第四章

(さて、今考えられるのはXの正体とその居場所だな)

 真は記憶した館内の見取り図を思い浮かべながら梅棟から竹棟へと歩いていた。

 壁に掛かった時計は八時半をさしている。

 咲耶は風呂から上がって薬を飲まされた。そして気を失った後に何名かの男に連れて行かれたのだろうが、空いている季節とはいえ館内には数組の宿泊客がいる。

 その中で堂々と誘拐したのだ。

 とはいえ酔っぱらった咲耶を介抱する振りをすれば運ぶのは難しくないだろう。

 逃走ルートも当然前もってこの旅館の内部を調べて決めたに違いない。

 もちろん、旅館のスタッフに組織の人間がいるとのXの情報を信じれば、その行為は難無く成し遂げられる。

「その場合、非常口から抜けるのも訳無いか」

 真は竹棟の入り口から塀へと通じる道を歩き、レバーハンドルが付いた非常口の施錠を確認した。

 見ればサムターン(内鍵つまみ)で鍵をかけるタイプになっている。

 成程、防犯上、サムターンは破壊式の透明プラスチックカバーで覆われていて、いざという場合はそのカバーを叩き割ってサムターンを回して外へ脱出する仕組みである。

 カバーは割れていない。畢竟ひっきょう、この非常口は使われていない証明になる。しかしながらこのタイプのカバーは交換がきく。割っても従業員が事前に用意していた新しいものを付けることは不可能ではない。

 けれど一般の従業員がそれを黙って行えるだろうか。

 破損などすれば恐らく上へ報告しなければならない。

 また非常口には警備会社のステッカーが貼ってある。勝手に開閉したら立ちどころに会社から連絡が来る。が、これも前もって防犯会社に電話をすれば済むことなのでドアを安全に開けるのは出来る。但しそれも女将や支配人などが関係するだろう。

 となれば女将らが誘拐犯と繋がっているかもしれない。

 しかしそれは解明のしようがなく堂々巡りしかならない。

 従業員にも疑惑の目を向けたところで時間の浪費になるだろうと真は非常口の天井を見上げた。

(非常口の上には防犯カメラがついているのか。録画の確認が出来れば咲耶さんが外に連れ出されたのかどうか一目瞭然なんだが)

 旅館に理由無く録画を見せて下さいなどとても要請出来ない。

 若女将の世理奈に頼むことも考えたが、その訳をしつこく質してくるだろうし、個人情報があるからいくら先輩である自分の願いであっても世理奈の性格上断るに違いない。

「それなら外に連れ出してないと仮定して一つ考えてみるか」

 Xは一つだけ不意、もしくは故意かは判明しないが、大きな暗示を与えていた。

 それは自分達を「使婢」と発言した事であった。

 つかわしめ、それは神の使い。詮ずる所、神使である。

 これは組織の名前が神使だと示す結果に他ならない。

 神使は稲荷の狐のように様々な動物等が神に従っている。出雲大社の神使がウミヘビであるように、実はここの旅館には御使いを持った神がいる。

 それが松棟の七福神の離れである。

 真は竹棟の突き当たりにやってきて棟を遮るセキュリティ万全の扉の前に立った。

 外見は普通の木製ドアなのだが、レバーハンドルの上にセンサーがついている。ここにカードキーを近付ければ扉が自動的に開く仕掛けになっている。

 そしてこの扉の先には各々の離れに分かれる地下通路があるという。

 また非常口は地下通路の手前から外へ抜けられる所に設置してあるらしい。

(さて、件の七福神だが、どう思考すべきか)

 恵比寿はこの旅館の名前なので除外されており、正確には六つの離れの神の御使いがいる。いや、布袋尊には神使がいないから五神の神使と定まる。

 弁財天は蛇、福禄寿は鶴、寿老人は鹿、大黒天は鼠、毘沙門天は百足と虎である。

 ただ七福神を神とするには語弊ごへいがある。これらの七福神は現在でも神社で祀られているし、寺院でも見掛ける場合があり、神仏習合の本地垂迹の影響を受けている。

 例えば弁財天は市杵嶋姫命いちきしまひめと同一視されている。

 恵比寿が事代主神と同じと見なされているのは美保神社の祭神となっている通りだ。

(この松棟に咲耶さんが捕らわれているかもしれない。いやいや、今ここで決め付けるのは危険だ。神使には他にも動物がいる。とはいえ、今日はここまでか)

 一旦考えを止めた真は梅棟に向かって歩き、スマホで咲耶の番号に電話した。

「Xだ。どうかしたかね」

 変わらず不愉快な低音の変声器音が耳に流れた。

 真は苛立ちを抑えて話した。

「黒木の間の会話を盗聴しているくせに白々しい。ここの若女将の世理奈が明日行動を共にしたいそうだ。その許可がほしい。別に俺と姫香だけでなくても構わないだろう」

「ほう、助っ人とは有能な君らしくない。自信がないのかね」

「ふん、お前達が期限を切ったから分が悪いんだよ。時間が短すぎる。本来なら資料を集めて数ヶ月単位で腰を据えて取り組む研究だ。で、そっちの返答はどうなんだ」

「それは一理ある。ではその要求を承諾しよう。但し、我々の件と今の状況は秘する事だ。無事にこの八神咲耶を返して欲しくばね」

「一々了承させるな。それともう一つ……」

 真は竹棟と梅棟の境に差し掛かって要求を追加しようとした。

 と、この時受付近くの麺屋から出てきた小学生くらいの男子が三人大騒ぎでこちらへ向かい全速力で走ってきた。

「こら、走らない! 大声を出さない! 夜に迷惑でしょ」

 母親らしき中年の女性が叱りながらその三人を追い掛けてきたが、子供は言うことをきかず、母の足下を抜けて笑いながら二階への階段をドタドタと足音を響かせながら上っていった。

 騒々しさに呆気にとられていた真だったが、Xとの通話を続けようとスマホに耳を傾けたがツーツーとビジートーンだけが鳴っていた。

「あの野郎、勝手に切りやかったな。まだ話があるのに」

 向かっ腹を立てた真は再度掛け直したが、「おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません」とのアナウンスが虚しく流れただけだった。


「むむ」

 料理がすっかり片付けられた黒木の間には一組の布団が追加され、寝室には三組の布団が並行に置かれた。

 姫香は自室から持ってきた寝間着に着替える世理奈の姿を間近で見て唸っていた。

 白いモクレン柄を取り合わせた、光沢のあるライトブルーのシルクの上着はモデルらしい世理奈の艶やかさを醸し出し、真っ白いショートパンツからは長い足が伸びている。

 ポニーテールを解いて長い黒髪を振った世理奈は、じっと見つめる姫香にニンマリと笑った。

「私の美しさに見惚れてたの?」

「馬鹿言わないで。あなたより綺麗な巫女の知り合いが私にはいるのよ」

 姫香はふんと顔を背けた。

 世理奈はその巫女という単語に引っ掛かった。

「ああ、もしかして大野斎って人? 確かに綺麗ではあったけど婚約者いるんでしょ。対象外だわ」

「……何で斎を知ってるのよ」

 世理奈は布団の上で胡座をかいて目の前で不思議がる姫香に話した。

「そりゃ真先輩の口からその名前が何遍も出てきたからネットで調べて南宮大社へ直に見に行ったのよ。気付かれないよう遠目からだけどね。真先輩、ああいうタイプが好みなんだと思って私も黒髪にして長く伸ばしたの」

「何でそこまで」

「好きな人の好みに合わせるのは当たり前でしょ。努力しないと先輩みたいに堅い人は落ちないのよ。幼馴染みは馴染み過ぎてぼやけているだけかもね」

「……落ちるとか落ちないとか、真をからかっているだけじゃない。そういうの私、一番むかつくんだけど」

 かんに触れ、不満をぶつける姫香へ世理奈は冷ら笑った。

「あなたの感想なんて知ったこっちゃないわよ。私は私、他人がどう思おうがこの生き方を変えるつもりなんてない。ただ、真先輩を好きなのは事実。きっとあなた以上に私は先輩に恋い焦がれている」

「何で真なの。芸能人のあなたくらいなら他の俳優とかとどれだけでも付き合えるでしょう」

「そうね、今でも私と付き合いたい男なんてごまんといるわ。過去にも私が声を掛ければ誰もがあっという間になびいた。デートも飽きるほどしたし、それこそマンションや外車を買ってあげるなんて金持ちもいた。ま、悪いけどことごとく遠慮したわよ。そんなので借りなんて作りたくなかったし彼氏面してほしくなかった。うちはそもそも資産家だもの。結局誰も彼も外面だけで話なんて全くつまらなかった。そんな時に真先輩と出会ったのよ」

 世理奈は懐かしそうな目をして過去を語り始めた。

「最初の印象は最悪だった。私の大学の誕生日パーティーには大勢の男が集まって祝ってくれた。でもただ一人私に目もくれず黙々とご飯を食べている人がいたの。近くの人に確認したらどうも人数合わせに連れてこられた年上みたいだった。服装も適当で本当に気がないのが見て取れたわ。私はカチンときた。何で今日の主役であるこの私に注目しないのと」

「あはは、真らしい」

 姫香は笑ったが世理奈は「冗談じゃないわよ」と怒りの目を据わらせた。

「ミスコン常勝者で人気モデルの私を軽んじるなんて良い度胸してるじゃない。でもみんなの面前でそんな愚痴を言うのはプライドが許さなかった。だから先輩を私は一旦視界から消した。それから私は皆にとあるクイズを出した」

「クイズ?」

「私をどれだけ理解してるかってクイズよ。私の名前についてのね。出自についてとか。私が島根出身なのは誰もが知っていた。でもそれ以外は成績が良いだの、モデルの仕事についての言及ばかりだった。名前についてって尋ねたのに的外れな答えばかり」

「名前って」

「私の名字は重栖おもす。でも当時はその発音が嫌いで私はもう一つの読み方の重栖えすみを使っていた。だから大学では『えすみせりな』で通していた」

「別におもすで良いじゃない、何故変えたの」

「私は中学まで太っていてね。で、名字のおもすと掛けてよくいじめられていたの。そんな周りを見返すために私は努力して痩せてファッションを勉強しメイクをとことん習得した。そうして今の私を手に入れた。高校に入ったら地元でも有名な美少女と呼ばれるようになった。私を馬鹿にした男共はいじめていた過去を忘れてアホ面ですり寄ってきた。私は思いきり振ってやったわよ。ざまあみろと溜飲が下ったわ」

「……中々の過去ね」

「大学は地元を離れたかったし、東京にも憧れはあった。入学したら直ぐにモデルのスカウトが来た。私は元々学業が嫌いじゃなかったから希望した偏差値の高い大学へ入れた。才色兼備のえすみせりな。人気絶頂な私は舞い上がっていた。でも周りは私を高価なアクセサリーとしとしか見てない連中ばかり。誕生日コンパでも似たような状況だった。私は笑顔で偽っていても内心うんざりしていた。そんな時、真先輩は相変わらず食べてばかりだった。頭に来た私は八つ当たりで『先輩は分からないですよねえ』と近付いて尋ねた。でも先輩は表情一つ変えず『スセリビメ』と呟いたの」

「スセリビメ?」

「ふう、八神さん、あなた、真先輩といるなら最低日本神話くらい読みなさいよ。私の名字の一文字と名前の二文字でスセリ。神話の須世璃姫すせりびめ。大国主の妻の名前よ。お母さんが意識してその名前を付けてくれたんだけど、まさか親族以外でそれに気付いた人がいるなんて思わなかったわ。聞き違いかと思ったけど先輩はご飯を食べながら私の秘密をズバズバ言い当てた。当日付けていたピアスに描いてある家紋は花輪違いで、それは多く隠岐の出身、そして私が卵と鶏肉を食べてないから、多分美保神社の氏子かそれに縁のある家なんだろうって。最初は実は私に気があって下調べしてきたのかと疑ったけどそれは違った。真先輩は正に探偵だった。そして先輩は食事を終えてさっさと一人帰ろうとした時に『お前、何故おもすの名字を使わない。教授がたまたまお前の本当の姓を呼んだ時、狼狽うろたえていたな』と言ったの。私は、見てたんですかと尋ねたら『珍しい名字だから記憶には留めていた。思い返したらあの時の顔はお前だな』と。私の容貌より名字を覚えていたのよ、呆れたわ」

「あはは」

「笑う所ではないわよ。でも先輩はそんな私に構わず続けた。『重栖氏は隠岐氏の分流で元を辿れば宇多源氏扶義流佐々木氏族だ。源扶義みなもとのすけのりは一条天皇に仕え、やがて九卿の一人と呼ばれた。それに重栖は戦国時代、尼子の支配の後、毛利三十六城の一つ阿宮あぐ城を任せられている。出雲でも由緒ある家系だ。お前はその血を受け継いでいるんだろ。先祖の名字を堂々と誇るんだな』って説教して立ち去っていったの」

「それも真らしい」

 姫香はまた可笑しそうに笑ったが、世理奈は怒気を孕んだ顔を近付けた。

「あなた、真先輩がどれくらい天才か理解出来てないでしょ。普通学生で公武の詳しい系図を網羅してそらんじている人なんていないわよ。私は驚くのと同時に昔、お婆ちゃんが重栖家は偉い家系なんだよ、って話してくれたのを思い出した。誕生日会の男子は真先輩の言動に白けたけど私は俄然がぜん興味を持った。私に魅了されない異性というのもあったけど歴史の造詣の深さに惹かれた理由もあるの」

 世理奈は寝る前の習慣なのか、姫香の前で開脚前屈をしながら話を継続した。

「私は名前を本当のオモスセリナに戻して真先輩に接近した。先輩は初め疑わしそうに用心してたけど、私が歴史を知りたいと頼むと、忙しさの中でも丁寧に教えてくれた。テスト前には傾向と対策もね。先輩を歴史馬鹿とか研究オタクって陰口叩く人間もいたし、ぶっきらぼうに見えるからKYだって思い込まれてたけど、向き合うととても優しい人。そんな先輩の人柄を知る人間は極少数だった。私はそんな先輩にどんどん惹かれていった。まあ、先輩は私がからかっているだけだと今も思っているみたいだけど」

 今度は腕の脇を横に伸ばすストレッチに切り替えた。

「私が先輩を決定的に好きになったのには一つの切っ掛けがあった。私は男子からは人気があったけど女子からは嫌われていた。まあ、殆どが妬みそねみでしょうけど別に私は気にしなかった。だけどそれが原因である時事件が発生した」

「何が起きたの」

 世理奈はふいとストレッチを止め正座をして当時を振り返った。

「大学の靴箱から私の靴が消えたのよ。それも何日も続けて。私は学生課に止めさせるよう掛け合ったけど、学校は『特定の生徒の靴が紛失しています。気を付けましょう』って馬鹿みたいなチラシを掲示板に貼っただけだった。大学側は内実を知っていたけど事件として揉め事になるのを避けたんでしょうね。私もさすがに気落ちしたわ。私のファンに話せば犯人捜しに協力はしてくれたでしょうけど、後で何を要求されるか分からないから頼りたくなかった。だからその件を真先輩に話したの。でも先輩はそうかって答えただけで同情すらしてくれなかった。更に凹んだわ。盗難は相変わらず続いたしね。本当に辛かった」

「ふうん」

「でも数日後に登校してきたら掲示板の前に人集りが出来ていた。何だろうと覗いたら、そこには私の靴箱から靴を盗む三人の女子の犯行現場を捉えた鮮明な連続写真がコピー用紙に貼ってあったのよ。その顔にはモザイクが掛けられていたんだけど、髪型とか雰囲気から誰であるかは直ぐ見当が付いた。そしてその写真の下に【この愚かな窃盗犯達に告ぐ。また同じような過ちを犯すならば顔のモザイクを外し、証拠の動画を氏名付きでネットで公開し、警察へも届ける。尚この犯人達に荷担した輩も常時監視されていると思え】との手書きの声明文が書き殴られていた。私はその字を見て思わず涙ぐんだ。紛れもなく真先輩の筆跡だったから」

「正義感の強い真がやりそうな話ね」

「先輩は気のない振りをしながら隠しカメラを設置して私のために犯人を特定して、それ以上事件が起きないよう工夫してくれた。その日を境に私に対する嫌がらせはピタリと止まった。掲示板のあれ、先輩でしょって振っても、知らんなと空惚けられたけど。その時、心から真先輩の優しさに感激したの。そして私は真先輩が本当に好きなんだって気付いたのよ」

 世理奈は胸に手を当てて決意を語った。

「私は大学を卒業してから東京でモデルを続けてるけど真先輩と付き合えるなら仕事を辞めてもいい。それに先輩と結婚出来るなら出雲じゃなく岐阜に住んでも構わない。私にはそれくらいの覚悟がある」

「でも真はあなたみたいな男遊びする人間なんて興味ないと思うけど」

 姫香は鼻を鳴らして批判したが、世理奈は直ぐさま笑殺した。

「私は真先輩と出会ってからは誰とも付き合ってないわよ。これでも本気で好きになったら一筋なんだから。私が美しくありたいと今願うのは真先輩の自慢の奥さんでいたいから。家事だって一通り出来るし、様々な料理も覚えた。今日あなた達に出した夕食も私がいくつか調理したものよ」

「えっ、そうなの」

「ふふ、お口にあったかしら。それに茶道の作法も先生から合格点をもらってるわ。私は先輩が中国に行っている時も先輩と釣り合いが取れるよう中国語の日常会話程度は習得した。私の全ては真先輩のためにある。いつか時が来たら先輩に会いに行って交際して下さいと申し込むつもりだった。それが期せずして今日先輩が私の家に泊まってくれた。これが天佑てんゆうでないなら何なの」

 姫香は世理奈の意外な一面に驚いていた。

 何も考えていない世間擦れした尻軽女だと侮っていたのだが、真を真剣に好きでいる態度にそわついた。

「八神さん、あなたはどうなの。先輩のために何が出来るの。先輩の重荷になっているだけじゃないの」

「そ、そんな事ない」

 と姫香は血相を変え否定したが肯定も出来なかった。

 じゃあ、と世理奈は一つの提案を持ち掛けた。

「私の参加が認められれば明日の神社研究でどっちが真先輩の役に立つか競いましょ。それを後に先輩に判定してもらうの。もし、私が勝てば八神さんは先輩を諦めて。私が先輩をもらうから」

「勝負って、何でそんな……」

「自信ないなら最初から断ってね。その代わり明日の先輩のサポートは私だけで充分。八神さんはここで待っていればいいの。知識がないなら足手まとい」

 カチンと来た姫香は挑発的な売り言葉を買った。

「その勝負受けたわよ。その代わりに真が私を選んだらあなたは今後一切真から手を引く。それでいいわね」

「私から言い出した条件だもの。構わないわ。けど、あなた一人で大丈夫なの。よかったら応援を要請してもいいのよ。それくらいハンデがないと不憫ふびんだものね。じゃ、これで決まりね」

 完全に見下された笑いに耐えかねて姫香は思わず部屋を出た。


「斎、助けて。私今人生最大のピンチなの」

 一階エレベーターの横に備えられている自動販売機の前で姫香は小声で斎に泣き付いていた。

 壁には【FREE Wi─Fi 無料でご利用頂けます】のプレートが貼り付けてある。

「どうしたの、姫香ちゃん」

 ノースリーブの白ニットを着た黒髪の斎が驚いた顔で画面に映っていた。

 背後の壁には大型プロジェクターがはめ込まれていて、そのスクリーンの中では知らないアーティストが熱唱し、大ボリュームの音声が部屋中に反響していた。

「あ、ごめんね、姫香ちゃん。今カラオケ屋さんにいるから声聞きづらくて。和彦さん、ちょっとライン通話してるから音低くして」

 斎は隣に向いて大声で頼んだ。

 すると歌声が止んで、歌っていた本人が斎の隣に座った。

「すみません、斎さん……あれ、八神さん。お久し振りです。あの時はお世話になりました」

 斎の婚約者である橘和彦が斎のスマホに映る姫香へ頭を下げた。

「こちらこそカラオケデートの最中にお邪魔してすみません」

 姫香も謝ったが、画面の向こうの斎は自慢気に和彦の腕へ手を絡ませた。

「ふふふ、そうよ、姫香ちゃん。私達デートの真っ最中なの。さっきまで遊園地で遊び倒してきたのよ。それからイタリアンで夕食してそれから歌いにきたって訳なの」

 姫香は名家である大野家の呪縛からすっかり解き放たれ自由に生きている親友を見て微笑んだ。

「斎、楽しそうだね。カジュアルな服着てる斎なんて久し振りだから新鮮」

「そうでしょう、この服も和彦さんがショッピングモールで選んでくれたの。和彦さんセンスあるのよ。それからね、ボウリングも行ってきたし映画館でアクションムービーも観てきたし。今度は泊まりで北海道旅行を計画しているのよ。昔の青春を今やっと謳歌してるみたいで本当に幸福感に満たされてるの」

「斎が惚気のろけるなんて本当に幸せそう」

「姫香ちゃんだってそうじゃないの? 今日って確か真君と出雲に出掛けてるんでしょ。もしかして良いムードになってるのかなってさっき和彦さんと予想してたのよ」

「……あー、それがとてもそんなハッピーな雰囲気じゃなくて」

 暗く落ち込む姫香の表情に斎は何かを察して、

「何かあったの」

 と真剣な顔で聞いてきた。

 姫香は誘拐と組織の事情ははぐらかせ、これまでの経過をざっと説明した。

 斎は焦れた声を出した。

「それで当の真君は姫香ちゃん放っておいて、その世理奈って子といちゃついてるんじゃないでしょうね」

「ううん、別の用件で外に出て電話してる。それに真は特別に重栖さんに好意を抱いてる訳でもないんだけど、ちょっと彼女がかなり積極的というか強引と言うか、それが心配なんだ。真、押しに弱そうだし」

「そういえば大学時代、真君に付きまとっている後輩がいるって話思い出したわ。その子だったのね。しかしこれは由々しき事態よ。姫香ちゃん、私達に何か力添え出来ない?」

「え?」

「だって姫香ちゃんと真君のお陰で私と和彦さんは結婚出来るんだもの。今度は私達が二人を応援する番。だから是非協力させて」

「斎ー、ありがとう」

 親友の力強い激励に姫香は思わず泣きそうになった。

 実は姫香は世理奈に挑まれて直ぐ、占い師のシエル・フルールの予言と助言を思い起こしていた。不意に知的な女性が現れるかもしれない、そしてライバルが現れた時は物知りの友人に頼ってみてはどうかとの勧めで姫香は斎に助けを求めていた。

「姫香ちゃんの話だと、明日の神社の謎解きでどれだけ真君を助けられるかが重要になってくるのよね。だったら、私達がその時に出来る限りのサポートをするからいつでも連絡を頂戴。私達明日も二人でいるから」

「うん、ありがとう、凄く頼りにしている……あ、そうだ、斎。少し話が違うんだけど私の名前って変かな」

「名前?」

「それが真とお母さんの口振りだと出雲の神話に関わっているみたいで。でも調べてみたけど全くお手上げなの。お母さんからは痛ましいって言われたし、重栖さんからは自虐趣味ってけなされたんだけど意味不明で」

 姫香は母との約束を破り、こっそり自分の名前をスマホで検索していたのだが、そこに現れたのはアイドルやモデルなどの名前ばかりで神話に繋がるものは何も見付けられなかった。

 斎は思わず拍子抜けした声を出した。

「姫香ちゃん、フルネームで調べてないの? それならすぐに理由が判明すると思うけど」

「斎は訳を知ってるの」

「あ、うん。姫香ちゃん、傷つくと思って今までその名前には敢えて触れなかったんだけど。お母様は何か意味付けしてたのかしら」

「ううん、偶然みたいって喋ってた。それで何、教えて」

 すると斎は少し躊躇いながら話し出した。

「姫香ちゃんは因幡の白兎の神話は知ってるかしら」

「鮫に皮を剥がれてってヤツだよね。大国主が助けてあげた」

「そう。実はその話は途中で最初からではないの。大国主、いえ、まだその時は大己貴命おおなむぢのみことと呼ばれていた彼には八十神やそがみっていう意地悪なお兄さん達がいてね。その兄神達が因幡地方に美しい姫がいると知って求婚しに出掛けたの。その途中で鮫に皮を剥がれて苦しんでいる兎を見付けた彼らは海水で洗って風を浴びるよう兎に助言した。でもそれは兎を苦しめて嘲笑う嘘だったのよ」

「ええっ、酷い」

 そうねと同意した斎はその後のストーリーを教えた。

 遅れてやって来た大己貴が苦しむ兎に真水で体を洗い、がまの花粉の上で休むよう教えたら兎の傷はみるみる治った。蒲の花粉は実際すり傷や止血に効果がある。それでその大己貴に感謝した兎は姫と結婚するのは八十神でなくあなたですと予言した。

「その姫こそが八上姫やがみひめだったのよ。姫香ちゃん、漢字こそ違えどあなたの名前と同じ女神様」

「八上姫……そんな女神がいたんだ。それなら何で私笑われたの。別に何も可笑しくないよね」

「それがその後が問題になってね。兎の予言通り八上姫は大己貴を伴侶に選んだ。でもそれに嫉妬した八十神は大己貴を殺してしまったの。けれど母の神によって蘇生した。ところが兄達はまた弟を殺した。大己貴は再び蘇らされたけどしつこく兄達に命を狙われた。最終的にその追跡から逃れるために大己貴は根堅州国に送られた」

「ねのかたすくに?」

「黄泉の国。死後の世界ね。地下世界とか、海の彼方の国とかの諸説あるけれど。それはともかくその根堅州国を支配していたのが須佐之男命だったの。そこで大己貴は須佐之男命の娘である一人の女神に出会った。それこそが須世璃姫すせりびめだったのよ。世理奈って子の芸名はそこから取ったんでしょうね」

「へえ、さすが物知りの斎」

「感心してる場合じゃないわよ、姫香ちゃん。神話では大己貴と須世璃姫はお互い一目惚れしてしまったんだから」

「えっ、そうなの」

「須佐之男命は大己貴が一目見て自分の子孫だと察したから彼の神を試そうとして蛇やムカデや蜂で襲わせたり、火で焼き殺そうとしたりしたの。でもその都度須世璃姫が大己貴を助けた。そして須佐之男命が眠っている隙に根堅州国から二人は須佐之男命の武器を持ち出して逃げた。それから出雲に戻った大己貴はそれらの武器で兄達を打ち負かし日本の国造りに着手した。大国主と呼ばれるのはそこからね」

「あれ、八上姫はどうしたの」

「……それが、大己貴の帰りを待ち侘びていた八上姫は出雲に迎え入れられたけど、正妻となっていた須世璃姫の嫉妬におそれをなして因幡に帰ってしまったのよ。大国主の間に生まれた子供を木の俣に挟んで、一人寂しくね。再婚したという話もない。八上姫のその後は因幡の故郷で祀られたみたいだけどそれを知る人は少ないでしょうね」 

「そんな……」

 自分と神話の女神が重なった姫香は悲嘆に暮れた。

 万能な世理奈が須世璃姫なら、あの子より全てに劣る私は勝てっこない。そもそもあの子は真に追い付くために弛まない努力をしてきた。それに比べて私は真に甘えるだけで特に何もしていない。

 そんな私にそもそも真を好きになる資格なんてあるんだろうか。

「しっかりなさい、八神姫香!」

 落雷音のような大喝がスマホから響いた。

「い、斎?」

 甚だしい迫力に姫香は驚いて顔を上げた。

 普段の温容とは逆の意気込んだ表情を見せた斎は胸を叩いた。

「あなたは八上姫でもないし、一人でもないわ。姫香ちゃんにはこうして私達がいる。さっきも言ったけれど私と和彦さんがあなたを全力でバックアップする。だから落ち込む必要も心細さにさいなまされる必要もない。これでも神社の巫女長と次代宮司よ。それに歴史もその辺りの人間より詳しいわ。私達に任せなさい」

「本当にそうですよ、八神さん。私も斎さん程の知識はありませんが、力の限り協力します」

 斎に続いて和彦までガッツポーズで姫香を励ました。

 姫香は感極まって流れ出た涙を拭い笑顔を作った。

「ありがとう、斎。それに橘さんも。困った時は必ず連絡するね」


 黒木の間に戻ってきた真は、寝室に並べられた三組の布団を厭わしい目で眺めると、その内の一組を食事をしていた客室にズルズルと引きずっていった。

「あれ、先輩、何でそっちに行っちゃうんですか。一緒に寝ましょうよ」

 猫のようにじゃれてくる世理奈に真は横目で睨んだ。

「お前なあ……俺はともかく他の男には気を持たせるような冗談は通じないぞ。危ない目にあわない内に止めておけ。もう学生じゃないんだから」

「またお父さんみたいにー」

「ハハ、俺はお前の親の気持ちが良く理解出来るよ。跳ねっ返りで危なっかしい。何度か勘違いした輩に連れていかれそうになっただろ」

「でもその時は決まって先輩が助けてくれたじゃないですか。いつぞやは相手を投げ飛ばして。あの時は益々惚れ直しちゃいました」

「お前、全然懲りてないだろ。あんなのたまたま中国で習った護身術がタイミング良く入っただけだ。あ、そうだ。それより明日の研究の同行許可下りたぞ」

「ホントですか、やった!」

「そんなに嬉しいのか。そういや、お前歴史好きだもんな」

「うーん、そういう訳じゃないんですけど……まあ、今はそれで良いです」

「あれ、そういえば姫香がいないな」

 真は部屋を見渡し、姫香の不在に気付いた。

 世理奈は両肩を上げた。

「八神さんなら二十分程前にスマホ持って部屋出てきましたけど。私とは居づらかったんでしょ」

「……部屋を出た?」

「あ、はい」

 真は状況を耳にして小腹を立てた。

(あいつはこんな時に何を考えているんだ。組織の人間が館内をうろついているかもしれないのに女一人で)

「先輩、どうしたんですか」

「いや、何でもないけど、ちょっと姫香を探してくる」

 真は扉に手を掛けようとしたら、折しもドアが開いて姫香が戻ってきた。

「わ、ビックリした。真、帰ってたんだ」

 出会い頭でぶつかりそうになった姫香は面食らって半歩退いた。

 真は深い息を吐いて姫香の肩先を掴み小声で呟いた。

「姫香、お前、勝手に部屋を出るな。不用心だろ。もっと危機感を持て。相手は咲耶さんをかどわかした奴らだぞ。頼むからこれ以上面倒をかけるな」

 面倒と吐かれ、姫香はむっと返した。

「真だって外出たじゃない」

「俺は奴らと交渉に行ったんだ。お前は何で出た。そんなに世理奈といるのが嫌か」

「そうじゃないよ」

「だったら何だ」

「それは……」

「もしかしてお前まで奴らから脅されてるとかじゃないよな」

「違うよ。個人的な用件。第一、真には関係ないでしょ」

「じゃあ、理由は問わない。けどスマホは見せてくれ」

 真は姫香の手にあるスマホに手を伸ばした。

 姫香は反射的にその手を避けた。

「え、何で、嫌だよ。いくら真でもそれはプライバシー上お断り」

「あのな、俺はお前のスマホに盗聴アプリが入ってないか調べたいだけだ。奴らの監視方法を知りたいからな。他には興味ない。貸してくれ」

「だ、駄目!」

 慌てて姫香はスマホを浴衣の内側に入れた。まさか斎にこっそり協力を申し出たなど知られたら真から軽蔑されるかもしれない。

 頑なに拒否された真はスマホのチェックを諦めて、見覚えの無いアプリがダウンロードされていないか、または極端にバッテリーが減っていないか、もしくはスマホを使っていないのにマイク使用中、もしくはカメラ使用中の・のようなライトが点いていないかを確かめるように指示した。

「ちょっと何をさっきから二人だけでこそこそ喋っているんですか」

 放置されて業を煮やした世理奈が真の背中に体をくっつけてきた。

「いや、何でもない」

 振り返った真は世理奈にもう一度非常口についてと第三棟の離れについてそれとなく尋ねた。それからモバイルバッテリーとスマホとデジカメに充電してその日は三人とも眠りについた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る