僕が先に好きだった幼馴染の女の子がウチに来てくれるのは、ハロウィンの日だけ。

よこづなパンダ

僕が先に好きだった幼馴染の女の子がウチに来てくれるのは、ハロウィンの日だけ。

 僕・葉桜はざくら 夜凪よなぎには、好きだった女の子がいる。

 小さい頃からよく一緒に遊んでいた女の子。いわゆる、幼馴染ってやつだろうか。



 棚町たなまち 陽依ひより



 彼女の家は、僕の実家ウチのある、この古くからの住宅街に面した大きな通りを挟んだ、向こう側に立つちょっと洒落たマンションにある。新しく建てられた立派な住宅が並ぶ地域でも、僕が3歳のころにできたそのマンションは、ひときわ輝いていた。

 対する僕はといえば、ごく普通の一軒家の2階で暮らしている。1階で洋菓子店を営んでいるのが特徴的ではあるが、それ以外は至って普通の、昔ながらの家。


 陽依は、幼馴染というには、住んでいる地域が随分と離れていたかもしれない。

 だが、公園とかの遊び場は向こう側の新興住宅街にはなかったから、彼女はよくウチの近所まで遊びに来ていた。

 だから、僕らはよく一緒にいた。




 陽依は昔から明るい子だった。


 運動が得意で、その辺の男子なんかよりもずっとやんちゃだった。

 だから、彼女は男子と混ざって遊んでも平気だった。


 そんな陽依のことを、僕が女の子として意識してしまうようになったのは、小学校高学年くらいからだろうか。

 以前までは、あんなに自然に話せていたのに、気がついたらそれがうまく出来なくなっていた。

 陽依の顔を見るだけで、どうしても緊張してしまう。


 きっと、陽依はそんな僕を見て、不思議に思ったことだろう。

 なぜなら、彼女は、男子とか女子とか、そういう風に分けて友達をつくるタイプではなかったから。

 次第に僕と陽依との間に会話が減っていくのも当然のことだった。

 しかし、陽依はクラスのみんなに人気だったから、僕との会話がなくなったところで、彼女の日常にほとんど変化はない。

 変わってしまうのは、友人が特別多いわけではなった僕の日常だけ。

 それが、寂しかった。




 偶然、僕の進学先の高校は陽依と一緒だった。


 その頃には、僕以外の男子も陽依に容易く話しかける者はおらず、彼女の近くには女子の友達しかいなくなっていたけれど、代わりに陽依のことを異性としていいな、と思っている男子は確実に増えていた。

 快活さを感じさせるショートカットの髪に、すらりと伸びた手足。

 陽依は美しく成長していたのだ。


 彼女は持ち前の運動神経を生かし、卓球部でエースとして活躍していた。

 対する僕はといえば、バトミントン部の控え選手。

 練習の合間に、同じ体育館で躍動する陽依のことを、遠くから見ているだけの存在だった。


 僕の同学年の選手たちが団体戦に向けた部内戦や練習試合に励んでいて、スペースの都合上練習できずに後輩と一緒に応援に回っていたときなんかは、部活に集中しなければと思いつつも、僕はつい、体育館の向こう側で活躍する彼女のことを目で追っていた。


 彼女は本当に楽しそうに部活をしていた。その姿はとても美しく、無意識のうちに釘付けになってしまうのだった。


 あんな姿を見たら、きっとほとんどの男子は彼女の虜になってしまうことだろう。

 だが、僕にとっては幸か不幸か、部活に忙しかった彼女に浮いた話はなく、彼氏は特にいないようだった。


 この頃には、僕は陽依と会話をすることがすっかりなくなってしまっていたけれど、それでも僕の想いには何の変化もなかった。

 僕はずっと、陽依に片思いしていたのだ。

 それでも彼女に話しかける勇気が出なかったのは……


 僕自身に自信が持てなかったからに他ならない。






 そして、そんな僕に追い打ちをかけるかの如く、高2のとき、家族の中である騒動が起こった。

 僕の兄が、大学で付き合っていた彼女を妊娠させてしまったのだ。


 父は怒った。あんなに怒っているところを見たのは、後にも先にもあの日だけだったと思う。なにせ、兄たちはまだ在学中だったのだから。


 兄の彼女の実家に行って、謝罪することになった。

 こんな形で、初めてそれぞれの両親と顔合わせをすることになろうとは、誰もが予想していなかった事態だった。


 元々は、父は兄に実家の洋菓子店を継いでもらうことも考えていたようだが、彼女側の両親と話し合った結果、兄は彼女の地元で就職先を見つけることになった。


その結果、大学卒業と同時に結婚した兄貴は、今は一流企業のエリート社員としてバリバリ働きながら、彼女さんと幸せな家庭を築いているらしい。何よりだ。


 だが、あの一件以降、僕の心の中で、恋愛に対する抵抗感が生まれた。

 僅かに残されていた、陽依への告白する勇気は、完全に潰えてしまったといってもよかった。



 そして、あの日を境に、父が僕に接するときの態度も変わったように思う。

 兄は大学で経営学を学んでいたが、2人兄弟なので後がなくなったと考えたのであろう、父は本格的に僕に実家の洋菓子店を継がせようとしてきた。

 僕は、父の兄に対する教育方針から、息子たちには好きにさせて、家業を継がせる気はないものだと思っていたから、急な方針転換に驚いた。計画性のない話である。



 とはいえ、僕はその話に否定的だったわけではない。

 僕は昔からお菓子が好きだったのだ。

 だから、高校卒業後の進路を、製菓の専門学校に決めた。

 経営よりも、お菓子を作ることの方に興味があったからだ。

 進路希望調査のときに、その件について両親に相談したら、父が大層満足そうな笑みを浮かべていたことを今でもよく覚えている。






 そして、その専門学校に進路が決まり、迎えた高校の卒業式の日。

 皆があちこちで笑ったり泣いたりしている中、僕は久しぶりに陽依に声を掛けられた。


「夜凪くんは、進路、どこなんだっけ?」


 軽い感じで話しかけられただけで、思わずドキッとしてしまった。

 それはもちろん、久しぶりだったからというだけではない。


 僕は、なるべく平静を装いつつ専門学校のことを話した。


「へえ。いいじゃん。頑張りなよ!」


 そう言って、僕の肩をポンポンと叩く。


「なんかこうして話すのも久しぶりだけど、夜凪くんは、やっぱ夜凪くんだねっ!いつか夜凪くんの作ったお菓子、食べてみたいなー!」


 そう言って笑う陽依も、昔のままで……


 更に、彼女に惚れ直してしまった僕は、本当に馬鹿だった。


 話の流れで聞くことができた彼女の進学先の大学は、地元ではそこそこ有名なところで、『自分じゃ彼女に釣り合わない』なんて劣等感は、あの卒業式の日においても決して消えることはなかった。




 だから、僕は自分磨きに精を出すことにした。

 目標は、ひとまず2年後に設定した。


 専門学校を卒業して、社会人として一人前の大人になったら……




 陽依に告白すると決めた。






 製菓の専門学校での日々は、大変だったけれどなかなか楽しいものだった。

 やっぱり、お菓子を作ることは自分に向いているらしい。

 同期の中でも成績はトップだった。


 そんな僕は周囲にはどう見られていたのだろうか。

 周りには女子が多かったし、告白されたこともあった。


 だが、僕が好きなのは陽依だけだ。


 だから、勇気を出して告白してくれた子には悪いけれど、断った。

 彼女は泣いていた。

 彼女は美人だったが、しかし、そんな彼女の表情を見ても、僕の心が揺さぶられることはなかった。


 ―――僕の目に、彼女が映ることは、なかった。




 僕は、過去の卒業生と比べても稀に見るほどの優秀な成績を残して卒業した。

 かつての自信がなかった自分から、生まれ変われた気がした。


 学生としての日々が終わったし、そろそろ頃合いかな、と思った。




 だが、そんなときだった。




 つい、風の噂を耳にしてしまったのだ。


 あの陽依が、


―――棚町陽依が、大学の同級生と付き合い始めたという噂を。











 その日から、僕は何をしても心から楽しいと思えなくなってしまった。

 目標を見失って、何もする気が起こらない感覚。

 恋をしているときは、どこからか謎のエネルギーが湧き上がって、あんなに毎日が楽しかったのに。あれはまやかしで、きっと本当の自分ではなかったのだろう。


 しかし、社会人として、仕事はちゃんとしなければならない。

 卒業から半年が経った現在は、実家の洋菓子店でお菓子を作る傍ら、「若い人が店の前にいた方が……」というものだから、僕が会計諸々の接客を担当している。

 まあ、僕はまだ見習いの身だし、実際のところ、お客さんの生の声を聞く良い機会でもあって、将来のことを思えば接客の仕事はとても勉強になっているし、充実した日々を送れている。


 だが、そんな日々をどれだけ積み重ねても、学生時代の熱意は込み上げて来なかった。



 そんな中、迎えてしまった今日という日。10月31日。

 それはいわゆる、ハロウィンの日だ。

 ハロウィンだと思うと、どうしても昔のことを思い出さずにはいられない。

 なぜなら、その日……



 ―――ハロウィンの日だけは、疎遠になった後も陽依がウチに来てくれる日だったから。



 仕事中だというのに、僕は、あの頃のことを考えてしまう。


 普通は、誕生日やクリスマスなんかが思い出深いものなのだろう。

 けれど、陽依の誕生日は偶然にもクリスマスの当日で、その日はいつも彼女の家族だけでホームパーティーをしていたから、僕と陽依が一緒に過ごすことはなかった。

 だから僕にとってはハロウィンこそが最も特別な日だった。


 陽依のクリスマスパーティーに出てくるケーキは自家製の手作りらしく、僕はずっとどんなものなのか興味があったのだが、


「夜凪くんには、恥ずかしくて見せられないよ!」


と言われて、とうとう1度も食べてみることはできなかった。


 ずっと、『ウチが洋菓子店だから、陽依はクオリティを馬鹿にされるのではないかと陽依は考えているんだろうな。たとえどんな出来だったとしても、家族の温かい気持ちがこもったケーキに対して、そんなこと思うわけないのに』と思っていたのだが。


 今思えば、やんわりと断られていたのかもしれない。

 僕は、陽依の家族ではないのだと。

 ホームパーティーの邪魔をされたくないと。



 ……ダメだ。つい、思考がネガティブな方向へと向かってしまう。




 とにかく、ウチの限定商品であるかぼちゃのパイ。陽依はそれが、昔から大好物だったのだ。

 小さい頃、毎年ウチに来てはそれを美味しそうに頬張っていた。

 僕たちが年を重ねていった後も、ハロウィンの日だけは、毎年欠かさず彼女はお客さんとして、ウチに来てくれていた。

 もっとも、当時の僕は店員ではなかったから、直接顔を合わせたわけではなかったけれど。



 どうでも良いことだが、実は、今年のこの限定メニューは、僕が作った。

 他の定番メニューで、ちょっとしたトラブルがあり、人手が足りなくなったからだ。

 なぜ、僕がかぼちゃのパイの作り方を知っていて、この不測の事態に対応できたのかといえば、かつて、父に作り方を尋ねたことがあるからだ。

 そして、その理由は……


 かぼちゃのパイが好物の、陽依のことが大好きだったから。




 ……




 しかし、それも今となっては過去の思い出だ。

 最近、ふとしたときについ昔のことを考えては時間を浪費してしまう。僕の悪い癖だ。

 いい加減、忘れなければと思っているのに。


 陽依にだって、今は彼氏さんとの新しい日常がある。


 それは僕の知らない日常。


 忙しくしているかもしれないし、たとえ毎年来ていたからといって、今年も来るとは限らない。


 そう思っていたのだが……




「あ、あれ、夜凪くん?」


 仕事中だというのに少しボーっとしていた僕は、店内へと足を運んでくれた若い女性客に気づかずにいた。

 慌てて前を向くと、そこには。




 店員として働いている僕を見て、驚いている陽依がいた。


 ……そして、その隣には見たことのない、僕と同じくらいの年齢に見える男性が。




 ああ、この人が陽依の彼氏さんなんだな。

 直感的にそう思った。



 そのことに気がつくと、つい彼のことをジロジロと見てしまう。

 どんな人なのか、気になって仕方ないのだ。




 見たところ、何もかもが普通だった。

 顔は普通。身長も普通。服装も派手でなければ、特別地味というわけでもない。


 ……どうせなら、誰もが振り返るくらいのイケメンが良かったな。




「あ、これ!今年も売ってるんだね!」


 そう言って、陽依はかぼちゃのパイを指さす。


 彼氏さんの方は、「ふーん、これがか」と呟いて、陽依につられるようにショーケースを覗き込んでいた。

 この流れから察するに、陽依は彼氏さんとふとした話のきっかけでこのかぼちゃのパイが話題になって、2人でウチの店に立ち寄ってくれたのだろう。


 小さい頃は、友達の家として、何度もウチに遊びに来てくれた陽依だけど、今ではこうして店員と客という距離感でしか、来てくれることがなくなってしまったのだと思うと、どうしようもなく寂しい。


「私が小さい頃、夜凪くんと毎年一緒に食べてたんだよねー。懐かしいなあー」


 あ、夜凪くんていうのは、彼のことね、と言って、僕のことを彼氏さんにさらっと紹介する陽依。


「あ、どうもっす」


 そう言って、名乗ることはせずに僕に軽く挨拶する彼氏さんだったが、その穏やかで優しそうな彼の目は少しだけ。


 ほんの少しだけ殺気立っていた。




 男の僕にはわかった。


 彼は、僕に嫉妬しているのだと。




 昔の思い出話を本当に軽いノリで楽しげにしゃべる陽依は、それこそ昔と変わらずに明るくて可愛いのだけど、残念ながら、無自覚で、天然で、思わせぶりで、誰にでも分け隔てなく接するせいで、男子たちを勘違いさせてしまうような、そういった部分もどうやら変わっていないように思えた。


 現に、今彼氏さんが少しむくれていることに気づくことはなく、僕との思い出話を語り続けている。

 そうして一通り語り終えた後、ふと我に返ったかのように、


「これ、2つください」


 そう言って陽依は自分のポシェットから財布を取り出した。


 彼氏さんが慌てて「俺が出すよ」なんて言っていたけど、陽依が「たまには私にも奢らせてよっ!これは私が知っている味なんだから!悠斗くんにも知って欲しいの!」と訴えたら、彼氏さんは黙って頷いた。


 お釣りを渡すとき、僕に向かって陽依が手を出すものだから、仕方なくその上に小銭を載せたけど、手と手がほんの少し触れ合うだけの些細なことで緊張してしまう僕は、本当にどうしようもない。




「いつか、今日のことも良い思い出になるかな?」


「な!?悠斗くん、なんでそう恥ずかしいこと言うかな??」


 去り際の会話で彼と彼女の仲睦まじい様子が見て取れたが、わざわざ見せつけていかなくても良いだろう。

 急に知らない男の子との思い出話をされて、ムキになる彼氏さんの気持ちはわからなくもないが。


 その後も楽しそうに会話しつつ店を後にする2人の背中を見送っていると、ふと余計なことを考えてしまう。




『陽依の傍にいるのは、僕のはずだったのに』、と。




 きっと、陽依とその彼氏さんは、この後2人でかぼちゃのパイを食べるのだろう。


 僕は、多くのお客さんに、喜んでもらえるようなお菓子を作りたいと考えている。

 悠斗さんといったか、彼もウチのお菓子を気に入ってくれたらいいな。

 そう、思っているはずなのに……




 僕と陽依の、僕と陽依との間だけだったはずの思い出まで、悠斗に奪われて、上書きされていってしまう気がして……




 その様子を想像し、胸が詰まる思いの方が勝ってしまうのは、きっと僕の心が醜く汚いせいだろう。




 僕は、お菓子職人失格だ。






 仕事中の自分を戒めるべく、こんなときこそ、とお菓子のことを考えるのに集中する。


 専門学校に通っていた頃。僕はあんなに純粋に楽しんで、頑張れていたじゃないか。

 あの頃の気持ちを取り戻すべく、僕は当時の記憶を掘り起こしていく。



 だが、そんなとき。

 ふと、僕に告白してきた1人の女の子の顔が浮かんできてしまった。



 名前は沙也加、といっただろうか。今となってはそれすら曖昧な記憶だけれど。

 彼女は、とても美人だった。

 僕には、勿体ないくらいの。



 邪魔にならないようにいつも後ろでお団子にしていたけれど、長い黒髪は綺麗だった。

 可愛いというのとは違って、勝気でプライドの高そうな性格だったが、曇りのない真っ直ぐな瞳が印象的な子だった。



 そんな彼女が勇気を出して告白してくれたというのに、僕は素っ気ない態度で突き放して。



 結果、彼女は泣いてしまった。


 が、僕は彼女にどう声をかけるでもなく。



 恐らく、彼女はこれまでの人生で何の挫折もしてこなかったのだろうな、と、そんな風にしか思えなかった。

 どうせ、僕に告白して、あっさりOKを貰えると考えていたのだろう。

 そして、思い通りにいかなかったから、泣いたのだ、と。


 ああいう優秀で周りにチヤホヤされるタイプの子は、本当に何でも手に入れられると考えているのだろうなと思うと、悔しかった。


 僕があの告白で思ったことは、ただ、それだけ。

 本当に、興味がなかったのだ。

 陽依以外の女の子なんて、眼中になかった。




 しかし、今になって、彼女の気持ちの一端を、ほんの少しだけ理解した気がする。

 思い通りにいかないから泣いていたのではない。

 好きな相手に振られたこと、それも、全く眼中にないといった態度を取られて、悲しかったから泣いていたのだ、と。




 後に、彼女は実家の都合でお菓子に携わる道を断念したと聞いた。

 真面目で優秀な子だっただけに勿体ないな、と思った。

 だが、それを耳にしても僕はその程度の感想しか抱かなかった。

 他人のことなど、どうでも良かった。




 今になって、あの時のことを申し訳なく思う。

 彼女の気持ちに少しも向き合おうとせず、踏みにじるようなことをした自分が許せない。

 だが、今更謝ったところで、どうにかなることではないし、僕は、彼女に再び合わせる顔など持ち合わせていない。




 そんな駄目人間である僕に残されたのは、実家の洋菓子店を繁栄させることだけ。

 お客さんとの出会いは数多くあれど、漫画に出てくるような同年代の異性の子との社内恋愛、みたいな展開は100%起こりえない。




 このまま、ただ時間だけが過ぎ去っていく未来が、僕の人生なのだと悟った。

 陽依との思い出が溢れた、この地に縛られたまま。

 例え陽依があの悠斗さんとこの地を離れて、僕のことを忘れて幸せに暮らしていたとしても、僕はずっとここで1人、陽依との思い出を胸に生きていくだけなのだ、と。




 ならば、せめて僕の好きな、この仕事にだけは、全力で取り組んで、悔いのない人生にしなければ。


 デキ婚から幸せな家庭を築き、故郷を離れて自由に生きている兄に笑われてしまう気がした。




 込み上げてきた色々な感情で瞼の上が重くなっていたが、しかし、仕事中に泣いてしまうわけにはいかない。

 そうこうしているうちに次のお客さんが来ていたのだ。



 年は自分と同じくらいだろうか。ウチに若いお客さんが立て続けに来てくれるなんて、珍しい。


「この、かぼちゃのパイをください」


 少し前屈みになってショーケースを覗きながら、長い黒髪を揺らして僕にそう尋ねるお客さんに対して、僕はぐちゃぐちゃの顔を見られるわけにはいかなくて、目を合わせることができなかったけれど。



 まずは、このお客さんに、またウチに来てもらえるようにしないと。

 今できる精一杯の気持ちで、そのお客さんに紙袋を手渡した。



「美味しそうなお菓子がいっぱいあって…また、来ますね」



 お客さんの優しい声が、壊れかけていた僕の心を少しだけ軽くしてくれたような気がした。




 彼女の少し気まずそうな表情と、僕の様子を見て心配そうに揺らいではいるものの、変わらず曇りのない真っ直ぐな瞳に僕が気づくのは、もう少し後のことである。

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