巻の八 月見の宴・後

 廊下を行き交ったり、自分達を遠巻きに眺めたりする男達が少なくなり、二人はゆっくりと立ち上がる。

「………もう気球に乗っても騒ぎにはならないじゃろう」

「ええ、そうですね。艦に帰らなければ」

 木と布で出来た独特のブラインドの後ろにいたはずの女性達の気配もない。

「ふむ、男性の前に顔を出さないのが、ここの女性達の礼儀作法なんじゃろうなあ。ずっと見ておったが、皆あのブラインド越しに喋っておった。実に奥ゆかしい文化じゃな」

「音楽も、ああいった踊りも、自分はこうして見るのは……はじめてでしたが、あんなにうつくしいものだったとは」

「録画の機械をこっそりと持ってこればよかったかのう」

 艦長が笑う。

「また、観る機会もあるだろう。おぬしの頑張り次第じゃがな」

「はい。また付け届けがあれば、いつでも自分が承りますので。……それに、次からは地上に降りて手紙を届けられるかもしれない。色々、考えてみます」

「そうじゃなあ。艦と星との交流も、これより新しいフェーズに入った、とでもいうべきじゃろう」

 アレックスが、先程押し戴いたばかりのうつくしい布が入った箱を丁寧に抱えて頷いた。どこからともなく、あのオルゴールの音が微かに聞こえてくる。もしかすると女王陛下かもしれない。二人は思わず顔を見合わせた。

「どうやら随分と気に入ってくれたらしい。ハドソン整備班長にたっぷりボーナスをはずむとするかね」

「良い考えかと思います」

 うつくしい幾重もの木と布のブラインドで部屋との間が仕切られた廊下を、二人はゆっくりと歩いていく。宴の間、庭に立てられていた木を燃やす煌々とした炎は既に、ちろちろと僅かに燃えさしが残るだけのものとなり、二人を照らすのは廊下の所々に灯された小さい灯りだけになっていた。

 僅かに残っている招待客も、皆揃って先ほどの玄関の門の方へと歩き出している。色鮮やかで特徴的なブラインドがふわりと風に揺れた。宴の時と違い、人影は見当たらない。このうつくしいカーテン越しのどこかに、ミナはいたのだろうか。思わず手紙が入った胸ポケットに手を伸ばす。何を書くべきかわからず、ただただ花だけを包んだレポート用紙が折り畳まれてしまってあった。

(どうして、あの時は何を書けばいいのか、わからなかったのだろう……)

 アナベル・リー号に帰ったら早速、今日の宴に招いてくれたお礼をたっぷりしたためなければならない。宴の感想もだ。夢の様な音楽にこの世ならぬ者達のようなうつくしい舞、あれらを、どうやって言葉に書き記そうか。書きたいことも、聞きたいことも山のようにある。

 そして今夜の宴の子細をかのプロフェッサーにも報告したい。きっと興味深く聞いてくれるだろう。音声入力で綴るレポートは、それこそ語るだけで何時間もかかってしまいそうだ。

 それにしても、自分はこんなにも忙しい人間だっただろうか。数ヶ月前までは予想もしていなかった、見知らぬ扉を開けた歓び。言葉や知識への貪欲ともいえる探求心。

(ミナが、手紙を書いてくれたおかげで、自分はこうして………生きている)

 特に可もなく不可もなく、ただ生きているのとは少し異なる生の実感。それは先程の宴で聞いた、まるで空気を切り裂くような高い笛の音のようであり、仮面を付けて軽やかに舞い踊る人達のようでもある。

「艦長、人生とは………色がこんなにも、あるのですね」

 艦長が微笑んだ。

「おぬしがそれを知っただけでも、アナベル・リー号で遥かここまでやってきた甲斐があったというものだよ」


*


 宴が終わり、人の気配が消えていく廊下を足早に歳助は駆け抜ける。

(さっきまでは座っていたはずだから、まだ間に合うはず)

 實奈子の局にある文机から、かささぎの羽根を取ってそのまま駆けてきたのである。

 姉が誰かをああも恋うる姿を目の当たりにしたのは、生まれてはじめてだった。それが、得体の知れないはずの『星の人』相手だというのに、たったひとりの身内でもある弟としてはここはひき止め、女王の祐筆に相応しいようなもっと『まっとうな』縁談相手を薦めるべきなのだ。

 それなのに、自分は何故こんなにも奔走しているのか、歳助本人にもわからない。それでも歳助は、沓を脱ぐ『下足』と呼ばれる場所の近くにいた、あの青年と老人の二人に、声を投げかける。

「あの! 待ってください! 僕………その、お二人に、あの、見せたいものが……」

 歳助が取り出したその羽を見てはっと目を見開いたのは、青年の方だった。一瞬何事かを逡巡した後に、

「………ミナ に 女王陛下 の 筆 に これを わたせますか」

 青年が、胸ポケットからそっと何かを取り出す。それは歳助にとってはもう何回も見た、あの黄色い紙だった。小さく折り畳まれた紙をそっと開くと、見覚えのある海の花が、押し花のように包まれている。

「………『荒草の君』は、やっぱり、あなたですか」

「あれくさ?」

 青年が不思議そうに首を傾げる。

「えっと、ああ、どうしよう」

 反射的に若者の腕を取って、歳助がゆっくりと問いかける。

「………あなたは、あれっくす・あれきさんだー?」

 老人と青年の二人が、息を呑んで目を見交わした。

「はい。わたしの なまえ です。………あなたは、ミナ………ミナコ を しって いますか」

「僕の、姉です」

「そう だったのですか」

「会いますか。今なら、人目も少ない」

「あう……わたしは ミナに………はい あいたい、ですが」

 後ろの老人がにっと微笑む。

「大丈夫じゃよ。荷物を持ってここで待っておるから、行っておいで。おぬしのことだ、語りたいこともあるのだろう? ただ、今日中に戻ってきてくれさえすればよい」

「ありがとうございます艦長。それでは、お言葉に甘えて」

 老人が青年を押し出すように何事かを言い、青年の顔がぱっと明るくなる。きっと女王に仕える姉と同じく、この青年もまた、この老人に仕えているのだろう。そんな老人が笑顔で『荒草の君』を送り出している。

(ずいぶん気さくな間柄だなあ)

 まるで似てはいないが、血のつながりなどはあるのだろうか。布の入った箱を老人に預け、履きかけた沓を再び脱いで素足で廊下へと上がった青年を手招きし、歳助は言った。

「それでは、ご案内します」


*


「姉上! いらっしゃいますか」

「あら歳助、どうかしたの?」

 宴の灯りが消え、衝立の向こうで灯る小さな灯火だけがあたりを照らしている。衝立の向こうのシルエットが揺れた。

「『荒草の君』です。やっと、やっと連れて参りました。急いで。皆に、見つからないうちに」

「なんですって」

 木で出来たうつくしい扇を手にした白い手が、布で出来た衝立の下から伸びる。その扇の上に乗せられた白くうつくしい紙に、黒いいつものたっぷりとしたインクで、流れるような文字が綴られている。

「ミナ」

 この衝立の向こうへ、足を運んでみたい。だが、それはきっと、今の自分では、まだ、許されないことかもしれない。身を乗り出しかけたアレックスが、そう判断し、思わず進めかけた歩を戻す。

 白く優しい指先、うつくしい木の扇、揺れるシルエット。差し出された指の近くに、ちらりとさらさら揺れる髪が見える。どうやらとても長い黒髪の持ち主らしい。鼻をくすぐる木と花のような香りがわずかに漂い、アレックスは目を何度も瞬かせて、喉の奥から、やっとのことで声を出す。

「………いつも てがみを ありがとう」

 どんなに頑張っても、月並みの言葉しか出てこないのが恥ずかしくて、耳が熱くなってしまう。

「いえ、いえ、わたくしも………」

「なにも わからなくて それ でも」

 白い手紙をゆっくりと手に取って、代わりに花を包んだ黄色い紙を置く。

「うみで はなを」

「………海が、お好きなのですか?」

 そういえば、何かがあったときには必ず海辺に足を運んでいるような気がする。この手紙の返事に相応しいものを探す為だけのつもりだったが、それだけではなく、自分はあの場所で潮騒を聞いたり花や貝殻を探したりするのが好きなのかもしれない。

「はい。はな、かいがら、いっぱいあります」

「絵巻を、ありがとう。どれも、うつくしいものばかり」

「えまき?」

 写真がそっと差し出されてくる。ここでは写真のことを「えまき」と呼ぶらしい。

「いっぱい、知りました。しんせいな やまのひ や きんいろの みのり。どれも うつくしい」

 精一杯の言葉で、精一杯語っているのに、まだまだ語り足りないことが多すぎる。思わず己の胸に手を置いて、アレックスは言った。

「……うつくしいを しる のは とてもたのしい ありがとう ミナ」

 衝立の後ろのシルエットが揺れる。

「ええ、ええ、わたくし、嬉しくって。……手紙を、書いていてよかったわ。本当に」

 鈴が転がるようなうつくしく、そしてどこか愛らしい声が返ってくる。自分が楽しい、と思っていることを、嬉しいと喜んでくれる人がいる。なんて幸せなことだろう。白い紙に綴られた文字は、帰ってゆっくりと読まねばならない。この場ですぐに読めて、すぐに返事を返せたらどんなによかっただろう。海辺で花を何気なく摘んできたあの時の自分に感謝せねばならない。

「はい あえて よかった ミナ」

 そこに、足音が遠くから近づいてくる。女性と少年が顔を見合わせて頷きあった。

「………わたくし、お送りいたします。主上の賓客ですもの。とても名誉なこと」

 布と布が擦り合わされる音がして、衝立の後ろからひとりの女性が立ちあがる。

 長い黒髪に、顔を隠す木の扇を持つ白い指。やはり初対面の人物に顔は見せないのがここの王宮のマナーなのだろう。少し寂しくはあったが、自分の生き方を変え、うつくしさを教えてくれた人間が目の前にいる。

 鮮やかな衣を何枚も纏った、少し自分より背が低く、うつくしい声の女性。扇の合間からちらりと覗く、優しい言葉を紡ぐ紅い唇と、紅く染まっている頬。

 弟である、と言った案内の少年が手にした小さな灯りが、そんなほんの僅かな色を教えてくれる。紅と、白と、黒だけの世界。

 目眩がする。顔を、もっと近くで見て見たい。白い指に、触れてみたい。それよりなにより、何かもっと聞きたいことが、そして告げねばならないことがいっぱいあるはずだ。

 歯噛みをするような焦燥感と、焦燥感によく似た、自分の知らない感情が自分を染めていく。立ち上がった女性につられるように立ち上がり、二人は、後ろに灯りを灯した少年を連れて静かに歩き出した。


*


「これ は?」

「屏風、というのです」

「びょうぶ……紙で できている めずらしく うつくしい……」

「あちらの広い部屋の奥には、主上がいらっしゃいますわ」

 庭に建てたのと同じ様な母屋の裾が微かに見える。

「わたくし達にとって、もっとも大切で、尊いお方。ふふ、通じているかしら」

「とうとい わかります しゅじょう も」

「嬉しいわ。これは……」

 招待客は皆帰り、女房達もそれぞれ己の局に戻っている時間である。廊下に歳助が灯す灯りだけがゆらめく。

 姉と、遠い星から来た『荒草の君』が、並んで廊下をゆっくりと歩く影を見つめて、歳助は目を細める。自分よりも一回り年上で、背が高く、髪も目も見慣れない茶色の色をした、不思議な服の男。話し方が拙いせいか、姉より年下にも見えてしまう。

 いつもあの羽虫鳥を送って寄越しては、黄色いざらっとした紙で手紙を送ってきて姉を喜ばせている青年。あの空に浮かぶ大きな船に、先刻の老人と共に住んでいるのだろう。あの大きい船にはもっと様々な人がいるのだろうか。

 星の向こうには、どのような世界が広がっているのだろう。思わず廊下から見える夜の空の星々を見上げる。あの星一つ一つにも、自分達と同じような、あるいはこの『荒草の君』のような不可思議な人々が住んでいるのだろうか。

 彼らはどこから来て、どこへ行くのだろう。それともここに永遠に留まるのだろうか。何もかもがわからない。

 はにかむような笑顔を時々こぼして、廊下から見える調度品のあれやこれやを拙い言葉で問うてくる青年。

(うつくしいものを知るのはとても楽しい、か)

 いつも、うつくしい花や枝が添えられた手紙を持って、うつくしい公達の間を走り回っているというのに、そんなことは一度も考えたこともなかった。

(星の向こうや、あの空の船にはどんなものがあるのだろう………)

 精密に描かれた絵巻や、玻璃のように透明な布、不思議な筒や、音の鳴る箱。他にも自分では想像がつかない何かが、あの空の向こうには山のようにあるのだろう。

 この地上にやってきた『荒草の君』が、あらゆるものに興味を示すように、自分がもし同じような立場になったら、自分もまたそうなるのかもしれない。そしてこの『荒草の君』のように、誰かとこうして文をやりとりし、誰かと心を通わせる日が来るのだろうか。

 そんなことを考えながら、歳助は拙い言葉で会話を交わす二人の後ろについて、灯りを手に歩いていく。長い廊下の最後の角を曲がったところで、實奈子がふと足を止めた。そして、問いかける。

「また……手紙をくださるかしら」

「はい また かならず」

 仄かな熱量を持った二人の視線が、檜扇越しに交差する。角を曲がった廊下の奥で、先程の老人が静かに佇んでいる。

「ミナ」

 一生懸命、まるで年端もゆかぬ童のように言葉を探す青年が、言った。

「………また いつか こんど かささぎを いっしょ に みましょう」

「ええ、ええ、お待ちしております。いつでも、いつまでもです……」

 名残惜しげに歩き出した『荒草の君』が振り返り、少し背をかがめて、歳助に問うた。

「ありがとう あんない うれしかった。………わたしは あなたのなまえも しりたい です」

 歳助が目を丸くする。

「えっと、その……僕の、名前ですか。歳助です。さいすけ、わかりますか」

「うれしい サイスケ やさしい あんないの ひと いつも てがみを とりにきてくれた」

 少しばかり不器用な微笑みを浮かべて、片手を差し出す。思わずつられて片手を差し出すと、驚かせないようにとゆっくり、握りしめてくれた。これが星の人ならではの感謝の伝え方なのだろう。自分の掌より一回り大きいそれからは、この王宮の人達と何ら変わることのない暖かみが伝わってくる。

「いつでも、手紙を送ってきてください。必ず……届けます」

「ほんとうに ありがとう。サイスケ いつかまた あいましょう」

 二人が沓をはいて、門を出るのを見送りながら歳助は何度も考える。

(同じような、人だ)

 いつも不思議な品々を贈ってくれて、拙い紙に文字を綴り、拙い言葉を話す、少し背の高く茶色の瞳の青年。少なくとも今まで手紙を付け届けしてきた幾人かの公達より、若く、実直な『荒草の君』。

(………あの人もきっと、恋をしている)

 それでも、自分への感謝をきちんと述べてくれた。それだけで、なんとなく歳助の心の中にあった何かよくわからないしこりのようなものが、溶けていくような気がする。

「不思議な人だけれど、悪くはないな。うん」

 そんな言葉がふと口をついて出る。くるりと踵を返して、歳助は、廊下の奥にいる姉の方へと駆けていった。


*


 少年に見送られて王宮を後にする。少しばかり夢見心地な歩みで気球に乗り込んだアレックスに、艦長は微笑みながら問いかける。

「おぬしのペンフレンドは、素敵なレディだったかね?」

「はい。暗くて、よく見えませんでしたが。それでも」

 艦長が首を傾げて不思議そうに問い返した。

「ゴーグルに暗視機能があるじゃろ」

 アレックスが思わず手を止めて、数秒間そのまま固まった後に、呟く。

「………ああ、そういえば、しまった。すっかり……忘れていて………」

 本当に、すっかりと忘れてしまっていたのだろう。思わず気球の中で肩を落として天を仰いで呻くように呟くアレックスに、艦長は笑いかける。

「きっとまた会える機会がある。この星での任務は、まだまだ続くわけだからのう」

「はい……」

 落胆を隠しきれない顔のアレックスの肩をぽんぽんと叩いてやった。

「むやみに、最新の機械で顔を暴こうとしないのもいいことだよ。そういうおぬしだからこそ、わかり合えることもあったのだろうて。機会ならまた巡る。言葉をもっと勉強して、もっと沢山のことを話せると良いのう」

 地平線へ隠れていく月を見下ろし、黒い空に黒々と浮かぶアナベル・リー号に向けて上昇しながら、アレックスがもう一度眼下を見下ろす。灯りが消えて、まるで眠りにつくように静かになっていく王宮。そこで起きたほんの僅かの邂逅。

 白い指先と、ほんの少し薫る独特のインクの香りと、帝国で売られている香水よりももっとずっと柔らかい独特のうつくしい、花と木を混ぜ合わせたような香り。長い黒い髪に、鈴のようにうつくしい声の女性。

 目を細めて、もう一度、眼下を見下ろす。そんなアレックスを艦長は横目で眺める。

 あれは心の大事な場所を、地上にぎゅっと掴まれている。つまり、恋をする男の顔だ。艦長が微笑みながら、うつくしい名を持つ古い艦に願いをかけるように、頭上のアナベル・リー号を見上げる。

 黒々とした空に散りばめられたうつくしい星。そんな星々よりもうつくしいものを見出したらしい、地上を見つめる青年。

 なんと佳い夜だろう。

(長く、このまま、平和な日々が続けば良いが)

 そんなことを星に願わずにはいられない夜だ。星はそこでただ輝くだけで良い。輝き以外のものが決してこのうつくしい辺境の星にやってこないことを願いながら、音もなく吸い上げられるように、二人を乗せた気球はアナベル・リー号へと戻っていった。

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