第三章

「ああ、夏の温泉も悪くないな」

 少し暑さも和らいできた夕刻に遠くからカナカナカナとヒグラシの声が流れてくる。

 部屋の西側に設えられた、自然石を円形に配した、小さな露天風呂に浸かりながら、表面のお湯を顔に掛け真は夕空を仰いだ。

 両側には部屋の仕切りとなる黒い板の壁が高くそびえ、正面の茂った背の高い桜の木の後方には、この第一棟を囲う漆喰の壁がどっしり構えている。

 高級でありながら、古い建築物にありがちな防音の脆さは仕方ないのだろう、二つ左隣の「肉桂の間」と頭上二階の「燕の間」の露天風呂からも微かな話し声が耳に入ってくる。

 ミシュランで二つ星を獲得しているゑびす屋には二階のある第一の「梅」棟、平屋である第二の「竹」棟、そして第三の「松」棟は棟でなく(便宜上、案内板には棟と記してある)、個別の和式の離れが六つある。それらは各居が七福神の名前を持ち、恵比寿以外の寿老、福禄、弁財、毘沙門、大黒、布袋の看板が掛かっているが、第三の離れはそこに泊まっている者しか入れない特別の廊下が存在する。

 梅棟と竹棟は直線の廊下で繋がっているが、松棟はカードキーでロックされた扉が一般客の進入を拒んでいる。

 簡略した案内図によれば、松棟内部の敷地の離れはお互いの視界を遮るように隙のない塀で遮られ、宿泊客同士が顔を合わせるリスクもない。

 どうも芸能人や政界のVIPがお忍びで利用するようで、ゑびす屋が高級と評される謂れはこんな所にも因る。

 また、真たちが泊まっている梅棟は一階と二階の西側の部屋だけが露天風呂がついているため少し宿泊料が高い。それと梅棟の部屋は東側から順に、牡丹、黒松、譲り葉、なつめうめ(マタタビの別称)、花桃、芍薬と名付けられていて、真の部屋である椿の間の隣は姫香と咲耶の泊まる黒木の間、その隣が肉桂、楓、かや、そして最後が躑躅つつじの間という配置となっていた。

 エレベーターか階段で上った二階の部屋の造りも階下と同等で、二階の部屋の名前はツグミや白鳥といった鳥類の名前で統一されている。

 どうやら各階の部屋名は島根に関わる動植物からとっているようだ。

 更に隣の竹棟は平屋で部屋室も十二しかない。

 だから梅棟より値が張り、全てに露天風呂が設置してある。

 そしてその部屋の名前は東の手前から「日本武尊やまとたける」「鹿島」「八幡」「塵輪じんりん」「頼政」「大江山」、西が手前から「黒塚」「岩戸」「十羅じゅうら」「鍾馗しょうき」「五神」「返し」となっている。

「しかし石見神楽の題名を部屋の名につけるとは随分洒落ているな」

 出雲神楽でなく石見神楽なのは創業者の配偶者が石見出身のためだとの情報を調べていた真は湯を充分に堪能すると、布団の敷かれていない寝室に用意してあった鶴亀柄の浴衣に着替えて、竹棟に向かい赤い絨毯の廊下を進んだ。

 竹棟には東の敷地に大浴場があり、姫香と咲耶はそちらの風呂を選んだ。

 真も広いお風呂にしなよ、と姫香に誘われたが一人でゆっくり入りたいからと断って部屋の露天風呂にした。

 また姫香のペースに乗るとこのままずるずる一方的な入籍ともなりかねないので大浴場を敬遠した気持ちもある。

 何やってるんだろな、俺はと真は廊下を進みながら自分の不甲斐なさを嘆いた。

 面と向かって告白されたのは人生で三回。

 斎、そして大学時代の後輩、それから姫香である。

 こんな俺なんかのどこが良いのだろうとも自己分析したが、三人からの高評価が未だ全く理解出来ない。

 大学の後輩は、いつも「先輩は他の男子と違います。そこが素敵なんです」と褒めてくれていた。だが、

(まあ、あれもからかいが目的だったろうから)

 と真も真に受けていなかった。

 遊園地や海水浴より史跡を好み、カラオケより図書館を選ぶ。ファッションに関しても大抵モノトーンを買った。これが一番自分には無難だと思っていた。金銭も豊かでなかったから美食には縁がなかったし、酒も殆ど飲まない。

 中国に行っていた時に地元の輩から無理矢理強い酒を勧められて死にかけた二日酔いの酷さに懲りたというのもあるが、酒に酔う時間がもったいないと本気で考えている。

 女性目線からはさぞや退屈な男に映っているんだろうな、と真は自嘲した。

「おっと、非常口はこっちか」

 真は竹棟に入ったばかりの入口で立ち止まり、廊下に吊してある非常口のサインと誘導の矢印を見付けた。

 矢印に記された廊下の右に目をやると小型の日本庭園があり、石畳が敷いてある奥が漆喰塀の非常出口となっている。

 どんな所に宿泊しても真は火災などの万が一の事態を想定して必ず非常口はチェックしていた。だから一応梅棟の二階の非常口も確認に行っていた。

 二階は突き当たりが非常階段になっていて、最終的に竹棟の非常口に繋がる道になっている。松棟はプライベートエリアなので中を窺い知る事は出来ないが、恐らくカモフラージュしてある塀から避難出来る仕組みになっているのだろう。

(それよりこの旅館には良い部屋があるんだよな)

 真は軽い足取りで廊下を進んだ。

 竹棟は入口左にマッサージ室があり、その斜向かいには「不昧庵ふまいあん」と書かれた、和風の扉をした部屋があり、その反対側には「図書室」の木製札が掲げられた十畳ほどの洋間がある。

 宿泊部屋に置いてあった案内パンフレットによればここの私設図書館には地元の歴史家が書いた書籍などが管理されているという。

 早速真は図書室に入ってみた。

 古さが滲んだフローリングの床は歩く度に軽くキシキシと心地よい音を響かせている。

 室内を眺めてみれば良書ばかりで真にとっては知識の宝庫ともいえる図書館であった。出雲大社が近いせいだろう、古事記、日本書紀関係の本はもちろん、それに由来する歴史や、地理、考古学など多種多様な書物が手作りの木棚にびっしり並べられている。

 一週間くらい泊まって全部読破したいな、と真は勇んで三冊を適当に選び、側にあったロッキングチェアに座り、空調の効いた涼しい空間で中身にじっくり目を通し始めた。

 本は旅館外へは持ち出し出来ない。ただ泊まっている部屋には持ち運び出来ると記してあったものの、真は咲耶と姫香の風呂上がりをここで待つ約束をさせられていたので黙って読書に勤しんでいた。

 それから二十分程経っただろうか、背後から床の鳴る音がしたと思えば突然視界が真っ黒になった。

「だれーだ」

 熱い掌が真の瞼の上を覆い隠した。

「小学生か、お前は」

 真は淡々と手を掴み、立ち上がって振り向いた。

「えー、そういう時は冗談でも俺の恋人って言ってよ」

 口を尖らせて姫香は、それよりこれ似合うかなと浴衣姿を見せるためにひらりと一回転した。白の下地に淡い赤色のブーゲンビリア模様があしらわれた浴衣で、帯はピンクというレトロモダンな浴衣から石けんの香りが漂ってきた。

 真は一瞬ドキリとしたが、

「あー、似合う似合う」と掌を振ってあしらった。

「何よ、その倦怠期の旦那みたいな薄い反応は。もっと褒めてよ。真が綺麗だと思っているこの幼馴染みをね」

 姫香は態とらしく流し目をした。

 呆れて真はうなじを掻いた。

「占いを一から十まで信じるな。それに美しさだけで判断するなら俺にはもっと綺麗な知り合いがいる」

「何、斎の事?」

「いい加減斎から離れろ。大学時代の知り合い」

「……誰それ。まさか真の恋人だったとか」

 急に姫香の顔が強張った。

 疑われ続けて真は閉口した。

「ただの後輩だ。前にも言ったろ。大学も大学院も研究に忙しくて遊んでいる暇なんてなかったって」

「本当?」

「本当も何も、お前、南宮大社の一件から俺の大学時代の話を斎から散々聞き出してだろうが」

「それはそうだけど。だって好きな真の周りが気になるんだもん」

「……」

 飾らない直球の告白に真は声を詰まらせた。

 そして暫しの沈黙の後に訥々とつとつと語り出した。

「姫香、俺は気の利いた言葉も言えないし、器用じゃないし面白くもない人間だ。俺が昔、お前をブルドッグから助けたから好きになったって斎から伝え聞いたけど、あれだってお前だけじゃなく剣吾でも斎でも俺は同じ事をしただろう。お前が特別だった訳じゃない」

「知ってるよ。知ってる。真の不器用な所も、駄目な所も全部分かってるよ。幼馴染みだもん。それに人を好きになるのに理由なんているの。私は本当に真が大好き。だから真と結婚したい」

 姫香は真に近付いて赤らんだ顔を上げた。

 真は一歩後退りした。

「結婚って、いきなりすっ飛ばし過ぎだ」

「じゃあ、結婚を前提に付き合ってよ」

 上気した頬が蛍光灯に照らされ、瞳が潤んでいる。

 真は慌てて姫香の両肩を掴んで押し返した。

「そ、それより咲耶さんはどうした。一緒じゃないのか。それにもうすぐ食事が部屋に運ばれる時間だろ」

 このまま良い雰囲気を作ろうとしていた姫香は期待外れに頬を膨らせた。

「お母さんはかなり長風呂だよ。先に始めててって」

「確か、お前達の、黒木の間で食べるんだったよな」

「うん、お母さん戻って来るまで二人で食べよ」

 二人でという所を強調されたが、真は敢えて無視して図書室を出た。

「あ、そうだ、真。この部屋、何て読むの」

 不意に姫香は正面の茶室の木札を指さした。

 真は立ち止まって読み方を教えた。

「不昧庵だな」

「不昧?」

「大名茶人、松平治郷はるさとの号名だよ。松江藩十代藩主、出雲松平としては七代目。松江藩は直政以降、度重なる洪水や大火、バッタの食害等で財政が悪化した。それを治水事業や特産品の栽培を奨励して、やがて四万両近い積立金を蓄えるまで財政を健全化した」

「へえ、名君なんだ」

「実際は先代から引き続き起用された家老の朝日丹波茂保しげやすの手柄だけど。財政難だった松江藩に幕府は宝暦十年、容赦なく延暦寺の修築を命じている。それで破綻が決定的になった。松江藩はもうお終いだと誰もが悲観した。けどそれから奇跡的な巻き返しをした。朝日丹波が成功させた藩政改革は『御立派おたてはの改革』と呼ばれている」

「へえ」

「とはいっても早い話が締め付け政策、つまり農民や商人から厳しく取り立てたんだ。藩の借金はチャラにしたくせに貸していた金は猛烈に徴収した。それに丹波は六公四民の年貢の税率から七公三民へと変えた。そりゃ、利益も出るさ」

「ええ! それで農民は大丈夫だったの」

 姫香は眉根を寄せた。

 真は肩をすくめた。

「大丈夫なもんか。当然のように各地で一揆が起きた。藩は力尽くで鎮圧した。いつの時代も尻ぬぐいの被害者は民草だ。歴史は多方面から観察する必要がある。綺麗な面ばかりじゃない」

「そっか」

「けど、それとは逆に茶道の文化は成熟した。朝日丹波に改革を任せ、時間が出来た不昧は茶道に没頭して、自分の茶の形を作り上げた。それが後に不昧流として継承されている。ここの茶室は出雲市であっても不昧流の茶を点てるんだろう。それに不昧は……」

 と言い掛けた真はふと説明を止めて姫香に軽く笑った。

「すまん、腹減っただろ。それにこんなの授業みたいでつまらないよな。部屋に戻るか」

「ううん、最後まで聞きたい」

 姫香は梅棟へ向かおうとする真の浴衣の袖を指で摘んで止めた。

 真は意想外の顔を向けた。

「お前、最初あんなに嫌がってたじゃないか」

「初めはそうだったけど、話聞いてる内に面白くなってきて。歴史知っていると観光してても見方が違って楽しいよ」

 そうか、と真は嬉しそうに茶室と廊下を挟んだ小庭の前に設置してある縁台に姫香を座らせ、自身は立ったまま説明を続けた。

数寄者すきものの不昧には面白い伝説がある。天井にガラスを張ってそこに金魚を泳がせて、下から寝転がって眺めて楽しんだとか」

「ふうん、江戸時代にそんなアクアリウムみたいな遊びしてたんだ」

「ああ。でも不昧のとんでもない言い伝えはそれだけじゃない。財政難だと思っていた蔵に千両箱がどんと積んであったのを見た不昧は狂ったように茶器などの名物を買い漁った。蔵品帳に記載された数は何と五百四十点。中には千五百両もする油屋肩衝あぶらやかたつきもあった。そのせいでまた財政が傾いたとも指摘されている」

「ええー、それはないよ。折角黒字になったのに。何してるの、不昧さん」

「ビックリしたろ。一般には金にあかせた不昧の道楽だと考えられている」

「……一般にはって何かあるの」

 真の含みに姫香が反応した。

「ああ。松平不昧は直政の血統だ。さかのぼれば越前松平家に行き着く。その家が幕府に警戒された話は覚えているか」

「う、うん。何か騒動起こしたんだよね」

「そう、松平忠直の時の久世騒動だ。忠直は改易になったけれど嫡男の松平光長みつながが越後高田藩の主に就いた。その越後でまたしてもお家騒動が持ち上がった。『越後騒動』と呼ばれる世継ぎをめぐる家臣同士の争いだ。それでまた幕府と将軍を巻き込んだ。それに出雲もとばっちりを受けた」

「あれ、越後って新潟だよね。何でこんな遠くの島根に関わるの」

「松江藩には広瀬藩という支藩があった。そこが騒動に関わった」

「しはん?」

「支藩は家督相続の権利がない一族の者に分け与えて成立する藩なんだ。初代広瀬藩主は直政の次男の近栄ちかよし。立藩の際、兄の綱隆から三万石を分与されている。その近栄は親類でもあったから越後騒動の調停を買って出た。しかし却って時の将軍徳川綱吉の逆鱗に触れてしまった。それが結果として天和二年、一六八二年に閉門の処分を受け、そして所領も一万五千石に減らされた。ただ、時を置いて元禄七年、一六九四年には元の三万石に戻されたがな。不昧が家督を継いだのは七十三年後の明和四年、一七六七年だ。つまり不昧にとって元の越前松平の血筋は生まれる前から幕府に睨まれやすい状況にあったんだ」

「うん、状況は理解したけど、それが茶器を集めたのとどう関係するの」

「要点はそこだ。松江藩の財政が無茶な政策でも立ち直ったのはさっき話したけど、それが幕府にとってはまずかった」

「え、どうして」

「蓄財は場合によっては謀反のための資金とも捉えられかねない。だから幕府は諸大名の力を徹底して削いだ。それが例え徳川の親類であってもだ。それに越前松平の血筋はよく思われていない。じゃあ不昧はどう考えたか。そうだ、名物狂いに徹すれば良い。それでお金を使いまくってますと報告すれば幕府は安心するだろうと」

「あ、本心じゃなく演じていたの」

「そういう見方も一説にはある、という位だ。事実は闇の中。但し不昧の茶道に関する功績は今も松江に広がっている」

「何」

「不昧のおかげで茶の湯の文化がこの地で花開いた。茶道には何がつきものだと思う」

「お茶かな」

「もちろんそれは大事だがそれ以外。お前も好きだぞ、甘いの」

「分かった、茶菓子!」

「当たり。松江は京都、金沢と並ぶ日本三大菓子処となった。風呂に行く前に部屋に置いてあったろ」

「ああ、若草だっけ。あの緑の求肥のお菓子。美味しかったな」

「山川とか菜種の里とか、まだ不昧好みの和菓子は松江にあるからな。帰りに買うか。さ、そろそろ食事しに部屋へ行くぞ」

「うん!」と姫香は笑顔で立ち上がり、真の横に並んで歩き出した。


「くうー、出雲最高!」

 姫香はタンブラーに瓶ビールを注いでまたぐいと一気に飲んだ。

 地ビールなのか小泉八雲の顔が描かれたラベルが胴部に貼り付けてある。

 しかしさっきまでのしおらしさはどこへやら、黒木の間の大きな坐卓回りには姫香が一人で空けた地酒の二合瓶とビール瓶が何本も転がっている。

「おい、姫香、ペース早すぎ。明日も史跡歩くんだから程々にしろよ」

 姫香の右隣で胡座をかきウーロン茶を飲む真は、座椅子の背もたれに体をあずけて注意した。いくら酒に強くても二日酔いにならない訳ではない。

 それでも横座りの姫香は真にべったり寄りかかって、

「平気、こんなの序の口だよ」

 と全く聞かない。

「お前な、食後に若女将だか誰だかがサービスでここにお茶を点てに来るんだろ。へべれけなのは勘弁してくれよ」

「大丈夫大丈夫。これくらいの酒量で酔っぱらう姫香さんではありません」

 真は仕方ないな、と諦めてテーブルの御馳走を眺めた。

 ご飯はブランドの仁多米にたまい、それに海産物が豊富な島根らしく、のどぐろの寿司、のどぐろの天ぷらと他の魚介の刺身の盛り合わせ、鰻の白焼き、シジミの吸い物などが所狭しと占拠していた。

 特にスズキを和紙の奉書で包んで焼く奉書焼きは宍道湖料理の名物でもある。そして小さなべべ貝を炊き込んだぼめ飯も地元ならではの料理だ。

 宿泊料だけでも高そうなのに、また咲耶さん食事も豪勢に張り込んだな、と真は笑ったが、たまの美食なので有り難く頂戴している。

 坐卓のある部屋には大型テレビが設置してあり、隣の寝室になっている六畳の和室には古風な姿見が置いてある。

 ただまだ布団は畳まれたままで食後に仲居が敷きにくるらしい。

「ねえねえ、真。明日はどこ行くの。出来れば近くのワイナリーに行きたい。明後日でも良いんだけど」

 半分出来上がっている姫香は真に提案してきた。

「ワインの醸造所? そんなのがあるのか」

「ここから直ぐだよ。試飲とかも出来るみたいだしバルもあるんだって。それとワイン味のソフトクリームも売ってるんだ。食べてみたい」

「ワイン尽くしだな」

「それだけじゃないよ。そこね、バーベキューもあって肉焼きながらお手頃価格のワインが楽しめるの。それも島根和牛」

「岐阜にも飛騨牛があるだろ」

「そうだけど色々味わってみたいじゃない。真が未知な歴史を知るのと同じだよ」

「肉と歴史を同列にされるのはどうかと思うが」

「そんな事言わずに。ローカルフードも色々あるんだよ。大社やきそばとか、バラパンとか赤てんとか」

「ぜんざいの由来を知らなかった割に他の食い物はしっかり調べてきたな。ま、折角島根まで来ているから多少のグルメも良いだろ。明日行く神社の近くにお勧めの食べ物もあるし」

「何々」

「海鮮丼」

「わ、牛も良いけど海の幸の丼も捨てがたいなあ」

 姫香は想像で酔眼を輝かせた。

「それとイカの姿焼きな」

「イカ?」

「イカそのものが美味いらしい。ネットでは調べたけどまだ食べたことがないんだ。大学の恩師のお墨付きだ。坂城君も食べてみたまえってさ」

「恩師って東京の?」

「そう、滅茶苦茶お世話になった老教授だよ。俺の知識なんて先生の足下にも及ばない。助手として学生時代に二度先生と出雲の神社に調査に来たんだ。本当は明日行く神社も同行する予定だったけど先生に急用が入ってな。結局行けずじまい」

「何て神社なの」

「それは、ひ……いや、明日現地で説明する。島根の竜宮城と呼ばれている美しい宮だ。お前も気に入ると思うぞ」

「へえ、楽しみ」

 と姫香は頭を真の左肩に乗せた。

「ここ良いところだね。真と一緒に引っ越しちゃおっかな」

「アホ、それじゃ遠すぎて通えないだろうが」

 頭を振り払うのも億劫な真はその体勢のまま含み笑いをした。

「通う? ああ、私が垂井役場にって事? そうだね、さすがに遠距離過ぎて辞めなきゃいけないもんね」

 と姫香は聞き返した。

「そういう意味じゃない」

「じゃ、何?」

 いいや、何でもない、と真は素っ気なくお茶を飲んだ。

「ふふ、でも一緒に引っ越すってのは否定しないんだ」

 嬉しそうに姫香は頭を揺すった。

「あのな、姫香、それより咲耶さんの心配はしないのか。いくら長風呂っていっても限度があるだろ。さすが一時間半近くは入りすぎだ。湯あたりしてるんじゃないのか」

 食事をほぼ終わらせた真は丸々テーブルに残った咲耶の料理を見た。

「うーん、確かにお母さんにしてはちょっと遅いかな」

 姫香も部屋にかかった時計を眺めた。

「だろ。入浴してるならスマホも持ってないだろうし、大浴場まで迎えに行こうぜ」

「そうだね……あれ」

 ふらりと立ち上がった姫香は何かを探すように回りに首を捻り、不思議そうな顔をした。

「どうした」

「あ、いや、お母さんの荷物どこにいったんだろうと思って」

「仲居さんがどこかに片付けたのかもよ。それより行くぞ」

 真は酔っている姫香の手を取って部屋から竹棟の大浴場に向かった。


「どうだった。咲耶さん、いたか」

 女湯と書かれた赤い暖簾の大浴場の外で立っていた真は脱衣所から出てきた姫香に尋ねた。

「ううん、お母さんいないんだけど。着替えを入れていたロッカーの鍵も開いてたし」

 姫香はひどく困惑していた。

 真は壁の館内案内図に視線を移し場所を推し量った。

「それなら風呂から出たんだな。近くで移動したならマッサージ室か図書室か」

「きっとそうだね。ごめんね、真。お母さんホント自由人だから」

「のぼせて倒れてないって知れただけでもいい。先ずは見付けよう。でないと咲耶さんの料理も下げられる」

「うん」

 真は再び姫香の手を取って竹棟の廊下を歩いていった。

 しかし、目的のマッサージ室も施錠されており、図書室内にも人影は全く見当たらなかった。茶室である不昧庵の扉もロックされていて誰かの気配すらない。

 真は頭の中に案内図を浮かべた。

「松棟はプライベトーエリアで入れないから、後は、梅棟受付近くのラウンジバーと麺屋と土産物売り場か」

「でもお母さん、食前にバーとか麺屋には行かないよ」

「そうだろうけど、一応な」

 真達は受付の近くに移ったがバーにも麺屋にも誰もいなかった。それどころか土産物売り場は薄暗い電気が灯っているだけで全く人気ひとけもない。

 この晩夏の出雲は観光客が多い訳ではなく、最も口の端に上るのはやはり神在月の時節である。姫香が大浴場も貸し切りみたいだったと言っていたのはその証拠とももいえる。

 真は受付で咲耶が外に出たかどうかを確認したが、誰も外出しておりませんとの答えしか返ってこなかった。

「残りは……ここの二階に行ったのかな」

 姫香は二階へと通じる古びた階段を見上げた。

 真もそれには同意見で姫香を連れて二階を回った。

 しかし梅棟の二階は向かい合う計十二の部屋があるだけで、特別見物に来る場所ではなかった。

 階下に降りた二人は咲耶がすれ違いで部屋に戻っているのではないかと黒木の間に入った。が、案に違いそこには誰もおらず先程のまま咲耶の手の付けていない膳が残っていた。

 真の部屋である椿の間も一応開けたが誰もいない。

「お母さんに電話する! 一体どこをほっつき歩いてるのよ」

 さすがに姫香も苛立って壁にもたれかかり、スマホで咲耶の番号にかけた。

 そうすると三回目のコールで電話が繋がった。

「あ、お母さん。今どこにいるの、私達心配して……」

 と文句を言い掛けた矢先、姫香は途中で話を止めて「すみません、間違えました」と慌ててスイッチを切った。

「番号間違えたのか」

 咲耶が行きそうな場所を探るために再度旅館のパンフレットに載っている案内図を坐卓で眺めていた真は、頭をペコペコ下げる姫香に不可解に目を細めた。

「え、あ、うん、みたい。ちょっと変な男の人の声で……でもおかしいな。私、登録してあるお母さんの番号にかけたんだけど」

 惑った表情で姫香はスマホの履歴をチェックしていた。

 すると、突然そこに着信音が鳴り響いた。

 画面の表示には「八神咲耶」の文字が映し出されている。

 姫香は間髪入れず電話に出た。

「もしもし、お母さん。さっきから探しているんだよ。もうどこにいるの」

 姫香は声高に責め立てたが返答がなく、もしもしと再度語り掛けた。

 そうすると姫香は突然「あなた、誰」と声を荒げた。

 真はその声に驚いた。

「どうした、姫香」

「何か変な男の人が電話に出た。それに真に代われって」

 額を曇らせて姫香は隣に座るとスマホを見せた。

「は?」

「お母さんのスマホ盗まれたのかも」

「貸せ、俺が相手する」

 真は姫香のスマホを耳に当てて「坂城ですが」と答えた。

「やあ、今晩は。君が坂城真君だね。夜分に失礼するよ」

 酷く籠もった声が受話口から流れた。

 真は妙な声の正体に一瞬で気付いた。相手は変声器か変声アプリを使っているのである。

「あんた誰だ。どうして咲耶さんのスマホを持っている」

「ふふふ、何、簡単な話だ。八神咲耶の身柄は私達が預かった。だからこうして彼女のスマホで通話している」

「身柄を預かる?」

「拉致監禁、いや、誘拐かな」

「誘拐だと!」

「え、誘拐」

 耳をそばだてていた姫香の顔から血の気が引いた。

「そうだ。すまないが他の客に気取られたくないので声を落としてスピーカーにしてもらうと有り難い。娘の姫香さんにも聞いてほしいのでね」

 相手はグフグフと不気味に笑った。

 真は仕方なくスピーカーに切り替えた。

「初めまして、坂城真君、八神姫香さん。私はん所ない事情で名乗れないためXと呼んでほしい。八神咲耶は今我々の監視下にある。だから君達の部屋には決して戻らない」

「ふざけるな。咲耶さんは合気道の有段者だぞ。素人につかまるもんか」

 真は反駁はんばくしたがXはまた籠もった声で嘲笑った。

「そうだろうね。我々は坂城君、君のみならず八神家も既に調査済だ。だから彼女が武道の達人であるのも熟知している。故に我々は入浴後に旅館の従業員を装って睡眠薬入りの飲み物を渡した。彼女は疑いもせずそれを飲んでくれたよ」

「くそっ、卑劣な手を使いやがって!」

「声を落とせと警告したはずだ。人質がどうなっても構わないのかね」

 Xの声は明らかに脅迫じみていた。

 真は、それでも信じられないと返答した。

「ならば直接本人と話したまえ。そら」との声の後で、

「真君、姫香、ごめん。私変な覆面の男達に捕まっちゃった」

 間違いなく変声無しの咲耶の声が流れてきた。

「お母さん! 大丈夫なの!」

 スマホを握って姫香は叫んだ。

 真は姫香の口を覆って耳元で囁いた。

「犯人を刺激するな。静かに、冷静に対応するんだ」

「だって」

「落ち着け、いいから俺に任せろ」

 真は泣きそうになる姫香をなだめると再度スマホに語り掛けた。

「咲耶さん、怪我とかないですか。暴力を受けたとか」

「今のところないわ。ただ浴衣の帯で手足を縛られているだけで」

「じゃあそこはどこです。奴らは何者で何人いるんです」

「ごめん、今、ナイフを喉元に突き付けられているの。詳しい様子は話せない」

「おい、X。何が目的だ。身代金か」

 するとまた機械の声に変わってXは応答した。

「侮ってもらっては困る。こちらは君達の経済状態まで把握しているのだよ。そもそも我々は低俗な目的のために八神咲耶を監禁しているのではない。もとより彼女を害するつもりはない。君達が我々の要求に従ってくれる限りはね」

「要求?」

「君は明日、とある神社に出向くのだろう。海岸に近い神社にね」

「……何故それを知っている」

 再び不気味に笑ってXは告げた。

「我々はこの日の本を裏から支えてきた陰の組織だ。故に何もかもお見通し。君が南宮大社で解いた謎も全て握っているのだ。それと昼の銅鳥居についての講釈も楽しく拝聴していたよ」

 真はぎょっとした。南宮大社の謎は関係者以外何者も知り得ないし、それに観光客に混ざっていたのかこの誘拐犯は真達をずっと見張っていたのである。

 そんな真の動揺をXは見抜いた。

「今、君は大変肝を潰したはずだ。違うかね」

「……」

「ふ、沈黙は肯定と受け取っておこう。さて、何故我々が南宮大社の秘密を知り得たかというと、あの謎を仕掛けた男こそ我等の組織の元一員だったからだよ。戦国と江戸時代のね」

「南光坊天海が」

「そうだ。我等は使婢つかわしめ。古くから日本の歴史の大きな転換期に暗躍している。無論現在もだがね。そして我々の組織は様々な世界に散っている。南宮大社もまたしかり」

「まさか、上陽うえひ宮司が組織の一員だというのか」

「残念だが違う。それに君は我等が同朋の名を売ると思っているのかね。ちなみに君は南宮大社へあの謎を公表する約束を取り付けたがそれは永遠に叶わない。あの龍の謎は公にしてはいけないのだ。だから我々が威嚇いかくした。それにあの神社の者は我々に恐れを成して断固公表しない。我等に逆らう腹など端から持ち合わせていないのだ」

「……好き勝手やってくれるな。大体お前達の組織とは一体何だ」

「それだよ、私達が君に与える課題の一つは」

「課題?」

「八神咲耶を安全に解放するための課題だ。いいかね、そのために君は次の二つの謎を解かねばならない。第一に我々の正体と居場所を突き止め、直に会いに来る事。そして第二に明日訪れる神社の謎を解く事だ」

「神社の謎だと?」

「君の得意分野だよ。蟇股かえるまた彫刻だ。君が解ききれていない南宮大社の謎と合わせて挑んでみたまえ。それも共通の謎だ」

「待ってくれ。南宮大社に未だ謎が残っているというのか」

「正しく。君は坂城和佳のヒントに思い違いをしているのだ。それこそが明日の神社謎解きへの大きな鍵となるだろう。謎解きの期限は明後日の昼。君達が旅館をチェックアウトするまでだ」

「……もし謎が解けなかったら咲耶さんはどうなる」

 念のための質問にXは重々しく言葉を吐いた。

「古より要求を飲めなかった人質がどうなったか、歴史家の君ならその顛末てんまつを重々認識しているはずだ。君達が南宮大社で飲まされそうになった『時忘散』は組織が天海に教えた仙薬。その根源たる我等が証拠も残さず命を奪う薬を持っていないとでも思っているのかね」

「止めて! お願い。お母さんを返して。代わりに私人質になるから、お願い。お母さんだけは返して」

 堪えてきた姫香が涙ながらに訴えた。

 しかし、Xは取り合わずからかい気味に話した。

「案ずる必要はない。君の愛しい真君が謎を解いてくれると約束すればご母堂の身の安全は保証する。指一本触れやしない」

「それは本当だろうな」

 語調を強めて真は念押しした。

「我々は嘘が嫌いでね。それで謎解きに挑戦してくれるのかな」

「どのみち咲耶さんを助けるにはそれしか方法はないんだろう」

「理解が早くて結構。但しこの件を他言したらその約束は忽ち反故にされる。特に警察関係者には絶対に漏らしてはならない。まあ、警察にも我等の同朋が潜っているから君達を諸共もろとも消すなど造作もないがね。後はおかしな行動は取るな。どこにでも我々の目と耳があるのを忘れぬよう」

「監視カメラか」

 真は部屋の中を見渡したが、それらしき機器は見当たらない。

 最近の監視カメラは小型化が進み、探すのが困難である。特殊な盗撮器発見器があれば別だが、そんなものを旅行に携帯するはずもない。それに小型ウェブカメラでネットに繋がってさえいれば地球の裏側からでも監視出来る。

「それと旅館にも我々組織の者が従業員として潜入している。八神咲耶の荷物が消えているのがその証だ。迂闊に誰かに明かそうとするなら君達は二度と八神咲耶と会うことは叶わない。肝に銘じておきたまえ」

「ふん、お前達も俺が謎を解いたらその時はただで済むとは思うなよ」

「威勢が良いな。うむ、そうだ、手掛かり無しではいくら何でも君が哀れだ。我々組織の正体について第一のヒントを与えよう。それは明日君が訪れる神社の名前に隠されている」

「社名に?」

「さて、要求の詳細は以上だ。連絡はこのスマホを通じて行う。答えが明らかになったら電話、またはメールで寄越す事。それと神社の謎は解けたらデータをここのアドレスへ転送する事。そして件の神社には君だけでなく必ず姫香さんと二人で行きたまえ。以上、健闘を祈る」

 と通話は一方的に切られた。

 同時にメールの着信音が鳴った。

 開けてみると差出人は咲耶になっているが、文章に「コード:難波くりふ」という文字が書かれていて、その下には合成した平安時代の大和絵が添付されていた。

 その大和絵は、十二単を着た長い垂髪の女性が愁いを湛えた表情で、文机に片肘をもたれ掛からせた肖像画であり、何故かその絵には強風に舞う雪の写真がうっすらと重ねられていた。

 姫香は真の隣からスマホ画面を覗いた。

 「なんばクリフ? 何、これ訳分かんない。それに何よ、この気色悪い絵。神様、お母さんを助けて下さい」

 母親の突然の誘拐、そして謎の組織の出現に姫香は完全にうろたえ、真の左腕に堅くしがみついていた。

 真は右手で姫香の頭を撫でた。

「神頼みなんてするな。咲耶さんは俺が絶対助ける。要は謎を解けば良いんだろ」「真……お願い、お母さんは私の大事な人なの」

「それは俺も同じだ。任せておけ」

 真は不安で抱き付いたままの姫香を落ち着かせつつ、メールの奇妙な名前か、または地名らしき文字と絵について考察した。

 難波は「なんば」とも「なにわ」とも読む。大坂市中央区南部から浪速区北東部一帯の地域を指す。江戸初期はもう少し範囲が広かったが、大坂の一地域と推し量れば間違いないだろう。

 くりふという日本語はない。検索すると「くり麩」という生麩の商品名があるくらいで製造元は京都だ。だから特に関連はない。であれば英語のクリフ(崖)というのが通常の思考だろうが、ここでは敢えてひらがなで記されている。だから崖という訳は除外する方が妥当だろう。

 ひらがななら「なにわくりふ」か「なんばくりふ」だがそれでも意味は通じない。コードとあるから何らかの暗号であるのは違いないが、それが神社の謎なのか、組織の名称なのか今の段階での結論付けは尚早だ。

 では大和絵の方はどうか。

 これは真には見覚えがあった。江戸時代の絵師・土佐光起みつおきの筆による清少納言の肖像画である。

(問題はこの合成している吹雪だな。清少納言の随筆『枕草子』には「雪のいと高う降りたるを」という有名な一節がある。けどそれは高く降り積もった雪であって吹雪じゃない。じゃあ「二月つごもりごろに、風いたう吹きて」か。あの話は公任の宰相殿よりの懐紙の文に、清少納言が上手に下の句をつけてそれが高く評価されたとする自賛なんだが、あれは唐の詩人、白居易はっきょいの漢詩からとったものだ)

 だったらこれは白居易を指すのか。白居易の『独酌』の詩には窓の外は今や吹雪 その音を聞きながら酒甕さけがめの蓋を開く、とある。

 真は右拳で額を叩いて思量した。

 思考する際の真の癖の一つである。

「いや、それを考え出すと切りがない。これはシンプルに清少納言、またはその辺りの範囲に絞った方がいい。ところで、奴らはどこから俺達を監視しているんだ。銅鳥居の話を盗み聞いていたなら、あの関西から来たツアー客に紛れ込んでいたのか。いや、それにしてはXには少しも関西弁がなかった。それに居場所を突き止めて会いに来いと言ってたな。そうなると時間的に考えて島根の県内にいると思った方が自然だ。となると……」

 するとその時、廊下側から突如ノックが三度鳴った。

 真と姫香は共に体をぎくりと揺らしたが、扉からは、

「お客様、お食事はお済みでしょうか。点茶のサービスに参りました」

 と若い女性の声がした。

 誘拐騒ぎですっかり忘れていたが、咲耶がオプションで食後に抹茶を部屋で点ててもらうよう頼んでいた。

 姫香はどうしようと、困惑顔を真に向けたが、断ったら逆に怪しまれるかもしれない。うろたえずに平静を装えと小声で諭して真は今、行きますと立ち上がり扉の鍵を開けた。

「お邪魔致します」

 恭しく一礼して入ってきた背の高い女性は紅白の椿柄の着物を着ていて、緩くウェーブがかかった長いポニーテールの頭を上げた。

 そしてお盆に乗った点茶セットを脇に置き正座で丁寧にお辞儀をした。

「本日はようこそゑびす屋にお越し下さいました。私が当館の若女将、重栖世理奈せりなでございます」

「うわあ、綺麗な人」

 最初は警戒していた姫香であったが、顔を上げた若女将の姿を直視するなり思わず正直な感想をもらした。

 着物を着ていてもすらりと均整の取れた体型が分かる。小顔の肌は透き通るように白く、大きくて涼やかな瞳に上品そうな高い鼻筋、唇はやや大きめだが微笑むとそれが途端魅力的な温顔になった。

「……あれ、若女将さん、私、どこかでお見かけした気がするんですけど」

 姫香は相手の容貌を眺めて記憶を探った。

 若女将は柔らかい口調で応対した。

「私は東京で雑誌のモデルもつとめております。もしかしたらお客様はそちらをご覧になられたのかと存じますが」

「そうそう! 有名なファッション誌の表紙で何度か見掛けました。確か名前は……」

「はい、八雲須世璃やくもすせりの別名で」

 若女将はまた輝く笑顔を向けた。

「ああ、モデルの八雲さんだ。色々なミスコンで優勝してて。今をときめく女子大生モデルとしてテレビにも出演してましたよね。真、真、生のタレントさんに私生まれて初めて出会ったよ」

 姫香はさっきまでの事件の狼狽ろうばいを悟られないようにしたためか、興奮して振り返ったが、真は若女将と対したまま表情筋を強張らせていた。

 そして呟いた。

「世理奈。もしやとは思ったが、ここ、やっぱりお前の実家だったのか」

 すると若女将は唐突に立ち上がって、走り出し真に正面から抱き付いた。

「真先輩。ホントに真先輩だ! お客様名簿で坂城って見えたから期待してたけど。こんな所で会えるなんてメチャ嬉しい」

 世理奈は淑やかな態度をガラリと変え、顔を真の胸に埋めて何度も親しげに揺すった。

「ま、真……何。八雲さんと知り合い? いや、どういう関係なの……」

 急転直下の展開に姫香は目が回りそうになっていた。

「こら、世理奈、離れろ」と真は若女将を体から剥がすや姫香へ煩わしそうな顔を向けた。

「ここの図書室でさっき話したろ。大学の時の後輩」

「真が綺麗な知り合いって言ってた例の?」

「それがコレ」

 真は立てた親指でぞんざいに世理奈を指さした。

 世理奈はその指を両掌で愛おしそうに包んだ。

「真先輩、久し振りに会えた彼女をコレ扱いなんて酷いですよ。でもそっか、真先輩、私を綺麗だって思っててくれたんですね。私のダイコク先輩」

「手を放せ。それに誰が彼女だ。それにその呼び方は止めろ」

 無理矢理手を振り払った真は世理奈に注意した。

「ええー、先輩も私をスセリって呼んでくれたじゃないですか。だから芸名もそう変えたんですよ」

「あれは謎掛けした時の一回だけだろ。それにお前にやたら付きまとわれたせいで大学中の男からどれだけ冷たい目で見られたか」

「人をストーカーみたいに扱わないで下さい。私は真先輩を本当に好きで追い掛けていたんです」

「それを世間ではストーカーって言うんだ」

「こんな飛び切り美人のストーカーなんていませんよ。私は先輩を心から愛してます。でも先輩ったら飛び級で早々と卒業して岐阜に帰っちゃって。ホント寂しかったんですよ。けれどこの出雲の地で奇跡的に出会えたんです。これはもう夫婦になるよう大社さんが力を貸してくれたに決まってます」

 またもや世理奈は上機嫌で真へ飛びついた。

「ちょっと、八雲さん、真、嫌がってるでしょ。離れて」

 姫香が世理奈の両肩を後ろから掴んでグイと引いた。

「そういえば何ですか、あなた。真先輩の何なんです」

 世理奈は邪険な表情を満面に浮かべて姫香に振り向いた。

 姫香は胸を張って断言した。

「私は真の婚約者よ」

「え、そうなんですか!」

 世理奈は真を嫉視した。「修羅を燃やす」という表現に適った激しい嫉妬が混ざった視線を受けた真は自分達の間柄を話した。

「こら、姫香。堂々と嘘を吐くな。俺達は幼馴染みだ」

 それを聞き、途端安心した世理奈が見下げるように姫香を冷笑した。

「はっ、何かと思えば、単なる子供の頃からの知り合いっていうだけじゃない」

「ちょっと幼馴染みをなめないで。私がどれだけ前から真を好きだったかあなたは知らないでしょ」

 世理奈の正面に回って姫香は押し問答した。

 が、世理奈も負けていない。

「あれ、まさか知り合いの期間が長いからアドバンテージあるなんて勘違いしてる痛い人? ヤダヤダ、気付いてないのはそっち。付き合いは短くても質よ質。大学時代の私達の時間は濃かったわよ」

「くー、八雲さん、あなた、見た目と裏腹にこんなに性格悪かったの」

 悔しがって姫香は苛立ちをぶつけた。

 世理奈はまた臆面もなく笑った。

「今は八雲須世璃じゃなく重栖世理奈よ。それに性格の良し悪しなんて定義ないでしょ。世界は結局能力と器量が全て。特に女は如何に美しくあるか、それが最も重要なの。だから私はモデルをやっている。私の美しさを世界に誇示するために」

「ちょっと真、何この性根が曲がったあなたの後輩は」

 姫香の怒気が今度は真に向いた。

 八つ当たりされた真は当惑して言った。

「俺に振るな。それに世理奈は基本そういう奴だ。自分は善人じゃないって公言してるしな。その分腹黒くはない。大学でも成績はトップクラスで歴史は特に飛び抜けている。が、人一倍口が悪い」

「さすが真先輩、私の理解者です」

「褒めてないぞ」

「ちなみに先輩、この人の名前って何ですか。私先輩の名字しか目に入っていなくて」

「ああ、八神姫香だ。中学まで同じ学校でな」

「……ヤガミヒメカ」

 世理奈はその名を耳にした矢先、姫香を一瞥しケラケラ笑い出した。

「アハハ、そんな名前でよくも出雲の地にのこのこやって来れたわね。自虐趣味でもあるの。それともダイコク様に可哀想と哀れんでほしいの」

「な、何よ。人の名前の何がそんなにおかしいのよ。それに七福神に可哀想って意味分からない」

「はあ、七福神?」

 姫香はきっと睨んだが、世理奈の圧倒的な目力に押し返された。

「八神さん、そんな浅学で恥ずかしくないの。歴史に詳しい真先輩と全然釣り合いとれてないんだけど」

「じゃあ、重栖さん、あなたはどうなのよ」

「私? それはもちろん似つかわしいと絶対的な自信を持ってるわ」

 世理奈は背中を伸ばし姫香に指さした。

「あなた、造化三神ぞうかのさんじんの後に産まれた二神は知ってる? 神世七代かみのよななよは? 神武天皇の父神の名は何? 歌人である大伴家持やかもちの祖先の神は? 伊勢神道の度会家行わたらいいえゆきが南朝の武将と交流していたけどその名前は? 北畠親房きたばたけちかふさも知らないの? じゃあ十種神宝とくさのかんだからの剣の名前は?」

 怒濤どとうの質問攻めに姫香はたじろいだ。

「そんなの知ってる訳ないでしょ」

「ふーん、でも頭脳明晰な真先輩ならどうかしら」

 世理奈は期待の眼差しを投げた。

 名答を求められた真は流暢りゅうちょうに返した。

「最初の答えは、宇摩志阿斯訶備比古遅神うましあしかびひこじのかみ天之常立神あめのとこたちのかみ。神世七代か、それは独神の国常立神くにのとこたちのかみ豊雲野神とよくもののかみ、それに男女対の神として宇比地邇神うひじにのかみ須比智邇神すひぢにのかみ角杙神つのぐいのかみ活杙神いくぐいのかみ意富斗能地神おおとのぢのかみ大斗乃弁神おおとのべのかみ於母陀流神おもだるのかみ阿夜訶志古泥神あやかしこみのかみ、最後が伊邪那岐神いざなぎのかみ伊邪那美神いざなみのかみだ。神武の父は天津日高日子波限建鵜日葦草葺不合命あまつひこひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと。大伴家持の祖先の神なら天忍日命あまのおしひのみことだよ、天孫降臨の際、瓊々杵命ににぎのみことを先導した。十種神宝の剣は八握剣やつかのつるぎだな」

 全て正解した真に満足した世理奈は自慢を含む不敵な笑みを姫香に向けた。

 しかし姫香は、

「そんなの専門的すぎて一般人は知らないわよ」

 と開き直った。

 世理奈は蔑視して言った。

「ふう、だったらもっと簡単な歴史なら覚えてる? 六百四十五年に蘇我氏が滅ぼされたクーデターは干支でいう何の変? 初歩の初歩よ」

「……大化の改新」

「干支でって説明したでしょ。乙巳いっしの変! 大化の改新は乙巳の変から新政権が出来るまでのトータルを指すの。高校の日本史で習ったはずだけど。じゃ、建武の新政を行った天皇は? これならもっと易しいでしょ」

「分かんない」

「え、マジで。後醍醐天皇くらい今時中学生でも知ってるわよ。なら嘉永六年にペリーが浦賀に来た出来事は」

「それくらい馬鹿にしないで、黒船来航」

「だったらその時のアメリカ合衆国大統領は誰。幕府に彼の国書が渡されたわ」

「……」

「呆れた。第十三代ミラード・フィルモアよ。あなた本当に授業受けてたの」

「そ、そんな歴史なんて知らなくたって結構。日常生活に全然差し支えないもん」

 この言い訳を耳にした世理奈は厳しく眉を吊り上げた。

「聞き捨てならないわね。よくも史家の真先輩の前でそんな蔑む台詞吐けるもんだわ。それはつまり先輩の人生をまるっきり否定してるのと同じよ」

「あ」

 姫香は真を一顧した。真は黙って目を閉じていた。

「それに八神さん、歴史を甘く見てるみたいだけど、歴史から学ばない人間は笑われ者よ。ドイツの宰相オットー・ビスマルクは『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』って名言を残してる。真先輩は賢者。あなたはどっちなの」

「う……」

「それにあなた、真先輩と結婚したがってるみたいだけど学力のレベルが違い過ぎるのよ。仮に結婚してもはなからうまくいきっこない。先輩は優しいからあなたに気を遣うでしょうけど満足感は得られないでしょうね。だから断念してとっとと先輩の前から消える道を薦めるわ。あなたの名前のようにね」

「こら、世理奈、姫香を追い込むな。明日の謎解きに影響する」

 真は世理奈のポニーテールを軽く引っ張って口論を止めさせた。

「……謎解きって何ですか」

 面白そうなワードに世理奈が振り向いて食い付いた。

 口籠もって真は返した。

「あ、いや、研究……みたいなものだな。明日訪ねる神社の」

「どこの神社ですか」

「灯台の方」

「もしや、みさきさん?」

「そうだ」

「へえ。先輩、みさきさんの研究するんですか。じゃあ、私も同行させてもらおうかな。私明日休みなんですよ。それにみさきさんなら庭みたいなものです。何たって郷土ですからね。先輩のお力になれると思います。是非仲間に加えて下さい」

「本当か。それは有り難い」

 即座に真は感謝の目を開いた。しかし姫香は今まで見たこともない嫌悪感を顔一杯に漂わせ、逆に真へ食ってかかった。

「えっ、私嫌だよ。何で無関係なこの人を連れてくの。絶対反対だからね。イライラして研究どころじゃなくなる。断って」

 露骨な拒否に世理奈は苦笑した。

「随分な言われようね。歴史オンチなあなたより私の方がずっと有用だけど」

「誰が歴史オンチよ」

「あなた以外誰がいるっていうの。それとも耳まで馬鹿になったの」

「何ですって!」

「おい、また喧嘩するな」

 真はグイと姫香の袖を引いて耳打ちした。

「好き嫌い言ってる場合じゃないだろ。咲耶さんの命がかかっているんだぞ」

「それは、そうだけど」

「それに世理奈は島根の人間だ。俺達の知らない地元の歴史や地理に詳しい。あいつの口の悪さは我慢してくれ。少しでも情報は多い方がいい。全ては咲耶さんのためだ」

「うう」

「お母さんを助けたくないのか」

「……分かった。辛抱する」

 真は不承不承に頷いた姫香の髪をクシャッと撫でた。

「世理奈。今からお前の研究参加の認可をもらいに行ってくるから、ちょっとここで待っていてくれないか」

「構いませんけど、認可って誰にです」

「実は研究の依頼者がいるんだ。その人間は俺と姫香の二人でと指示している。だからお前の追加は許可が降りないと駄目なんだ」

「そうですか。それより私、お茶点てに来たんですけどもう一人の方はどこにみえるんですか。三人分とお聞きしてますけど」

 坐卓の上で冷めた咲耶の膳一式を眺めて世理奈は尋ねた。

「ああ、すまん。折角だけど茶は遠慮しとく。それとその料理は下げてくれ。実はもう一人は姫香の母親なんだけど、外で旧知の友達とばったり会ってな。今日はそっちに泊まるって他の旅館に出向いていったんだ」

 誘拐の件を知られないよう真は咄嗟に偽りの言い訳を並べ立てた。

「え、他の旅館に行かれたんですか。それはゑびす屋若女将としては沽券にかかわります。正直不快ですね」

「悪いな。俺達も急に連絡されたから。明日の食事も一人分キャンセルしてくれ。代金は前払いだから構わないだろ」

「ふう、先輩の頼みなら仕方ないです。ではお膳と茶器も片付けますね。それと、えーっと、じゃあお布団はここの黒木の間と隣の椿の間に一組ずつ敷いてよろしいんですか」

「いや、この部屋の二組だけで頼む。椿の間は敷かなくていい。俺はここで今晩過ごすから」

「え?」

 と、姫香と世理奈は同時に驚きの声を上げた。

「ま、真……嬉しいんだけど、今日はさすがに……」

 姫香は頬を染めて両手をそわそわ動かした。

「先輩、八神さんとはやっぱりそういう仲だったんですか」

 世理奈は世理奈で真に怪訝な表情を浮かべた。

 真は二人の面持ちに不可解な顔で応じたが、間も無くその空気を悟り慌てて手を振った。

「勘違いするな。そういう意味じゃない。その、何だ、姫香が昼間の松江城の怪談で怖がって寝れないとわめいてたから。母親と一緒に寝る予定も狂ったし。どうせ怖がって俺の部屋に来るくらいならと。幼馴染みだから幼い頃は一緒に寝泊まりしてたしな」

「うーん、何か作り話くさいんですけど」

「ほ、ホントだもん。真、お城の人柱の話とかするから私怖くて」

 姫香は真が咲耶だけでなく姫香の身を案じているのに気付き話を合わせた。

 咲耶が誘拐されたのである。夜間姫香を部屋に一人でさせたらまたさらわれる可能性もあるし、どこからかカメラで監視されているためロマンスもへったくれもない。

「まあ、別にいいですけど。それなら私もこの部屋に泊まります」

「何でそうなるの」

「だって真先輩、八神さんに襲われるかもしれませんよね。私が真先輩の純潔を守ります」

「あなたね、私を何だと思ってるのよ」

 こんな不毛な言い合いをする二人の背後から真はさり気なく部屋を抜けて廊下に出た。


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