第80話 いっち……にー……!
「……ごめん」
医務室のベッドに座って、養護教諭の先生から足首の治療をしてもらったあとの瑞香に、申し訳なさそうに優斗が声をかけた。
治療の前に、血の付いた体操服の上着は、通学の時に着ていた制服に着替えていたけれど、下は短パンのままというチグハグな格好だ。
脱いだ体操服は、早めに血を取っておかないとということで、先生が洗いに行ってくれていた。
「ううん、私こそごめん。私が転けなかったら、こんなことになってないから……」
「それはそうかもしれないけど……」
瑞香の言う通りだとわかっていたけれど、従姉弟の美雪が転けたのを自分も見ていた。
同じシチュエーションだけれど、彼女は彼氏にちゃんと支えられて、事なきを得たのだ。
それと比較して、自分はそのまま転けてしまっただけでなく、瑞香に捻挫させ、しかも鼻血まで付けてしまった。
それが恥ずかしくて、両肩を落とした。
「私は大丈夫だから。優斗は次の競技もあるでしょ? 早く行ったほうが良くない?」
「でも……」
「捻挫くらいどうってことないから」
「……わかった。ごめん」
促されて医務室を出ようとした優斗の背中に、瑞香は声をかける。
「頑張って。……そうだ、帰り一緒に帰ろうか」
「うん。じゃ、また昼に来るよ」
優斗がそう答えたあと、医務室から走って去っていく足音が聞こえた。
瑞香は「ふぅー」と大きな息を吐いて、背中からベッドに寝転んだ。
その拍子に足首がズキッと痛む。
優斗が倒れたときに捻ったのだろう。
頭をぶつけた痛みに紛れてそのときは気づかなかったけれど、先生に聞くと、このあと病院で検査しておいたほうがいいとのこと。
手の空いた先生がこのあと近くの病院に連れて行ってくれることになっていた。
「……がっかり」
自分のせいとはいえ、競技をする前に転けてリタイアとは、残念すぎる。
そう思いながら、瑞香はゆっくりと目を閉じた。
◆
その少し前。
一方で、美雪と貴樹のふたりは、あと少しで二人三脚のスタートというところだった。
「……あんま緊張すんなよな」
「緊張くらい、するでしょ。いくら練習したって言っても、ちょっとタイミングズレたらダメなんだもの」
「だから緊張してたら……」
緊張してたらタイミングが合わなくなる、と言おうとしたが、それを遮るように美雪が捲し立てた。
「わかってるわよ、そんなこと。でもそれができたら苦労しないの。バカね」
「へいへい」
「だから私がタイミング取るから、ちゃんと合わせなさいよね」
「んな無茶な……」
呆れつつも、すぐに先のグループがスタートして、自分たちの番になった。
練習通り結んだ足から一歩踏み出して、スタートラインに並ぶ。
あとは今走っているペア――ほとんど歩いているようなペアもいるが――が、ゴールしたらスタートだ。
「いよいよね……!」
上擦った声で美雪が呟く。
練習前は昨年のリベンジに燃えていたのだろうが、今はどちらかというと同じ目に遭わないように、という感じにも思えた。
(大丈夫かな……)
その様子を見て、貴樹はさらに不安になる。
緊張しているとタイミングが速くなることが多いけれど、彼女の場合はどうだろうか。
記憶を頼りに思い返そうとしたが、その時間は与えられなかった。
「よーし、次行くぞー。準備はいいかー? よーい……」
パァン!
先生の持つ号砲の音が鳴り響く。
その直後、貴樹が美雪の腰に回した腕に、彼女が足を動かそうとする感触が伝わる。
「いっち……にー……!」
美雪が口にする声に合わせて、練習よりも多少大股ではあったが、貴樹は力を抜いてそれに合わせて足を踏み出した。
一度走り出してしまえば、これまでの練習での感覚もあって、自然と足が動く。
1歩目から動けなかった昨年とは雲泥の差で、ふたりはスムーズにスタートを切った。
スタートが好調だったこともあり、他のペアに先行してトップを走り、コースの半分ほどまで来た時だった。
序盤出遅れた男子ペアが、慣れてきたのか勢いよくスピードを上げて追い上げてくる音が後ろから聞こえてきた。
(ちっ、こりゃ抜かれるな……!)
ふたりの走るペースはむしろ練習よりも速いくらいで、順調そのものだ。
無理なことをすると危険だし、今よりペースを上げることはできないと貴樹は思っていた。
しかし、美雪はそう思わなかったのだろうか。
ちょうどその男子ペアと並んだとき、抜かれまいとしたのか、突然彼女の歩幅が大きくなったことに貴樹は追従できなかった。
「――っ! ヤバっ!」
崩しそうになったバランスを、なんとか持ち前の身体能力で持ち直す。
けれども、その戸惑いが美雪に伝わったのだろう。
急にギクシャクとしたことに焦った彼女は、あろうことかそれまでのペースから一転して足を止めてしまった。
「――なあっ!」
流石にそれは予想外すぎた。
貴樹は結ばれた足が引っ掛けられたようになり、勢い付いた体はそのまま前のめりに倒れていく。
それでも気合いで自由な片方の足を思いっきり前に踏み出して、倒れまいとする。
――グキッ。
部活をしていた頃なら毎日ストレッチもしていたけれど、今はそんなことはしていない。
硬くなった股関節が悲鳴を上げるのもやむなしだ。
貴樹は引き攣る顔を抑えながら美雪に言った。
「あ、慌てずに行こう……」
「う、うん」
とはいえ顔に出ていたのだろう。
美雪も戸惑った顔で頷くと、もう一度ゆっくりリスタートを切った。
――その頃には、先行する男子ペアはすでにゴールテープを切っていたけれども。
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