第5話
目の前に広がるのは、なんの変哲もない海辺の景色だった。
左右に堤防がすうっ、と長く続いていて、空が広くて、海水浴をして遊ぶというより、一人で頬杖をついて眺めるための海、という感じ。
傍らにはちょっとしたベンチと、ぽつんと立つ自動販売機が一台置いてあるだけの広場とも言えない場所。この場所から見るこんな海の景色を薫は昔から気に入っていた。
滅多に人なんか来ないので気兼ねなくタバコを吸える所がいい。
「レインちゃんは何にする?」
『ワタシ、ココアがいいです』
「うん」
ということなので、ココアと、自分用にコーヒーを自動販売機で購入する。どちらも温かいやつ。
「ありがとうございました」と自動販売機がお礼を言うので、なんとなくレインちゃんと初めて会った日のことを思い出してしまう。
コーヒーを飲んでひとつ息を吐くと、温かいものを飲んだせいか今まで透明だった息が白くなった。隣を見ると、レインちゃんの吐く息も白くなっている。
人と同じように呼吸をしてみせる機能は顧客に好評で、薫にはもうそれが好評である理由がちゃんとわかっていた。
『おいしいです』
「それはよかった」
『……えへへ』
「どうしたの、笑ったりして」
『ここ、薫さんが初めてワタシを連れてきてくれた場所ですね』
「そうだね」
『その時のことを思い出してしまって』
「……そうかい」
レインちゃんを購入してすぐ、薫は電動バイクに飛び乗ってこの場所に向かっていた。今まで一人で見ていた景色を、この子と一緒に見たら果たしてどうなるんだろう――と気になったのだ(その時はまだレインちゃんを後ろの席に乗せていた。その背中に身を寄せてバイクを走らせることの心地よさを知ったのは、もう少し後のことだった)。
結果として、一人で来たときと景色はなにも変わらなかった。
なんの変哲もない、自分以外の人はなんの価値も見いだしていないような海の景色。しかしそれを、これからは自分だけでなくレインちゃんも覚えていてくれる、ということが新鮮だった。
あまりに新鮮すぎて、その感情が「嬉しい」であることには後で気がついたのだけど。
「レインちゃん」
『はい』
「歌、歌ってよ」
『はい、なんの曲がいいですか?』
「『
春の夜に降る静かで暖かい雨のことを歌った、唯花先輩の曲のなかでは珍しいほど穏やかなこの曲は、薫の一番のお気に入りだった。
ちなみに、レインちゃんの名前の由来でもある。
『わかりました』
そう言って、レインちゃんは歌を歌い始める。
静かな海岸線に、静かな歌声が響いている。
薫は目を瞑ってそれを聴いている。口には電子タバコを咥えている。ハゴロモジャスミンの甘い香り。
ここは相変わらず人がいなくて、こんな二人のことを誰かに咎められる心配はなさそうだった。
★★★
スマートロイドの普及に関しては、慎重な意見も根強く残っている。
本来生身の人間相手にやるべき生活を、心のない
薫はそれになんの反論もしない。
スマートロイドがただの機械でしかなく、その中に心がないと言うなら、それはそうなのかもしれないし。そのやり取りも、ただのプログラムされた会話や表情を出力しているだけだと言われれば、そうなのかもしれない。
本当のところ、レインちゃんがどういう存在なのか、いつも一緒にいる薫にだってわかっていないのだ。
ただ、心のない機械であるはずのレインちゃんは、薫の心の知らない部分をたくさん引き出してくれる。
一緒にいて嬉しい――だとか、
起こしに来てほしくてわざわざ寝坊をしてみる――だとか、
今度はフレンチトーストでも作ってあげようかな――だとか、
次の休みにはここに連れていきたい――だとか、
こんな服を着せてみたい――だとか、
この曲も歌ってほしい――だとか、
頭を撫でたい――だとか、
この子のために生きていきたい――だとか、
自分のなかにそんな感情があることを、レインちゃんに出会うまでの薫は少しも知らなかった。それを知ることができたことを、こんなにも嬉しく思うのだ。
「ありがとね、歌、歌ってくれて」
『これぐらいお安い御用ですよ、薫さん』
「うん……あのさ、こんなことを改まって言うのもなんだけどさ」
『はい』
「えっと、その……これからもよろしくね、レインちゃん」
『はい!』
目の前に、自分の言葉に反応してこんなにも笑顔になってくれる存在がいる。
一人と一台の――そんな生活。
いいもんだよなあ、と、少なくとも薫はそう思うのだった。
一人と一台 きつね月 @ywrkywrk
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