第二章


「ああ、国宝松江城に行きたかったなあ。通し柱の構造素晴らしいのに。雨覆板あまおおいいたの漆黒の美しさが魅力的なのに。姫香が急に行きたくないなんて駄々こねるから」

 真は咲耶が運転するオレンジ色のハスラーの後部右座席で、まだ明るい夕刻の空を映す窓に顔を近付け無念そうに愚痴っていた。

「仕方ないじゃない。真がお城の人柱伝説とか槍が刺さったドクロとか幽霊の話なんてするから。私、お化け苦手なの知ってるでしょ!」

 左隣の席で姫香が顔色を変えて反論した。

 咲耶は出雲大社へ戻るルートをナビで確認して笑った。

「まあまあ、真君、私の顔に免じて今回は許してあげてよ。姫香はどうしても出雲大社から美保神社と八重垣神社の三社を巡りたかったみたいだしね」

「……スポンサーの咲耶さんの頼み事なら。それに岐阜から長距離運転もしてもらっていますし」

 不本意ながら真は了解した。本来昼食を済ませた後、松江城から八重垣神社に向かい、それから熊野大社へという決まっていたルートが、松江城を省いて美保神社、八重垣神社、そして熊野大社という参拝路に変更となり、目下旅館への帰路に差し掛かっていた。

「そういう真だって熊野大社に行くのやたらこだわっていたじゃない。それに色々お守りとか買い込んでいたみたいだし」

「あれは土産だ」

「御両親に?」

「違う、斎に」

「……は、何で斎に土産買ってるのよ」

 気色ばむ姫香に真は淡々と返した。

「そういうお前は逆に何も買ってないのか。俺達の共通の幼馴染みだぞ。お前だって今回の旅行のこと斎に話したろ」

「そ、それは……」

 言い淀む姫香に、こいつどうせまだ俺と斎の仲を勘繰っているんだろうという視線をやった真は証拠の土産袋を開け、鈴を鳴らした。

「ほら、買ったのはこの福鈴だ。斎と橘さんのをペアで」

「橘さんって斎の婚約者だよね。どうして」

「南宮大社の謎解き以来、歴史好き同士親しくなったんだよ。時々ラインで近況報告してる」

「む、私、聞いてないよ」

 更に姫香は小腹を立てて真に向いた。

 真はうんざりした視線で向き合った。

「あのなあ、どうして一々知らせなきゃいけない。これは俺と橘さんの話だろ。姫香には関係ない」

「関係ないって何よ。私だって真の幼馴染みなんだよ」

「幼馴染みって言うなら剣吾だってそうだろ。俺だって剣吾に何が何でも話している訳じゃない」

「剣吾は今関わりないでしょ。大体、言わせてもらえば剣吾のせいで私真に長い間誤解されたんだから。そもそもあの軽々しい性格で真の幼馴染みなのがおかしいのよ。外見もチャラ男だし。顔は悪くないから少々もてたかもしれないけど変」

 姫香は剣吾の憎まれ口を言い募った。

 真はカチンと来て反撃した。

「俺の親友をけなすな。あいつは真面目で勤勉なんだ。それに基本嘘はつかない。誰かを騙す事はしない。そりゃあフリーメイソンだのイルミナティだの厨二ちゅうに的な欠点はあるけど俺にとっては最高の連れなんだ。お前だって今の仕事の件で色々相談に乗ってもらってたんだろうが。世話になっておいてその言い草はどうかと思うぞ」

「こらこら、二人とも出雲の地で喧嘩しない。それに運転に集中出来ないでしょ」

 ルームミラーから覗く咲耶の眉間にはきつい皺が寄っていた。

 まずいと察した真と姫香はピタリと口論を止めた。

「はい、結構。そういえば真君、その剣吾君は元気にしてるの。沖縄に引っ越してから全然私会ってないんだけど」

「剣吾なら奥さんの天花あまかさんと仲良くやってますよ。呼ばれた結婚式でもベタベタでしたし。今もお互いケーンとマーカーって愛称で呼び合ってます」

 信号待ちで停車した咲耶に真は剣吾から送られてきたスマホ画像を示した。

 そこには金髪のラフな髪型でアロハシャツに銀のネックレスをかけ、ウェリントンの黄色いレンズの偏光サングラスをかけた剣吾と、小柄で濃い栗毛の後ろをハイビスカスの髪留めでまとめているタレ目の天花が浜辺で抱き合っている姿が写っていた。

「うわっ、剣吾、チャラさにより拍車がかかっている」

 姫香が写真をのぞき見て思い切り顔を顰めた。

 未だに悪態をつく姫香を無視して真は咲耶に語った。

「それで咲耶さん、天花さんはですね、性格も温厚でのんびりした気質で。それに親戚に沖縄の霊媒のユタがいて、自身も少し霊感があるみたいです。俺は信じてないんですけどね。でもスピリチュアル好きな剣吾にはお似合いですよ」

「確かに」

「ただ、剣吾の家兼事務所が基地の近くで、米軍機やら自衛隊の航空機の騒音でうるさかったですね。剣吾は慣れって強がってましたけど。それより今回の旅行の話を簡単にしたら滅茶苦茶羨ましがっていました。仕事が詰まってるから一緒に行きたいけど無理だって。まあ、スピリチュアル夫婦からすれば島根は聖地みたいなものですから」

「ふふふ、剣吾君も幸せそうなら良いわ。あ、そうそう、姫香ちゃんは剣吾君の結婚式には出席出来なかったのよね。たまたまうちの人が骨折しちゃって入院してたから」

 信号が変わって咲耶がゆっくりアクセルを踏み込むと、姫香は椅子のシートへ呆れたように背中をもたれさせた。

「そもそも式場が沖縄なんて遠いのよ。それに剣吾は式の連絡が急。何で一週間前なの。非常識もいいとこ。予定も何も立てれなかったから行ける訳無いじゃない。ハイハイ、もう剣吾の話はお終い」

 虫を払うように手を振って姫香はボトルホルダーに置いていたミネラルウォーターをぐっと飲んだ。

「それより、真、私、昼の蕎麦屋の謎が未だ解けてないよ。出雲蕎麦が松平直政が信州から松江に越してきた時に蕎麦打ち職人連れてきて定着したって話は学んだけど、どうしてぜんざいが出雲に繋がるの。スマホで検索しちゃ駄目って言うから調べてないから全然分からないよ。それとも真が注文してた出雲セットの蕎麦と冷やしぜんざいに何か関わりあるの。あの紅白の小さい丸餅入ってたの」

「何だ、まだ解けてないのか。ちゃんとヒント出しただろう」

 真は復興中の首里城のスマホ画像を眺めながら呆れた。

 また沖縄の写真見てると姫香は不満げに答えた。

「出雲の旧暦十月? 神在月かみありつきしか知らないもん」

「だからそれが解答だって」

「ええ、どういう事。降参、教えてよ」

「諦めるな。もっと多角的に考えろ」

「多角的って言われても」

「じゃあ、最後のヒントだ。神在月を音読みすると」

「音読み……んー。神在、じん、ざい…………ぜんざい。え、そうなの」

 やっと気付いた姫香は手を叩いた。

 スマホをポケットに片付け真は詳しく追加した。

「そういう事。出雲二宮・佐太さだ神社が神在祭の時にふるまったのが神在餅じんざいもち。それが出雲弁でなまってずんざいがぜんざいになった。これが出雲ぜんざい語源説だ。他に僧侶が美味しさのあまり善哉と叫んだとか、一休禅師が同じように善き哉この汁と言ったのが始まりとかもある」

「へえ」

「出雲は調べ出したら面白いぞ。ちなみに島根の地域ではぜんざいがあんこに発展して法事の時に一般の饅頭でなくあんパンを配るんだ。それを法事パンという」

「法事にあんパン! けど真もよく知ってるね」

「こっち出身の知り合いが大学にいたからな。それと法事にはあんこ餅より手軽で高級品だったからという理由で変化したそうだ。近頃はメロンパンとかクリームパンとかも詰め合わせにするし、ケーキやマドレーヌにも進化している。ちなみにパンは盆や彼岸の時にも使われる。もちろん饅頭の所もあるが」

「へええ」

「エリアによって小豆が雑煮に使われる事もある。島根も広いから九種類の雑煮が見られるんだ。中でも十六島海苔うっぷるいのりという高級岩海苔を入れる海苔雑煮が有名かな」

「ふうん、岐阜なら飛騨も美濃もそんなに雑煮は大差ないのにね。島根って面白い」

「さて、真君、今日大社しっかり回ったけど、それなら他に何か神社の豆知識あるかしら」

 そろそろ帰宅ラッシュが始まったらしく、咲耶は軽くブレーキを踏みながら尋ねてきた。

「豆知識ですか」

「そうそう。ほら、出雲大社って銅の鳥居の他に三つの鳥居あるじゃない。コンクリート製とか鉄の鳥居とか」

「あれらは大正時代以降に建てられたものばかりなので歴史的価値はあまり……」

「他は? ほら、銅の馬の横で臥せっていた牛の像とかに謎はないの」

「銅の神牛しんぎゅうですかね。あれは菅原道真すがわらのみちざねの牛ですよ。彼が丑年生まれとか、彼の亡骸を運んでいる途中で牛車が止まって動かなくなったのでそこを太宰府天満宮とした言い伝えなどから天満宮にはつきものです。出雲大社の神楽殿の後ろに国造家鎮守社があってその境内社に天満宮がありますから」

「出雲大社に天満宮とは奇妙な組み合わせね。その九州の太宰府か京都の北野ならしっくりくるけど」

「それが菅原家の先祖を辿ると出雲国造家と同じ天穂日命となるので」

「あら、そうなのね」

「他の説として本地垂迹の牛頭天王の神使しんしが牛とされているために、あの牛は須佐之男命の神使を表しているのではないか、と」

「シンシ?」

眷属けんぞくです。稲荷神社の狐といえば分かりやすいですか」

「ああ、神様のお使いね。じゃあ、あの牛も銅の鳥居と同じく須佐之男命のメッセージだったって訳かしら」

「いえ、あれは純粋に天神社、天満宮の牛だと思いますよ。神馬と神牛は共に神の乗り物とされていますが、各地の神社でも馬と牛の組み合わせの奉納は珍しくありません。それに何より出雲大社の銅の牛は大阪の鋳造師、高尾定七氏が明治十三年に寄贈した比較的新しいものです」

「あらまあ。じゃ他は」

「うーん、他は家綱誕生に関してですかね。家綱が大国主の申し子との話、覚えてますか」

「ええ」

「実は家綱誕生祈願は出雲大社だけじゃないんです。南宮大社にも春日局が一六三九年に若君誕生を祈願しに参拝へ訪れています」

「そうなの」

「あまり知られていませんけど。他には家光の側室・御楽の方も奈良の帯解寺おびとけでらに若君誕生を祈願していますし、寛永寺も天海が同様の祈りをしています。次代将軍誕生は誰だって強く望んだでしょう。多数への願掛けは自明の理だと思います」

「そりゃあまあそうね」

「それ以外の逸話なら松平直政についてですかね」

「ほうほう、何かな」

 咲耶は興味津々でルームミラーで真の顔を覗いた。

「直政はケチとの評判ですが、冬の鷹狩りで獲った鴨を城の番士に寒かろうと自ら振る舞った優しい逸話もあります。その反面、若武者であった時分、大坂の陣で真田の砦である真田丸を攻めています。その勇猛果敢な奮戦振りに真田信繁、いわゆる幸村から軍扇を投げ渡されています。それは現存していて松江城の天守閣で展示されています」

「ただのしわい藩主じゃなかったのね」

「ところがです、その勇猛さ故なのか、直政はやってはいけない掟破りを杵築大社でやらかしました」

「やらかした?」

「あろうことか大社の内殿に押し入って御神体を直視したんです。御神体は神霊が宿る御霊代みたましろです。これを目にするのは基本禁忌です。高位であろうが一般人に許されるはずはありません。それを直政は藩主になったからと国造家が制止するのもきかずに禁を破ってしまったんです」

「ど、どうなったの」

 姫香が不安げに膝を揺らした。恐らくただでは済まない事を察知したのだろう。

 真は冷静に教えた。

「その時の様子が『雲陽秘事記うんようひじき』の直政公杵築御社参之事にこんな風に書かれている。『我れ当国の主となりければ、当社国造同様御神体を拝すべしと仰せられれば、国造ひたすらお止められけれども、太守お聞き入れなく、たってのご所望ありける故、詮方せんかたなく内殿を開ければ、大きなる九穴きゅうけつあわびたちまち十尋じゅっひろばかりの大蛇と成り、太守のお目にさえぎりければ太守はそのまま退去ありける』」

「だ、大蛇……」

 悪い予感が当たった姫香は顔を青ざめさせたが、真は構わず詳細を述べた。

「勝手に御神体を目視したらそれは九つの穴を持つアワビだった。それが急に十八メートル程の大蛇へと変わった。奈良の大仏と肩を並べる高さだから結構な大きさの蛇だな。そりゃ、直政も恐怖で逃げたよ」

「それは意外ね。アワビか蛇が出雲大社の御神体だったの」

 咲耶が不思議そうに問うた。

「どうなんでしょうね。雲陽秘事記は実録と言われますが全ての記録についての信憑性については何とも。この奇談は何かの比喩かもしれません。九つの穴を持つアワビは不老長寿を意味します。日本国内ではそのアワビを食した者は二百年生きたとする伝承もありますし、中国の秦の始皇帝が不老不死の妙薬として方士の徐福じょふくに日本へ渡らせたのもそのアワビを求めてではないかとの話もあります」

「ほう」

「それに九穴のアワビにはこんなエピソードもあります。第六十五代花山かざん天皇は、出家後、花山法皇として那智の滝で修行していました。その時に龍神が降りてきて念珠などと一緒に九穴のアワビを渡しました。花山法皇はアワビを滝壺に沈めました。以来その水を飲むと長生きが出来ると信じられたんです。その那智の滝はそれ自体が御神体であり、飛竜権現として崇められました。また初代天皇の神武天皇はこの滝を大己貴命おおなむぢのみこととして祀っています。それは即ち大国主大神の別名です」

「那智と出雲。思い掛けない所で繋がったのね」

 ひどく仰天した様子で咲耶は感嘆した。

「偶然かもしれませんが共通点はあります。それは龍と蛇です。思い返して下さい、神迎祭で数多の神を迎えるのがウミヘビであったのを。その証拠に海蛇は出雲大社の神使とされています。直政が目撃した蛇は大己貴命そのもの、つまり大国主が蛇だという説もありますが、俺は御神体から現れたのは神使の蛇だと思っています。飽くまでも雲陽秘事記の言い伝えが本当であればですけど」

「成程。あ、それはさてき、真君、蕎麦屋で食事中に掛かってきた電話は誰だったの。突然スマホ持ったまま外へ出ちゃったから、よっぽど私達に聞かれたくない話だったのかしら」

「ああそれ、私も思った。一瞬私達に向かってマズイって顔してたもん」

 姫香も怪しんだ視線を投げてきた。

 真は、少しの沈黙から「本屋から注文してた専門書が届いたって報告だよ」と鼻先を指で触って返答した。

 姫香はその動作を指摘した。

「真、また嘘つく癖出てる。ほら、真相を話しなさいよ。まさか隠れて斎と喋ってたんじゃないでしょうね」

「違う。第一、斎は友達だ。話してたって構わないだろうが。一々細かい所まで干渉するな!」

「こら、二人ともまた喧嘩しない。姫香、独占欲と嫉妬は男子に嫌われるわよ。もっと広い心でいなさい。それに斎ちゃんはもうすぐ結婚するんでしょ。親友を疑ってどうするの」

「う……」

 姫香は母にたしなめられて口をつぐんだ。

「真君もよ。姫香をかばう訳ではないけど女の子の前で別の女の子の話をするのはいい気がしないものよ。それがいくら幼馴染みであってもね。教壇に立つのを目指しているならその辺りも少しは気をつけた方がいいわ」

「……すみません」

 女心に疎い欠点を指摘されて真も黙った。

 図星を突かれ消沈する二人に咲耶は少し笑った。

「ま、気付けばオーケー。じゃ、罰として宿の到着までもう少し何か話を続けて頂戴。まだちょっと渋滞抜けそうにないから」

「それは構いませんが、出雲大社関係ですか」

「に限らず何でも良いわ」

 そうですね、と真は腕を組んだ。

「よく知られている所では須佐之男命が退治した八岐大蛇やまたのおろちの正体の考察ですかね」

「八つの頭を持つ真っ赤な巨大蛇じゃないの。確か、退治した尾っぽから神剣が出てきたのよね」

「はい、それが一般的な話ですが、別に炎説と河川説の二つがあります。出雲地方はたたら製鉄が有名です。その燃え立つ炎が大蛇に映った、そこから生まれたのが天叢雲剣あまのむらくさのつるぎ、別名草薙剣くさなぎのつるぎだと」

「それならその剣は鉄製って話なのかしら」

「たたら製鉄の説ならそうなるでしょうね。ただ、その神剣は、いえ、八咫鏡やたのかがみ八尺瓊勾玉やさかにのまがたまも含む三種の神器は天皇でさえ見る事が許されていません。ですからその剣の素材は判明していません。その剣を興味本位で抜いた天皇もいましたが、光り輝くその様相に直ぐ恐れおののいてそれを放り投げたと言います。そしてその剣は独りでに鞘へ戻ったと」

「それは不思議な話ね」

「古くなった神剣の箱を移し替えるときに盗み見た神官もいたそうですが、祟りで殆どの者が死亡したそうです。唯一生き残った者がそれは白色をしていたので白銅ではないかと言われたり、いやいや、青銅ではないかとも論じられていたりしますが何せ神器ですから研究目的であろうが近付くことさえ許されていません」

「真君は可能なら調べたい?」

 咲耶は悪戯めいた目で尋ねた。

 真はルームミラーに映る咲耶のその眼を見て笑った。

「そりゃあ関心はありますが敢えてタブーを犯そうとは思いませんね。禁足地等に不法侵入する等もそうです。施設側に迷惑をかけるのは研究者として最も恥ずべき行為です。あ、話は逸れましたが、大蛇河川説ですが、出雲に流れる斐伊川ひいかわが度々洪水を起こしています。たたら製鉄で使う砂鉄を採るときに川が赤く濁った。それが大蛇の表現になったと考えられているようです」

「川?」

櫛名田姫くしなだひめの親である足名椎あしなづち手名椎てなづちが過去何人もの娘を大蛇へ生贄として捧げてきて、今度は櫛名田姫の番となった時に須佐之男命に救われた経緯は聞いたことありますか」

「ちょっとは」

「ではその娘達が川の氾濫をおさめるための人身御供だったとしたら」

「え」

「櫛名田姫は日本書紀で『奇稲田』とも表記されます。稲田の女神です。帰する所、須佐之男命は治水で田を守ったという結論になります。稲は人々の最も貴重な食糧でしたから。これが大蛇河川説です。そしてその治水が終了した時に川の中から剣を見出した。それが天叢雲剣となったんでしょうね」

「そういえばさっきの八重垣神社の祭神が櫛名田姫だったわよね」

「ええ、大蛇を退治した後に須佐之男命が櫛名田姫の住居として構えた場所がそうです。元は須賀に建てられたんですがやがて今の地に遷座しました。八重垣神社と呼ばれたのは明治十一年からでそれ以前の呼称は佐久佐神社です。八重垣神社は須佐之男命が詠んだ歌から名付けられました」

「歌って何」

 ふと姫香が質問すると真は即答した。

「日本で最古の和歌とされている。『八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造るその八重垣を』。現代文では、幾重もの雲が湧きたつ出雲の地に妻を籠もらせるためのこの宮に幾重にも囲いを造ろう、そう八重垣を、という訳になる」

「わ、何か素敵な歌」

「愛情が籠もった歌でもあるからな。ちなみに櫛名田姫は須佐之男命が大蛇を退治する時に櫛に姿を変えられている。須佐之男命はその櫛を髪に挿して大蛇と戦って勝利した。櫛には古来呪力があるとされたし、別の意味合いもあった」

「別の?」

「それはきゅう……あ、いや、今はいい。ま、咲耶さん、神剣の話はこんな所です」

 何故か慌てた様子で真は話を咲耶に転じた。

 咲耶は愉快げに褒めた。

「真君はまるで生き字引ね。他には何かある?」

「うーん、そうですね……では因幡の白兎の逸話なんてどうでしょう」

「白兎? 確か隠岐の島から因幡国の間の海を兎が鮫の群れを騙してその背中を橋代わりに跳んで渡りかけたけど、最後の鮫に気付かれて毛を剥ぎ取られたっていう話よね。それから痛がっているその兎を大国主が哀れに思って怪我の治療法を教えてあげたんじゃなかったかしら」

「詳しいですね。大まかにはその通りです。実はその鮫なんですが鰐と書いてワニと呼ばせます。これは山陰地方では鮫を指すんですが、実際には鮫でなく爬虫類のワニではないかとの議論が長く続いています」

「へえ、そうなの」

「インドネシアで因幡の白兎と類似した言い伝えがあります。ただあちらでは兎ではなく鹿、鮫でなくワニなんですが。それが日本に伝わってその神話になったのではないかとも。また、いやいや、日本にもワニがいて因幡の白兎はワニの背中を跳んでいったんだと信じる人も少なくないんです。葛飾北斎は浮世絵でその神話の動物をしっかり爬虫類のワニとして描いていますから」

「北斎も。それは関心あるわね」

「実際、東南アジアにいるイリエワニが奄美や八丈島に漂着した話もありますからね」

「えっ、日本へ」

「イリエワニは英語でソルトウォータークロコダイル、その名の通り、海水と淡水が混じった汽水域に生息しています。ですから暫くは海水を泳ぐ事が出来ます。とはいっても日本に流れ着いた多くは小型か死骸です。浸透圧を調整できる器官を持つものの、長時間海で生活するのは難しいとされています。ただ、研究者によっては長距離の海中移動も可能だと主張しています。しかしイリエワニは日本の場合、殆どが低温の影響で冬を越せず、暖かい南国の島を除いて繁殖は不可能に近いんです」

「ふうん」

「但し、日本にも古代はマチカネワニという種類のワニがいました。が、何せ三十四万年前。それは化石で発見され、学名はトヨタマヒメイア・マチカネンシスと名付けられました」

「トヨタマヒメイア?」

「名の由来は神話の豊玉姫とよたまひめです。豊玉姫は海神の娘でその正体は八尋大和邇やひろのおおわにとされています。竜宮に住んでいるので豊玉姫はワニでなく鮫なんですけどね。日本書紀にも『海神わたつみの乗りたまふ駿馬ときうまは八尋の鰐なり。これはたの背堅くして』とあります。鰭の背は背びれです。ワニに背びれはありませんから」

「へー、だから出雲大社の境内に兎の像が一杯置いてあるんだ。面白いね」

 暫く口を挟まずにいた姫香が遅れて話題に入った。

 真は深い息を吐いた。

「姫香、お前、他人事じゃないぞ。多分、大国主はお前と縁があるんだからな」

「私に?」

「咲耶さん、姫香が生まれた時、そこから名前思い付いたんですか」

 真は姫香の問いに答えず咲耶に尋ねた。

 咲耶は少し苦く口元を緩めた。

「うーん、ホント偶然なのよね。神話なら痛ましい結末になっちゃうから」

「ちょっとお母さん、痛ましいって何」

 すると咲耶は俄に意地悪そうな笑みに変えた。

「そうだ、これ、旅行中の姫香ちゃんへの宿題にしましょう。但し、真君に答え聞いちゃ駄目だからね。スマホ検索も駄目。何なら他の誰かに尋ねなさい」

「何々、全くもって意味不明なんだけど。どうして私が出雲の神様に関わるの」

 姫香は助けを乞う眼差しを向けたが真は軽く首を振って拒否した。

 うんうんあれこれ悩み始めた姫香を尻目に真は低速運転中の咲耶との会話を続けた。

「実はワニ、これは鮫についてなんですが出雲にはいくつかエピソードがあります。その中の二つをお話しします」

「何かしら」

「一つは鰐淵寺、出雲大社から東に約六キロの山中に位置する古刹こさつです」

「毛利を助けたお寺だったわよね」

「ええ。その鰐淵寺は字の如くワニの淵と書きます。これは寺の縁起に因ります。開基の智春上人が修行中に滝壺に仏器を落としてしまった。その時淵から現れた鮫がえらに仏器を引っ掛けて捧げたと伝えられています。それが寺号の由来と……」

「真君、ストップ。鰐淵寺って山中にあるんでしょ。何で滝壺に鮫がいるって設定になってるの。それこそ爬虫類のワニなら理解出来るけど」

 咲耶は些か混乱した顔を作った。

 真は澄まし顔で説いた。

「それを今からお話しします。少し推理になりますが。さっきも言いましたが日本にワニはいません。伝承の動物は鮫です。滝壺があるなら大小にかかわらず川があります。そして鰐淵寺は五キロ圏内に日本海があります。昔の海岸線はもっと内側だったでしょう。古代出雲では大社の神殿は海岸の脇に建てられていたとみられていますから」

「だから何、鮫が川にいるとでも」

「そうです。縄文時代に松江の遺跡からオオメジロザメ等の鮫の歯が見つかっています。ちなみにそれらは食用にされたものです」

「それは海の漁で捕えたものでしょう」

「遺跡のものは内海の近くですし、察するにそうでしょうね。でもオオメジロザメは淡水でも泳ぐことが出来ます。それも川を長距離遡上そじょうします。三千五百キロという記録もあります。そして川幅が狭かろうが、浅瀬であろうが入り込んできます。もし昔の鰐淵寺へ続く川が深ければ、日本海から遡上してきたオオメジロザメである可能性も捨てきれません」

「ほほう」

「それにワニでないと決定的に言い切れるのは鰓の問題です。肺呼吸のワニには鰓がありません。鰓があるのは鮫です」

「あ、そうね!」

「とはいってもこの推理にはかなり無理があります。何故なら鰐淵寺の標高は百七十二メートル。鮫もさすがにその高さまでは上ってこないでしょう。或いはもっと下流で起きた出来事が滝壺にとすり替わったのかもしれませんし、例え話かもしれません。ただ、新笹子トンネルの海側に大きな洞窟があるんですが、そこが鰐淵穴わにぶちあなと呼ばれ、鰐淵寺と水路で繋がっていると噂されてますからもしかして関連があるかもしれません」

「うーん、面白いわ」

「そしてもう一つの鰐伝説が美保神社です」

「そこもさっき行ってきたばかりの所よね。鮫の伝説なんてあったかしら」

「それは……」と真が言い掛けたところで車内のナビが「間も無く目的地です」とアナウンスした。

 咲耶は、話はまた後でねと、ナビ画面に映し出された宿の駐車場に入っていった。


「うわあ、歴史ありそうな素敵なお宿!」

 姫香は宿の外観を見渡して大いに感激していた。

 駐車場から玄関に回ってみると時代を感じさせる木造二階建ての、奥行きのある旅館である。といっても古めかしいという事で無く風格が漂う建物で、創業は江戸時代末期か明治時代くらいと想像出来た。

 重々しく注連飾りがはってある玄関の脇には「ゑびす屋」と大きく染め抜かれた濃紺の日除け暖簾のれんがパタパタとはためいている。

「……咲耶さん、ここって出雲大社から近場の高級旅館でしょう。良いんですか」

 三人分の荷物を持った真は恐縮して振り返った。

 カプセルホテルでも構わないのにまさかこんな立派な宿に予約してくれていたとは考えていなかった。

 咲耶はカラカラと笑い手を振った。

「若者が遠慮なんてしないの。大体私の誕生日の祝いで来ているんだもの。たまに贅沢しても罰は当たらないわ」

「はあ」

「いいから行くわよ」と咲耶は玄関の引き戸をガラリと開けた。

 すると直ぐさま着物姿の四十代程の女性がそそくさと長い廊下の奥から姿を現した。

 朝顔柄の薄い青色の着物が、細身で優美な雰囲気を醸し出している。

 咲耶は予約していた三人ですと名乗ると、その女性は正座して、

「八神様御一行様ですね。ゑびす屋へようこそおいで下さいました。私、当旅館の女将をしております重栖香奈おもすかなと申します」

 香奈は名刺を三人に渡すと直ぐ左にある受付へ案内した。

「わ、七福神の恵比寿様だ。可愛いよ、真、ほらほら」

 姫香ははしゃいで名刺の屋号の横に描かれた恵比寿のホップ調イラストを真に見せたが、真はじっと名刺を手に取って何かを考え込んでいるようだった。

「真、どうしたの」

 姫香は真の顔を覗き込んだ。

 真は我に返って女将に尋ねた。

「あの、失礼ですが、この重栖の姓はこの辺りでは多いんですか」

「え、はい。三件程ございます。と申しましても皆親戚なんですけれど」

「そうですか……」

 真はまた考え込んで、まさかなと呟いた。

 次に咲耶が名刺の下を指さして問い掛けた。

「あの、女将さん、ここに書いてあるのは本当なんですか。予約の時も念押しされましたけど」

 そこには「当館では食事の内容に鶏肉(ニワトリの肉)と鶏卵を使用したものは一切お出し致しておりません。卵をお求めの場合別料金でウズラの卵をご用意致します。ご了承下さい」と小さく記されていた。

 その通りにございますと女将は相槌を打った。

「この受付の奥に夜の無料中華蕎麦を提供する部屋がございますが、そこでも麺は卵不使用で、スープも鶏ガラでなくアゴ出汁を使っております」

「アゴ出汁って何、真」

 無知を悟られまいと姫香は真に耳打ちした。

 そんなに恥ずかしい事でもないだろと真はわざと通常の声量で教えた。

「アゴは干した飛び魚だよ。それでとった出汁がアゴ出汁。島根県の県の魚が飛び魚だからな。アゴ出汁は珍しくないだろう」

「お客様、よくご存知ですね」

 少々驚いた顔で女将は反応した。

 真は聞き返した。

「唐突にお尋ね致しますけど、ここの旅館は美保神社の氏子でしょうか」

 更に女将は一驚した。

「初代ですけれども確かに当家は美保神社の氏子であった過去がございます。現在はこうしてゑびす屋を名乗らせて頂いておりますので鶏肉と鶏卵は初代同様遠慮させて頂いております。多くのお客様にはご不便をお掛け致しますが、卵アレルギーの方には喜ばれております」

「そうですか。不躾ぶしつけな質問失礼致しました」

 軽く頭を下げる真に姫香と咲耶が同時に「何の事」と真に迫ってきた。

 真は困り顔で答えた。

「屋号のゑびす屋と鶏を食べない所できっとそうじゃないかと思っただけですよ。咲耶さん、俺がさっき駐車場に入る前に美保神社の話をしようとしてたでしょう」

「そうね」

「実は丁度それを切り出そうとしていたんです」

「鰐の話題だったわよね」

 真は頷いた。

「受付なので手短に説明しますね。美保神社の祭神は大国主の子である事代主神ことしろぬしのかみ、これは恵比寿神の別称です。事代主は毎晩、対岸にいる玉櫛姫に会いに舟で通っていました。そして夜明けになると美保に帰るという日々を送っていました。夜明けの合図は一番鶏の鳴き声です。しかしある時、その鶏が時間を間違え早々と鳴いてしまったんです。驚いた事代主は逢瀬の途中でしたが慌てて舟に乗り込みました。が、焦っていたせいで舟のかいを海に落としてしまい、仕方なく代わりに足で舟を漕いでいきました。その時、海にいた鰐鮫にガブリと足を噛まれ大怪我を負いました。それ以降事代主は鮫でなく時を違えた鶏を憎むようになりました。その神話が元で美保神社の、くじで当たった氏子は期限付きで鶏肉・鶏卵を食べてはいけないと決めたんです」

「ははあ、恵比寿様にそんな話が」

「ただ、日本書紀には別のエピソードもあって、事代主自体が八尋和邇、つまり鮫になって玉櫛姫の元に通っていたとあります。神話がどこかで混在してしまったのかもしれませんが、それを元にして行事がずっと受け継がれるのはとても興味深いです。誇るべき日本の伝統ですね」

 真は確認の眼差しを女将に向けた。

 女将はその知識に瞠目どうもくした。

「いやはや、驚きました。大抵のお客様には当館から理由をお話し致しますけれども、お客様の方からというのは大変珍しいです」

 嘆じる女将に真は再び質問を重ねた。

「続けてお尋ね致しますけれど、もしやこちらのご紋は『花輪違い紋』ではありませんか。もしくはご先祖が隠岐の島出身とか。差し障りなければその辺りもお教え頂ければ」

「あらあら、どうしましょう。どこにもそのような情報を載せていないはずですけど。お客様はもしや占い師か霊能者さんですか」

 先祖の素性まで言い当てられて香奈は戸惑った。

 真は否定して自分の職業を伝えた。

「私は歴史と文化専門の学者です。それより、ここで今日結婚式があったと思われますが」

「はい、三十分くらい前に終わって皆様お帰りになられましたが……」

 どうしてそれまで知ってるのとばかりに香奈はまた吃驚した。

 タブレットの予約欄には遠い岐阜県の文字が見えている。それに先刻到着したばかりの三人が済んだ婚礼の由など気付きようもない。

 真は種明かしに、廊下を歩いていく一人の女性従業員を指さした。

「あの仲居さんが手にしているのは鶺鴒台せきれいだいです。あれは婚礼の時に飾る物です」

 示された先には三宝の上に実った稲の穂と、その根元に青色の尾の長いつがいの鳥が向き合っている置物を持って移動する仲居がチラリと映った。

「それと壁に貼ってある館内案内板には右手一番奥に大広間とあります。そこが式場だったのでしょう。そこから鶺鴒台を持ってきたというのは恐らく式が終わったのだろうと推測しただけです」

「はあ!」と感嘆の声を続け放つ女将を余所に姫香は、「鶺鴒台って何」と真に目線を送った。

「昔から伝わっている婚礼の床の間飾りだよ。鳥の鶺鴒知ってるだろ。現在はそういう風習も廃れてきたけど、婚儀に鶺鴒台とはさすが出雲大社のお膝元だ」

「さすが? 縁を取り持つ大社だからなの」

「そういう理由じゃない。それは……いや、咲耶さんじゃないけどたまには自分で調べな。俺の課題の場合スマホで検索しても良いから。他人から教わった知識は直ぐに忘れてしまうけど自分で学んだものはよく覚えてるぞ」

 と、この時女将が急に手を右奥に向けた。

「そうですそうです、占いで思い出しましたが、実は本日出雲でよく当たると評判の占い師さんがあちらの畳広場にお見えでして。土産売り場の奥になります。若い女性の、シエル・フルール先生という占い師さんなんですけど本当にびっくりするくらい的中するんですよ。まだお帰りの前だと思います。お客様は運が良いです。先生は色々な施設を回って占いをなさるのですが、普段は長蛇の列です。よろしければ記念に如何ですか」

「えっ、有名な占い師の先生ですか」

 突如活き活きとした目付きで姫香は真に振り向いた。

「折角だからみてもらおうよ、ね! ね!」

「あのなあ、姫香。俺がスピリチュアルとか占いの類を全然信じてないの知ってるだろ。あんなのは所詮バーナム効果。適当に誰でも当たるような話を適当に言い立てて……」

「ご託並べてないで一緒に行くの!」

 姫香は咲耶にお土産でも選んでてと伝えると、強引に畳敷きの広間へ真の腕を引っ張っていった。

 障子戸を開けると、そこは八畳の部屋が二つ、柱を挟んで並んでいて手前が土産売り場になっており、その奥に四人掛けの長いソファが二脚向かい合わせに置いてあった。

(何だ、あの露骨に怪しい人間は)

 件の占い師は黄色のソファにゆったり座っていたのだが、魔術師のように金色のアラベスク模様に縁取られた真っ黒なベルベット生地のローブで全身を覆っていて、口には五芒星が描かれた黒のフェイスベールをつけていた。

 それもフードが大きく鼻のあたりまで隠れて素顔がまるでうかがえない。

 小柄な女性というのだけは判別がつくが年齢も読めない。

 畳の部屋に全くマッチしていない占い師を真は更にうんざりした顔で見つめた。

「お兄さん、貴方、私を胡散臭いと思っているでしょう。そして占いなんて非現実的だと疑っている。違いますか」

 その占い師は机の上に置かれた水晶玉に手をかざして急に切り出した。

 声の様子から比較的若そうだと察した真は、そりゃ嫌がってる様子をみれば誰でもそう言うだろうと思って返した。

「この世界は大概数学や科学などの法則で回ってます。昔ならいざ知らずAIが発達している文明社会で占いなんてナンセンス。文化としての興味は大いにありますが自分には関心はありませんね」

「ちょっと真、先生に失礼でしょ。すみません、うちの人が」

「構いませんよ。男の人には占い嫌いな方が多いんです。ばんじまして、お姉さん。私はシエル・フルールと申します」

 ばんじましては夕方前の時間に交わす島根の方言である。

 シエルは挨拶に軽く頭を下げた。

「あ、私、八神姫香です。こっちが坂城真です」

「勝手に自己紹介するな。それに誰がうちの人だ。結婚どころか付き合ってもいないわ」

 真は姫香に突っ込んだが、シエルはクスクスとベールの口を押さえた。

「では、真さん、貴方についての子細を当ててみましょう。もし当たっていたらお代として五百円を頂けますか」

 姫香はその低価格を耳にして驚いた。

「五百円! 先生、それはさすがに安すぎませんか」

「姫香さん、こういうタイプの方は得てして通常の価格をお話しすると絶対占いをさせて頂けません。さて、真さん。正面にお座り下さい」

「初対面の貴女に名前で呼ばれたくないんですが」

 真はソファにどかっと腰を下ろして顔を背けた。

「真!」と姫香は叱ったが、シエルは冷静に「では、坂城さん」と水晶占いを始めた。

「貴方は、いえ、あなた方はここより東の地からお見えになりましたね」

「凄い、当たってる」

 と姫香は騒いだが、真は冷徹に退けた。

「こうやって情報を聞き出して占いらしくしているだけだ」

「もう、真!」

「よろしいですよ、姫香さん。私は大丈夫です。そして暫く静かにしていて下さい。続けます……」

 シエルはゆっくりと時間をかけて水晶玉に集中した。

「見えてきたわ、これは貴方の住んでいる所かしら、大きな鳥居が建っています。とてもとても大きな赤い鳥居です。その側を、何かしら……高速道路、いいえ、これは新幹線ね。新幹線が通過しています。それからずっと進むと、長い石の柱みたいなものに何か彫ってありますね……南、宮、大社と読むのかしら」

 姫香は百パーセントの的中に興奮して座ったソファの上で飛び跳ね、閉じた口をもごもごしていた。

「それにこれは、貴方の家ね。その中に変わった置物が並べてあるわ。何かしら、中華風のインテリアみたいな感じで、アジアンテイストがお好きなのかしらね……書棚には、うーん、中国語のような背表紙が沢山並んでいるけれど、お仕事関連の本かも。それと寝室には……金色の像がありますね……形からして孔子、かしら。それと写真立てが。これは、少年の、子供の頃の貴方と……隣に写っているのはお婆様かしら……ええ、お婆様ね。御本人がそう仰ってますから」

「ち、ちょっと、中断して下さい」

 逐一当たっていた真は混乱に頭を抱えた。

 初対面の人間だ。やらせでも何でもないし、事前に個人情報を得るのは絶対不可能だ。霊視というヤツか、いやそれでもあまりにも克明すぎだ、と軽いパニックになっていた。

「……婆ちゃんの名前は」

 探り出すように真はシエルへ静かに尋ねた。

 シエルは水晶玉に手を当てた。

「お待ち下さい……すみません、お婆様、貴女の御名前を教えて頂けますか……ワ、カですか。平和の和に、佳作の佳で和佳と仰せです」

「……」

 驚異の占い結果に真は黙るしかなかった。亡き祖母は自己紹介する時に必ずその物言いをしていたのである。

 手品には必ず種があり、占いもそれと同様にカラクリが隠されていると先入観を持っていた真は間も無く財布から複雑な表情で五百円硬貨を取り出してシエルの前に置いた。

「当たっていたようですね」

 シエルは硬貨を受け取ってから柔らかい声で提案した。

「よろしければ追加で貴方に起こる近未来の出来事をタロットで占ってみましょうか。本当はタロットが一番の得意分野ですので」

 と徐にソファのバッグからタロットカードを取り出し、カードの山をテーブルの上に広げて左右にかき混ぜ、更にトランプの様に切ってカードを二枚並行に裏向きに並べた。

「これはツーオラクルという簡単な手法です。私から見て左のカードが結果、そして右のカードがその対策となります。では」

 シエルは横から左と右のカードを二枚めくった。

 左は二匹の犬らしき動物が二つの塔の間から月を見上げている柄で、右は馬に乗った子供とヒマワリの上に太陽が輝いている絵であった。

 ちなみに左のカードは上下が逆さまになっている。

 シエルはカードを読んで説明した。

「月の逆位置は暗闇で模索する事を表します。状況は曖昧で非常に苦労する暗示です。また人間関係も三角関係などの誤解を受けるかもしれません。しかし、もう一枚のカードは太陽の正位置です。暗闇を照らすのはいつも太陽です。月が沈めば太陽は昇る。困った時は太陽を思い出して下さい」

「太陽を」

「そうです。太陽は人間に様々な恩恵をもたらします。太陽は幸福のサイン。それは見過ごされがちですが青い鳥のように身近にあるものです。太陽を忘れないで下さい、困った時は太陽です。よろしいですね」

 太陽のカードを目の前に掲げられつつやたら念を押され、最早「はい」としか答えられない真は、隣でうずうずと自分の順番を待つ姫香に正面を譲った。

「さて、姫香さんは坂城さんとの相性を知りたいのですね」

 シエルに指摘されるまま姫香はそうですと力強く肯定した。

 では今度は違ったタロットの手法で占ってみましょうと同じようにカードをシャッフルして丁度ハートの形に八枚並べて全てめくってみた。

「ど、どうでしょうか」

 若干不安そうに聞く姫香にシエルは諭すように話した。

「差し当たっては現在の状況と貴女の状況を見てみましょう。二枚とも隠者と女帝の逆位置なので、貴女は恋愛に対して少しだけネガティブに陥っています。積極的になりたいと願う反面どこかで臆病になっています。彼の状況は女教皇の逆位置。それを加味すると、坂城さんは様々な迷いがある。だから貴女は彼に対して現状不満がある。坂城さんは神経質で冷静すぎるきらいがあります。つまり本心が掴みにくい。故にどう行動に移したらも読めず闇雲に動いているのではありませんか」

 姫香はうんうんと頭を振った。

「それからですね、次のカードは愚者の逆位置なので彼は、貴女の内面を……これは話していいのかしら」

 占いの結果に躊躇ためらうシエルだったが、姫香は構いませんと続けさせた。

 シエルは、では、と愚者のカードを指で触れた。

「坂城さんは恐らく姫香さんを軽薄で無計画な人間だと思っています」

「何。真、私をそんな馬鹿みたいに!」

 姫香は真に目くじらを立てた。

「おい、占いで噛み付くな」

 巻き添えにあった真は反論したが強ち間違っていないのでそれ以上の弁明は避けた。

 今度は坂城さんから見た貴女の外見についてです、とシエルは次の札を爪先でタップした。

「金貨の九の正位置、これは彼が貴女を極めて美しい女性だと認識しているカードです」

 へえ、と嬉しそうに顔を綻ばせ姫香は真を再度眺めた。

 一々こっち向くなと真は睨み返した。

「そして坂城さんの願望は力の正位置。これはどんな困難でも立ち向かう意志を示しています。それは強固というより頑固といえるかもしれません」

「当たってる」

 吹き出しそうになるのを我慢して姫香は真を再びチラリと横目で見た。

「姫香さん、ここからが肝要です、いいですか」

 真剣な声でシエルは姫香の意識を集中させた。

「あ、はい」

「最後のカードは近未来を表しています。これは運命の輪の逆位置。一言で言えば絶望の状態を表します」

「ぜ、絶望……」

 姫香の顔色がさっと曇った。車輪の回りにスフィンクスなどの獣が配置されたカードが突如無気味に思えた。

 しかしシエルは軽く手を叩いて、俯く姫香の顔を上げさせた。

「気をしっかりと。心配は要りません。この輪はグルリと回転します」

「回転? それはどういう意味ですか」

「不幸は幸福に変わるという予兆です。申し分のないカードですよ。ただ、アドバイスのカードに剣のペイジが出ています。もしかすると不意に知的な女性が現れるかもしれません。彼はそういうタイプが好みのようですから」

 姫香は真をキッと睨んだ。

「真、やっぱりまだ斎が忘れられないんじゃ」

「アホか、斎と橘さんの仲を取り持ったのは俺だぞ。下らない妄想やめろ」

「だって、斎以外に知的な女の人なんて私知らないもん」

 あー、最後によろしいでしょうか、とシエルは締め括った。

「これは助言ですが、もしそんな強敵が現れたら、姫香さんも知的な人、例えば物知りの友人に頼ってみては如何でしょう。きっと力になってくれますよ。それに貴女と坂城さんはまれに見る最高の相性です。坂城さん、姫香さんは貴方にとって幸運の女神です。知性は貴方の方がずっと勝っているでしょうが、運は常に姫香さんへ味方しています。ですから添い遂げれば貴方の人生をより良い方に導いてくれます。大切にしてあげて下さい」

「わあ、ありがとうございます。アドバイスも参考にしますね」

 期待通りの運勢に姫香は嬉しがって頭を下げた。

 シエルは安堵の息を吐いて、「ぐぶりーさびたん」と口にした。

「ぐぶり? 何ですか」

 聞き慣れない言葉に姫香は首を傾け、真は片目を細めた。

 シエルは「お、おまじないです。では私はこれで失礼します」と慌てるように道具を片付けるとあっという間に旅館から姿を消した。

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