巻の七 月見の宴・前
小さなハンドルを回すと、ささやかで少し憂いのあるうつくしいメロディーが流れ出す。
「カミさんが好きだったんだよこの曲」
過去形になっているのは何故なのか、アレックスは敢えて問わないことにして、しばし小さなハンドルを回して曲を聴きながら言った。
「懐かしい感じがします」
「そうだろ? 子守唄だったんだよ。子守唄ならどこの星の誰だろうが、悪い感想は持たないもんさ」
そういうものなのか、とアレックスは素直に頷いてオルゴールを丁寧に受け取った。
「で、8番ハッチに二人乗りの気球を整備した。燃料は蓄電式だ。おぬしと艦長がちょうど二人乗りできるやつだ。で、降りたら自動的に気球部分は折り畳まれる機構になってる。こいつがコンソールの鍵だ。ついでにこの杭を地面に突き立てて使えばいい。まあ地上の好奇心旺盛な連中がうっかりあれこれいじっても何事も起きねえから安心していいぞ」
豪快そうな見た目と物言いよりは随分と丁寧な仕事をするらしい。アナベル・リー号とガードナー艦長とは付き合いが長いらしいこのハドソン整備班長を見て、思わず少しだけ失礼なことを考えかけながら、アレックスは深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございます。何から何まで」
「それが整備班の仕事ってやつよ。そういやおぬし可愛いペンフレンドがいるんだろ? 逢えるといいなあ。下の王宮は美女揃いって噂だしな!」
背中をばんばんと力強く叩かれて、思わず目を丸くするアレックスを見てハドソン整備班長が言う。
「健闘を祈ってるぜ!」
外部への出口、8番ハッチのあるアナベル・リー号の船底部分へと歩いていくと、そこに副艦長がやってくる。
「菓子折を用意しました。王宮の皆様のお口に合うかはわからないけれど、何も持たずにいくよりは良いでしょう」
包みを渡される。
「艦長を宜しくお願いしますね。言葉が通じないことがあっても、通じるものがある。それを決して、忘れないで」
「はい」
「帰ってきたら宴の様子を聞かせてくださいね」
8番ハッチにめかし込んだ艦長が佇んでいる。
「よし、行くかね」
「はい」
腕の中にオルゴールと菓子折を抱えたアレックスが、艦長と共に小さな気球に乗り込んだ。
*
空が青く、そして少し地平線のあたりがほの赤い。うつくしいグラデーションの夕暮れの空を背に小さな気球で地上に向かいながら、二人は下を見下ろした。
「……大きな生き物が曳いてる車がある。あれに乗ってこの宮に訪れる者もいるのかのう」
「じゃあ、あのあたりに降りましょう」
二人を乗せた小型の気球が宮の上空に近づくと、下から様々な類の驚く声が響く。まだ薄明かりの庭に、顔を扇で隠した女が、布のカーテンから顔を出しては引っ込めたり、色うつくしい衣装を纏った男達がこちらを見上げて指を差したりなどしている。
「騒ぎになっておるな。まあ、致し方あるまい」
そして、塀の外の『大きな生き物の曳いている車』の近くに、小型の気球を降ろす。
そして整備班長に言われたとおりに気球部分が収納されるのを確認して、コンソールに鍵をかけて外に出ると、杭を地面に立ててロープをかける。
「さすがはパイロット。手際がいいのう」
しかしながら、気球の外に出た途端、白い衣装を着た男達にあっと言う間に取り囲まれた。ガードナー艦長が白い髭に手を伸ばしながらのんびりと呟く。
「うむ、これはどうしたものかね」
「……これを見せたら通れるかもしれません」
アレックスが胸ポケットに差した扇をそっと広げて、男達に見せる。白い服の男達がぎょっとしてそれを見て顔を見合わせているそこに、一人の少年が灯りを手に早足で駆けてきた。そして、男達に何やら伝えている。
「君は……」
いつもドローンの元に『ミナ』の手紙を届けてくれる少年である。『女王』『お客様』などという言葉が途切れ途切れにゴーグルに表示される。どうやらこの少年は、自分達が女王陛下から招かれた身であるということを知っているらしい。
「知り合いかね?」
「いつも手紙を届けてくれる少年です。どうやら、自分達がここに招待されていることを知っているみたいですが……」
「なるほど。案内してはくれないかね?」
艦長が少し屈むと、少年に目線を合わせてにこやかに微笑む。そして王宮の方をそっと指さして、少し首を傾げて見せた。
少年が目を大きくして、そんな目の前の『老人』をまじまじと見てから、こくりと頷いて、二人を手招きする。
「艦長は……すごいですね」
「何がかね?」
「自分には、なかなか今のようにはできないようで……」
「心配せずとも、おぬしも優しさを持った男だから、そのうち自然に出来るようになっていくよ」
艦長が片目を閉じて笑う。
色とりどりの服でめかし込んだこの星の人々が、自分達が歩いていくのを見て思わず指を差したり首を傾げたりしながら見送ってくれる。何とも言えない妙な気分で歩いていくと、白塗りの壁が途絶え、うつくしい朱色で塗られた門が目の前に現れる。
「近くで見ると、こうもうつくしいのか………」
声に出てしまったらしい。そんなアレックスを満足げに眺めてから、
「上から見るのとは大違いじゃなあ」
艦長も共にうつくしい門を見上げて嘆息した。そんな二人のリアクションが珍しいのか、先を歩く少年が目を丸くしている。
「ここにこうして招かれるとは、改めて不思議な気分じゃなあ。しかし、なんともうつくしい廊下だ。これは靴でそのまま上がってよいものかね」
アレックスが、少年を手招きして艦長の靴を指差し、次に廊下を指差した。少年が言う。
「えっと……その、沓はここ下足で脱ぐ決まりですよ」
ゴーグル越しに『脱ぐ』という単語がかろうじて聞き取れた。アレックスが艦長に耳打ちする。
「ここで脱げばいいのではないかと……」
「なるほど。帽子を預ける場所もここかのう」
ブーツを脱いだ艦長が帽子を脱ごうとすると、少年が何故か慌ててそれを押しとどめた。
「おや、帽子はいいのかね」
長い廊下を見ると、色鮮やかな衣装の男達があちらこちらを歩いているが、皆一様に黒くて長い不思議な帽子を被ったままだった。
「ふむ。……靴は脱いで、帽子は脱がないのがここの礼儀作法なのかね」
「ということは、ヘルメットも被ったままのほうがいいでしょうか」
「そうするかね。しかし、礼儀作法というのは興味深いものじゃな。星によってこうも違うとは……」
*
陶器のようなつるりとした素材で頭全体を覆うような、不可思議な形の帽子を被った青年は、自分より一回り年上だろうか。茶色の瞳の上から、透明な玻璃のような何かを被っていて、そこには時々見知らぬ文字が浮かび上がっている。一体あれはどういう仕組みなのだろう。
小脇に何かを大事そうに抱え、少し光沢がある不思議な布で出来た衣装で、辺りを見渡しては嘆息するその青年か、その隣で悠然と帽子を被り直し、変わった形の長い沓を脱いで廊下に上がった老いた男のどちらかが『荒草の君』なのだろう。
青年は沓を脱ぐと素足であり、老人は継ぎ目のない布で出来た足袋のようなものを履いている。つまり老人の方が高位なのだろう。少し緊張した面持ちが見てとれる青年の方は従者なのだろうか。きちんと二人とも周りに合わせてせっせと沓を揃えているのに妙なおかしみがある。
周りの男達も『星の民』をこんなにも間近で見たのは初めてなのだろう。興味深そうに、そんな二人の一挙一動をやや遠巻きに眺めている。
(おそろしい人達でなくて、本当に良かった)
姉の言う通り、彼らもまた自分達に近しい存在であり、何一つ恐れることはないのかもしれない。二人を長い廊下へ案内していった。
*
木と布で出来ているブラインドの後ろからうつくしい服の袖口だけがちらちらと見え、廊下の手すりには、これまたうつくしい衣装が飾りのようにかけてある。
「別世界に来たようじゃなあ」
「本当に」
カーテンの上下には木で出来た格子状のドアが半開きになっている。なんとも不思議な機構だ。廊下には紙で出来ている衝立が飾られて、彩りを添えている。不思議な絵が描かれた紙の衝立。立ち止まって触りたくなるのをぐっとこらえて、その横を通り抜ける。
すれ違う男達は室内だというのに皆、必ず帽子を被っており、帽子には色とりどりの花々が飾られている。そんな男達がすれ違いざまに自分達をまじまじと声もなく見つめてくる。
(珍客、といったところなんだろうな)
表側の庭にはうつくしい木々と、小さな池があり、池にはうつくしく色鮮やかな小舟が浮いている。白い服の男達が、庭のあちこちで火を灯しはじめた。徐々に明るくなる庭の奥にしつらえられた台の上に、不思議な形をした楽器を手にした男達が集いはじめる。
庭の中央にはひときわうつくしい布で彩られたテントのようなものが建てられていた。中にいる人影が動く度に嘆息や囁きを漏らす。一体誰がいるのだろうか。思わず少年の肩をそっとつついて呼び止めると、アレックスは聞いた。
「………あの テントには 誰 いるのですか」
「てん と?」
アレックスがうつくしいテントを指をさし、首を傾げるのを見て、しばし考え込んだ後に少年は言った。
「あそこには、主上がおわせられます」
「しゅじょう?」
知らない言葉である。だが、どうやらああやって特別な場にいる特別な人物のことを彼らは「しゅじょう」と呼ぶらしい。もしかしたら、女王陛下のことだろうか。思わず目を凝らすと、おそらくは女性であろううつくしい影が時折微かに揺らぐのが見える。
「………ああ、そうだ、届けたいものがあるんだった」
アレックスが、うつくしいテントを指さしてから、自分の荷物を少年の前に見せ、もう一度テントを指さして、首を傾げて見せた。
「あそこに、持っていきたい?」
拙いジェスチャーだが、どうやら通じてくれたらしい。
「そう です。………みやげもの もって きました」
「何と。ちょっと姉に伝えてきます。えっと、どうしよう。とりあえず、席にご案内するので、しばしお待ちを」
椅子よりは低いが、床よりも一段高くなっている台のような不思議なしつらえの場所に、四角く薄いクッションのような布が敷かれている。布には銀の砂がまぶされたような刺繍がほどこしてあった。
「………これは、もしかすると『星』かのう」
「自分達用の席が、ここ、というわけですか」
「どうやって座ったものか」
ガードナー艦長が思わず周りの招待客達を眺めて、腰を降ろしている人間を探す。
「布の上に腰掛けても?」
アレックスが少しの間考えてから、
「すわる ほうほう わからない」
少年に素直に伝える。
「あ、えっと、こうです」
少年が丁寧に、ゆっくりと台の上のクッションのようなものの上に座ってみせる。足の組み方をきちんと観察し、艦長が入れ変わって悠然と腰を降ろす。
「自分は立っていますので」
そして、
「ありがとう」
少年に言うと、その感謝の言葉もしっかりと通じたのか、少年の緊張した面持ちが少しほぐれて笑いが溢れだす。そんな年相応の少年の笑い方を見て、なんとなくアレックスは嬉しくなった。
「は、はい。手土産の渡し方、聞いてきますね!」
「よろしく おねがい します」
*
「姉上!」
人の合間を縫って、女王の月見用の月の御座の隣に建てられていた几帳の後ろに声をかける。
「歳助。『星の方々』はお見えになって?」
「は、はい。二人来ていて、おそらくはどちらかが……」
はらりと几帳が揺れて、姉が顔を見せる。
「『荒草の君』なのね? ああ、ああ、お目にかかれたら、どんなに良いでしょう。けれど………」
几帳の内側には既に、宴の際に色んな『やんごとなき方々』が女王宛に付け届けしてきた品が積まれており、その目録を作るのが實奈子の重要な仕事だった。文机の上に、擦りたての墨と真っ白い紙が置かれている。小さな灯りが文机の横に照らされており、實奈子の頬にもまた灯りが灯る。
「老人と若者の二人です。どちらが『荒草の君』かは、わからないけど、どっちも親切な人でしたよ」
「……老人と若者?」
實奈子が人差し指を額に当てながら考える。
「歳助、わたくしの机の中から………かささぎの羽を取り出してきてちょうだいな。お二人に、見せてみて。そうすればきっと、わかるわ。わたくし、實奈子が………ああ、でも、だめね。今は、目が、手も、離せないわ。どうしたら……」
そんな姉の、いつになく意気消沈した声を聞いて、歳助が思わず言う。
「何とか……機会を見つけて、ここまで連れてこられたらいいのですが」
「そうね……」
「それで、その『星の人々』ですが、主上当てに手土産があるとのことで……どう渡せば良いのか、問われまして」
「まあ、手土産ですって?」
實奈子の声が普段のそれに変わる。
「すぐに宴司に連絡をするわ。歳助、あなたは星の方々に付いていてあげてちょうだいね。合図をするわ。それで、お二人を庭の主上の月の御座の前までご案内してくれる?」
「わかりました」
「で、後は……もしも、機会があったらでいいの、どちらかに、その羽根をお渡ししてちょうだい。それで、問いかければわかるわ。えっと、そう、『あれっくす・あれきさんだー』だったはずよ。それだけで、きっと………」
夢見るように恋する一介の女そのものであり、かつ、それでいてしっかりと自分の立場をわきまえている女王の祐筆。恋と使命、喜びと寂しさを等分に持った、複雑な陰影のある表情。弟である自分ですら姉のそんな表情は見たこともなかった。
「………わかりあえていれば、それでいいの。そう……そう思っていたのに、いざとなると駄目ね。こんなにも、逢いたくなってしまうんですもの」
「………姉上は、恋を、していらっしゃる」
思わずそんな言葉が口をついて出る。頬を真っ赤に染めて言葉を失った實奈子が、しばらくの沈黙の後に、呟く。
「恋、恋ね。わたくし、そうなのね。………けれど歳助、たったひとりのわたくしの弟。わたくし達はいつも一緒だった。わたくしがもし、誰かを恋うることになっても、決して、あなたにだけには淋しい思いをさせはしないわ。そういう人を、わたくしは恋うることにするわ。ああ、だから歳助、よく見てきてちょうだい。しっかりと、ね」
*
「新鮮な魚や果実をこうして口にするのは、艦での暮らしが長いと久しぶりになるでのう」
変わった形の小さなテーブルの上に次々に料理が運ばれてくる。
「昔、別の星でも見かけたことがあってな。この『箸』を使うのは何年ぶりだったかな」
横目で何度も周りの参加者達の様子を見やり、それをおそるおそる真似しながら、まずは器に盛られていた果実に手を伸ばし、アレックスは言う。
「自分にはとてもこの『箸』を一晩で使いこなせるようには………なれなさそうです」
せめて誰も見ていないところで練習出来たら、と内心の溜息を押し殺す。列席している王宮の皆が、『星の民』がどのように振る舞うのか興味津々らしく、こちらをちらちらと眺めては何かを囁き合っている。
そんな状態を意にも介せず堂々と食事を口に運んでは舌鼓を打っている艦長は、のんびりしているだけでなく人一倍肝も据わっているのかもしれない。そんなことを考えながら、手に取った小さな果実をおそるおそる齧ると、甘ずっぱい味が口の中に広がる。
「……ああ、でもこの果実は美味しい」
控えている少年に、思わず問いかける。
「これの なまえは なんですか」
「こちらはナツメ、これはクルミ、といいます」
「とても おいしい ありがとう」
「お酒は………飲まれますか」
「すこし なら」
白く濁った液体が、変わった形の平たい瓶から杯に静かに注がれる。
「酒も、何とも不思議な味わいじゃなあ。ふむ、これは……この王宮にも焼き菓子があるようで何より。手土産を持ってきたが、存外、喜ばれるかも知れんのう」
小さな器に、様々な料理が取り分けられている。一番大きな皿に盛られた、艶のある白い粒の山を指してアレックスは聞いた。
「これは?」
「米のことですか」
「………もしかして、田に 実る 金色の?」
「はい。そうですけど………」
あの緑のカーペットのような『田』に実っている『米』を、このような形で間近に見ることができるとは。てっきり金色の実のような何かだと思っていたが、どうやら米というのは白いものらしい。
以前ミナから貰った手紙に心を後押しされるように、箸をそっと手に取って、艦長がしているように指にそれを挟みながら、アレックスは白い米をそっと慣れない所作で箸に乗せて口に運ぶ。
「美味しい」
『この田の米は、とても大事な実り。
秋になれば金色に実る。
ここうつくしの宮では、米の粒は金や絹と同じ』
金や絹と同じだけの価値を持つという『米』。皿に盛られている多さから鑑みると、どうやらこれがこの星の主食らしい。蒸してあるのか、少し粘り気がある。
(蒸す前は金色なのだろうか)
そこに、風を切るような甲高い笛の音が鳴り響く。庭にしつらえられたうつくしいテントの前の、一段高い段の上に、様々な楽器らしきものをそれぞれ手にした男達が居並んで腰かけている。色鮮やかな仮面と衣装を身につけた人物らがふわりと段の上に舞い上がる。
「これが、宴か」
艦長が静かに箸を置いて、前方に静かに視線を投げる。つられるようにアレックスもまた箸を置いて、その場に座り直す。
庭に立てられていた、籠の付いた棒の先に炎が灯されて、辺りがひときわ赤く明るく照らされる。音楽が奏でられ、きらきらと輝き落ちる火の粉と共に不思議な舞が始まる。
炎に照らされた鮮やかな衣装、不思議な形をした大きな仮面。そして聞いたこともないようなうつくしい楽の音に合わせてそれらを纏った人物達が舞い踊る。
世界はこんなにも色鮮やかなものだったのか。そしてこの数々の色には、音にはどんな名前があるのだろう。
赤く燃える炎に照らされているテントの中のシルエットが、筒のようなものを月へ向けて掲げている。その場に宴のいた参列者一同が、一様に腰を下ろして平伏した。艦長が呟く。
「成程。女王陛下の月見の時間、か」
影でしか見ることが許されていないのだろう。冠を被った女性のシルエットが、長い筒を夜の空に掲げて佇むその様は、まるで何かの絵画を目の当たりにしているようだ。
先程の甲高い笛と異なった、オルガンにも似た音が出る、細く長さの異なる細い筒を幾重にも束ねた独特の形の笛が奏でられる。少年が囁くように、ゆっくりと声をかけてきた。
「……あの笛は笙といって、天から降りてきた者や星を指すんです。主上があなた方を呼んでいらっしゃる。さあ、土産物を、持っていきましょう」
土産物とテントを交互に指さして、立ち上がるように促すような仕草。
「ああ、わしらの出番かね」
はっとして、少し慌ててアレックスは包みを持ち直す。そして立ち上がって艦長の傍らに立つと、少年の後ろへ付いて静かに歩き出す。場の一同の視線が、自分達二人に注がれる。
真四角のうつくしいテントの正面は月へ向かって少し開かれており、少年が正面に、脇から小さなテーブルを置いてくれる。
「アレックス」
「かしこまりました」
厨房のクルー達が手ずから焼き上げてくれた焼き菓子をラッピングした袋と、その隣にオルゴールの箱を据え置くと、艦長は言った。
「………オルゴールを、奏でて見せてあげなさい」
アレックスが頷いて、静かに小さなハンドルを回す。テントの中から、そんな自分をじっと見つめる、重々しく威厳のある視線だけが感じられる。
(しゅじょう………そう、女王陛下だ)
鐘の音のような音が、思いのほか大きく庭に響く。楽器を奏でる者も、舞う者も、思わず動きを止めて、この『何の変哲もないただの箱から流れる音楽』を、大きな驚きを持って見つめ、ざわつき、そして、静かに耳を傾けはじめる。
少し懐かしい、そして優しい子守唄が、月の光と燃える炎で照らされた庭を、小さく、静かに彩っていく。テントの中から、誰かがゆっくりとこちらへやってくる気配がした。
艦長が静かに胸に手を置いて跪く。軍人としての最高レベルの敬意を表するその礼に、自分もまた習って庭の白い石の上に膝をつく。所作も言葉も異なっていても、礼を尽くす仕草というものは不思議とどこでも通じるらしい。
すっとテントの中から静かに手が伸びてくる。うつくしい布を幾重にも重ねたこの王宮独特の、だが、袖口だけだというのにびっくりするほどうつくしい意匠の、細やかな刺繍で文様が彩られた衣が、炎に照らされて鮮やかにきらめく。
「星人らよ」
うつくしく威厳のある声だ。『ほしびと』というのは自分達のことだろう。
「遠き地より良くぞ参った。吾らに『月』を返し、このようなうつくしい箱まで贈る心尽くし、吾らは忘れはしまいぞ」
翻訳機能を入れたままのゴーグルに、自分がかつて登録した『月』という文字と、『箱』、そして、『贈る』という文字が映る。一瞬考えてから、アレックスは艦長と目を見交わし、静かに言った。
「ありがとう ございます。ことばが ふじゆう で もうしわけ ない」
くつくつと『主上』、自分達の言うところの『女王陛下』が笑う。笑いながら、ゆるりとオルゴールの箱を手に取った。
「吾らと星を繋ぐ鵲(かささぎ)鳥達よ。鵲ゆえに、言葉が足りぬともそれは致し方ないことよ。しかし、そなたらはこうして礼を尽くした。吾はそれを、忘れはせぬぞ」
『かささぎ』と呼ばれたことに思わず驚きながらも、アレックスは再び深々と礼をする。楽の音が再び鳴り響き、テントが静かに閉まる。
「女王陛下から直々に言葉を賜るとはのう」
再び席に戻りながら、艦長が呟く。
「ヘレネ君にも見せてやりたかったなあ」
ふと、この光景をミナはどこかで見ているのだろうか、などということが頭に浮かぶ。次の手紙で聞いてみよう、などと考えながら席に戻ると、先ほどまで食事が乗せられていた小さなテーブルに、うつくしい刺繍の入り乱れた布が納められた箱が、いくつも置かれていた。
「これは………」
「なんと豪華な」
二人が息を呑む。
「ささやかなものですが、とのことです」
やってきた少年が言った。『ささやか』という文字がゴーグルに映り、アレックスは戸惑いを隠せないまま、それを艦長に伝える。
「ささやか? この返礼品がかね。こんなうつくしい布は、帝国の首都にもない」
「持って帰ったら、家が建つのでは……」
二人が思わず茫然とその布を見やる。
「どうしますか」
「返したら失礼になるじゃろうなあ」
艦長が思わず天を仰いで、そして言った。
「有難く、頂戴するとしようかね……」
*
聞いたこともないような、うつくしく優しい音色。星が囁くような、そんな音が『ただの箱』から流れている。星の民の楽器なのだろうか。楽人も無しでひとりでに鳴る楽器を、實奈子は母屋の隣の几帳の隙間から静かにひとり眺める。
女王の前に、二人の男が跪くのが見えて、思わず筆を置いて、そっとその手を胸にやりながら小さく身を乗り出した。
(来てくれたのね。本当に。ああ、ああ、なんて幸せなこと)
實奈子の目の前には沢山の女王宛の贈り物が既に届けられており、贈った者の役職や名前と共に、その内容を記載した一覧を製作した目録が文机の上に山積みになっていた。
そして、女王の代わりに礼をしたためた返事の手紙の代筆を書くのが今日の『祐筆の仕事』だった。
(手紙、そう、手紙を……)
そこに、別の局がそっと入ってきて實奈子に耳打ちをする。
「筆の方。星からいらしたあのお二人には特別な褒賞が与えられるとのことでしてよ」
「そうなのですか」
「もう席まで運ばせましたゆえ」
「え、もう?」
手紙を添えることが出来れば、と思っていたが、一足遅かったらしい。思わず声を出しかけて、それを喉の奥まで引っ込める。
「いえ、その、えっと………ご苦労様ですわ。一筆書き添えておけば良かったかしら」
「何でも、とてもうつくしい布だとのこと」
「わかりました。その旨も今日の宴の出来事として書き記しておきます」
あの音の出る箱は、なんという名前なのだろう。贈答品一覧に何と書き記すべきか、思わず考え込む。
(そうね、かささぎ。……かささぎの箱、とでも書き記しておきましょう)
再び筆を取って、いつもの優美な文字で贈答品一覧を記した目録に、『ほしびと』、『かささぎのはこ』と書き記した後、實奈子はふと、部屋の紙入に詰め込まれた大量の返答用の用紙の中から、するりと1枚、雲母の刷り込まれた白い紙を取り出した。
(………ああ、すぐに届けられたらいいのに)
こんなに近い場所にいるというのに、言葉を交わすこともできない歯痒さ。
『この宮にとってのかささぎは
荒草の君、あなたそのものなのです
あなたはまさに この地上と星を繋ぐ
尊い鳥なのですから』
そんなかささぎ鳥の、翼休める場所であれたら。相まみえて、語り合うことが出来たら。
そんな気持ちを綴るべきか、秘しておくべきか、思わず實奈子は沈思する。
(………駄目ね。相応しくないわ。まだ、仕事中ですもの)
それだというのに思わず書き綴ってしまった手紙をぼんやりと几帳の脇の檜扇の上に乗せて、墨を乾かしながら、實奈子はもう一度、そっと身を乗り出す。
一人は老人、一人は若者。そのどちらかが『荒草の君』なのだ。はじめてこうして垣間見て、實奈子は息を詰める。
(ああ、本当にかささぎ鳥なら、わたくしのところにも、飛んできてはくれないかしら………)
まるで手習いで歌を習い始めたばかりの十代の娘の恋心のようだ。なんとなくおかしくなって、實奈子はもう一度、数多の公達から贈られてきた贈答品一覧の目録に視線を戻し、いつものように静かに筆をとった。
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