35. 春の錦

 桜の花びらが舞い散っている。その様をきざはしに腰かけて、ただ眺めた。

 「桜の宮」の至る所に植えてある桜は満開。明るい青空の下で咲き誇っている。視界が桜色の光であふれ、その様にじんわりと心があたたまるようだ。

 こんなに穏やかな気持ちで春を迎えたのは本当に、久しぶりだ。


 足音。そちらに顔を向けると、浅葱あさぎ色の直衣のうしが見えた。

 白い髪に白い肌。青にも見えるほど美しい、赤みがかった薄灰の瞳。それは、依夜の夫となった華村生成きなりだ。

 歩み寄ってくる生成から目を逸らし、桜へと視線を戻す。


「あなたはまた、行儀のお悪いことを」

「また小言?」


 思わず眉根を寄せる。階に座るくらいで目くじらを立てるのはやめて欲しい。


紫上局しじょうのつぼねが宿下りされている時に……」

「だからなのに」


 小うるさい母親代わりがいないからこそ羽を伸ばしているのに、生成は頭がかたい。


「秋史は生成と違ってうるさくないんだけどな」

「秋史と一緒にされては困ります」


 むっとしたような生成の声に、少し愉快な気分になる。

 秋史は気持ち背が伸びた。とはいえ、まだまだ童子。心根の優しい子で、今では依夜の供をしていることの方が多い。


「茜姫は」

「無事、萌葱もえぎ殿へ居を移されました」

「そう。それは良かった」


 これから茜がどう出てくるかはわからない。彼女の息のかかった者達は、一年かけて好条件で方々へと散らした。だからと言って安心できるとはまだ言い難いだろう。

 だが茜自身を守るためにも、人目の多い場所で暮らしてもらう方が良いだろう。もしかしたら、貴族としての生活が彼女の心を慰めることもあるかもしれない。


「雅殿は?」

「二週間後から、と」

「やっと……」


 長かったと言うより他にない。天緑てんろくの長を降り狩衣を脱いでから一年。すっかりうちぎ姿に慣れてしまった。


 婚姻の儀の夜からこれまで、依夜は療養を強いられていた。特に最初の半年はほとんど寝たきりだったと言っていい。あんな化け物のような生霊を返されて命があっただけでも奇跡だったのだ。

 なんとか身体を動かせるようになってからは、赤子のように歩く練習さえ必要だった。がくを奏でるなど出来ようはずもない。

 ただ、そこからの回復は比較的早かったと思う。もうほとんど以前と変わらないほど動ける。楽を奏でることも出来る。


 神官長である雅には、再三神官の職に復帰させるよう申し出ていたものの認められなかった。それが、やっと二週間後から復帰出来るのだ。

 しばらくは生成の下で勤めることになるのだろう。今の天緑の長は生成なのだから。


「ご無理はされていませんね?」

「ええ。むしろ調子がいいくらいよ」


 療養生活は性に合わない。最近は文官の手伝いなどもしていたが、やはり神官の仕事とは違って頭が痛かった。


 生成とはいつも神官として常に共にいた。だがこの一年は、依夜が療養していてそれもなくなった。これほど生成と離れている時間があるのは、自分が覚えている限りのどの記憶にもない。生成とは、好んでいようが憎んでいようが、依夜の人生のほとんどを共に過ごしてきたのだ。


 生成と離れる時間が増えたため、依夜は護衛の随身を新たに登用した。依夜の治療や気の病の薬も、今では複数のさじが協力して当たってくれている。生成が天緑の長になったことで、依夜の側近の任も必然的に解かれた。

 依夜が鳥になるために提示した条件が、今は揃っている。なんという皮肉だろう。


 風が吹いた。依夜の金の髪と桜の花びらが舞い上がる。その中に、小さな影が見えた。

 鳥だ。風に逆らって花びらをくぐり、桜の枝に止まる。


「鳥が」


 立ち上がり目で追う。その姿は絢爛な桜の花に隠れてよく見えない。


うぐいすか? それとも雲雀ひばり? 鳴かないとわからないな」


 よく見ようと階を降りようとして、それは出来なかった。

 生成の腕が背後から依夜をとらえ、そのまま抱きすくめたのだ。

 伽羅きゃらが香り立ち、依夜の胸を満たす。


「————⁉︎」

「どこにも行かせません」

「ッ放して!」

「聞けませんね」


 さらに生成の腕に力がこもった。ほおとほおが触れ合う。その熱に、胸の奥から言葉では言い表せない波が広がった。

 打ち寄せてはまた引いて、そしてまた打ち寄せる波。名もわからないその感覚に胸が鳴った。

 息を吐く。


「……生成が護ってくれているうちは、どこにも行きようがないよ」


 依夜を抱く腕をそっとなでる。骨ばって大きな手のひら。真っ白な肌。その肌のどこにも、もう痣はない。

 方法が正しかったとは思わない。違う道もあっただろうと思う。だが、この手を、身体を、そして心を痣だらけにして護ってくれていたのは事実だ。

 過去はもう取り戻せない。出来るのは、今ここから違う道を選び取って行くことだけだ。まだ寝たきりだったのに居を移したのは、その違う道を探してみたかったからだ。


 目覚めて最初に見たのは、依夜のしとねの横に不自然な姿勢で倒れ込み、気絶するように眠っていた生成の顔だった。憔悴したその姿を、しばらくぼうっと眺めていた。

 上手く回らない頭で、命が繋がったのだとそれだけを思った。これから違う道を歩いて行くことが出来ると。

 また、生成と合奏が出来ると。


「時々、あなたがふらっとどこかへ行きそうに思えて……」

「そう」


 実際に生死の境を彷徨っていた身としてはなにも言い返せない。

 鳥が鳴いた。それは春を喜ぶ恋の歌。


「鶯だね」


 笑みが浮かぶ。

 そっと生成の腕を解く。向き合うと、薄灰の瞳が細められた。眉間に力が入り、鋭さを増した目が依夜を見下ろしてくる。

 その仕草は、視力の悪い生成が少しでも目の前のものをよく見たいと思う感情から来るものだ。そのことに気が付いたのは、居を移し共に暮らすようになってから。


 誰にでも優しく、柔らかな笑顔を向けていた生成。その表情は、依夜以外の誰のことも真には見ていなかった証でもあった。

 そんなことになど気が付かなかった。見ていなかった。だが、依夜にだけ向けるその癖は、気がついてしまえば違うものに見える。世界の色は変わった。


「遠き日に夢みしものは気がつかばやがてかたはらなるものなりき」


 つぶやくように詠み、それを噛み締める。

 辛く悲しく、鳥になることを望んだこともあった。だが、あの頃も思い返せば人には見せない自分をお互いに見せ合っていたのだと思えるから不思議だ。ある意味、お互い心を開いていたのかもしれないとすら思える。

 お互いに未熟で、苦しんだ。だがそれも、今は過去だ。


「依夜」


 柔らかい声が依夜を呼ぶ。


「見ての通り、今日はとても良い天気です」

「そうね。桜も満開で、空の色に映えてとても、美しい」


 見上げた視界には、満開の桜。まるでこの世のなにもかもを祝福するかのような絢爛な、それでいて儚い花びら。


「ええ。それに、今夜は満月です。夜桜などいかがですか」


 優しい眼差しで生成がこちらへと手を伸ばす。


「喜んで。合奏もしよう、きっと美しくなる」


 その手を取った。生成が依夜の腰をそっと引き寄せる。交わる視線に、どちらからともなくほほ笑み口付けを交わした。その熱になにもかもを溶かしながら、一つのもののように交わる。

 世は春の錦。その下で鳴るのは、空翔ける龍を照らす天上の光。それは二人の中で絶えることなく鳴り続けていた。

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