第五章

「やっと念願のここに来れた」

 昼の太陽がジリジリと照りつける中、首から一眼レフをさげた真は金龍のイラストと、「龍嘘気成雲 雲固弗霊於龍也(龍は気をはけば雲を成す。雲はもとより龍より霊なるにあらざるなり)」と金文字刺繍された黒い帽子をかぶって真っ赤な楼門を感慨深げに見上げた。

 十二段の石段の先に建つ、入母屋造でこけら葺の江戸期の名建築である。

 三間一戸さんけんいっこ(一番端の柱と柱の間が三間・約五・五メートルで戸が一つの門)のそれは柱や垂木、高欄こうらん等が丹塗りであるのと対照的に、間に見える白壁が真っ青な夏の日差しに眩しく輝き、紅白のコントラストをくっきり際立たせていた。

 楼門の左手には尖塔形せんとうけいをした石の社号碑が建っており、そこには「出雲日御碕大神宮」と彫られている。

日御碕ひのみさき神社、通称みさきさん。素敵な神社でしょ。でもそんなに楽しみにしていたんですか、先輩」

 右に並んで門を仰ぎ見る世理奈が洗練されたモデルらしく黒いキャペリンハットの広ツバを持ち上げて笑んだ。

 ツバの内側には涼しげなモンステラ柄が美しく散りばめられている。

 また赤いロゴでSUNSETCITYと描かれた、広く開いた白Tシャツの胸元には出雲青瑪瑙あおめのうの勾玉ネックレスが、軽く羽織った黒いサマージャケットえりが風にたなびく度にユラユラと揺れ、赤いクロスストラップのウェッジサンダルが黒いタイトジーンズに美々しく映えていた。

 対して真の左に立つ姫香は昨日の服装がライトグリーンのTシャツに変わっただけで、スタイリッシュな世理奈を横目に見つつねたように直言した。

「ここって真が島根の竜宮城って言ってたとこだよね。一見、南宮大社の楼門とそんなに変わらないんだけど。そりゃ海が近いから潮の香りはするけどそんなに珍しいかなあ」

「あら、海無し県のひがみは聞き苦しいわよ。もう少し時期が早ければウミネコの鳴き声も聞こえたのに残念ね」

 居丈高に世理奈は皮肉をぶつけた。

 姫香は顔を上げて皮肉をぶつけ返した。

「海があるからってそんなに偉いの? それにウミネコなんて興味ない。今鳴いている蝉の音だけで充分よ」

「へえ、そっちは蝉しかいないんだ。潮騒も聞けないなんてお気の毒」

「そっちこそ車とか海風で直ぐ錆びて可哀想」

「今さっきそこでイカ焼き美味しい美味しいって頬張っていたの誰だったの」

「それが何よ。こっちには飛騨牛があるのよ。食べた経験ないでしょ」

 すると間に挟まれていた真が苦り切って両手を挙げた。

「いい加減にしろ。神聖な神社の前でつまらない言い合いをするな。姫香、一々世理奈に食ってかかるなよ。それに世理奈も世理奈だ。挑発する癖止めろ。今日は研究に来ているんだ。頼むからいさかいは無しにしてくれ」

「すみません、先輩」「ごめん、真」と二人は同時に謝った。

「ほら!」

 と真は二人にショルダーバッグの保冷式ドリンクホルダーを手渡した。

「五百ミリのペットボトルが二本ずつ入っている。熱中症予防だ。後で飲んでくれ。境内には自販機無いからな。俺はリュックに入っているから大丈夫だがお前達は持ってないだろ」

 真は背負った大きめのリュックサックを指さした。

「ありがとうございます、先輩。でも何でそんなに慌ててるんですか。さっきも鳥居近くの商店でイカ焼きを無理矢理食べてましたよね。うちの昼食の海鮮丼では量少なかったですか」

 世理奈は不満げな眼差しを真に向けた。

「あ、ああ。いや、充分だったぞ。美味かったしな。実は話してなかったけど例の依頼者が時間制限を設けていてあまりゆっくり出来ないんだ」

 日御碕神社には開門と閉門の時間がない。

 授与所が開いている時間は決まっているが、参拝時間は二十四時間自由である。

 だから朝早く出掛けたかったけれども、朝からゑびす屋に急な来客があり手伝いに忙しくなった世理奈からどうしても昼からにして欲しいとの懇願があり、その時間の出発は諦めざるを得なかった。

 姫香は二人で行こうと急いたが、盗聴していたXが何故か三人でと約束した以上三人で行動したまえとのメールを寄越してきたので、こうして海沿いの、カーブだらけのみさきうみねこ海道をハスラーに揺られながら来社した訳である。

 見れば腕時計の針はもう午後三時半を回っていた。

 夏は日が長いし、神社も閉門がないから時間の都合がつけられるものの謎が複雑であれば考える時も余程必要となる。

「そうだったんですか、すみません。それならそうと言ってくれれば手伝い断ったんですけど……けど研究なのに時間に制限かけてるんですか。妙な依頼者ですね」

 妙な依頼者どころか真は少なからずXに恐怖さえ抱いていた。

 というのも海道を走っている途中で、同型同色の車が盗難されたからという理由から白バイに停車と免許の提示を求められ、その時あやうく助手席に座っていた姫香が誘拐の内情を話そうとしたら、同時に姫香のスマホから咲耶を示す着信音が鳴り響いた。

 視ているぞ、聞いているぞというXからの警告である。

 白バイ警官は自分がいると電話に出られないと勘違いして、良い旅を去っていったが真と姫香は気が気でなかった。

 あの白バイ警官ももしかしたら自分達の出方を偵察にきた組織の一員かもしれないとの疑心暗鬼に陥った。

 これは本当にヤバイ組織に目を付けられたなと真はより慎重になって世理奈の問い掛けに答えた。

「確かにそうなんだが。取り敢えず夜までの繋ぎに念のためイカ焼きを食べてもらったんだ。それはそうと、姫香」

 真は左を向いて明かした。

「この神社が昨日話していた毛利の前の領主だった尼子氏の守護神の宮だ」

「ここが」

「そしてお前がこの楼門を珍しく無いと言ったのは間違いじゃない。京都の伏見稲荷をはじめ、静岡の浅間神社、久能山東照宮、奈良の春日大社、和歌山の廣八幡神社、愛知の津島神社、栃木県の高椅神社、茨城県の鹿島神宮、埼玉の氷川神社、兵庫の生田神社、大阪の菅原神社、熊本の北岡神社など似た楼門は全国に多々ある。ただ出雲の地には丹塗りの神社があまりないからこういう風景は珍しいんだ」

 時間が遅れた分、急いで境内に入りたいが、姫香は不意に謎を解くヒントになるような言葉を口にする時がある。そのためある程度は説明しておかねばならなかった。

「あれ、先輩、丹塗りなら島根にも津和野に太皷谷稲成たいこだにいなり神社がありますけど」

 世理奈が物知り顔で語った。が、真は否定した。

「あそこは元宮が熊野権現社だ。安永の初期に京都の伏見稲荷から勧請されたけど、あの赤い社殿は昭和四十四年と新しい」

「じゃ、鷲原八幡宮はどうですか。楼門赤いですよ」

「そこも津和野だろ。島根と言っても山口県との境だからな。益田の染羽天石勝そめばあめのいわかつ神社の本殿も朱色だが、こことは遠くかけ離れてる。この辺りで赤い社殿なら鰐淵寺の根本堂だな。頭貫かしらぬきから上半分は丹塗りだ」

 すると右の姫香が世理奈へ向いて残念でしたとばかりに小さく舌を出した。

 世理奈はその小憎たらしい顔に目元を痙攣させたが、

「それでもこうして島根に精通してる世理奈が来てくれたのは心強いよ。ありがとう。助力、期待してるからな」

 と真から微笑を向けられたので平静な表情に戻った。

「ところで姫香、ここが南宮大社の楼門と変わらないその理由分かるか」

「理由なんてあるの」

「ああ、この神社の直接の造営奉行は松江藩士である岡田信世と生田宗晴だ。しかし日光東照宮建築に関わった鈴木近江守長次ながつぐという幕府作事方大工が指図(設計図)に関わっている」

「幕府?」

「日御碕神社も南宮大社と同様に徳川家光の命により建てられた。尾張初代藩主徳川義直が寛永十一年七月に日御碕神社へ出雲国風土記の写本を寄進している。その翌年十二年の一月十一日に、当時松江藩主であった京極忠高が幕府より造営を命じられ、八年後の寛永二十年、新しい藩主となった松平直政の代で竣工しゅんこうし、翌年正遷宮をしている。総工費は凡そ一一九三貫。金一両を八万円として換算すると約十六億円弱」

「十六億!」

「驚く額か? 日光東照宮の造営費なんて五十六万八千両、四百億だぞ」

「そ、そりゃまあ日光と比べると」

「それより日御碕神社に携わった鈴木長次は南宮大社再建の大工頭だった木原義久の親類だ」

「え、じゃあ南宮大社とここは──」

「共に幕府繋がりではあるが些かなりとも関わっている。共通の謎があるというのも満更嘘ではないかもな」

 世理奈の手前、Xの言い分では、という言葉を避けて真は続けた。

「桃山建築の面影を残す日御碕神社は境内の天照大神を祀る日沉宮ひしずみのみやと須佐之男命を祀る神の宮の二社を総称してそう呼ばれている。神の宮は出雲国風土記には美佐伎みさき社、延喜式には御碕社と記された。須佐之男命は八岐大蛇の退治後、根の国に渡ってから出雲の地で安住を求めていた。そこで熊成峯くまなりのたけを登った須佐之男命がそこから柏の葉を占いで投げると葉は風に舞ってある地に落ちた。それが神の宮の後方にある隠ヶ丘かくれがおかだった。やがて安寧天皇十三年、これは紀元前五百三十六年だが、天皇の命、いわゆる勅命で現在の神の宮に遷った。ほら、この辺りが隠ヶ丘だ」

 真は石鳥居の近くに立てられていた観光案内板の中に記してあった「境内配置図」を写真に撮っていてその画像をスマホで示した。

「ふうん、この丘って神の宮の真後ろじゃなくてもう少し北になるんだね。それに変わってる。お社の向きも真っ直ぐじゃなく斜め向いてる」

 姫香は東北東から西南西に向けて建っている神の宮を図面の上の中空で指でなぞった。

 ああ、と真は次いで日沉宮を指して言った。

「神社は多くが南向きだが、神社によっては東西南北向きが変わっている。こっちの日沉宮もそうだ。東南東から西北西を向いている。だが、それにはしっかりした訳がある。それは元々日沉宮の直線先にある経島ふみじまに鎮座した神殿から遷ってきた歴史がある。天暦二年、九百四十八年に村上天皇の勅命で島から今の場所に遷座した。それ以前、須佐之男命の五世孫である天葺根命あめのふきねのみことが経島にいた時、天照大神が降臨し、島の百枝ももえの松が光り輝いたのを見た。天照大神はここに自分を祀るよう命じた。それが嘗ての百枝槐ももええにす社だ」

「へえ」

「天平七年乙亥きのといの勅の一節にある。『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沉宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』とある。伊勢神宮が昼ならば日御碕神社は夜という訳だ」

「だからこの石碑には大神宮って彫ってあるんだね」

「そうだ。ただ残念なのがこの神社は明治の神仏分離の影響を受けて、幾つかの仏教に関わる建造物が破壊されてしまった。ところでこの神社の宮司は代々社家の小野家がつとめている。小野家は先の天葺根命の末裔とされ、九十五代の尊光たかてる氏は神職でありつつ華族で政治家でもあった。この先に立っている、石造りで日本一の高さを誇る日御碕灯台の設置は彼の尽力によるものだ。京都下関を結ぶ山陰本線の敷設もな」

「偉い人。でも真、詳しいね」

「一応それなりには調べているからな。けど机上の知識と実際の見聞とでは大きな開きがある。それにここは俺の恩師のお薦めの神社だし是非とも訪れたかったんだ」

「恩師ってもしかして例の名誉教授ですか」

 世理奈が思い出すように目を上に上げた。

「世理奈も大学で教わっただろ」

「そうですけど。レポート、鬼みたいに厳しかったし、教授は史学界じゃ雲の上の存在ですからね。あの人とまともに歴史で語り合えたのって先輩くらいじゃないですか」

「それは言い過ぎだ。さて、ぼちぼち手水舎で清めてから研究に行くとしようか」

 ノートとペンを片手に、勇んだ眼差しを向け楼門へ歩き出した真の後を慌てて姫香と世理奈がついていった。


 真は階段の前に立つと楼門を再度仰ぎ見た。

 楼門の両側には玉垣廻廊が塀の代わりに横に伸びて境内を囲んでいる。

 そして真はカメラの望遠レンズで楼門を飾る彫刻を覗いて写真を撮るや、黙々とノートに記録を始めた。

 それからカメラのデータフォルダを作りその中で名前をつけていく。

「あのー、先輩……私達は何をすれば良いんでしょうか」

 一人黙々と作業を進めている真に世理奈は困惑していた。

 声を掛けられた真は集中を解いて答えた。

「あ、ああ、すまない。研究対象が面白そうでつい熱中してた」

「何を撮ってるんですか」

「そうか、世理奈には未だ話してなかったな。今回俺達が調べるのは蟇股なんだ」

「蟇股って建築部材の、あれですか」

 世理奈は楼門の横木の上にある、枠が山の形のように盛り上がった彫刻を一つ指さした。

 蟇股は元来、はり頭貫かしらぬきの荷重を分散させるために設置されたものだが、その用途が後に建物を飾る彫刻へと変わっていったものである。

 真は相槌を打った。

「蟇股の朱色の枠となっている両側の左右に伸びた部分を脚、上の盛り上がった部分を肩と呼んでいる。そしてその枠の中の彫刻の部分がはらわた。昔は板状だった蟇股も時代を経る度に彫りが進み、ここの楼門にあるようにり抜いて彫られた。その蟇股はやがて刳抜くりぬき蟇股、または本蟇股と呼称された」

「あの脚の部分がカエルの脚に似ているから蟇股でしたよね」

「よく知ってるな」

「先輩に大学の時に教えてもらいましたよ」

「そうだっけ」

「あ、私はちゃんと覚えてるのにひどいです」

「そうか、すまん」

 すると姫香が「オホンオホン」と咳払いをして真を睨んだ。

「そんな思い出話に浸っていないで蟇股の説明をしてもらえるんでしょうね」

 姫香の怒りに似た表情に気圧されて真は「ああ」と返答し、先に、と二人へ掌に収まるサイズのアルミニウム合金筒を手渡した。

 世理奈はそれを掌に乗せるときょとんとした。

「これ、何ですか」

「単眼鏡だよ。三人分持ってきていたんだ。蟇股は結構細かい彫刻だから肉眼より詳細に観察出来る」

「でも私のスマホのデジタルズーム、結構倍率良いですよ」

「念のためな。でも急に何で俺の後ろでスマホ構えているんだ」

 楼門前に着いた辺りから世理奈は真の後方に回っていた。

「研究するなら私も記録しようと思って」

 肩に掛けたゴールドチェーンのショルダーストラップをチャラと鳴らして世理奈はスマホを楼門に向けていた。

「あ、そうだ。先輩、これ衿の所に付けてもらって良いですか」

 と世理奈は手にしていた黒いピンマイクを真に渡した。

「何だこれ」

「ワイヤレスマイクです。折角なら音声でも記録したいんです。先輩との研究なら必要かと思って持ってきたんですけど、ダメですか」

「はは、相変わらず熱心だな。そういう理由なら構わないぞ」

 半笑いで真はマイクのピンをシャツの衿に付けた。

 すると隣の姫香が無我夢中にスマホで写真を撮り始めた。

「姫香、お前まで写真撮らなくていい」

「いや! 私も負けない。今日こそは絶対真の力になりたいんだもん」

「……好きにしろ」

 世理奈に対抗心を燃やしているのは明白だが、意地になっている感情も理解した真は小さく息を吐いた。

「さて、じゃあ説明を始めようか」

 こんな夏場の平日のためか真達以外の参拝者は殆ど見当たらない。

 正面に立って真は楼門の中心を指さした。

「二階の縁に取り付けられた欄干らんかん、いわゆる高欄の上は上層、下は下層となっている。ここの楼門の蟇股は上層下層に共に設置してあり、正面には上下三枚ずつ、計六枚の彫刻が飾られている。俺達が調べるのは蟇股の腸の部分だ。さて、下層の中心の彫刻に注目してくれ。大きく三つに枝分かれし、扇状に針葉を青々と茂らせている植物は大和松やまとまつだ」

「大和松? 松に種類があるんですか」

 初めて聞く名称に世理奈は質問した。

「ああ、蟇股の松は便宜上、こうした扇状の葉を持つ大和松と、丸い葉で描かれた唐松からまつに分かれている。ただ意味合いは同じ」

「了解、大和松と唐松ですね、覚えました」

「そしてその大和松の右隣の蟇股は二本の青竹と一本の筍が生えている。対して左の蟇股は梅の花が咲いている枝にうぐいすが留まっている。姫香、この三枚が何を示しているか分かるか」

 不意に振られた姫香は少し戸惑って答えた。

「えっと、松竹梅、でいいのかな」

「その通り」と返答する真に姫香は胸をなで下ろした。

「松竹梅くらいで安心しているなんて貴女頼りにならないわよ」

 世理奈が小馬鹿にした表情で呟いた。

 姫香はムッとしたが言い争いをするなと真に止められている以上堪えて黙った。

「じゃ、世理奈は上層三枚の蟇股は見分けられるか? 全て植物だぞ」

 真が後ろに首を捻って尋ねた。

「え、私ですか……そうですね。左は確実に解ります。咲く寸前の椿の花が二つ」

「ほう、さすがだな」

「当然です。隣の松江は椿の名産地ですよ。出雲国風土記にも漢字で『海拓榴』、ツバキの表記がありますし、松平不昧公は椿を好んでいました。それになにより須佐之男命と櫛名田姫が祀られている八重垣神社には連理玉椿がありますからね。櫛名田姫が椿を二本植えたらそれが成長して途中で一つの幹になっています」

「地元の博学だな。やっぱり世理奈に来てもらって正解だったよ」

「真、私、残り二つ分かるよ。真ん中の赤い二輪の花が牡丹、右の二輪が白い菊」

 焦った姫香が指さして言った。

「お、姫香もやるじゃないか」

 真は大和松蟇股の上にある開花している牡丹と蕾を見た。右手の白菊も同じ様子で彫られている。

 世理奈はその二枚に目を注いだ。

「真ん中のあれ牡丹だったんですか。右の菊は何となく見て取れたんですけど」

「蟇股は彫物方ほりものかた、つまり彫刻師の力量によって見分けにくいものがある。植物の場合は花の色や葉の形などで区別する。菊の葉は五つに分かれ先が丸めだが、牡丹の葉は三つに分かれていて先端はやや尖っている」

「へえ、そうなんですね」

「ところでこの蟇股研究は同時に彫刻の意味を解明する『謎解き』でもあるんだ。世理奈は日光東照宮の眠り猫の蟇股は知っているだろう」

「はい、それはもちろん。東回廊の所にある、左甚五郎作と伝わっている猫の彫刻ですよね」

「それだ。その眠り猫の裏側には『竹に雀』の蟇股が掲げられている。二羽の雀は猫が眠っているから竹林の中で安心して飛んでいる。だからその裏表の二枚で戦のない平和な世を表しているとされている。これは近年になって広く伝えられている一説だ」

「違う説もあるんですか」

「二つ程な。この蟇股の位置は家康の墓所である奥社の参道入口の門の上にある。だから猫は眠っているふりをして家康を護っているという説。そしてもう一つが公案説だ」

「こうあん?」

「禅問答。眠り猫は紅白の牡丹の間にいる。唐時代の曹洞宗開祖の洞山良价とうざんりょうかい牡丹花下眠猫児ぼたんかかすいびょうじの公案にちなんでいる。牡丹の花の下で猫の子が寝ていたが、近付くと猫は逃げてしまった。猫は寝ていたのか、寝たふりをしていたのかという禅の問い掛けだ」

「へえ、そんな説もあるんですね」

「眠り猫の蟇股にはある意味定説は無いんだ。解釈の違いと言うべきかもしれない」

「そうなんですね」

「蟇股彫刻はランダムに飾られている訳じゃない。意図的に主題をどこに配置するかという研究もある。一枚に意味が込められている場合と複数で一連のストーリーを形成している場合もある。それを説き明かすのが今日の目的だ。話を戻すが、この楼門の蟇股の並びで判明した事が一つある。姫香、世理奈どっちかその謎に気付いたか」

 真が何かを秘めた笑み顔を二人に向けた。

「この六つの蟇股に何かあるんですか」

「些細な話だけどな。少し考えてみれば難しくない」

 世理奈と姫香は対峙して負けて堪るかと共に唸った。

 姫香は真から少し離れてスマホの画面にタッチし始めた。

 世理奈はじっと目を凝らして蟇股を見比べている。

 そうして二分ほど経過した頃、姫香が「そっか」と声を上げ真の側に戻ってきた。

「この蟇股の配置の順番でしょ。松竹梅は真ん中が松、右が竹、左が梅。上の蟇股は中心が牡丹、右が菊、左が椿」

「そうだな。だから?」

「南宮大社の蟇股で真、説明してくれたじゃない。牡丹は花の王だって。だったらそれが真ん中に来るのは当然。松だって松竹梅の一番上なら同じ理屈でしょ」

 どうだとばかりの姫香の返答に真は軽く拍手した。

「当たり。但し半分」

「半分?」

「それなら残りの二つの組み合わせは右左どっちに配置しても良いだろ」

「あ」

「まあ、目の付け所は良かったから詳しく説明する。松竹梅の思想は元々中国の宋の時代以降に流行った歳寒三友さいかんさんゆうから来ている。他に中国では梅と水仙と竹の組み合わせがある。これらは全て寒さを忍ぶもの、またはその中で咲くものだ。歳寒三友は平安時代に日本に伝わったが、それが今のように縁起物として捉えられたのはずっと後だ」

「そうなの」

「松は神宿る木として神聖な植物であったしそれは平安時代に尊重されていた。竹は室町、そして梅に至っては有り難がられたのは江戸に入ってからだ。本来松竹梅は順序なんて無かった。しかし、その内語呂も良かったのか順位がついた。但しこの神社が建てられた時にその順番が決まっていたかは定かじゃない。ただ、この神社の設計は江戸の幕府関係者だ。左側が上位というのは神社の定番になっているがそれは神から見た左となる。それは人間が神を正面に見るとき右手が上になるんだ。随身門の左大臣・右大臣も大抵はそれに倣って置かれている。だから松の右が竹となった」

「成程」

「上層の牡丹が花王で中心というのは間違いない。しかし、右にある菊は天皇家の象徴と言って良い。しかし江戸時代には菊の紋は徳川の葵紋と違い使用に制限が無かった。また菊は不老長寿を代表する花でもあった。中国河南省に菊水という名前の、菊が咲き乱れていた川があってその水を飲むと長寿を得たと言われている。それに昔は色の優劣があった。それは冠位十二階が基となったんだ」

「冠位十二階? 厩戸皇子うまやどのおうじが制定したあれですか」

 と世理奈が尋ねた。

「ああ、その制度によると最高位の色が紫、次が青、次が赤、次いで黄色、白、最後が黒となる。だから白より赤の方が上位になった。もしくは松竹梅と紅白という言葉通りの順位にした可能性も捨てきれない。とはいえ蟇股の配置の順序というのは重要な含みを持つ場合もあるからないがしろに出来ない」

「じゃあ、気を付けます」

「うん。さ、そろそろ門の中に入るか。ちらっと見た感じでは楼門の東西南北全ての面に蟇股があるみたいだから。東は今済ませたし、今度は門を潜って西の蟇股を調べよう」

 真を筆頭に三人は階段を上がると、合掌して頭を下げてから門の中に入った。

 見れば門の中の左右には黒い井桁格子があり、その内側には狛犬がまるで参拝者を威嚇するようにお互い向き合っていた。

「……この狛犬は」

 真は格子の間からから覗く両側の蹲踞そんきょ型の木造狛犬をじっくり観察した。高さは二メートル程で、前脚部の筋骨は隆々と力強く、四角い頭部は獅子舞のそれに似ている。

 巨大な鼻と盛り上がった眉、突き出た眼球、そして舌の出ている大きく開いた口は、憤怒をまとう力士の仕切りのような威圧感があり、風化で目立つ寄せ木造りの縦のひび割れが空恐ろしさを一際増していた。

「何か、迫力あるね」

 姫香は軽く頭を振って呟いた。門の守護だから恐ろしいという表現を避けたのだろうがその目はあらさまに怖じ気付いていた。

「邪悪の進入を阻むためのものだからな。怖いくらいが良いんだ。しかし、まさか日御碕でこのタイプの狛犬に出会うとは」

「ん? 先輩、他にもこんなみさきさんみたいな狛犬あるんですか」

 興味ありげに世理奈が後ろから中を観察した。

「ああ、恐らくこれは東大寺南大門の狛犬、いや、石獅子像を模したんだろう。ここも両方とも狛犬でなく獅子だしな」

「獅子ってどういう事、真」

 姫香が単純な質問を投げた。

 真は言った。

「大抵の木造の狛犬は、つのがなく口を開けている、いわゆる阿形あぎょうのものが獅子、口を閉じた吽形うんぎょうで角のある方が狛犬なんだが、東大寺の石造りの像は共に角がない獅子なんだ。それも両方口を開けている。中国宋の石工が手掛けた日本最古の狛犬と言われている」

 真は東大寺石獅子をスマホで検索してその画像を見せた。

「それから時代の変遷へんせんと共に狛犬にも仏教の阿吽の思想が採りいれられた。やがて社内に飾られたものは雨風に当たらないから木造の狛犬となった……そうだ、姫香。木造狛犬で思い出したんだが」

 ふと、真は姫香へスマホに溜めてある画像から一枚を探して示した。

 そこには日御碕の狛犬と異なり、やや丸みを帯びた、動物的なフォルムをした、古びて朽ちた狛犬と獅子の一対の木造の狛犬が写っていた。

 直ぐさま姫香はある記憶に辿り着いた。

 「これ南宮大社の楼門にある狛犬だよね」

 「覚えてたか。じゃあ別のものを見てくれ。似てないか」

 スマホ画面をスライドして真は別の画像を示した。

 退色しているものの彫った輪郭が鮮明に残っている美しい木造狛犬に姫香は釘付けになった。

 「本当だ。こっちのは朽ちてないけど南宮大社のと瓜二つ。足とかたてがみとかもそのまんまだね」

 「実は南宮大社の狛犬の情報は作者も含めてほぼ無いに等しいんだ。ちなみにこれは京都仁和寺の仁王門に置いてある狛犬で、仁和寺は徳川家光が再建した寺だ。南宮大社の数年前に再建が終わっている」

 「だったらこの狛犬の作者が南宮大社の狛犬を作ったの」

 「可能性の一つとして俺はそう考えている。ところで仁和寺の仁王像の作者は仏師『運節』。その運節が裏手の狛犬も彫ったんじゃないかと。何故なら運節は仁和寺の守護神である福王子神社の木造狛犬の作者であるのが当時の寺僧の日記から判明している。その日記には『雲雪(雲節)が獅子と狛犬を持ってきた』とあるがこれは運節の誤字だろう。福王子神社の狛犬は彩色が修復されて金銀に輝いているがこっちもよく似ている。運節は仁和寺本尊の阿弥陀三尊像の作者で、それは寛永二十一年、一六四四年に安置されているし、寺僧の日記の日付も正に寛永二十一年。同一人物と思っていいだろう」

「ふうん」

「そうだ、南宮大社の狛犬の作者は言い伝えによると仏工春日とある」

「仏工?」

「仏師の事だ」

「春日って名前の仏師がいたの?」

「字面からは確かにその通りなんだが、春日仏師は平安時代の仏師でな。南宮大社の狛犬は、宝物殿に安置されている別の二体の狛犬の情報から寛永再建の時に造られたものと判っている。だから時代が合わない。この場合春日は京都の七条仏所を指すんだろう」

「七条、何」

「仏師の運慶知ってるだろ」

「ウンケイって、えーっと、確か東大寺の、仁王像だっけ」

「そう。七条仏所はその運慶の流れの慶派仏師が集まって出来た工房だ。奈良仏師の運慶らは別に春日仏師とも呼ばれていた。俺は仏師にはあまり詳しくないから何とも言えないが、運節もその字からして慶派だったんじゃないか。運慶が彫ったとされる八坂神社の狛犬も仁和寺の狛犬に似ているんだ。そうなれば南宮大社の仏工春日と伝わっている作者が運節か、もしくはその一門が造ったとも考えられる」

「ふんふん」

「けどもう一つ似ている狛犬がある。それは川越喜多院・仙波東照宮の木造獅子狛犬像だ。作者はこれまた七条仏所の康音こうおん。製作は一六四〇年、南宮大社再建の前になる。ちなみに喜多院の二十七世住職は寛永寺の住職でもあった」

「……寛永寺の住職ってまさか」

「そのまさかだ。依頼主は天海大僧正。天海は喜多院の境内に仙波東照宮を建て、そして南宮大社の東照宮建築も指示している」

「じゃあ、南宮大社の狛犬はその康音って仏師の作なの」

「どうだろうな。運節か康音か、もしくはその弟子によるものかは確実な記録がないから断言は難しい。更にややしいのが南宮大社の再建時、仏像製作を依頼した相手が『大宮』と金銭支払いの資料にあるから、これは七条大宮仏所院派の……」

「あのー、さっきから知らない話題で私を置いてきぼりにするの止めてもらえませんか」

 背後に立って苛立った世理奈が靴の踵で石畳をコツコツ鳴らした。

「悪い、脱線したな」

 真は世理奈に向いて最初の話題に戻った。

「ここの狛犬の原型は東大寺のものだろう、しかし同一じゃない。頭部は似ているし胴体もそれなりに似せてはあるだろうが、こっちはもっと横幅もあるし筋肉も太い。それに何より獅子なのに両方に角がある。東大寺とは明らかに違う。意図したものか、何かの深意を含ませているのかは不確かだな」

「東大寺とみさきさんですか……特に共通項はありませんよね」

 世理奈はうーんと考え込んだ。

 その様子に微苦笑して真は教示した。

「東大寺は確かにそうだろうな。でも、この狛犬の作者は別の場所のものを参考にしたかもしれないぞ」

「別の?」

「オリジナルは全体にしろ部分的にしろ必ずコピーされる。那智山青岸渡寺の山門に東大寺のものを模倣した狛犬がある。青岸渡寺は明治以前、神仏習合で熊野那智大社と一つだった。そしてその山門も熊野那智大社の大門を移築したのが現在に至っている」

「あれ、那智ってお母さんとの話に出てこなかったっけ」

 世理奈を押し退けて姫香が割って入った。

「ああ、花山法皇が修行していたのが那智の滝だった。そしてその滝は神として祀られ、それは大己貴命とされた。後の大国主だ」

「は! じゃここの狛犬は熊野と出雲を意識して造られたんですか」

 今度は世理奈が驚いて問い掛けた。

 どうかな、と真は言明を逸らした。

「熊野と出雲は関連があるという説もあるが今の所推察に過ぎない。この社の全体を精察してみないと何とも言えないし。じゃ、今度は門を抜けて西に……」

 行こうかと歩を進めようとした途端、真の頭上に予想もしない一つの蟇股が現れた。

「……大根」

 同時に見上げた姫香も目を白黒してその活き活きと育った緑の葉が付いた白い野菜の蟇股を見上げた。

 紛れもなく大根である。

「それも単なる大根じゃない、先が二つに割れてるだろ。二股大根だ」

 真は活力に満ちた顔で笑んでいた。

 謎解きのスイッチが更に入った表情である。

「え、二股だと何かあるの」

「まあな、ただ確証はないから今は言及を避ける。さ、門を潜るぞ」

 その蟇股を写真に収めると真は門を抜けた。


「さて、楼門の西側なんだが……これはまた」

 ここにも上層下層を合わせて六枚の蟇股が飾られている。

 真はざっとその六枚を見渡すと嬉しそうに写真を撮り始めた。

「真、何か、さっきの蟇股に比べると怖いんだけど」

 ぐっと眉を寄せて姫香は下層の三枚を指さした。

「それは正しい見解だな」

 真はノートに文字を書き込みながら答えた。

「何で」

「神域の入り口はさっき駐車場から潜った石鳥居だけど、楼門は結界の境を示す建物だ。東の蟇股は縁起の良いものばかりだったが、西はこうして逆だ。入った魔を外に出さないようにする役目がある。しかしここの蟇股は珍しい構図だ。姫香は左の『竹と虎』と右の『波と龍』の蟇股が怖いと感じているんだろう」

 真は二枚の彫刻に首を振った。

 左手の虎は恐ろしい形相で住処である籔の竹に噛み付きながらへし折っているし、右手の空から下りてきている緑色の龍は荒れた波に向かい、三本の爪を立ててあたかも襲ってきそうな気配である。

「うん、そう。真ん中の鳥はまだ怖くないけど」

 姫香は頷いて中心の蟇股の写真を撮った。

 それは木の枝に留まっている長い尾の多色の鳥が振り向いている構図であった。

「あれは鳳凰ほうおうだ」

「あれが? 私の知ってる鳳凰は南宮大社の懸魚けぎょか、京都の平等院、だっけ。その屋根の上の鳥なんだけど」

「あれも鳳凰には違いないんだが……実は蟇股彫刻の研究で手こずるのは鳥なんだ。特に実際に存在しない鳥の類は手掛ける人間の感性に依るし、色も違ったりする。日光東照宮の彫物方くらい細かい彫りをする技量があれば識別もしやすいんだが。シンプルな彫刻の判別は結構骨が折れる。だから鳥蟇股の場合は一緒に彫ってある植物で見分ける方法が多い」

「植物って、あの鳥が留まっている薄い紫の花?」

「そう、あれは梧桐あおぎりだ。だから鳳凰だと判る。蟇股彫刻には竹と虎、鳳凰と桐といった定番の構図がある。鳳凰は梧桐の木にしか留まらず霊泉だけを飲み、百年に一度実を結ぶ竹の実だけを食べるとされる。それに中国の本草百科『本草綱目』では羽のある生物の王とされているんだ」

「あれ、さっきも真ん中がそうじゃなかった。牡丹は花の王」

「松も同じだ。どうやらここの蟇股には色々意図がありそうだぞ」

「でも先輩、鳳凰の上の蟇股は葡萄ですよね。あれも果物の王なんですか」

 後ろから動画を撮りながら世理奈が上層の蟇股を指した。

 蔓と数枚の葉の間から一房の葡萄が垂れている彫刻を注視して真は否定した。

「いいや、あれにはそういう考えはないよ。葡萄は多産を指す縁起の植物だ。ところで、世理奈はその右手の蟇股の図は判断つくか」

 世理奈は左横に長い剣状の葉が伸びる、紫色の花の彫刻に見入った。

「……うーん、菖蒲しょうぶ? 菖蒲あやめ? 杜若かきつばた?」

「はは、俺も判別は付きにくいな。あの花びらの筋は杜若に見えるけど、葉脈の中心がはっきり見えるからその点はショウブだな。花びらの付け根の色が黄色であったとしても年月で色が褪せてしまう場合もある。それと杜若の蟇股は水か水鳥といった背景とセットになっている例が多い。となればショウブかアヤメとなるんだが」

「いずれ菖蒲か杜若、ですね」

「正にな。ただ、右のをショウブと仮定すると真ん中の葡萄と共に駄洒落になるんだけど」

「駄洒落?」

「端午の節句の菖蒲の由来は知ってるだろ」

「はあ、それは菖蒲と勝負をかけてます」

「だったら葡萄も同じだ。武士にとっての武道とかけてる」

「え、冗談ですよね」

「本当だ。ここにあるか不明だけど、葡萄と栗鼠りすの組み合わせの蟇股も定番だ。が、それには多産以外に『武道を律す』という他意も含まれている」

「だったら右のは菖蒲の花なんですか」

「下層の三枚を見るとそうかもしれないが断定はしない。ちなみに左手の蟇股は莟菊つぼみぎくだ。花は蕾の状態だが葉の形状で菊だと判断出来る」

「でも蕾だけの蟇股って何か寂しい感じがしませんか」

「そうでもない。出日いずるひつぼむ花ということわざがある。これは朝日が昇る様子と蕾がこれから咲くという吉兆なんだ」

「へえ。でもさっきも菊ありましたよね。白いの」

「ちょうどこの反対の上層にある。菊は魔を払う花でもあるからここに選ばれたんだろう。さ、じゃあ、楼門の北の蟇股を見に行こう」

 真は楼門の北側を覗くと、上に延びる廻廊の階段を登った。

 ここは神の宮に続く石段となっている。

 姫香はシンプルな質問をした。

「真、何で階段登るの」

「登らないと全体像が掴めないんだよ。よし、この辺りなら全部観察出来るな」

 真は階段の途中で振り返り楼門横を凝視した。

 上層に二枚、下層に二枚の彫刻が設置してある。

「少し離れているからズームなり、さっき渡した単眼鏡を使ってくれ。世理奈、上層の左の蟇股が見えるか」

 自分より二段上にあがった世理奈に真は聞いた。

「はい……うん、何ですか、あれ。鯛ですか」

 荒波に逆らって泳ぐ黄色い魚に世理奈は首を捻った。

「違う。あれは鯉だよ。口の辺りをよく観察してくれ。その証拠に髭がある」

 でもちょっと変です、と世理奈は疑問を重ねた。

「これ作られたのって寛永の時代ですよね。当時色付きの鯉なんていたんですか。昔の鯉って黒い鯉しかいなかったんじゃ」

「ところがそうでもない。一八〇〇年くらいの書物に緋鯉と浅黄色の鯉の記述がある。それらは突然変異種だろう。ただ、その変異種が寛永の時代に知られていたとは思えないし、これは比喩ひゆだと思う」

「比喩?」

「ホァンリーユー」

「ホ、何ですか」

「あの黄色い鯉の中国語名。日本語では黄鯉魚こうりぎょ。『毎暮春の際、黄鯉魚逆流して上ることあり。得す者はすなわち化して竜となる』。中国の辛氏三秦記しんしさんしんきにそう記載されている。荒波に逆らって泳ぐ登竜門の伝説、世理奈は知っているよな」

「黄河上流の竜門山を切り開いた急流に逆らって登った鯉はやがて龍になるってあれですか」

「さすが即答だな。でもそれは鯉じゃないって説は?」

「え、鯉じゃなかったら何ですか」

「チョウザメだ」

「キャビアの親魚の」

「ああ。中国の思想書である『淮南子えなんじ』にはこう書かれている。『てんは大魚。西河より上り。竜門を過ぐるを得れば便すなわち竜と為る』と。鱣とはチョウザメ。その鱣が間違って鯉と伝えられた。つまり三秦記と淮南子の記載が混ざってこの蟇股を生んだんだろう。有り体に言えば、この蟇股は龍の前身を表している。しかし、黄鯉魚を意図して彫ったならこの彫物方、いや意匠を考えた人間は相当な知識の持ち主だぞ」

 研究者の性なのか、解読を挑むような蟇股に真は昂揚して嬉々として内容をノートに記していた。

「……楽しそうだね、真」

 姫香は二段下で真を見上げ呆れた声を掛けた。今の状況理解してるのとでも言いたげなニュアンスに真はハッとして「いやまあ」とにやける口元を手で隠した。

「ところで先輩、その鯉の右手の蟇股と下の段の左手の蟇股がほとんど一緒なんですれど。あれってつがいの鴛鴦おしどりですよね。楼門の一緒の面に同一のモチーフってあるんですか」

 世理奈がズームした画像で確かめた。

 穏やかな波に浮く二匹のカラフルな鴛鴦は、上層のつがいが同じ左向きに対して下層のはお互い首を向けあっている。

 真は説明した。

「モチーフは共通だけど趣旨が違う。あの二枚は阿吽だ。上層のは口を閉じているが、下層のは二匹とも口を開けている」

「あ、本当ですね」

「蟇股は何らかの目的を持って飾られている場合が多い。波や水鳥は火難を防ぐという含みもあるけど、それだけじゃない。例えばさっきの鯉は波が荒く、鴛鴦のは波が穏やかだろ」

「それは鯉のは登竜門の例えを表しているからであって……」

「いや、背景に隠れされた表現も重要になるって話だよ。蟇股は色々なパーツで観察する必要があるんだ」

「そうですか。でも私数え切れないくらいみさきさんに来ていますけど、蟇股って敢えて意識しないですね。単なる飾りくらいしか考えてませんでした。みさきさんは一応蟇股の事を看板に書いてますけど大抵の人は楼門の松竹梅くらいしか判りませんから」

 真は研究者として、そうだな、とやや寂しさを宿した目を世理奈へ向けた。

「参拝する人間にとってはあまり気に留めない部材だ。しかし逆に謎や深意を秘めるには最適な飾りとも言える」

「真、じゃあ、あの下の右手の蟇股は何。大きな緑の葉っぱが下から上へ伸びて何枚も広がってるやつ」

 五、六枚の輪生状の葉がめくれた植物の蟇股を単眼鏡で見た姫香は真に振り向いた。

「姫香は何だと思う」

 突然問い返された姫香は困って、何故か隠れるように体を反転しスマホの画面にタッチし始めた。

「はは、ネットには多分載ってないぞ」

「違うもん。いいからちょっとだけ時間頂戴」

 姫香の検索を三分ほど待ったが、最終的に「ごめん、やっぱり降参」との失意の声が返ってきた。

 真は教えた。

「幹から上の葉を見上げるように彫ってあるから識別しにくいけど、あれは蘇鉄そてつだよ。恐竜のいたジュラ紀から存在した植物だ。中心にトウモロコシのような色の花が咲いてるだろ。あれは雄花だ。十年に一度しか開花しないからこれは良い縁起の蟇股と断じていい」

「あれが蘇鉄? 何かバナナの葉みたい」

「確かに似た葉なら日本にも芭蕉の木があったけど花で違いが判る」

「でも蘇鉄の葉っぱってもっと尖っていなかった?」

「蟇股での表現はここの蟇股みたいに葉先が丸みを帯びている。他の地域にも数枚蘇鉄の蟇股があるけど皆似たような形になっている」

「けど当時から蘇鉄なんてあったんだね」

「本州には自生しない高価な植物だったから目敏い大名達はそれを不老富貴の象徴として庭園に植えた。例えば秀吉は文禄の役の時、戦勝祈願に山口の亀山八幡宮に植えさせた。家康は力を誇示させるために二条城にも移植した。ただ、信長と家康には蘇鉄にまつわるちょっとした、ある伝説があるんだが……」

 真は姫香を躊躇うようにちらりと見た。

「ある伝説?」

 すると世理奈が素早く階段を下り、背後から姫香に顔を近付け、悪戯っぽく口の端を上げた。

「知らないなら教えてあげる。ある時、大坂堺の妙国寺の大蘇鉄を気に入った信長が無理矢理安土へその蘇鉄を移植した。そしたらその蘇鉄が夜な夜な『堺へ帰りたいー帰りたいー』って泣き始めたの」

「ひいっ」

 思わぬ怪談に顔が青ざめた姫香へ世理奈は更に追い打ちをかけた。

「信長はそれを聞いてそんなものは切ってしまえと指図して、家臣が斧で切った途端蘇鉄から鮮血みたいな液がドバーッって噴き出して……」

「ひえええ、もう止めて」

「こら、姫香で遊ぶな。そういうの苦手なんだから」

 真はノートの端で世理奈の帽子を軽く突いた。

 世理奈は軽くむくれた。

「えー、私は親切心で教授してあげただけですよ」

「一々おどろおどろしい口調で話さなくていいだろ。姫香、大丈夫か」

「うん、でも本当の話なの、それ」

 真は頷いて言った。

「有名な伝承ではあるが、色々脚色された可能性はあるな。血が噴き出すなんてカナリア諸島の、赤い樹液が出る竜血樹でもあるまいし。結局信長は最後に妙国寺に蘇鉄を返したんだ。静岡の吉田町能満寺の蘇鉄を駿府城に移させた家康も同様に帰りたいと泣く蘇鉄を元の寺に返している。そういえば、二条城には後水尾天皇の行幸に先がけ、一六二六年に佐賀の鍋島勝茂が蘇鉄を家光へと一本献上している。それがこの蟇股の蘇鉄に結び付くかは判明しないけど」

「あ、そうだ、蘇鉄なら」

 ここでまた背後に戻った世理奈が動画を撮りながら何かを思い出した。

「大社さんの国造館の庭園にも植えてありますし、それにここから東に十五分程歩いた所に福性寺があって日御碕の大蘇鉄がありましたよ。国の天然記念物に指定もされてます。樹齢は確か五百年くらいだった、ような」

「何、この地にそんな記念物の蘇鉄があるのか……ん? どうして一部過去形なんだ」

「あはは、データは残っているんですけど実は何年も前に枯れてしまって」

 気恥ずかしそうに世理奈は実情を語った。

 真は口に拳を当てて考えた。

「そうか。でも椿にしろ蘇鉄にしろ、この地のものをモチーフにしたって意中も視野に入れておいた方がいいのかもな」

 真はノートに気になった内容を書き込むと、次に残った楼門の南側へ移動した。


「これはまた愉快な蟇股が並んでいるな」

 もはや楽しさを隠さず真は写真を撮り、蟇股の中身を書き留めてから背後の二人に解説した。

「ここも北側と同じ上層に左右二枚、下層にも左右二枚の四枚の蟇股となっている。じゃ、先ず上層の左手から説明する」

 真はその蟇股を指さした。

 姫香も世理奈もズームで眺めた。

 赤・青・緑・樺色の四色の雲が七つ彫られている。

「あれは彩雲だ。別に瑞雲と呼ばれている。吉兆を表す雲だけどここではまた別の解釈を持つ。ここは出雲の地、だからあの蟇股は『八雲』だと思う。もちろん出雲の地そのものを現しているだろうし、それはまた和歌を詠んだ須佐之男命か八重垣神社の櫛名田姫をも指す。何と言っても須佐之男命を祀る日御碕神社は出雲大社の祖神おやがみだからな」

「ねえ、先輩、もしかしてここの八雲の蟇股って大社さんの天井画と関わりあるんですかね」

 矢庭に世理奈が不思議そうな口調で聞いた。

「天井画?」

「ほら、出雲大社の天井に七つの瑞雲が描かれてますよね。あれって何で八つの雲じゃないのかって謎とされてます。ここと同じ数なら何か関係あるのかなと思って。あの画って寛文七年と延享元年の二回描かれてますけど、みさきさんが造られた後ですよ」

「いや、ここのは彫刻だからな。あの画は定説通り、完璧を避けて敢えて未完にしたままかの説か、神魂かもす神社の九つの天井画の雲と関係があるんじゃないか。出雲大社から一つ雲が移動したっていう説。それにここは小野家の神社で、関連なら出雲国造家の支配を受けていた神魂神社の方がしっくりくるだろ」

「違いましたか」

「でもそういう発想が謎を解くヒントになるかもしれないからドンドン発言してくれ」

「……真、何で二人だけで専門的な話してるの」

 姫香がいじけて真のリュックを引っ張った。

「おお、すまん。いや、蛇足みたいな話だったからな。これからはお前にもちゃんと解説するよ」

「じゃあ、あの雲の下の蟇股は大根なの。中途半端に屋根で隠れてしまってるけど」

 八雲蟇股の真下にある欄干下層の蟇股へ姫香は目を移した。

「そうだ。廻廊の屋根の棟の端がたまたま蟇股の位置に当たってしまったから、大根の葉の中に棟が食い込んでいるように見える」

「楼門の中にも大根の蟇股あったよね。これと何か関連あるの」

「うーん、まだ仮説の段階で思案中というか保留してる。別の蟇股で関われば話すよ」

「それじゃあ、残りの二枚は? 右上は緑の鳥が桃色の花の咲いている枝に留まってるし、右下の蟇股は……後ろを振り向いて海を泳ぐ、おしりにモジャモジャのものが付いた緑色の亀、なのかな」

「当たりだよ。そのままさ。上は桃の木に留まる鳩。桃は邪気を祓う。それから多産も示唆する。そして下は荒波と蓑亀みのがめだ」

「蓑亀?」

「藻を甲羅につけた亀の名前だよ。実際は藻でなくて緑藻類りょくそうるい。蓑を着たみたいだからそう呼ばれている。長寿を示しているんだ」

「ふうん。亀は何となく想像付くけど、鳩は平和の象徴なのかな」

「いや、それは聖書由来だな。洪水がおさまったノアの箱船に戻ってきた鳩がオリーブの枝をくわえていたから平和のシンボルとされた。でもここはキリスト教が禁じられた江戸時代に建てられた神社だ。当然理由も違ってくる。鳩は鎌倉時代には勝機を運ぶ鳥として捉えられていた。そしてそれは鶴岡八幡宮を代表する鳥ともなった」

「あれ、どっかで聞いた名前の神社」

「神奈川県にある源氏の守り神の神社だよ。鎌倉幕府初代将軍源頼朝ゆかりの神社でもある。鶴岡八幡宮の祭神・応神天皇の道案内をしたのが鳩だった。そして鳩は鎌倉幕府の公式記録書である『吾妻鏡』にも登場する。それに亀もだ」

「そうなんですか。それは私も知りません」

 世理奈も興味津々な顔付きを向けた。

 真は教示した。

「長門の戦の時に源氏の兵の前に大亀が現れた。捕まえた兵士は食べようとしたけど、頼朝の異母弟である源範頼みなもとののりよりが甲羅に印を付けて放してやったんだ。その大亀がさながら恩返しをするかのように壇ノ浦の戦いの時に現れて源氏の船を誘導した。更に壇ノ浦で平氏が負けて入水する時に屋形船の上を二羽の鳩が舞っていたという。つまるところ両方とも源氏にとっては勝利を導く縁起の良い動物だったんだ。吾妻鏡は源氏の血を引くとされる徳川家康も愛読していた。ここはその孫の家光が建てた神社だ。幾らか掛かり合いはあるかもしれない。でも……」

 真は口を止めて楼門の全ての蟇股の内容を記したノートと記録画像を何度も見返した。そうしてから「考えてあるな」と呟き、会得した顔で話を再開した。

「恐らく鳩は源氏に関した縁起物だろう。ただ、亀に関しては、これは別の見解をする方が腑に落ちた。世理奈は四神を知ってるか。姫香は昨日出雲大社で咲耶さんに話したから覚えているか」

 またしても突然の質問である。

 姫香は忘れたのか、申し訳なさそうに首を横に振り、逆に世理奈は縦に振った。

「方角を司る神獣ですよね。東に青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武」

「その通り。でも中国の天文学の二十八宿では龍・鳥・虎・亀になるんだ。朱雀でなく鳳凰なら楼門西の蟇股と合わせればそれに一致する」

「あ、確かに大根の蟇股は間に挟んでいますけどその並びで間違いないです。それに龍の荒波と亀の荒波は共通ですし、亀の表情も厳しめですしね」

「本来なら龍の隣に亀を配置する予定だったんだろうな。しかし、屋根の棟が邪魔になった。そこで大根の蟇股を差しいれて亀を右にずらせたんだと思う。最終的に四獣で楼門の鬼門の方角を護ろうとしたんだろうよ」

「はあ、相変わらず素晴らしい慧眼けいがんを持ってますね、先輩」

 世理奈は博覧強記の真を惚れ惚れと眺めた。

 真はそんな事はないと肩を上げて追加した。

「ちなみに虎と龍は互いに見合う形に、鳳凰と亀は互いに後ろを向いている。こうした体や首の向きも思いの外大事なんだ。さて、楼門はこれで見終わったから次へ進もう」

 真は再度楼門を潜って中へ入った。

 そして日沉宮のある北西を向くと楼門の近くの通路の左右に小さな赤い社を見付けた。

 正面を一目見ただけで蟇股彫刻が施されているのが判る。

 真は姫香へ向いた。

「この左右の入母屋造の末社は門客人かどまろうど社だ」

「かどまろうど」

「早い話が両社とも門を守る神、随神と同等の役割だと思ってくれていい。向かって左手の社は豐磐窗神とよいわまどのかみ、右手は櫛磐窗神くしいわまどのかみ

「舌を噛みそうね」

「はは、神名はそういうのが多いぞ。さて、門客人の神は『古事記』では邇邇芸命ににぎのみことの従者とある。他には平安時代の神道資料である『古語拾遺こごしゅうい』では天照大神が両神に門を守らせたとある。ここの楼門の先には天照大神を祀る日沉宮がある。まさにこの門客人社はこの場所に最も相応しいと言えるだろう。祈年祭祝詞でも『あしたには御門みかどを開き奉り、ゆうべには御門をて奉りて、疎夫留物うとぶるものの下より往かば下を守り、上より往かば上を守り、 の守り・の守りに守り奉る』とある。楼門の狛犬と四獣の蟇股、そして門客人社。完璧な護りだな」

 そうして真は左手の社に歩を進め、軽く合掌したのだが、正面に立つなり「ああ」と力ない嘆声を漏らした。

「どうしたの、真」

 そのひどく落胆した様子に姫香が案じた。

 真は社殿の正面の張り出した部分である向拝こうはい柱の横木である頭貫の上を飾る蟇股を指さした。

 それは蟇股の体はなしていても退色し、彫刻の輪郭もぼやけて、何の彫刻か判別出来なくなっていた。

「ウェザリングだ」

「何」

「腐朽だよ。気象環境が原因となる木材の風化。雨風や紫外線にさらされると木材はやがて腐って朽ちる。特に日御碕神社は海風を直接に受ける厳しい環境下にある。この蟇股はその被害にあった。二頭の鳥らしいデザインは見て取れるが、色も落ちて模様も朽ちて原型すら判別出来なくなっている。俺はこういうケースを『蟇股の悲劇』と呼んでいる。神社は社自体の修復には力を入れるが、装飾、特に蟇股は放置される事も少なくない」

「あまり注目されないから?」

「それもあるな。何より修復に費用が掛かる。どうしても蟇股は後回しになってしまうし関心がなければ無視され朽ち果ててしまうんだ。はらわたの部分がすっかり欠落して抜け殻みたいになった無惨な蟇股を俺はいくつも見ているよ」

「そうですね、みさきさんは海に近いからどうしても」

 世理奈も同意して頷いた。

「造営記録に蟇股の詳細が残っていればいいが、余程の大きな神社でなければ記載されない。今後は神職も参拝者ももっと蟇股を注視してくれるよう祈るよ。じゃ、気を取り直して向拝の奥の蟇股を見てみ……」

 真が首をかがめて奥を覗き込んだ途端動きをピタリと止めた。

 そうしてやがてさっきとは打って変わった明るい顔で後ろを振り返り、人差し指をクイクイと曲げて二人を呼んで「見てみな」と奥の蟇股へ手を向けた。

「……大根を食べているネズミ?」

 姫香は予想もしていなかった蟇股の構図に困惑していた。

 葉の茂った二股大根の上に灰色のネズミが乗ってその実をかじっていたのである。

 嬉しそうに真は片笑んだ。

「想定していた通りの蟇股がこんな社にあるとはな」

「え、真はこれがあるって推測してたの」

「楼門に二枚の大根蟇股を見つけてから予感はしてたよ」

「どうして」

「実は大根の彫刻は珍しいものじゃないんだ。それは多く寺院に飾られる。そこでは野菜の大根がお供えに使われる。それもこうした二股大根だ。そしてそのお供えになる対象の仏が二体ある。その内の一体が大聖歓喜天だいしょうかんぎてんだ。略して聖天。象の頭を持つ仏教の守護神だよ」

「あ、しょうてんさんならテレビで観たよ。きちんと祀ればどんな願いもきいてくれるって」

「それだ。そしてもう一体が大黒天だいこくてん。元々ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハー・カーラが仏教に採り入れられて護法神となった。姫香も七福神の大黒天といえば分かるだろ」

「あ、うん。それは知っているけど……」

 姫香は意味ありげに世理奈を打ち見た。

 世理奈はその視線の訳を理解し、昨夜、ダイコク様に可哀想と哀れんでほしいのかと罵った言葉を想起した。

「八神さん、あなたダイコクを勘違いしてるのよ。私が言ったのは大社さんの祭神の大国主おおくにぬし。音読みするとダイコクになるでしょ。混同されると大社さんも迷惑なのよね。仏教の大黒天とは全然違うの」

 すると真はその説に同調しつつも訂正した。

「とは言っても昔は神仏習合で大国主=大黒天だった。だから大黒天が大きな袋を担いでいるのは兄弟である八十神の荷物を入れていた袋が起源になって……おっと、姫香はこの話知らないか」

「知ってる。調べた。私の名前も。でも私は須世璃姫を恐れて因幡に逃げ帰る八上姫にはならない」

 と姫香は世理奈の前に立ち、真は譲らないとばかりに睨んだ。

 世理奈は鼻息を抜いてわらった。

「改めて受けて立つわよ。ただ、あなたが泣きべそかいて岐阜へ帰る姿が目に浮かぶけど」

「おい、言い争いは止めろと……」

 真が渋い顔で制止ししようとすると二人は「言い争いじゃない」と声を揃えた。

「だから説明の続きをしてよ、真」

 何なんだと惑った真は催促されるまま続けた。

「あ、ああ。この大根は聖天でなく神仏習合時の大黒天、つまり大国主を表しているんだ。大国主の祖は日御碕神社・神の宮の祭神である須佐之男命。とてもシンプルな根拠だろ」

「でも何で大根とネズミなの」

「大根は大黒天の方のエピソードだな。例えば、知られている所では山形県の庄内地方で行われる十二月九日の大黒様のお歳夜としやだ。歳夜というのは神の年越しを祝う日なんだが、大黒天の場合妻を迎える夜とも言われている。その日に二股大根が供えられる。それとは別に甲子待きのえねまちという甲子の日に子の刻まで起きている祭があるんだが、ここでも二股大根は大黒天への捧げ物だ」

「だからどうして二股大根なの」

「いくつか理由はある。大根は田の神として尊ばれた。それに伝承だが、十二月九日に餅を食べ過ぎた大黒天が満腹で歩けないでいると、その前を通りかかった娘が籠一杯の大根を運んでいた。大黒天はそれを見て、大黒は腹痛に良いから一本分けて欲しいと娘に頼んだ。娘はこれは雇い主のものだからと困ったが、大根の中にたまたま二股大根を見つけて、これなら大根の数は減らないとその片方を割って渡した。それを食べた大黒天は腹痛が治ったという。それが元となってお供えになった」

「へえ」

「もう一つが嫁取りの話だ。そこでの二股大根はある物をシンボライズされたと伝わっているんだが……」

「シンボライズ?」

 姫香は真を正視した。

 真は途端目を伏せた。

「女性の象徴だよ。察してくれ」

「え」と尚も理解してない姫香に苛立って世理奈が口を挟んだ。

「二股大根は女の股よ。妻を迎える夜って想像すれば見当付くでしょ」

「え……え……」

 それを耳にした姫香は忽ち真っ赤に顔を染めた。

 世理奈は驚いて怪訝な顔をした。

「八神さん、何その冗談みたいな反応。あなたまさかこの年まで誰とも付き合った事ないってんじゃ」

「何よ、それが悪いの!」

 姫香は逆ギレ気味に返した。

 世理奈はやや後退った。

「別に悪いって訳じゃないけど、今時珍しいなと思って」

「今まで私は真以外目に入ってなかったのよ。笑いたければ笑えばいいじゃない」

「開き直りもここまでくると清々しいわね。ね、真先輩」

「俺は笑わないし、笑えない。俺だって誰かと付き合った経験なんてないからな」

 真は無表情に 告白した。

 世理奈は失言に口を濁した。

「あの、私は別に、先輩を揶揄やゆしたつもりじゃ……」

「解っているよ。ただちょっと二人とも静かにしてくれないか。今この蟇股に関して引っ掛かった部分がある」

「何です」

「世理奈はネズミと、ダイコク、大国主の逸話に詳しいだろ」

「簡単になら。根堅州国で大国主が須佐之男命に試された時、須佐之男命が原っぱに鏑矢かぶらやを射ってそれを取ってくるように命じられた大国主は周りに火を放たれ絶体絶命になった。その時に助けてくれたのがネズミだったんですよね。ネズミは窪地に大国主を落とさせ、燃えさかる炎から退避させ、その間に鏑矢を咥えてもってきてくれた、でしたっけ」

「正しく。だからネズミは大国主と結び付きがある。大黒天は大国主の本地仏。そうした経緯でやがてネズミは大黒天の神使となった」

「そうですけど、それがどうしたんですか」

「急ですまないけど、世理奈はここで暫く待っていてくれるか。少し姫香とプライベートな話があるんだ」

「え?」

「頼むよ。出来るだけ早く済ませて戻ってくるから」

 真は首のマイクを外して当惑する世理奈へ渡すと、姫香の手首を唐突に掴んで楼門から外へ連れ出した。

 そして社務所横の駐車場に人がいないのを確かめて姫香の顔を見つめた。

「姫香」

「な、何……」

 高鳴る心音を抑えて姫香は真を見返した。

 真は真顔で明言した。

「Xの組織の名前が判明した」

「……えっ」

 想像していた返答とは全く違ったが、進展を予感させる真の口振りに姫香も「本当?」とやや熱を帯びて尋ね返した。

「俺の知識内だから確実とは断言出来ないが」

 とスマホで咲耶の番号に掛けた。

 ツーコールでXが出た。

「おや、謎解きの途中にどうしたんだね」

 真は躊躇ちゅうちょ無く切り出した。

「神使の事を考えていたら途端に思い付いた。お前達、八咫烏やたがらすだな。日本を裏から操る世界最古の秘密結社。違うか」

「ほう、どうしてそう思ったんだね」

「お前は昨夜、組織の正体が、俺が訪れる神社の名前に隠されていると言った。ここは日御碕神社だ。日は太陽、御崎は岬。海に突き出た陸と考えるのが普通だが、ミサキという発音にはもう一つ意味がある。それが御先、即ち神使だ」

「ほうほう」

「日の御先、太陽の神使とは何か。太陽は神で言う天照大神、その神使は鶏だ。しかし鶏を名に持つ組織など俺は耳にした事がない。だからもっと直接的に推察してみた。その解は一つしかなかった。太陽の神使とは三本足のからす、即ち八咫烏だ」

「カラス?」

 隣で耳を傾けていた姫香が呟いた。

「日本の八咫烏は元来三本足ではなかった。記紀にも記されていない。ではどうして三本になったか。それは恐らく太陽に棲むといわれる中国神話の三足烏サンズゥウーの影響だろう。八咫烏は熊野三山では須佐之男命に仕える神使として信仰されている」

 八咫烏は神武天皇の東征の際、天照大神、または造化三神の一柱・高皇産霊尊たかみむすびから派遣され、熊野から大和の橿原まで道案内をしたカラスである。そのため導きの神とも太陽の化身とも言われている。

 Xは肯いた声を出した。

「ふむふむ」

「その名を冠した闇の組織、それが八咫烏だ。八咫烏は歴代天皇を護るための秘密結社だとされる。俺はそっち方面には疎いが、連れに都市伝説に精通しているのがいる。そいつから教わった。正解か」

 答えを声高に求めたらXは笑って、君の言い方でと返事した。

「当たり。但し半分」

(こいつ、やはりどこかで盗聴してやがるな)

 楼門での姫香への言葉をそのまま真似られた真は辺りに首を振って確認したが人影は見当たらない。そして苛立ちながら半分の意味を問うた。

 Xは推理の結果を認めた上で一部否認した。

「確かに全体的な組織の名は八咫烏だ。しかし我々は八咫烏の末端であり、実行部隊に過ぎない」

「実行部隊だと」

「それに我々の部隊にもまた神使の名がある。使命は天皇制の維持だ。その美風を破壊しようとする者、または皇位の簒奪さんだつを企てる者の排除を担う。古では足利義満しかり織田信長しかり」

「ちょっと待て、信長が皇位を簒奪するというのは昭和に入ってからの新しい説だ。それに足利義満は天皇家を乗っ取ろうなんて意志はなかっただろう」

「意志があろうがなかろうが疑いの芽が僅かでも生じれば我々はそれを引き抜く。義満の子である義嗣よしつぐが愚かにも親王の例で元服させられたのは知っているだろう。義満はその愚行のために二日後に倒れ、間も無く息を引き取った。歴史上では一応病が原因となっているが何が起きたか優秀な君なら想像が付くはずだ」

「毒殺か」

「ともかく我等はすめらみことを護る。それに尽きる。神世から続く天皇家の血筋は日の本にとって何よりも重要なのだよ。さて、結社の名を知り少しは進捗したとしても君は我々実行部隊の名と居場所を特定しなければならない。忘れていないだろうね」

「……聞いていいか」

「何なりと」

「何故俺にこんな謎解きをやらせる。口振りではお前達は日御碕神社の謎を知っているんだろう。理解出来ない」

「単純な話だ。テストだよ。優れた組織を維持するためには家柄だけでなく優秀な人材が必要だ。我々は日本中からありとあらゆる方面の頭脳を日々求めている。君は歴史の担当だ。この謎を解けば我々は君の八咫烏入社を上層部に進言する」

「は、入社?」

「スカウトだ。君は今就活中だろう。我等八咫烏の者は裏の権力を有する。君が望むならばどんな古文書も読み放題だし、どこの禁足地にでも足を踏み入れ好きに研究出来る。どうだ、史家として魅力的だと思わんかね」

「くたばれ」

「何」

「人を誘拐し、暗殺を生業なりわいとする組織なんかに俺が入ると思うか。いいか、必ず俺は謎を解いてお前達の元へ辿り着く。そして咲耶さんを取り戻す。首を洗って待ってろ!」

 虫酸が走った真は激昂げきこうして通話を切った。

 姫香は乱暴な応答に気が気でなく狼狽えた。

「真、あんな悪口言って大丈夫なの。それにお母さんが」

「咲耶さんなら大丈夫だ。奴らは謎解きを欲している。手出しはしない。それより姫香は一足先に世理奈の所へ行ってくれ。俺はちょっと電話する所があるから。くれぐれも世理奈に悟られないように頼む」

「う、うん」

 真は無理矢理姫香を戻らせるともう一度通話ボタンを押した。

 暫くコール音が鳴り続けたが、間も無く「はい」と相手が出た。

「剣吾、俺だけど」

「どうした、真。こんな時間に珍しいな。それにライン電話じゃなくて通常の電話でなんて」

 電話の相手は沖縄にいる剣吾だった。

「すまん。今、時間空いてるか」

「絶賛接客中だ」

「悪い、仕事中だったか。後にした方がいいか」

「良いよ。別にそんな重要な用件じゃなさそうだから。それにマーカーが相手していてくれてるから少しなら大丈夫だぞ」

 マーカーとは剣吾の妻の天花の愛称である。

「申し訳ないな。後で天花さんにも謝っておいてくれ。実はちょっとお前の歴史の知識を借りたくてさ」

「はは、史学博士のお前が俺に歴史を。何の冗談だ」

「八咫烏、と言えば察してくれるか」

 その名称が出た途端、剣吾は真面目な声で返答した。

「記紀じゃない方のか」

「ああ」

「ははん、それで俺に電話してきたのか」

「都市伝説に俺は暗いからな。少し神社で調べ物をしているんだが多少気になる点がある。お前から八咫烏については昔ある程度聞きかじっているが、もう一度ざっとで良いから教えてくれ」

「八咫烏か。またレアな件を。俺の知識だって伝承の域を出ないぞ」

「構わない」

「了解だ。秘密結社の八咫烏の濫觴らんしょうは天平十六年に聖武天皇の勅命で生まれたとされる。賀茂氏の一部が支配する組織で正確には八咫烏陰陽道。天皇を裏から支え、トップには三人の大烏と呼ばれる指導者がいる。その三人は金鵄きんしと呼ばれ、その上に裏天皇がいるらしい」

「その組織は現存しているのか」

「らしいが実際は不確かだ。所属している人数も不詳。八咫烏は江戸の後期から力を失い、特に第二次世界大戦後に結社等の解散命令が出て、その後は冥々の内に消えた。伏見宮家や鷹司家、徳川、島津等の名門家で構成されているという説もあるが秘密結社だけに掴み所が無い」

「そうか。じゃあ本題に入るが、八咫烏は織田信長を殺したのか。いや、明智光秀が天海大僧正と同一人物で、彼は八咫烏の一員で、信長が天皇家を超えようとしたから本能寺の変で討ったのか」

「真、神社でお前は何を調べているんだ。八咫烏結社がスサノオとアマテラスに関わるのか。それとも赤い社殿に何か」

「それは……」

 口籠もった真に何かを感知したのか剣吾は続けた。

「まあいいけど。天海が八咫烏であったという噂は昔耳にした」

「しかし、光秀は山崎の戦いで秀吉に負けて農民に落ち武者狩りで殺されている。それに天海光秀説は歴史上の時系列で一致しない」

「そうかな。俺はその可能性は捨てきれないと思っている。ただ、二人が同一だとは思っていない」

「お前はまた煙に巻くような言い回しを」

「そうじゃない。例えばこんな風に考えてくれ。もし天海が二人いたと仮定したら」

「影武者がいたとでも言いたいのか」

 違うと剣吾は声を上げた。

「宮本武蔵二人説と同じだ。たまたま容貌が似ていた天海と光秀はどこかで偶然に出会った。年齢だって通説では五、六歳違うだけだ。年を重ねるとそんな年齢差なんて判らなくなる。だから家康も春日局も再会した時に光秀と間違え親しげな振る舞いをした」

「おいおい、剣吾、それはいくらなんでも」

「黙って聞け。天海は最初から、いや、いつからか八咫烏の一員になっていた。天皇を日の本の頂点と仰ぐ八咫烏だ、禁裏を蔑ろにする主君信長に不満を持つ光秀とは意気投合したに違いない。天海は光秀に八咫烏の意義を教え、光秀は信長を討ってそれを成し遂げた。が、その光秀は死んだ。天海は光秀の志を引き継いで家康へ接近して憎き豊臣家を葬った」

「待て、剣吾。その説は見当違いだ。天海は徳川家で天皇の力を削いだんだぞ。天皇第一主義の八咫烏ならその遣り方は矛盾する。もし天海が八咫烏というならそれは裏切り行為に他ならない」

「そうでもない。天海は死後、自分の寺であった寛永寺の山主に親王を迎えている。お前だって知っている正史だ。これが天海が八咫烏である何よりの証拠。それに徳川も忍者という諜報組織を持っている。八咫烏の正体を嗅ぎ出していた可能性もある。となれば天海は徳川の味方を装いつつ天皇家に与する者でなくてはならない」

「馬鹿げてる。寛永寺造営は比叡山の力を抑えるための方策だ」

「お前の見解はそうだろう。しかし俺はこう考えている。宮が京と江戸に二つあればまた戦の世になっても天皇家はどちらかが存続出来る。行き着くところ、寛永寺を作ったのは天皇家を守る天海の保険だった。どうだ、これなら矛盾はないだろう」

 真は黙った。確かにその説明であれば破綻はない。

 しかしやはり天海が八咫烏だというのはあくまでも荒唐無稽な都市伝説に過ぎない。

「じゃあ、もう一つ……」

 教えて欲しいがと言い掛けたところで上空西からバラバラと大きなローター音が近付いてきた。

 首を上げ確認すると白い機体に赤いラインの入ったドクターヘリである。

 どうやら隠岐の島から病院へと飛行しているようで、やや低空飛行のためか真は通話をするのに「すまん、今ヘリがうるさい」と声を大にして剣吾へ伝えてから少しだけ待機した。

(しまった。ライン電話なら声の分離で騒音中でも喋れたんだが、俺の機種で通常電話にしたのはまずかったな)

 真はヘリが遠のいてローター音が小さくなったのを見計らい剣吾に再度問い掛けたのだが、いつの間にか電話が切られていた。

「接客中だったからな。仕事に戻ったか」

 業務の中、無理に時間を作ってもらった手前もう連絡は出来ない。

 色々と聞きたい質問を諦めて真は楼門に足を向け姫香達の所へ戻っていった。


 そしてさっきの門客人社に帰ると世理奈と姫香がギャンギャンと口争いをしていた。

 あたかも猫の喧嘩である。

 真は気疎い顔を掌で覆った。

「……今度は何だ」

「先輩、聞いて下さいよ。八神さんったらネズミが大根食べてる理由をまたネットで調べようとしたんですよ。ずるくないですか」

 世理奈が近寄ってきて抗議した。

 姫香も躍起になって主張した。

「カンニングみたいに言わないでよ。使える物を活用するのは当たり前でしょ」

「私は検索自体を批判してる訳じゃないわ。でも今回は勝負、だからずるいって指摘してるのよ」

「もう頼むから静かにしてくれ。ここは神社の境内だぞ。誰もいないからといって騒いでいい理由にはならない。ところで勝負って何だ」

「あ、いや、それは……」

 姫香も世理奈も突如口を噤んだ。

 言いたくない二人の雰囲気に真は問い質しを諦め、答えを簡潔に教えた。

「ネズミが大根を食べているこの図はちょっとした駄洒落なんだ」

「楼門の葡萄みたいにですか」

 真は帽子の庇を上下に揺らし開口した。

「江戸も現代も人間はさして変わらない。言葉遊びさ。嘗ては地口じぐちとも言った。舌切り雀を着た切り雀と言い換えたように誰もがそのユーモアを楽しんだ。その地口に画が付いた。それがこの大根をネズミが食べる図だ」

「何の駄洒落か分からないよ、真」

 口を尖らせる姫香に真は言い足した。

「ネズミが大黒天の神使なのはさっき説明したろ。親父ギャグみたいなもんだぞ。ネズミが大根をどうしている?」

「かじってる」

「別の表現で。進行形でなく」

「食べる」

「もっと下品に」

「食う?」

「そう。それが答えだ。大根と言葉を繋げてみろ」

「うーんと、大根を食う」

「『を』は要らない」

「大根食う」

「早口で」

「だいこく…………あ、そういう!」

「そうだ。大黒天とかけてるんだ。大根食うネズミが大黒ネズミとなる」

「へえ、そういう仄めかしなんだ」

「大黒だけでも大根食うとなる。ま、ここではネズミがいるからそういう話だ。それに大黒の黒は陰陽五行で方角の北を指す。十二支の子年の方角は正に北だ」

「……あれ、でも大国主と大黒天って一緒だったんでしょ。出雲大社には兎はいてもネズミの像はなかったよね」

「おいおい、姫香。出雲大社は寛文の時に神仏分離をしているんだぞ。昨日説明したろ。ネズミのは大黒天だ。大黒天は基本仏教に属している」

 真は目を細めて姫香を見た。

「そうだけどさ。でも七福神ってたまに神社でも祀ってあるよね。それに大国主はネズミに助けられたんでしょ。それなら別にネズミの像があってもいいじゃない」

 すると今度は世理奈が言及した。

「あのねえ、八神さん。あの兎像は元々学生が二〇一四年の卒業記念に造ったのが初めで、それから徐々に増えていったのよ。昔から大社さんにあった訳ではないの。それにネズミの像なら同じ出雲の万九千社まくせのやしろに置かれているわよ」

「まあ、それに出雲大社の兎は大国主が助けた『慈愛』を現しているからな。ネズミは助けてもらった方だから出雲大社にもイメージがあるだろう」

「時々身も蓋もない事いいますね、先輩」

 苦笑する世理奈に、そうか、と真は預けていたマイクを受け取り、衿に付け直すと同じ門客人社の東側に回った。

 その面には赤い梅の花が咲いた木の上を一羽の鳥が左向きに飛んでいる蟇股があった。

「紅梅と、何ですかこの鳥」

 世理奈は退色した鳥の彫刻に目を凝らした。

 真も当惑顔を作った。

「うーん、梅に鶯の図が定番だから鶯と思いたいが、青い顔料が微かに羽根に残っているのが気になる。鶯は字の通り鶯色だから違う。では燕かというと尾が二つに分かれていない。目の付近に黒い顔料があるから瑠璃鳥るりちょうだと思うんだが」

「瑠璃鳥って?」

「青い色をしたヒタキ科の鳥。オオルリ、コルリ、ルリビタキの三種が特に有名だ。しかし、鳥の区別は本当に難しい。時折蟇股の調査に日本野鳥の会の会員と共に回りたいと思う時があるよ。さて、逆側の蟇股を見てみようか」

 そうして三人は社の反対に回った。

 そこには三枚の葉の間から垂れ下がる一房の葡萄があった。

「これはまんま葡萄ですね、先輩。これも多産か武道の意味なんですか」

「いいや、葡萄はそれだけじゃない。古事記と日本書紀にも蒲陶えびの名で出てくる。エビカズラ、今で言う山葡萄だ」

伊弉諾尊いざなぎのみこと黄泉比良坂よもつひらさかで妻の伊弉冉尊いざなみまみことの放った鬼の黄泉醜女よもつしこめに追われてる時の逸話でしたっけ。伊弉諾尊が髪飾りにしていた黒蔓草を投げるとそれが葡萄の木になって醜女達がその実を食べている間に逃げた」

「そうだな。その関係でここの葡萄は邪気祓いという暗喩を含んでいるかもしれない。ただ、黄泉比良坂では最後に投げた桃の方が厄払いの効果があるって言われているからなあ」

「桃はそれで意富加牟豆美命おおかむづみのみことって神にもなりましたもんね」

「……真」

 クイと姫香が真のリュックを後ろから引っ張った。

 振り返ると「説明するって約束したよね」との恨めしそうな目で二人を睨んでいた。

 その様に世理奈が業を煮やし代わりに述べた。

「イザナギとイザナミの夫婦神は知ってるでしょ。イザナミが亡くなって悲しんだイザナギが暗いあの世に行って帰ってくれるよう頼んだ。そうしたら闇の中のイザナミから一つの条件が出された。それは決して自分、つまりイザナミの姿を見ない事だった。でもイザナギは約束を破って火を灯し、変わり果てた妻の姿を見てしまった。イザナミは激怒して、逃げる元夫へ鬼女を差し向けて追わせた。イザナギはあの世とこの世の境の坂道、いわゆる黄泉比良坂を逃げた。そして追ってくる鬼女達へ投げた髪飾りが葡萄に変わって、その葡萄を鬼女達が食べている隙にイザナギは更に逃げたけどまだ追ってきた。最後に投げたのが桃の実だった。それで退けられたのよ」

 姫香は、へえと感心したが、世理奈はあからさまに、だから無知なあなたが来るのは嫌だったのよという軽蔑の目を向けた。

 しかし姫香も負けじと睨み返した。

「……姫香、世理奈」

 と真が二人の名前を静かに呼んだ。

 叱責されると思った二人は「はい」と返事した。

「ちょっと早いけど水分補給をしよう。説明すると喉が渇く」

 真はリュックからジャスミンティーのペットボトルを取り出してゴクゴクと飲み始めた。

 世理奈と姫香は顔を見合わせて一時停戦の表情で真から受け取ったドリンクホルダーを覗いた。

 世理奈は中を見るや嬉しそうにはしゃいだ。

「わあ、これ二本とも私の好きなのです。ソルティライチとアクエリアス。覚えていてくれたんですか」

「お前、大学時代そればっか飲んでただろ。朝、空いた時間に近くの店で買っておいたんだ」

「かくいう先輩は変わらずジャスミンティーですね。月餅もよく食べてましたし」

「そんなの観察してるなよ」

 と同じ大学生だった両者が和んでいる側で姫香はじっとホルダーから取り出したペットボトルに目を遣っていた。

 それは「はちみつレモン」と「麦茶」で、それも姫香が小中学生の時に愛飲していたドリンクであった。

(私のも覚えていてくれたんだ)

 少しにやけた顔で姫香は小さく「ありがとう、真」と呟いた。

 そうして休憩を終えた三人は最後の蟇股である社の裏手へ回った。

 だが真は蟇股を見た途端、この世の終わりかと思うくらい力無げに俯いた。

 それは先に話していた例のはらわたが欠落した抜け殻だったのである。

「何でもっと保存か修理をしてくれなかったのかね」

 先人に愚痴を吐いて真は、今度は右手の門客人社へ足を向けた。

「また、腐朽か」

 正面向拝の蟇股を目視するなり真は気抜けした。

 劣化して色が落ちてしまっている彫刻だが、辛うじて原型は留めている。

 気を持ち直し真は世理奈へ向いた。

「これは荒波とそこを泳ぐ鴨だ。これは鳥の形として判り易いし、羽の色も多少残っている」

「鴨ですか。何の描写なんです?」

「そうだな、江戸時代、鴨肉は鶴や雉より下の扱いだった。家康が鷹狩りの時に仕留めた鴨で鴨すきが出来たって話はあるけど結び付きはないな。多分鴨は水鳥だから火除けの表徴だと思う。じゃ、今度は奥の蟇股だな」

 次いで真は頭を低くして覗いた。

 そこには白っぽく変色した葉(本来なら緑)と赤い牡丹の彫刻があった。

 姫香は横から接近して写真を撮った。

「葉っぱの形が連続した波みたいだね。わざとかな」

「どうだろう。意匠なんて考えた当事者によるから。さ、今度は右横の蟇股だ。これは色がまた薄くなっているけど水仙だな」

 横向きに伸びて小さな花を咲かせている水仙に姫香も「これなら私にも見分けられるよ」と物知り顔を向けた。

 真はすかさず問うた。

「じゃあ、そのイメージは何だ」

「………ごめん、そこまでは」

 正直な姫香に真はやれやれと補足した。

「水仙は雪中花せっちゅうかとも呼ばれる。春先の雪が残っている時に力強く咲くからそう名付けられた。唐の司馬承真しばしょうていが記した『天隠子』神解の章の一節『仙人には天に在るを天仙、地に在るを地仙、水に在るを水仙』から由来している。水の中の仙人だ。そして楼門の所で説明したけど、松竹梅以外での歳寒三友は梅と水仙と竹がその組み合わせになる。そして左の社の同位置の蟇股が梅に瑠璃鳥だ」

「え、じゃあ門客人社の左右で季節を合わせているんですか」

 世理奈が望外な見識に二つの社を見比べた。

「偶然かも知れないけど」

 そう言って真は逆位置の蟇股を観察した。

 一輪の椿が凛と咲いている。

「椿だ」

「はい。紛う事なき赤色の椿ですね。で、さっきみたいに左右で趣向があるんですか、季節的な」

「いや、葡萄は秋、椿は冬だ。敢えて共通点を探すなら椿は一輪、葡萄も一房といった所か」

「それが何か」

「まだ不明だ。理由があるとも無いともいえる。それじゃあ最後、背後の蟇股を観てみよう」

 真は社の後ろに回った。

「……また抜け殻の蟇股か。でも何で両社とも後ろだけ欠落してるんだ」

 腕を組んで考え込む真に姫香が推察した。

「後ろは参拝者の死角になるから修理に手を掛けなかったんじゃないですか」

「……うん、それが妥当な考えかな」

 多少の引っ掛かりを無視して、真達は枝が垂れた巨大な松の参道を西へ進んだ。

 そして真はやがて日沉宮の前に立って頭を下げだした。

「あれ、先輩。参拝の順序、神の宮が先ですよ」

 世理奈が右手の階段の上に鎮座している宮に首を向けて注意した。

「知ってるよ。でも教授がこっちを先に調べた方が良いってさ」

「教授が? じゃあ何か含みがあるんですかね」

「まあ、案ずるに先生は何かに気付いているんだと思う。それに別に参拝順序に厳格な決まりがあるんじゃないだろ」

 まあそうですね、と世理奈はまた真の真後ろに回って録画を続けていた。

 真は世理奈が何故横に来ないのかと不思議がったが、その間に右斜め後ろで姫香が二回お辞儀をして四度手を打った。

「……あ!」

 思わず真は姫香に手を向けた。

「何」と姫香は小首を傾げた。

 真は軽く笑った。

「ここは普通の柏手で良いんだよ」

「え、四拍手じゃないの。ここって出雲大社と関係あるんでしょ」

「それを言うなら昨日行った熊野大社だって同様だ。あそこも四拍手じゃない。それに別に四拍手は出雲大社に限らない。大分の宇佐神宮や新潟の弥彦神社もそうだ。そもそも二礼二拍手一礼となったのは明治時代以降でそんなに古い訳じゃない。四拍手の解釈も様々で本当の理由は伝わっていないんだ」

「そうなんだ。ここの注連縄も出雲大社と同じ向きの注連縄だから拍手も一緒なのかなって」

 姫香は頭上の注連縄を見上げた。向拝の頭貫に飾られている注連縄は出雲大社大注連縄のミニ版という感じである。

「ああ。出雲大社辺りの神社の注連縄は大抵大社とお揃いだからな。神殿に向かって左からい始めている。たださっきも言ったけど日御碕神社は注連縄こそ出雲大社と同一だけれど蟇股の位置は右が優位になっている」

「先輩、先輩、美保神社の注連縄は違いますよ」

 世理奈が後ろから注意した。実家のゑびす屋が以前美保神社の氏子をしていたせいもあるのかそこは譲らない。

 真は額をペン先で掻いて応酬した。

「だから大抵って前置きしたろ。けど世理奈は詳しいから迂闊な発言は出来ないな」

「一寸でも言い間違えると先輩でも訂正しますからね」

 世理奈はウインクした。

 真はじゃあと聞き返した。

「逆に質問するけどどうして美保神社の注連縄の向きが他と逆になったと思うんだ」

「理由ですか。それは……うーん、そうですね」

 スマホを持ったまま世理奈は考えた。

 そして暫くしてから自説を述べた。

「あくまで私の考えですけど天の逆手さかてが原因かと」

「そうか。俺も同意見だが、美保神社がいつからその向きで固定したかだな。確実な古い資料でもあれば由来に近付けるんだが」

「そこが一番の問題ですよね。本殿以外は昭和の建築ですし。そもそも美保神社の大注連縄の起源もはっきりしません。これは大社さんの注連縄も同じですけどね」

「ちょっと、また二人とも。話が全くちんぷんかんぷんなんだけど」

 楽しそうに論じる両社に唇を尖らせて姫香が入ってきた。

「ああ、国譲りの神話の部分なんだが、姫香は知らないか」

「うん、私にも理解出来るよう言って」

 すると世理奈がぼそりと呟いた。

「やっぱ邪魔、お荷物」

「聞こえてるわよ」

 青筋を立てて姫香は世理奈を横目で睨んだ。

 真は世理奈へ挑み顔を向けた。

「世理奈、折角だから優等生のお前から姫香にまた説明してやってくれよ」

「えー、メンドイです」

 世理奈は心底忌まわしそうそうに眉を顰めた。

「そう言わずに。さっきもそうだったけどお前は説明が上手い」

 真がにこりと笑った。

 世理奈は少し顔を赤らめた。

「まあ、先輩のご希望とあればやぶさかじゃありません」

「じゃ、頼む」

「仕方ありませんね。で、八神さん、あなたどこまで国譲り神話を知っているの」

「大国主が出雲を譲ったくらい……」

「え、それだけ」

「悪い?」

「ふう、ならあまり専門的な話をしても理解出来ないだろうしざっくり説明してあげる。天照大神が孫の瓊々杵命ににぎのみことへ地上のこの国を治めさせようと雷神とも剣の神とも言われる建御雷神たけみかずちのかみを使者に立てた。そして稲佐の浜に剣を刺しその上にあぐらをかいて国を譲るよう返答を大国主に迫った。大国主は息子達が国を譲ってもよいと言えば譲りますと答えた。大国主には美保神社の祭神・事代主神と、後に諏訪大社の祭神となった建御名方神たけみなかたのかみの二柱がいた。次男の建御名方は嫌だと拒否して建御雷神と力比べをして負けた。その結果国を譲る羽目になったのだけれど、事代主神は国譲りに異論は唱えなかった。漁をしていた事代主神に建御雷神が国譲りを問うと事代主神は承知したと応じたんだけれど、やがて乗っていた舟を踏み傾けて『天の逆手』を打って青柴垣あおふしがきに変えてその中に隠れてしまったのよ。だから四月七日には美保神社でそれを再現した青柴垣神事が行われているの。了解した?」

「したけど天の逆手って何」

「あなた、無知なくせにそこに突っ込んでくるのね」

 呆れ笑いをして世理奈は説明を足した。

「天の逆手がどういうものかは諸説あって真相は曖昧模糊あいまいもこ。作法も手の甲で叩くとか、朝に太陽に向かって濡れた手を叩くとか、下に向けて叩くとか……それに逆手の意味合いも呪詛説とか海人説とかあるし、美保神社では天の逆手さかてでなく逆手むかえでと読んで手打ちとか手締めの起源としているのよ」

「うん、見事な解説だ」

 真が称える拍手をし、世理奈がはにかむと姫香はまた不機嫌になった。

 それに気付かず真は正面上を向いてじっくり観察した。

 注連縄の上には一枚の大和松の蟇股が飾られている。

「へえ、これは中々どうして」

 特別な彫刻に上機嫌で真は写真撮影と記録を始めた。

「真、この蟇股にそんなに興味あるの。あれってただの松だよね」

 特に代わり映えしない意匠に姫香は理解出来ずにいたが、真は姫香にしたり顔で面した。

「あはは、甘いな、姫香は。この宮にはどの神が祀られている」

「ここの看板に書いてあるよ。日沉宮御祭神天照大神」

 姫香は目前に立てられた木製の高札に筆で記されている神名を読み上げた。

「そうだ、その日本を代表する天照大神の社の正面に単なる松の蟇股を飾ると思うか。もう一度穴の空くほどよく観てみな」

 姫香は言われた通りにスマホのズームで蟇股をじっくり観察した。

 すると間も無くそれが松だけでないのに感付いた。

「あれ、松の上の左側に小さな赤い花が咲いてる。あ、右にも」

「気付いたか。それは梅だ。別にもう一つの植物も隠れてるぞ」

「ホント?」

 姫香は更に観察した。そして残りを発見した。

「あ、あった。松の左後ろに笹が生えてる」

「だったらこの蟇股の表現が解っただろ」

「松竹梅だ! わあ凄い! 一枚に松竹梅全てが盛られてる」

 姫香は謎を解いたような嬉しさで感動していた。

 対して背後の世理奈は愕然としていた。

 真はその様子に「どうした」と案じた。

 世理奈はひどく衝撃を受けて唇を噛んだ。

「私は長年みさきさんに通ってますけどこの蟇股に全然気付きませんでした。八神さんと同じく有り触れた松だと。明らかに勉強不足です」

「そんなにショックを受けなくてもいいだろ。多くは蟇股すら知らないんだ」

 真はしょげる世理奈を慰めた。

「でも私は地元の人間です。それに寺社には誰よりも詳しいと自負していました。自惚れです。先輩、今日私は蟇股について学びたいです。どうかよろしくお願いします」

 真剣に頭を下げた世理奈へ真は了承した。

「そういうとこ真面目だな。まあ、話は聞いててくれ」

「はい」

「さて、はらわたに松竹梅全てが収まった蟇股自体はここが唯一じゃない。和歌山県有田の廣八幡宮天神社の蟇股もまた共通の意匠だ。だが、この正面には松竹梅が訳あって付けられた。それはこの参道に秘されている」

「参道に?」

「世理奈、この道を真っ直ぐ戻ったらどこだ」

「楼門ですね」

「そう、そしてその楼門の正面にある蟇股は、最初に松、上に牡丹、潜ると下に鳳凰、上に葡萄だ。葡萄は別として、松は神の木、牡丹は花の王、鳳凰は羽あるものの王」

「あ!」

「高天原を統べる大いなる主宰神天照大神。その御柱を祀る宮に相応しい蟇股が整然と並べられている。極め付けがこの松竹梅だ。それに元々この宮は経島の百枝の松の社からうつってきた経緯がある。ここの松は天照大神の象徴だ」

「は、確かに、確かに」

 頻りに感心する世理奈と対照的に姫香は向拝の両横へキョロキョロと視線を振っていた。その先には薄い茶色に塗られた横向きの動物の彫刻が飾られている。

「真、柱の左右の彫刻って何。蟇股じゃないやつ。箱形なんだけどポップで可愛いよね。口を開けているのと閉じているのがあるからきっと阿吽なんだよね」

「それは木鼻だ」

「キバナ?」

「元々は木端と書いた。頭貫かしらぬき肘木ひじき虹梁こうりょうのはみ出た端を装飾として彫ったもので寺社ではありふれた彫刻だ。元々は仏教由来のもので、あの動物は唐獅子からじし

「唐獅子」

「オリジナルはライオン。言うまでもなく百獣の王でインドから大陸経由で姿形が伝えられた神獣だ。仏教の守護獣でもある。この神社は長く神仏習合だったからな。ちなみに楼門の狛犬の獅子もライオンだぞ」

「あ、そっか」

「ただ、シシと発音すると、以前は鹿や猪もシシと呼ばれていたからそれと区別されるためにカラジシの呼び名となった。この獅子の木鼻は獅子鼻ししばなと呼ばれる。ほら、ちゃんとタテガミが彫られているだろう」

「ホントだ。じゃあの体中についてるサブレポッシュみたいな模様は何」

「サ、何だって」

「ほらクッキーであるでしょ。クルクル巻きの」

「……あれは巻き毛だ。後に毛卍紋けまんもんというデザインにもなって太陽の比喩ともされた。獅子舞の緑の胴幕に白い模様見たことあるだろ」

「あー、フレンチクルーラーみたいな柄」

「菓子ばかりで例えるな、お前」

「八神さん、あなたね。もっと文学的な例えしなさいよ。風車とかあるでしょ」

 世理奈が呆れた長息を吐いた。

「別にいいでしょ。あ、あそこに何かある。ね、真、だるまみくじだって。私引く」

 嬉しそうに姫香はきざはしの左前方の箱に置いてあった赤い小ダルマの群れを指さした。そして反射的に小銭を入れると記念品としてポケットに入れた。

 世理奈は不思議そうに姫香に聞いた。

「中見ないの?」

「今は見ない」

「はは、凶でも出たら困る訳?」

「あなたの前じゃ見たくないだけよ」

 小刻みに挑発する世理奈にフンと顔を反らせた姫香にも気付いていないのか、真は正面の開かれた扉の上を飾る蟇股に集中していた。

「もしもし、真先輩」

「あ。すまん。何だった」

「これって何か謎解きに関係ありますか」

 世理奈は階の近くまで寄って天井の左右を指さした。

 そこには向拝の内側に屋根の垂木勾配に沿って入れられた三角の化粧板があり、色鮮やかな鳥と花が彫られていた。

 真は両方に首を向けて説いた。

手挟たばさみ彫刻だな。彫られた鳥と花の正体は何だと思う」

「えっと、青い蕾は……梧桐ですか。じゃあこれは鳳凰ですね」

「ご明察」

「やった! でも右と左は少し違いますね。右手は飛んでいる鳳凰で左は羽を休めてる鳳凰です……あれ、先輩」

 いつの間にか消えていた真の姿を世理奈は目で追った。

 真は拝殿の左横から手挟を眺めていた。

 世理奈が小走りで追い付くと真は手挟に向かって説明した。

「手挟みは内側と外側の両方に彫刻が施されている。ここは内が桐と鳳凰で、外側は左右とも牡丹の花だ。多弁で花芯は丸い」

「それに葉の形ですね。葉が尖って三つに分かれている」

「相変わらず覚えが良いな。しかし今回の依頼は蟇股だから手挟は参考にしても重要視する必要はないと思う。さ、じゃあその蟇股の観察を再開しよう」

 真は拝礼を済ますと拝殿の正面を飾る六枚の蟇股をじっくり眺めた。

 そうしてから二人に説明を始めた。

「ここは二枚ずつが三つの区画に分かれている。先ずは正面、扉のうえの二枚の蟇股、右が五輪の白菊。そして左が二房の葡萄だ」

「また葡萄ですか、多いですね」

「豊かさの形容でもあるからな。そして右の上半分を外側へ吊り上げている黒い格子戸、いわゆる半蔀はじとみの上に二枚の蟇股。右が瑞雲の中を駆ける白馬。これは神馬しんめだな。そしてその左が、二本、いや三本の幹の大和松だ。それから今度は左手の半蔀の上に着目してくれ。右が五本の粟だ」

「あれがアワ? オレンジ色をしているから人参かと思ったよ」

 姫香がズームして写真を撮った。

 真は笑った。

「人参は根菜類だろ。粟は稲・麦・粟・ひえ・豆の五穀の一つで、米より古い日本最古の穀類作物だ。大嘗祭で米と共に供えられた縁起もの。じゃ、姫香、その左横の蟇股の動物と植物分かるか」

「ううんと、左向いてる鹿だよね」

「じゃあその後ろの木は。特徴がある葉だぞ」

「え、何だろ」

「なら花札知ってるか」

「賭博の?」

「こらこら、間違っちゃいないが正式にはカルタの一種だよ。その絵柄には決まった縁物えんものの構図がある。例えば松に鶴、梅に鶯、藤に不如帰ほととぎす、萩に猪、桐に鳳凰、柳に燕、そして紅葉に鹿だ」

「え、あの蟇股の植物って紅葉なの」

「ああ。これらは取り合わせの良いものの例えでもある。他に竹に虎、竹に雀、牡丹に唐獅子等、蟇股の構図としてよく選ばれる」

「それじゃ、この六枚は何かお互い関連してるのかな」

「そうだな……菊、葡萄、松の説明は今更だし右端の白馬は神馬で、昔はよく生きた馬を神社に献上していたんだ。絵馬はその変化だ」

「へえ」

「しかし、粟と鹿か…………世理奈」

 暫し考え込んだ真は今度は後ろに振り返った。

「あ、はい」

「確かめるけど日御碕神社の社家は小野家で、その家系は辿ると天葺根命あめのふきねのみことだったな」

「そうですけど、それが何か」

「天葺根命は日本書紀では素戔嗚尊の五世孫となっていて、古事記ではそれは天之冬衣神あめのふゆきぬのかみだ。そしてもう一つの資料が兵庫県粟鹿神社に伝わる『粟鹿大明神元記あわがだいみょうじんもとつふみ』。それは和銅元年、七百八年の編纂と言うから記紀より前の古文書で、それには四世孫で天布由伎奴との記述が見える」

「え、まさかここの粟と鹿の並びの蟇股がその古文書由来だと」

「という説も出来そうだが違うだろう。小野家の先祖とされる天葺根命は粟鹿大明神元記に記された天之冬衣神とは家系図で別とされている。その二神は同一と見なされる場合もあるが小野家ではそうじゃない」

「じゃあ、あの鹿と粟の彫刻は……」

「すまん。一つの可能性をとしてお前に聞いてもらいたかっただけだ。他に意向があるかも知れないから保留にする……ってイテテ」

 右隣からいきなり腕をつねられた。

 向くと姫香が膨れ面をしていた。

「突然何だよ」

「重栖さんと難しい話しないで」

「あのなあ、世理奈は協力してくれてるんだ。お前がへそ曲げてどうする」

「そうだけど、私を除け者にしないでよ」

「除け者なんてしてない。世理奈は地元民で神社の知識も豊富。頼るのは当たり前だ。お前がそんな世理奈と競っても仕方ないだろ」

「……そうだけど。そうだけど!」

「はー、あなた本当に面倒臭い女ね」

 世理奈が遠慮無く吐き捨てた。

「世理奈!」と真が注意したが世理奈は苛立ちを隠さず「いいえ、この際だから言わせてもらいます」と姫香に向かって語気を荒げて切り出した。

「嫉妬はみっともないわよ。知らないなら知らないで黙ってなさいよ。先輩はさっきからあなたに何度も平等に話を振っているでしょ。それなのに少し私と会話したくらいで拗ねるなんて小学生じゃあるまいし。あなた構ってちゃん? それとも独占欲? どっちにしろ見苦しい。そもそも今日は研究なんでしょ。メインの先輩を困らせてどうするのよ。帰れとまでは言わないけどお願いだから邪魔しないで」

「…………」

 姫香もさすがに何一つ言葉を返せなかった。そして咲耶の独占欲と嫉妬は男子に嫌われるという忠告が身に染みた。

「姫香……」

 真はやりこめられて俯く姫香に何と声をかけていいのか窮していた。

 幼少期、姫香が空手の決勝戦で負け、隠れて一人悔し泣きしていた時も真はどう慰めて良いのか迷っていた。いつも陽気で活発な姫香の弱い部分を知った衝撃なのかもしれなかったが困惑するしかなかった自分が情けなかった。

 泣いた姫香は暫くするといつもの明るい姫香に戻っていたが、真にはそれが空元気であるのを察していた。

 今回もまた同じだろうかと真は懸念した。

「真、わがまま言ってごめん。もう羨まないから続けてくれる」

 真は顔を上げた姫香を見た。

 そこには空元気でない生気に満ちた眼差しが光っていた。

 世理奈の言葉は真実ではあったがこれは真を賭けた勝負である。

 これで挫けたら真を永遠に失う。

 それだけは絶対に嫌だと思い返した力強い眼力だった。

「……ああ。そうか」

 予想外の意欲に驚いた真はスマホで再び案内図を示した。

「よく見てくれ。ここの日沉宮も、上の神の宮も本殿と拝殿を幣殿へいでんで繋いだ権現造りとなっている。幣殿は本殿の前で幣物へいもつを捧げる場所だ」

「でも権現って言うなら日光東照宮と関わりあるのかな」

 張り切って姫香が問いを発した。

「そうだ。といっても家康を神と祀っている神社だからという訳じゃない。発祥は久能山東照宮とされているが、基は八幡造りと言われている。大阪天満宮、宮城の大崎天満宮等も権現造りだ」

「へえ」

「さて、その造りの建物は三つ。俺達が今いる拝殿。そして幣殿、それから本殿。その三つをブロックに分けて蟇股を観察してみよう。しかし時間の都合上要領よく観るためには拝殿と幣殿と本殿を右と左に分けて一度に記録する」

「先輩、それはええと、本殿の左右を確認してからまた戻って幣殿の左右を観察していたら二度手間になるって話ですね。最後にデータを集めて全体的に俯瞰すれば良いと」

 世理奈が案内図を覗き込んで言い換えた。

「御名答。じゃあ、日沉宮の左手に行こうか」

 真は拝殿の左に立っている禊所みそぎしょの間の通路に入って一列に長く続く六枚の蟇股を見渡した。

「さあ、右から左へと順番にチェックしよう」

 真はあっという間に彫刻の写真を撮り終わり、ノートに記載すると二人に振り返った。

「最初は荒波の上を翼を広げて飛ぶ鴨だ。上には少しの瑞雲がある。その左隣の蟇股が荒波に泳ぐ蓑亀だ。首は体と同じ左面を向いている。そしてここにも僅かに雲がある」

「あれ、先輩、ここの亀って楼門の所の亀とタッチが違いますね。色も異なっていますし」

「だな。彫物方も一人が一切合切彫っている訳じゃないだろう。分業かもしれない」

「ですね」

「その亀の隣は左に唐松、右に梅の蟇股だ」

「今度は松竹梅じゃないんですね」

「あれは必ずしも三つ揃いじゃない。さ、その左を纏めて見るぞ。あれは二つの瑞雲と荒れた波。その隣が筍に向いて口を開けた虎。その隣が波と飛竜ひりゅう

「ん? 龍って普通に飛べますよね。なのに翼のある龍って珍しくないですか」

 荒波に翼を広げて右斜め上へ飛翔する、尾が魚の尾びれになっている飛竜を世理奈はズームモードで観た。

「そうだな。飛竜は少し難しい蟇股だ。水に関するものだから火伏せ(神仏が霊力で火難を防ぐ事)の意味であるんだが、飛竜は絵図や資料によって応龍と同一と見られたり、違う龍と見なされたりする。応龍は龍の進化したものだが、一方で飛竜は龍の子供とも言われている」

「それはまた見解が見事に分かれそうですね」

「ああ、ところでこの奥に向かって飛んでいくこの飛竜の構図は日吉東照宮の蟇股にそっくりだ」

「日吉東照宮って、滋賀県のですか」

「うん。日光東照宮のひな形となったと伝わる神社だ。ここの彫物方はいくらか影響を受けているかもしれないぞ。で、側面はこの六枚で終わりだ。次に幣殿の方向に……」

 と言いかけた真の右袖が引っ張られた。

「どうした、姫香」

「あ、うん。私の勘違いかもしれないけど、ちょっと気になった所があって」

「何だ」

 姫香は蟇股へ順に指をさした。

「ほら。真さ、楼門の所で亀の説明してくれたじゃない。四獣だっけ。ここってそれに当てはまらない?」

「は?」

「だって龍と虎と亀と鳥なんでしょ。この列なら龍は飛竜だし、鳥は鳳凰じゃなくて鴨だけど」

「あのね、八神さん、飛竜はともかく鴨と鳳凰じゃレベルが……」

 と世理奈が知識で遣り込めようとしたが、真は「いや、面白いな」と肯定して姫香に向いた。

「それが正しいかどうかは別にして興味深い見方だ。気付いたらお前も忌憚きたん無く言ってくれ。頼むな」

「うん!」

 認められたのが嬉しくて、姫香は一転して明るく微笑んだ。

 対して世理奈は「じゃあ次は私が観ます」と勇み足で幣殿の方角へ右に曲がった。

 周りを見渡すと拝殿の裏手には未だ二枚の蟇股が残っていた。

「あ、これは私にも判ります。右が紅白の菊。左が二輪の牡丹ですね」

 追い付いた真は何故かこちらにカメラを向ける世理奈の説明にビンゴと首肯した。「じゃあそのまま後ろを向いてくれ。そこが幣殿横の蟇股になるから」

 真は世理奈に促したが、世理奈は再び真の後ろに回った。

 忙しないその素振りに真は尋ねた。

「何で世理奈はさっきから俺の後ろで撮りたがるんだ」

「だって折角だから格好良い先輩の姿もカメラに収めたいんです」

「物好きだな。まあ、いいけど。さて説明再開だ。幣殿の横の蟇股は三枚。先ずは右の一枚目。瑞雲と……恐らくこれは柳だな」

 細長い葉がいくつも細い枝に付いた植物に真は推定した。

「柳ですか」

「風雪に耐えて春に早く芽吹く縁起物。鬼門を封じ、邪気を祓う木ともされている。そしてその隣の蟇股が椿の花木に絡みつく蛇」

 真はチラリと横目で爬虫類嫌いの姫香を眺めた。

 一歩下がりながらもちゃんとカメラで撮影している。

 世理奈は思索しながら真に言った。

「蛇ですか、蛇は大社さんもそうですけど神在祭には深く関わる神使ですからね。でも何か奇妙です」

「ん?」

「いえ、蛇なら天照大神の日沉宮でなく須佐之男命の神の宮の方が相応しい気がしまして」

「大蛇退治の件なら須佐之男命だろうが、ここでは神使と見ていいんじゃないか。ま、ここで意味を長く考えてもらちが明かないし。次に行こう……あー」

 真は三枚目の蟇股を確かめた途端失望した。

 またしても抜け殻だったのである。

「こんな場所でも欠落の蟇股か。そんなに修理の手と資金が足りてなかったのかね」

 気を落としながら真は「次は本殿だ」と足を向けようとしたが、何と本殿に登る階段には行き止まりの木の柵が無情に設えてあった。

「えー、これじゃあ見えないよ」

 思い切り文句を吐いた姫香だったが、世理奈はこっちこっちと左側の回廊に通じる道に二人を誘導した。

「ここからなら望遠で何か見えるでしょ」

「お、確かに。ギリギリ観察出来るな」

 本殿に振り返ると奥斜めながら五枚の蟇股が確認出来た。

 そして単眼鏡とカメラの望遠を駆使して真はノートに書き留め二人に尋ねた。

「あの五枚の内のどれか分かるか」

 すると二人は一番右の蟇股を指して声を揃えた。

「白梅の木に留まる鶯です」

「そう。もう慣れたな。じゃあ残りの四枚は。いや、真ん中の三枚だけでいい。予想してみてくれ。ちなみに一番左奥の蟇股はがまの穂と鴨だ」

 世理奈と姫香は共に道具を使用して蟇股を凝視した。

「駄目。真、私、白旗」

 見慣れていない彫刻に姫香は断念して掌を上げた。

 一方世理奈は諦めずに観察を続けて答えた。

「真ん中のオレンジ色の実は柑橘系っぽく見えますけど、ミカンですか」

「お、ほぼ正解だよ。中心の蟇股はたちばなだ。ミカンとは違うけど、日本古来の柑橘で常緑だから永遠を表す。別名は非時香菓ときじくのかくのこのみ。記紀にも記されているぞ。そして京都御所の内裏だいり紫宸殿ししんでんの右手に植えてある」

「えっと右が橘で、左は左近の桜でしたっけ」

「うん」

「真、でもあの蟇股の実は全部上を向いているけど。柑橘系って下も向くでしょ」

 姫香は否定的に聞いた。

「それが小さな実の橘は上向きで結実する。またそういう表現なんだ。姫香も武家の家紋で見覚えがあると思うぞ。ほら」

 真は検索した画像で黒い丸の中に黒い上を向いた橘の家紋を見せた。

「あれ、これって」

「井伊直政の家紋で丸に橘紋。山中鹿之助も同様に橘。上を向いているだろ」

「ホントだね」

 そしてそのまま真は続け様、右から二枚目の蟇股に腕を向けた。

「梅と鶯の左隣の蟇股は栗だ。イガが割れて中の茶色の実が覗いてる」

「栗? え、外側は茶色くないけど」

「まだ未成熟の栗はイガが緑色をしているんだ。日光東照宮の栗の蟇股も青色で表現されている。それにほら、イガの突起が細かく彫られているだろう」

「ああ、あの滑り止めマットみたいなブツブツはトゲなんだ」

「言い方!」

 姫香に突っ込んだ真の後ろで世理奈は考えを整理して問い掛けた。

「栗って事は戦勝の祝いの搗栗かちぐりですか。んー、じゃあ栗と橘の並びが縁起物なら、最後の蟇股もその類ですかね。何か野菜か果物みたいですけど」

 緑の葉と蔓の中で横長に成っている縦縞模様のオレンジ色の二つの実をもう一度注視する世理奈に真は答えた。

「あれは真桑瓜まくわうりだ。この辺りじゃ味瓜って言うんだろ」

「ああ! 確かに味瓜ですね」

 改めて確認し、記憶と符合した世理奈は驚いた。

「あの果物ってそんな昔からあったんですか」

「記紀にも万葉集にも出てくる古い時代の果実だ。瓜めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ、って奈良時代の歌人・山上憶良やまのうえのおくらの歌にもある」

「へえ、あれも味瓜なんですね。瓜と栗を食べて遠くにいる我が子を思い出すっていう。あれれ、ならこの味瓜と栗の並びって憶良の関わりなんですか」

「いや、連続してないしそれは意図してないんじゃないか。ただ真桑瓜は人気の水菓子で、江戸に移った家康がわざわざそれに適した畑を探し、秀忠が美濃の真桑村から百姓を呼び寄せてその瓜田に真桑瓜を作らせた。そしてここを造営した孫の家光も本田瓜という品種の真桑瓜が大好物だった。それに真桑瓜は断面図が徳川の三つ葉葵紋に似ているとも言われている。後に葵瓜と呼ばれたのはそのせいだ。さて日沉宮の左側の蟇股は以上だな」

 次は反対の右手に回ろうと、真は二人を導いて日沉宮の拝殿の右へ向かおうとした。と、その時、

「先輩、先輩、一枚見落としてますよ。あれ、あれ」

 世理奈が幣殿から本殿の隠れた部分を指さした。

 真はその指の先を単眼鏡で見てみると「あれは!」と思わずにやけた顔を作った。

「え、こんな所に」

 カメラでズームした姫香も思い掛けない蟇股に驚いた。

 それは「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿さんえんの彫刻であった。

「あれって日光東照宮にある彫刻だよね、真」

「ああ。といっても背景の植物も猿の順序も違う。日光の場合は左から聞かざる、言わざる、見ざるだが、ここのは言わざる、見ざる、聞かざるとなっている。ただ、日御碕神社は日光東照宮の後に建てられているし、造営は日光と等しく家光だ。何らかの狙いを込めてここの本殿に掲げたに違いない」

 これは益々研究のし甲斐があるぞと、真は意気込んで日沉宮の反対側へ足を進めた。

 正面を通り越し北へ出るとそこは広く庭が開けていて、一ヶ所に白い玉砂利が敷き詰められ、飛石の先は黒御影石がはめ込まれた自然石の碑が建っていた。

 世理奈は真の視線の先を察して教えた。

「あれは昭和天皇の御歌記念碑ですね。あ、そういえば思い出しましたが、見て下さい。あの歌碑の左の奥、宝庫の前なんですけど、そこにある低木がさっき話していた橘です。紫宸殿の橘の実から育った木が移植されました。まだ最近なんですけど」

「紫宸殿の?」

「はい。江戸時代中期に日御碕の小野検校けんぎょうが京都の御所に参内した時に紫宸殿の橘の実を頂いたそうです。そしてそれを親類で医家の高橋家が譲り受けて育てた。それからずっと後にその高橋家がここへ移して欲しいとの要望があってあんな風に植えられたそうですよ」

「ほう、それはまた偶然の産物だな」

「それより私、橘の木の移植後に説明を受けたんですけど違和感があったんです。神社なのにどうして『検校』なんでしょう。検校って別の座の長だったような」

「いや、この場合は広義の、盲人組織当道座の最高位の検校とは違って社寺の監督役職名だ。それに小野家は社僧でなく代々社家だ。ただ、八十二代・小野政久検校の孫だけは社僧になった。それが荒廃していた日御碕神社の修復を江戸幕府に訴えた順式和尚。だからここの検校は概ね『正神主』や『宮司』を指す」

「そうなんですね」

「そしてその橘の木の左側にある小さな社が蛭児ひるこ神社だな」

「あ、はい。そうです。それがどうかしましたか」

「うん……確か日御碕神社の末社には月読神社があったと思うけど」

「月読さんならここから南東の高台にあります」

「世理奈、お前、蛭児についてどう習った」

 出し抜けに質問された世理奈は記紀を思い出した。

「え、えっとそれは書物で違いますね。古事記では伊弉諾尊と伊弉冉尊の間に最初に産まれた子だと。日本書紀では天照大神と月読尊の後、素戔嗚尊の前に産まれています。ただ蛭児神は不具だったために海の向こうの常世に流された……という流れです」

「そうだな。そして常世で成長した蛭児は岸に流れ着き、後にそれは来訪神としてのえびすと呼ばれた。夷は元来外地の蛮族などを指していたが同時に福も運んでくると言われた。それ故信仰された。当所海の神であった恵比寿はもっと御利益が拡大して商業繁盛・福の神の恵比寿神となった」

「はい」

「その恵比寿信仰は二つの流れに枝分かれしている。神戸西宮神社の恵比寿は蛭児由来で、事代主が元となった恵比寿は美保神社だ。同じ恵比寿でも系統が異なっている」

「と言うと」

「さっきの小野家と天葺根命の件では日本書紀がベースになっている。ここの蛭児もそうだ」

「そうですけど、結局何ですか」

「いや、悪い。また頭を整理してみただけなんだ。見る限り蛭児神社にも、宝庫の正面にある十九社にも彫刻は見当たらない。仮にあったとしても無彩色の蟇股は今観察しているグループから外して構わない。だから日沉宮の拝殿右側の蟇股を改めて観察しよう」

 真は一通りの作業を終えると二人に説明した。

「ここはさっきと対だ。だから拝殿の横は六枚、裏には二枚の蟇股がある。じゃあ順に左から目で追ってくれ。一枚目は白梅の木に向かって左へ飛ぶ瑠璃鳥。二枚目は竹林の中で振り返る虎だ。二本の筍とタンポポが見えている」

「虎の右側の花、あれタンポポなんですか」

「ああ、あれも葉の形で判断出来る。タンポポは江戸時代には鼓草つつみぐさと呼ばれていた。鼓は音で邪気を払うとされた。それにタンポポは漢字で蒲公英とも書くが『ほうこうえい』と呼べば生薬になる」

「へえ」

「そしてその右隣の蟇股は、オレンジ色の実が鈴生りになっている枇杷の実と木。枇杷は仏教で大薬王樹と呼ばれ葉に薬効がある。そして枇杷の木で作った杖はその丈夫さから長寿杖と尊ばれるようになった。そしてその隣が……」

「あれが葡萄と栗鼠、武道を律すの蟇股だね、真」

 宝物を発掘したように嬉しがって姫香は向いた。

「そうだ。ここにあった」

「でも何で栗鼠の尻尾が三つに分かれてるの。妖怪?」

 訝しげな目付きで姫香は再度観察した。

 違う違うと真は笑った。

「あれでフサフサの毛を表しているんだ」

「ふうん、彫刻の表現って独特だね。楼門の蘇鉄の葉だってそうだったよね」

「立体的で絵とは違うからな。それはさて措いて、世理奈、右隣の花の蟇股判るか」

「そうですね。花弁だけでは判断つきにくいですけど葉の形状から菊ですか」

「当たり」

「でも菊ってちょっと種類ありすぎません? この菊の蟇股なんて花だけならミニのヒマワリに見えますもん。ややこしいです」

「そんな疎ましそうな顔をするな。昔から品種が多い花だから仕方ないだろ。じゃそのまま最後の、右の蟇股は何だと思う」

「うーん、左手の花が白い牡丹なのは一目瞭然なんですけど……何かその前に動物いますよね。でも首だけが……」

「無くなってるだろ。部分欠損だよ。こんな素晴らしい彫刻を放置か」

 真は意気消沈した目付きを蟇股に向けて言った。

「動物は唐獅子。青い体に白い渦巻き模様と尻尾とたてがみの一部が確認出来る。有名な取り合わせの唐獅子牡丹さ」

「でもどうして唐獅子に牡丹なんですか」

 適宜な質問に、実は、と真は溌剌はつらつとした顔に戻して理由を述べた。

「獅子は百獣の王だが一つだけ弱点がある。それが体に生じる害虫だ。それは獅子の肉を食い破りやがて死に至らしめる。だが、その虫は牡丹の花から滴り落ちる朝露で死ぬ。だから獅子は夜になると牡丹の下で眠るんだ」

「へええ」

「何だ、世理奈らしくない。『獅子身中の虫』の諺はここから来てるんだぞ。一般的に恩を仇で返す人間をいうが」

「あ、そうですね」

「もう一つの表現は仏教だ。戒律を記した梵網経ぼんもうきょうに記してある。仏教徒でありながら仏教に害なす者の例えだな」

「仏教って、ここは神社ですよ」

「明治までは神仏習合だったろ。天一山神宮寺とかは日御碕神社境内にあった寺院だ」

「あ」

「その時代の決定的な証拠が残っている。こっちへ」

 真は拝殿の裏側に二人を誘い、二枚の蟇股を指さした。

「左が四輪開花している椿の蟇股だ。一つは蕾。それらの花の色は落ちているが葉が分かれずに葉先が尖っているから見分けがつきやすい。そしてその右隣の蟇股が水中に咲く蓮の花だ。葉も大きく、薄い桃色の花が二輪咲いている。極楽の花といえば何を形容しているか推量出来るはずだ」

 蓮は仏教の代表的な花である。どんなに汚れた泥水の中でも美しく咲く様子から悟りを表している。

 まさか神社にそんな彫刻があるとは考えてなかった二人は暫し無言のままそれを見つめていた。

「さ、今度は幣殿だ。三枚の蟇股、左から梧桐に地面で羽を休める鷹。二枚目は白い牡丹と雀。これも地面で羽を休めている。そしてその隣の彫刻が水に咲く水葵みずあおい。小さな花が五輪咲いてる」

「水葵って初めて聞きますね」

「別名は浮薔なぎ。似て非なる物の異名は沢桔梗。沢桔梗は有毒だ。水葵の葉はハート型で葵の葉に似ている。徳川の家紋の植物だな」

「みさきさんは徳川家光が建てたからそのためにこの水葵の蟇股を?」

「そうかもしれないが。水生植物の蟇股は火伏せの意味もある。多方面で考えるべきだ。よし、次は三猿と対になっている本殿の蟇股だ。あれは杜若と一つがいの鴛鴦だ。水に生えているから杜若と見分けられる」

 幣殿を見終えた真はそのまま右側を向いた。

 実は日沉宮の本殿は幣殿から石積みの基壇で高く設計されている。反対側は柵で行き止まりになっていたが、こちら側の階段には何も設けられていない。

 三人が十段ほどのその階段を上ると本殿の右側部がありありと姿を現した。

 もちろん本殿には玉垣が廻らせてあるので接近はかなわないものの、肉眼でも充分に蟇股を観察出来た。

「ここの蟇股は五枚。左二枚は黒い半蔀の上に、中心は赤い扉の上に、そして右二枚は白い壁の上に。反対側と同じだ。さて、左から見ていこう。最初は花びらの色は黒っぽいが四輪咲いている椿。二枚目は大和松の上を飛ぶ白鶴。真ん中の蟇股はまた竹と虎だ」

「多いですね、竹虎のモチーフ」

「本当だな。後で考察しよう。虎の後ろ左右には竹と筍が一本ずつ。虎は右に振り返っている。そしてその右隣の蟇股が荒波に泳ぐ黒い鯉と水草」

「真、ここは楼門と違って鯉の色は黒いんだね」

 詳細を観ようと姫香が出来るだけ蟇股に近寄った。

 真は言った。

「ああ。しかし今の所色に関しては論及出来ない。そして最後の一枚が全て蕾の梧桐だ」

「そういえば楼門にも菊の蕾ばかりなのあったよね」

「そう。何か関わりがあるかもしれない。とにかくこの側の蟇股は松と鶴、竹と虎、波と鯉など取り合わせの良い蟇股が並んでいる。そして椿は魔を祓い、桐は鳳凰が留まる木であるのと同時に、菊と並んで天皇家の木でもある。それと特に中心の三枚は実在する高位の並びだ。虎は中国では百獣の王、鶴は鳳凰に次いで位が高い。鯉は川魚の王。ここはさながら縁起を詰め込んだような一面だ」

 しかし、と真は本殿を向いたままずっと後ろに下がって上を指さした。

「蟇股とは違うが、日御碕神社で一番有名な彫刻がこの屋根にある」

 共に後退した姫香と世理奈も同時にそれを仰ぎ見た。

 幾多の多色雲の彫刻の中に大きな赤い丸と、その右には黄色い三日月、そして左手には黄色い小さな丸が浮き出ている。

「屋根の側面の三角形の部分の装飾。いわゆる妻飾りと呼ばれている。ここにはその飾りとして太陽と月と星が彫られている。世理奈は当然知っているだろ」

「それは勿論ですけど」

「その三つの天体が何を示しているのかも」

「はい。三貴神です」

「その通りだ。多くの瑞雲を背景にして中心の赤い太陽は天照大神、黄色い三日月は月読尊、そして星が須佐之男命だ。三貴神が全て天体にあてられている」

「左のあれは星なの?」

 姫香が腕を向けた。

「ああ、それもただの星じゃない。よく観てみろ。左のやや大きい黄色い丸が星自体を現しているんだが、別に二つの小さな丸星が上にあるだろ」

「ホントだ。星と太陽の間に一つと、太陽と月の間にもう一つあるね……あれ、右手の星だけ赤いんだけど」

「良い観察眼をしているな。ところで姫香、お前、赤い星って何か言えるか」

「え、うん、火星かな」

「肉眼で観察し得る有名な星は確かにそうだ。しかし江戸時代、火星は熒惑けいこく、または夏火星なつひぼしと記されていた。『赤星』といえば木星であったり、蠍座のアンタレスを指したりした。そしてもう一つが金星だ。明けの明星と宵の明星は知ってるだろ。中国では明けの明星は啓明けいめい、宵の明星は太白たいはく、または長庚ちょうこうと呼ばれていた。同一の星だが明け方と夕刻の二つに分かれていた」

「それがあの二つの小さい丸い星?」

「そうだ」

「でも金星って赤くないよね。名前の通り金色をしてると思うけど」

「色だけなら姫香の言う通りで間違いない。なら話をずらすけど太陽の色は何色だと思う」

「赤だよね。ここの太陽も赤く塗られているし」

「お前、昔から太陽の絵を描くと必ず赤くしてただろ」

「そりゃね。日本の国旗も日の丸だし」

「それが日本の正式な国旗は黒船来航の時に外国船と日本船の区別を付けるために用いられたのが原点になったと言われている。江戸時代の浮世絵でも太陽の色は赤く塗られていたからな。しかし、もっと昔、平安末期頃まで太陽は赤地に金丸で表されていた」

「そうなの」

「そしてここと似た彫刻が別の地に飾られている。それが京都北野天満宮中門、別名三光門の梁の上にある赤い太陽だ」

 真は撮り溜めていたスマホのデータ画像を二人に見せた。

 そこには同じ赤い丸の彫刻があった。

「三光門には名の通り、日・月・星の三つの天体が彩っているとされている。瑞雲の上の赤い丸、これが日の出の太陽とされ、他に瑞雲の上の黄色い丸、そして別に銀色の三日月の彫刻がある」

 真は画像をスライドさせながら説明した。

 曰く、諸説あるがその一つに、黄色い丸は日の入りの太陽を表し、銀色のものはそのまま三日月を指す。だが星が無い。星は三光門の上に輝く北極星を示すとされ、それ故この門は「星欠けの三光門」と呼ばれている。

「あれ、日光東照宮でも似たような話を聞いたような」

「陽明門な。門の中心の上空には北極星が輝いている。日光東照宮は北野天満宮をモデルにしたとも伝わっている。そして日光の開祖の勝道上人は七歳の時、夢に明星天子が現れて仏道に入り日光山を開けと告げられた。明星天子とは日天、月天、明星天の三光天子さんこうてんじを指す。そして明星は金星だ」

 すると姫香が近寄って小声で尋ねてきた。

「ねえ、真、また日光って……もしかして日御碕神社も天海が関わっていたの」

「かもしれない。この時はまだ存命だったしな。ただ裏付けがない。それでも天文に明るい者が関与したのは間違いないだろう」

「天海って徳川家のブレーンのですか」

 と耳の良い世理奈が離れた場所から質問してきた。

 南宮大社の謎は口外しないと約束していた以上話す訳にはいかない。

 真は誤魔化して続けた。

「ところで三光天子は法華経の中にも登場する。それによると日天は観世音菩薩、月天は勢至菩薩、明星天子は虚空蔵菩薩とされている。といってもここの神仏習合時の寺院は曹洞宗で、天台宗程の法華経はあまり関わりないと思う。そりゃあ曹洞宗にも法華経の観音経とか自我偈じがげの教典はあるけど」

「法華経ですか……」

 必死に世理奈が回想していると不意にある事柄が脳裏をよぎった。

「あ、みさきさんは昔、十羅刹女じゅうらせつにょ社の名前で呼ばれていた時期がありますよ。十羅刹女は法華経の守護神です。それに出雲神楽でも『十羅』は『日御碕』という演目で舞われます。正にここの話なんですけど」

「神楽、十羅……」

 真はゑびす屋の第二棟に十羅の間があったのを唐突に思い返した。

(あれ、Xの部隊は石見神楽の名前なのか。じゃあそこの部屋に咲耶さんが拉致されている可能性もあるのか。いや、待てよ。奴らの部隊名は神使と言っていたし、それに難波くりふと清少納言の関わりも無い。そりゃあ枕草子には法華経についての記載はあるが十羅は……) 

「先輩、どうしたんですか、難しい顔をしてます」

 いつの間にか世理奈が横から怪訝な表情を近付けた。

 真は焦って普段の顔付きに戻した。

「いや、それより太陽の話だが、光の散乱で太陽が赤く見えるのは朝日と夕日だ。特に地平線・水平線に近付くほど赤く見える。世理奈はこの現象の名前学んだろ」

 また真の背部に回った世理奈が即答した。

「えっと、レイリー散乱でしたっけ。太陽と観測者の距離が近い昼間は波長が短く散乱しやすい青色が、距離が遠くなる朝日と夕日は波長が長く散乱しにくい赤色が届きやすいから空がその色に見える」

「そうだ。そしてここは夜を守る神社で、天照大神の祀られているのが日沉宮。出雲の地は古来日没の聖地だった」

「じゃあこの彫刻の太陽は夕日を表しているんですか」

「恐らくな。さて、金星の話に戻るがその星はここでは実際の色でなく象徴としての赤色をしている。明けの明星はあけぼしと呼ばれていたのと同時にあかぼしとも呼ばれた。言葉がいつの間にか混ざったんだろう。平安時代の『古今和歌六帖こきんわかろくじょうに『月影にはがくれにけりあかほしのあかぬ心に出でてくやしく』とある。これは明けの明星だ」

「でもどうして金星が須佐之男命なの。太陽が天照大神、月が月読尊なのは理解出来るけど」

 今度は姫香が問い掛けてきた。

 真は例を挙げて話した。

「実は金星ではないけど大阪の三光神社が天照大神、月読尊、須佐之男命を太陽、月、星として祀っている。勧請先の宮城青麻あおそ神社が元なんだが、そこは須佐之男命じゃなく、造化三神の一柱である天之御中主神あめのみなかぬしのかみが星となっている。大阪の神社ではいつの時代かに変化したんだろう。だから決して珍しい組み合わせじゃない」

 そうすると今度は世理奈が尋ねてきた。

「でも星=金星はともかく、須佐之男命って海の神とか根堅州国の主でしたよね。記紀には星の記載なんてなかったような。私も須佐之男命が星だって言われるまま受け入れていましたが理由は考えてませんでした」

「焦点はそこなんだ。取り敢えずここの謎は全て回った後に考えてみよう」

「あ、そういえば、先輩、松江の城山稲荷じょうざんいなりの随神門にも赤い太陽と三日月の彫刻が飾られていますけど、みさきさんとは関わりあるんですか」

「いいや、あの門が建てられたのはずっと後の一八一二年だ。松平直政が関係したといっても応神天皇を祀る若宮八幡宮に合祀した形の神社だからあまり関連はないと思う。月日だけのシンボルなら他の神社にも見られるしな」

 日沉宮の蟇股を全て観察し終えた三人は拝殿と幣殿の間の通路で日差しを避けつつ暫し休憩を取った。

「あ、先輩、みさきさんの謎っていえば千木ちぎの話は」

 世理奈はアクエリアスを飲みながら物知り顔で質問してきた。

 帽子を取ってそれで顔を扇いだ真は間髪いれずに答えた。

「外削ぎと内削ぎが逆になっているってアレか」

「何だ、案の定知ってるんですね」

 世理奈の苦笑に真もジャスミンティーを飲んで苦笑を返した。

「それで天照大神が実は男神だって説を読んだ事あるぞ。それか日沉宮の祭神が須佐之男命と天照大神に入れ替わったという話も。世理奈はどう思う」

「私は建築の専門家じゃないからノーコメントです。先輩の意見は?」

「逆千木に関して他の研究者は俗説だと断言してる。それに神社本庁も必ずしも男神が外削ぎ、女神が内削ぎとは限らないと公式に見解を出してるしな。俺も似たような考えだ。姫香は今の話分かるか」

 右隣の姫香が珍しく黙っているのに気付いた真が姫香に尋ねた。

「いいよ、別に私に気を遣わなくても。それに彫刻以外は聞いても理解出来ないだろうし……」

 姫香は手を振って遠慮がちに目を伏せた。

 神社に着いてから真と世理奈の専門的な会話を耳にして正直自分の浅学に落ち込んでいた。そして本当に真の隣に並んで歩くべきは誰なんだろうと。

「あなたバッカじゃないの」

 世理奈がクシャッとペットボトルを潰して気兼ねする姫香を睨んだ。

「私は先輩を嫉妬で困らせないでとは注意したけど質問をするなとは一言も言ってないわよ。あなた謎解きをしてるんでしょ。どんな物がヒントに繋がるか予測出来ない。だったら何でも知るべきでしょ」

「そうだな。俺もそれは世理奈の言う通りだと思う。思いも寄らない所から糸口が見つかるかもしれない」

 真の同調で姫香は引っ込みがちに「うん」と頷いた。

 それでも積極的にならない態度に「ええい、もどかしい!」と世理奈がいきなり姫香の手を掴んで通路から引っ張り出すと「さっき見てた建物の屋根あそこにあるでしょ」と後方の日沉宮本殿の上を指さした。

「あの屋根の端っこに交差した木の飾りがあるでしょ。あれが千木。そしてその千木の先端が垂直に切れてるでしょ。あれが外削ぎ、別名男千木おちぎ。それから今度はちょっと反対方向の神の宮の千木が見える? あの千木の切り口が水平になっているでしょ。あれが内削ぎ、別名女千木めちぎ。一般的に男千木の祭神は男神、女千木の祭神は女神って言われてるんだけど、このみさきさんでは逆になってるのよ。理由は不明だけどね。以上」

「代わりに説明すまないな」

 苦笑混じりの御礼を言った真は帽子を被り直して歩き出した。


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