」と世理奈は話し出した。

「先輩は日沉宮の前に二基の石灯籠があったのは気付いていましたか」

「ああ、あったな」

「その灯籠は実は松江藩主の松平直政が一六四四年に寄進したものなんです。そこの門客人社の側にも二基ありますけどそれも直政の寄進です」

 世理奈は日沉宮の前には「奉寄進 日御碕神前 寛永二十有一年甲申秋七月吉日 従四位出雲守侍従直政」、楼門近くの灯籠には「寛永二十一年甲申秋七月吉日 出雲守侍従直政と銘が彫ってあるのを説明した。

「寛永二十一年か、日御碕神社の遷宮の年だな」

「そうです。日御碕神社は京極家から受け継いで松平直政が完成させました」

「だったら記念に灯籠を寄進するのは珍しくない」

「いえ、話はここからです。日御碕神社は徳川家光の指示とはいえ実質は雲州松平家が工事の任を負っています」

「そうだな」

「そこでもし日御碕神社が松平家に感謝するつもりで、いいえ、もしくは当の松平家の指示で白狐の蟇股を神の宮の正面に置いたとしたらどうでしょう」

「どういう事だ」

「ここの松平家の出自はご存知ですよね」

「もちろんだ。大本は越前松平、後に信州松本藩から出雲に移ってきた」

「その話です。関連はさっきの、太陽と三日月彫刻の城山稲荷ですよ。直政が出雲に移ってから間も無く夢の中に美少年が出てきてこう告げました。『私は稲荷です。信州からここへ参りましたが今は住む場所もなく普門院を仮の宿にしています』と。あ、ちなみに普門院は天台宗のお寺で北田町にあります。さて、その稲荷神が言うにはもし城内に私を祀ってくれるなら火難を除いてさしあげましょう、と。それで直政は普門院の賢清上人を召して稲荷を勧請し、城内の若宮八幡宮に合祀しました。次いで賢清上人を稲荷社の別当職に任じたんです。それ以降出雲松平家は稲荷を守護神としています。ですから稲荷神の神使である白狐を正面に掲げたのも不思議じゃありません」

「そうか! 直政の狐があったか。だから世理奈は神の宮の拝殿西のもう一つの狐蟇股を観察していたのか」

「そうですよ。あれは唐松と狐、だったら松平家の狐って暗示になってるのかもと」

「ほお、面白い。とても興味深い考察だ」

「でしょう」

「ただ、狐については一つだけ疑問が残る。お前が今話したように日御碕神社は京極家と雲州松平の二家が造営に携わった。もし、京極家が蟇股を早々に発注していたらその松平の意匠は意味を成さなくなる」

「あ、そっか」

「ただ、松平家が意匠を変える命を出していたら世理奈の考えも見当違いじゃない。それにそれは俺の考えを補ってくれる形になりそうなんだ」

「え?」

「今、普門院に祀られているのは稲荷信仰でも荼枳尼天だきにてんだな。それはもちろん寛永の時もそうだった。荼枳尼天は白狐に乗る天女の姿で描かれる」

「そうですね。当時は神仏習合でしたから稲荷神は倉稲魂命も荼枳尼天も区別がありませんでした。だから明治の神仏分離令で城山稲荷神社に今祀られているのは倉稲魂命です。あそこは神社ですから仏教の神を祀るわけにはいきません。普門院は仏教寺院なのでそのまま荼枳尼天となったんでしょう。あれ、でも先輩は白狐の蟇股、稲荷の狐というのは違うって否定してましたよね」

「そうだな。現在ここの稲荷は倉稲魂命だ。だから違和感があった。神仏習合時には稲荷の意味合いが変わっていた。もし荼枳尼天だったなら俺はあまり戸惑わなかった」

「えーっと、先輩、それはどういう」

 謎めいた説明に世理奈はより混乱したが、真は理由を淡々と述べた。

「日沉宮の向拝の蟇股は松竹梅。その真っ直ぐ奥には蟇股がない。両際には葡萄と菊が配置されているが中心ではない」

 真は日沉宮の拝殿配置図を拡大して示した。

「そう、ですね」

「しかし神の宮は違う。白狐の直ぐ後ろにはこの蟇股がある」

 次いで示されたのは神の宮の拝殿の中心に飾られていた龍の蟇股であった。

「白狐単体で考えたから違和感があった。しかしこの龍と繋げてみたら謎はあっさり解けた」

「白狐と龍? 何か関わりありましたっけ」

 世理奈は必死に考えてみたが何も浮かんでこなかった。

 違うと真は人差し指を振った。

「順序が逆なんだ。これは神の方からの視点でないといけない」

 世理奈はまたしても謎々のような言及に困り果てて両手を挙げた。

「龍と白狐でも一緒です。ギブアップです。教えて下さい」

 判ったと真はずばり切り出した。

「龍という文字ではなく辰に変えるんだ。そして白狐は単に狐とする。そうすれば辰狐しんこという言葉が出来上がる」

「辰狐?」

「荼枳尼天の別名の一つが辰狐王菩薩しんこおうぼさつだ」

「え!」

「それと荼枳尼天は元々インドのダーキーニーで人肉を喰う鬼神だった。それを調伏し仏教に帰依させたのが大黒天」

「ええ! じゃあ、あの二枚は大国主も表しているんですか」

「ああ。また本地垂迹では荼枳尼天の本地は大日如来、文殊菩薩等だが、同体とされたのが十一面観音、如意輪観音、不動明王、愛染明王、そして大黒天なんだ」 

「はあー」

「大黒天は神仏習合で大国主。大国主は須佐之男命の子、または子孫に当たる。だから須佐之男命を祀る神の宮の正面にはあの二枚の蟇股が一番相応しいと言えるだろう。それに神道の神典である先代旧事本紀せんだいくじほんぎには大国主の荒御魂が牛頭天王と記している。また、境内には大根と鼠、それと大根という大黒天に関与する蟇股がある。そして日御碕神社にはもう一つの隠された大国主の構図が存在する」

 真は更に続けた。

「神の宮と日沉宮の、陰陽道の方位で言うところの天門、つまり北西の方角の二つの蟇股は『波兎』と『蒲と鴨』だ。それを重ねると兎と蒲。世理奈、その二つは何かの話にならないか」

「……大国主の、因幡の白兎伝説です。凄い、みさきさんにこんな秘密が隠されていたなんて!」

 しかしなんて人なの、と世理奈は真の偉才に驚きを隠し得なかった。

「それともう一つ。日沉宮本殿の妻飾りだが、あれは太陽が天照大神、三日月が月読命、そして須佐之男命が星、それも金星だと俺は説明した」

「そうでしたね」

「金星は明けの明星と宵の明星があり、各々啓明や太白とも呼ばれた。それは古代中国の発祥で、日本に入ると陰陽道で太白神、金神こんじんそして大将軍となった。特に大将軍は方位を司る神で、星神天大将軍とも呼ばれる。それは牛頭天王の息子とされたが、後に須佐之男命と同一視された。つまり金星=須佐之男命となった。ちなみに京都の大将軍八神社の主祭神は須佐之男命だ。それは嘗て王城鎮護のために奈良の春日山麓から太白の神格である大将軍を勧請している。更にここが須佐之男命=牛頭天王の社なら、龍の蟇股の右隣の山鳩の蟇股は、牛頭天王の嫁取りに龍王の元へと案内する山鳩の伝説とも繋がるだろう。但し安倍晴明が編纂したとされる簠簋内伝ほきないでんでは山鳩でなく瑠璃鳥だがな」

「………………」

「世理奈、どうした」

「あ、いえ。なんというか先輩の頭を解剖して中を覗きたいです」

「怖いこと言うな、お前」

 変に褒められた真は一笑した。

「それより、世理奈も姫香も何か気付いたら言ってくれ」

「あ、私が」

 今まで黙っていた姫香が小さく手を挙げた。 「お、何か思い当たったか」

「うん、そんなに大した内容じゃないかもだけど」

「いいから」

「じゃあ」と姫香は語り出した。

「私は色々な神社を知らないから何とも言えないけど、不思議だったのがこの神社には仙人の蟇股が一枚も無かった事」

「仙人?」

 突如不快感を露わにした世理奈が、その言葉に反応した。

 真は代弁してやった。

「多分、八仙はっせんとか二十四孝にじゅうしこうを言っているんだよ。南宮大社や日光東照宮には当たり前にそれらの蟇股があるからな」

 八仙は道教の代表的な八人の仙人で、二十四孝は中国において孝行に優れた二十四人を指す。

 世理奈は呆れ果て片手で両目を覆った。

「八神さん、あなたね、ここは出雲神話の地よ。そこになぜ中国由来の仙人の蟇股を飾る訳? そんなのちょっと考えれば察知出来るでしょ」

「う……」

「おい、世理奈。端から決め付けるな。それに姫香はそれだけを言いたい訳じゃなさそうだ。そうだろ」

「うん。実は謎なのかな……あの中身が無くなってた蟇股あるじゃない」

「抜け殻のか」

「それって十二支の蟇股じゃないのかなって」

 するとそれを耳にした真は蟇股配置図の全体を慌てて確認した。

 そして暫く考えてから姫香に問い質した。

「どうしてそう思った」

「あ、えっと、神の宮に紅葉と羊の蟇股あったよね。あれ見たとき南宮さんの十二支が思い浮かんだんだ。そしたら白馬もいるし、椿に絡んだ蛇もいたし、あの三猿だって、日光東照宮のものというだけじゃなくて申年だって思えば他の動物もそうかなって」

 確かに大根と鼠は子年、竹と虎は五枚もの蟇股がある。兎は波兎で卯年、龍も三枚ある。蛇は巳年、白馬は午年、羊は未年、三猿は申年。欠けているのは鶏と牛と犬と猪であった。

 真は感心しながらも誤りを正そうとした。

「抜け殻の蟇股は、日沉宮の幣殿に一枚、門客人社の左右の裏側に二枚。計三枚だ。でも足りない十二支の動物は四体。計算が合わないぞ」

「それなんだけどね。鳥の蟇股は一杯あるじゃない。鴨とか鴛鴦とか」

「姫香、お前、酉年は鶏だぞ」

「でも美保神社は鶏が駄目なんだよね。美保神社の神様は恵比寿様でしょ。ここって蛭児神社もあるし。ひょとすると鶏の代わりに他の鳥を十二支の酉に当てたのかも」

「おいおい、あれは恵比寿の系列が……いや、そうとも言い切れないのか」

 真は自問自答するように配置図に向かい思考を整理していた。

「それともう一つ」と姫香が追加した。

「真、神使について考えていたじゃない。ここって七福神の神使が揃ってるよね。恵比寿は鯛が無いけど蛭児神社だとして、大黒天は鼠、寿老人は鹿、弁財天は蛇、福禄寿は鶴、毘沙門天は虎、えっと、布袋さんは何もないんだっけ」

 姫香は指で配置図の上を半円形になぞった。

 毘沙門天の虎が日沉宮本殿右手の虎だと仮定すると確かにその形になった。

「姫香、お前……」

 真は自説をスラスラ言い立てる姫香に吃驚して凝視した。

 姫香は自信なさげに目を伏せた。

「変、だったかな」

「いや……断じておかしくはない……むしろ謎に迫ったかもしれないぞ」

 真剣な表情で真は配置図を睨み熟考し始めた。

「あの、先輩、私もいいですか」

 考え込む真に今度は世理奈が挙手した。

「あ?」

「考え中にすみません。私も他に気付いたんですけど。私は十二支でなくもっと全般的な視点で」

「全般?」

「簡潔に言うと陰と陽です。さっき先輩にノート借りましたよね。その時に気付いたんですよ」

「陰陽だって?」

「目についたのが飛んでいる鳥と飛んでいない鳥の蟇股でした。飛んでいる鳥の蟇股の方が比率が少なかったんですけどそれでピンと来たんです。きっかけは蟇股でなく手挟みでしたけど」

「日沉宮拝殿の鳳凰のか」

「はい。あれは同一のモチーフでしたが、左右で飛んでいる、飛んでいないでした。これはもしかして陰陽を表しているんじゃないかと思ったんです。実際、楼門の入り口の菊は開花してましたが潜った先では蕾でした。これは他の宮でもそうです。日沉宮の幣殿の桐と鷹の蟇股の桐は花が咲いている。対して本殿右手奥の桐は蕾。神の宮の拝殿奥の椿は蕾、本殿裏の椿は開花です。また栗の蟇股はイガが緑で未成熟のもの、そして茶色のイガは成熟しています。これもまた陰陽です。普通の大和松と松笠がついた大和松もそう。もしかすると楼門狛犬に両方角がついているのもそれに関与するのかもしれません」

「陰陽か……ふむ。そんな見方もあるな」

 真は再度配置図をじっくり見て黙考した。時折ネットで寛永の西暦と干支を調べているのかノートの端に一六三一年は丑年と小さく書いていた。

 そうして五分ほど経過して真は重々しく口を開いた。

「今回の日御碕神社の謎は受け入れがたいというか、難があるものかもしれない」

「解けたんですか!」

 世理奈は驚嘆したが、何故か真の顔は暗かった。

「俺なりの推理だけどな。しかし話すのは正直気が重い」

「どうしてです」

「世理奈、昔、お前から教わったこの日御碕神社の悲話を思い出したんだ。そしてそれが小野家に関わる辛い歴史だとな」

「もしや推恵すいけい神社の話をしているんですか」

「ああ」

「小野家が何かここの謎に関わっていると」

「……あまりそうは思いたくないが」

「真、推恵神社って何」

 姫香が二人の妙に重い空気を察して尋ねた。

 真は言い辛そうに話した。

「小野家が日御碕神社を代々受け継いできたのは何度も話してきたな。実は小野家の八十六代目に小野尊俊たかとしという検校がいて己の務めに励んでいた。彼にはとても美しい妻がいた」

「うん」

「ここからはあくまでも伝承だ。それが真実かどうかは別として聞いてくれ」

 姫香が頷くと真は目を閉じて再び話し出した。

「尊俊検校は加持祈祷かじきとうに優れ、特殊な能力を持っていた。それは例えば海上を走っている船を秘法で止めたりした。そしてある時、小野夫妻は藩主が日御碕神社を訪れるのを知り宴でもてなした。その時の藩主の名は松平綱隆」

「え、それって直政の息子だよね」

「そうだ。綱隆は宴で一目見た検校の妻に横恋慕して側室に欲しいと言い出した。もちろん検校は断った。だが、藩主はどうしても彼の妻を諦められない。そこで検校を妖しい術を使う不届き者としてここから離れた隠岐の島へ流してしまったんだ。隠岐の島は流刑の地として有名で過去には後鳥羽上皇や後醍醐天皇も流されている」

「そ、それで夫妻はどうなったの」

「藩主である綱隆は邪魔者がいなくなりこれで妻が手に入ると歓喜した。しかし夫を愛していた妻は首を縦に振らなかった。一方、検校は流刑にあい、どうしようなく隠岐の島で憤死したとも自害したとも言われている」

「……妻はどうしたの」

「夫の死を伝えられ、同じ運命を辿ったらしい」

「そんな、そんな」

 姫香は泣きそうになる口を押さえた。

「小泉八雲ことラフカディオ・ハーンもこの話を題材にして物語を書いている。ただ、もう一度言うがこれは言い伝えで正式な文書として残っている訳じゃない。但し検校が何かの罪で隠岐の島へ流されその地で亡くなったのは事実のようだ。それから暫くして松平綱隆は四十五歳で病にかかり急死した。その後も松江藩には天変地異や財政難などの不幸が続いた。そうして時が流れ、五代目か六代目の藩主がそれらの原因が尊俊検校の祟りのせいではないかと思い、推恵神社を建てて検校を手厚く祀った。現在、ここから東南東の真っ直ぐ三百メートル程行った山中に一社、松江城の近くの、さっき話した城山稲荷の側に一社、そして亡くなった隠岐の島の海士あま町に一社の計三社が建てられた。全ての祭神は小野尊俊検校その人だ」

「何か切ない話だね。やりきれないというか。でもそれがこの神社の謎にどう関わっているの」

「それは姫香の十二支の話が元になったんだ」

「私の?」

「はらわたが欠落した蟇股は三枚。それに十二支の牛と犬と猪が入るという考えは間違っていないと俺も思う。十二支表記では丑・戌・亥だ。どこに何が入るかは重要じゃない。その見当たらない三体の動物にこそ深意がある」

「何」

「ちなみに綱隆の父である直政の生まれ年は一六〇一年。それは丑年だ」

「……直政の」

 不意に親の名前が出てきて姫香は戸惑った。

 真は続けた。

「そこで、残った戌と亥の蟇股は何だと考えてみた。ところで姫香は八卦はっけって聞いたことあるか」

「当たるも八卦当たらぬも八卦の?」

「そうだ。八卦は古代中国の儒教の教典の一つ『易経』に記された八つの基本図像だ。易経は易占いのテキストでもある。けんしんそんかんごんこんの八つが八卦の名前で、最初の乾は別に戌亥とも書く。それは天を指し、他に君主も意味する。それはつまり丑と戌と亥の蟇股の中を欠落させ続ける事によってとある現象を成就させる」

「ちょっと待って下さい! 先輩の物言いだとまるでそれが雲州松平家への呪いだと宣言してるのと同じですよ。それはいくら何でも突飛すぎます。検校を追い遣った綱隆ならともかくどうして直政なんですか。おかしいです」

 世理奈が真の説を慌てて打ち消そうとした。

 真はそれを強引に遮った。

「そうかな。綱隆をそう育てたのは直政だし、ここの造営を最終的に任されたのは直政だ。それに門客人社の背面二枚は確かに周りの蟇股が朽ちているから不思議じゃないが、日沉宮幣殿の欠落の蟇股はあまりに不自然だ。周りの蟇股は綺麗で全く腐朽していない。しかしその一枚だけ欠けるというのは奇妙だろ。そしてもう一つ特異さを際立たせているのが世理奈が見た首のない唐獅子の蟇股。獅子は権力者の象徴でその首を欠けたまま放置するというのはやはり異様だ」

「まさか、死を示唆して?」

「可能性は高い。門客人社の蟇股をもう一度見て欲しい。その左右は対称となっている。季節の水仙と梅、一の数の椿と葡萄、そして背中の欠落した二枚。では中の蟇股はどうだろう。一つは大根ネズミだ。そしてもう反対の一枚は牡丹。これがセットになっている動物ならば唐獅子がそれに当たる。そして首がない唐獅子の位置は拝殿の鬼門の位置にある。その首を落とすとなると……」

「……じゃあ、尊俊検校以降の小野家が蟇股を使って初代から雲州松平家を呪詛じゅそしたと。いえ、今も続けていると」

「あの事件を風化させないためにそうしているのかもしれない。そもそも門客人社の背後に隠れた蟇股が欠けていようが大抵誰も気に留めないし、日沉宮の幣殿の欠けも参拝者は気にしないだろうからな」

「………………」

 予想もしない結末に不穏な空気が世理奈と姫香の間に流れた。

 恐らく正しい謎解きではないと二人は心の中で感じていた。

「とりあえず一度依頼者に報告してみる」

 真は先ずデータをXに送った。そして世理奈にXの名前は伏せて、姿を隠し変声器を使うおかしな依頼者であるのを事前に告げてから電話をかけた。

「やあ、待ち侘びたよ。君の中での謎が解けたようだね」

 嘲笑したような低い声はかなり耳障りだったが、真は一応送付したデータの確認と内容を全て話した。

 するとXはずっと黙っていたが、全てを聞き終えた途端激越な剣幕で真を怒鳴りつけた。

「小野家と呪いを結び付けるとは何たる愚かさだ。恥を知りたまえ! 我等が知り得た日御碕神社の謎とはもっと壮大で美しいものだ。第一、天照大神と須佐之男命の社で神職が呪いをかけるなどあり得ない。君は教会の十字架の前で神父が黒魔術を行うと思うかね。ん?」

 Xの激怒は益々ヒートアップしていく。

「八卦と十二支を結び付ける考えは面白い。が、ただそれだけだ。そして君は唐獅子の頭の欠損を挙げたが、ならば波兎の上部の欠損はどう説明する? また綱隆の生まれ年はひつじだが、その蟇股は綺麗なまま残っている。これに何故触れない? 全く呆れたね、期待外れだ。君には大変失望したよ。それでも推理かね。推理は事実に基づいて丁寧に構築されるものだ。南宮大社の謎解きは一つ一つが真実に裏打ちされて見事な流れだった。それなのに今日の君の粗暴な推理は牽強付会けんきょうふかいもいいところだ。間違ったピースをむりやりはめ込んだ出来の悪いジグソーパズルのようだよ」

 恐らくここまで罵られたのは初めての真はスマホをギッと握りしめ、歯軋りをした。

「そもそも私は南宮大社と共通の謎と予め示唆したはずだ。この荒唐無稽な推理に何の繋がりがあるというんだね。君の恩師のプロフェッサー・モリがその馬鹿げた推論を発表されたらどう思うか想像したまえ。まだ時間はある。しっかり考え直すんだね」

 し立てるだけ捲し立ててプッと電話は切られた。

 真は呆然とした顔で切られたスマホを見つめていた。

 Xの声はしっかりと漏れ聞こえていたので姫香も世理奈も、「もう一度考えましょうよ」と真を慰めた。

 真はそれでも暫く呆けたようになっていたが、振り出しだなと、スマホで何かを調べていた。

 その一方で姫香は自分を責めていた。

 もし自分が十二支の件を話さなければこんな状況には陥らなかったのではないか、余計な意見で真を困らせたのではないかと悔やみもした。

「姫香」と真は突然に口を切った。

「悪いけど暫く俺達から離れていてくれないか」

「……え?」

「頼むよ」

 無表情で真は姫香に求めた。

(そっか。やっぱり私は邪魔でしかなかったんだ)

 胸にすきま風が吹いた姫香は黙って真から離れ、楼門からそそくさと外へ出て行った。

「何が間違っていたんだ。いや、何を間違えていたんだ。それとも何か見落としているのか。考えろ考えろ」と真は拳で額を叩いた。

「謎か、謎というなら配神はいしんもそうだ。世理奈、確かめたいんだが」

 真は一人側にいる世理奈に語り掛けた。

「はい」

「天照大神の日沉宮には天忍穂耳尊あめのおしほみみのみこと天穂日命あめのほひのみこと天津彦根命あまつひこねのみこと活津彦根命いくつひこねのみこと熊野櫲樟日命くまのくすひのみことの五柱が共に祀られ、須佐之男命の神の宮には田心姫命たごりひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと市杵島姫命いちきしまひめのみことの三柱が配されている。そうだよな」

「そうですね」

「しかしこれはおかしい」

「え、それって変ですか。誓約うけいの結果ですよね」

 誓約というのは地上から高天原に登ってきた須佐之男命が高天原を奪う邪心がないか天照大神が試した儀式で、互いの宝物を交換してそこから五男三女神が誕生した。それによって須佐之男命の潔白が証明されたというストーリーになっている。

 真は頷いた。

「須佐之男命から産まれたのが五柱の男神で、天照大神から産まれたのが三女神だ。それは世理奈の知っている通りで間違いない」

「ええ」

「しかし、日御碕神社に祀られている社はその誓約の男女が逆になっている」

「それはそうですよね。だって古事記にはそう記されていますし」

「それが奇妙なんだよ。古事記では確かにお互い産まれた子等を交換している。しかし日本書紀にはその記述がないんだ。それに日御碕神社の配神名は全て日本書紀表記だ。古事記名じゃない」

「あっ!」

 そこまで踏み込んで考えた事はなかった世理奈は驚いて息を呑んだ。

「ただ、出雲国風土記や雲陽誌はこの配神を古事記名で記している。その辺りはどこから取っているか判然としない。それが謎といえば謎なんだが…………あれ、姫香はどこに行ったんだ」

「どこって、先輩が帰らせたんでしょ」

「は?」

「やっと自分が役に立たないって気付いたんでしょうね。寂しそうに帰って行きましたよ」

 世理奈は小馬鹿にした顔を真に向けた。

 すると真は呆れた顔で「あいつ!」と立ち上がり、

「世理奈、荷物預かっていてくれ」

 とタブレットやらマイクを世理奈に渡して楼門の外へ駆けだした。

(車の鍵は俺が持っているから駐車場じゃない)

 宿に徒歩で歩いて帰るには距離がありすぎるし、バス停にも姿は見えない。

 楼門から離れた真は周囲を見渡した。

 時計に目を遣ると午後六時を既に回っていて、西には太陽が傾きかけている。

「海か」

 真は直感で海岸の道路を走った。

 姫香に電話をしたがどうやら電源をオフにしているようで居場所が全く特定出来ない。まして土地勘はゼロという状況の中、徒に時間を費やそうとも真はひたすら駆けに駆けた。

 細い道の先に灯台がそびえていたが、入口には「本日の営業は終了しました」という空しい看板と閉ざされた門しか見えない。

(それでも間違いなく姫香は海沿いにいる)

 真は汗だくになりながら辺りを十分ほど探した。

 すると遠目ながら海岸の側に建てられた展望デッキにたった一人佇む人影を確認出来た。

「姫香!」

 ぜいぜい息を切らせながら真は、デッキの笠木に手を掛け黄昏れている姫香の側で声を掛けた。

 燃えるようにオレンジ色の夕日を浴びたその横顔は酷く儚げに揺らめいていた。

 姫香は微かに笑った。

「どうしたの、そんなに慌てて」

「お前な、勝手に消えといて。探したんだぞ」

「どうして。私なんて邪魔で要らないんでしょ。だから離れてろって言ったんでしょ」

「違う、そういう話じゃない」

「もう嘘つかなくていいよ。私なんて全然役に立てないし。重栖さんみたいに頭も良くないし愛想を尽かされても仕方ないよね。真にお似合いなのは私じゃなくて重栖さんなんだよ」

 姫香は言葉を発する度に物悲しくなった。

 結局、神話の八上姫と同じで須世璃姫には勝てないんだ。もう真は諦めてあの子に譲る方が真は幸せになれるんじゃないかと哀愁に身体中が蝕まれていく感じがした。

「待て、聞いてくれ。姫香」

「嫌、これ以上聞きたくない」

 デッキの笠木をきつく握りしめて姫香は俯いた。

 頬を伝わって一筋の涙がデッキに滴り落ちた。

 焦った真はその手の上に手を強く重ねた。

「聞いてくれ、頼む。俺が離れてくれって頼んだのは数メートル程だ。言葉足らずで悪かった。お前が少し距離を置いた状態での様子を確認したかっただけなんだ」

「様子?」

 珍しく必死に頼み込む真へ姫香は涙顔で向き直った。

 真は手を放し、誰もいないデッキながら更に周りを見回してから、

「ちょっと耳を貸してくれ」

 と姫香へ歩み寄ってボソボソと耳打ちした。

「え! それ本当なの」

 驚くべき内容を耳にし、姫香は涙を拭って真を見返した。

「間違いないと思う。思うところがあったから姫香には俺達と離れて欲しかったんだ。大体一生懸命蟇股と向き合っていたお前が邪魔だなんて思うもんか」

「……そうだったんだ。ごめん、考え違いして」

「それとお前はどうも誤解してるようだけど俺は世理奈に恋愛感情なんて持ってない。何度も言うがあいつは大学の歴史好きの後輩で友達というだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」

「本当?」

「お前に今更嘘ついてどうする」

「だって真、あの子を綺麗だって。それにあの子売れっ子モデルだし」

「だから何だ。それなら日光東照宮の陽明門の方がずっと綺麗だぞ」

「あ…………くくく」

 姫香は一瞬呆気にとられたが真らしい返答にケラケラ笑い出した。

「何、それもう。真はやっぱり乙女心てんで分かってないね」

「悪かったな」

「でもそれ聞いてほっとした。そして私は真が好きだって再認識した」

「……お前は変わらないな」

 誤解が解けて微笑む姫香に苦笑し真は沈んでいく夕日を眺めた。

「綺麗だね、海の夕日。岐阜じゃこんなの普段見られないもんね」

 姫香も直ぐ側に並んで日没を見つめていた。

「ああ」

「太陽を忘れないで、か」

「ん?」

「ほら、占い師のシエル・フルール先生が教えてくれたの」

「そういえばそうだな」

 沈み行く日の橙の光が穏やかな波に反射し一本の光の道になっている。

「ね、真、あの波に映った光の帯は何か名前があるの」

「あれは光跡こうせき。英語でGLITTER PATH、輝く道と呼ばれている」

「へえ、太陽の道だね」

「はは、太陽の道か………………うん、太陽の道?」

 ここで真は何かに引っ掛かったのか、急に眉間に皺を寄せて考え込み始めた。と思えばスマホで何かを検索してから突然姫香に向いた。

「解けた」

「え?」

「今度こそ日御碕神社の謎が解けた。そうか、太陽を忘れていた。全てはあの天体が鍵を握っていたんだ! そうか、そういう事だったのか」

 先程の暗い謎解き顔とは打って変わって真は心底嬉しそうに笑った。そして、

「凄いぞ、姫香。お前はまたまた俺にヒントをくれた。お前は確かに幸運の女神だ」

 と姫香の両肩を掴んだ。

 姫香は胸を高鳴らせて真の顔を見た。

「あ、うん……何か知らないけど、役立てたなら私も嬉しいよ」

「それと、だな……今回の旅行でお前に伝えたい事があるんだ」

 姫香から少し離れた真は一旦視線を逸らせ、それから姫香の目を直視して言った。

「ありがとう、姫香。俺は南宮大社の一件でお前に命を救われた。改めて礼を言う。今、こうして無事に生活していられるのは全て姫香のお陰だ」

「あ、あれはたまたまあそこに私がいたから。気にしないでよ」

 畏まった礼を言われて姫香ははにかんだ。

 それでも足りないとばかりに真は謝意を継いだ。

「それと斎と橘さんとの仲を取り持つ協力をしてくれた事にも感謝してる」

「それは真がほとんどお膳立てした事でしょ」

「いや、姫香の助力があったから叶ったんだ。姫香は鈍感な俺と違って、斎の苦しみに幼い頃から寄り添ってくれた。斎が嬉しそうに後でそう話してたよ。私は姫香ちゃんが支えてくれたから小中を頑張って乗り越えれたって。あんなに優しい友達を私は他に知らないって」

「斎がそんな事を……」

 嘗ては真をめぐって争ったライバルが今は自分を認めて褒めてくれている。

 夏の赤い夕刻の空の下で姫香は感極まって目頭と胸を熱くした。

 真も顔を夕焼けに染めながら続けた。

「論語に『じん遠からんや。我仁を欲すれば、ここに仁至る』とある。仁とは即ち他者に対する優しさだ。それは今の俺には絶対的に欠如しているものだと思う。それをこれから一人で埋めるのは困難を極める。それに人間関係において相即不離そうそくふりというのは理想的な……」

「あの、真、何の話をしているの」

「あ……いや、その、だな……何て言えばいいか………俺は……その……」

「……何」

 突然口籠もりながらも真剣な眼差しを向ける真に姫香が聞き返そうとしたその矢先、

「あー、二人ともそんな所にいた!」

 と遠くから世理奈の大声が響き、全員の荷物を持った当人が小走りで近寄ってきて文句を言い募らせた。

「真先輩、突然走っていなくなっちゃうからビックリして、重い荷物片付けてこれ持って私追い掛けたんですよ。それに私サンダルだから全然追い付けなくて、先輩の姿は見失うわ、私もスマホバッテリー切れちゃうわでもう散々です。そしたら八神さんと二人でこんなロマンチックな展望デッキで良い雰囲気出して何してたんですか」

 一気に緊張してた空気が破られて真は思わず苦笑した。

「ああ、悪い悪い。ちょっと姫香が心配だったからな」

「ええー、私はほったらかしにしていておいて」

「だから悪かったって。それより皆でゑびす屋へ帰ろう」

 世理奈から荷物を受け取った真は勝ち誇ったような含み笑いをした。

「え、ウチにですか。まだ謎は解けてないんですよね」

「それがさっき解けたんだよ。だから戻って宿の部屋で成果を披露する。世理奈もその方が都合良いだろ。スマホの充電も必要だろうし」

「え、は、はい。そうですね……充電は必要です」

 気になる口舌に不可解な感覚を抱いた世理奈と笑顔の姫香を連れて真は駐車場へと向かった。

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