34. 光

 満開の桜。

「桜の宮」の名に相応しく、庭に桜の花が咲き乱れている。

 それをひさしから眺めながら、うちぎ姿でくつろぐ雅はゆるいほほ笑みを浮かべた。


 あれから雅はひと月ほど寝込んだ。さすがにもう若くはなく、回復までには時間を要した。それでもこうして、桜を眺めていられるのだから御の字というところだろう。

 もちろん、夫と宿下りしてきていた息子には泣かれ、叱られた。それでも最後は神官長の務めを果たしたと認めてくれた。

 それだけで十分だ。


(生成は思っていたよりも頭が切れる)


 雅の考えていたことなど見通されていた。普段から雅を観察し、人となりを把握していたのだろう。

 成り替わろうとすることまで読んでいたとは。


(目測を誤ったのは私の方だな)


 考えた限り、依夜を苦しめはするが、魔の力をぎりぎりまで削げば憑かれても耐え切れる計算だった。

 上手くいかないものだ。だが後悔はしていない。もしあそこで雅が魔と相討ちになったとしても、生成と依夜を救うことが出来る最善の策だったのだから。

 生成が出て来さえしなければ、被害は最小で済んだはずだ。所詮、自分も依夜も生成も瑣末な個だ。繁栄を求めるならそうあるべきだった。


(依夜姫には……哀れなことだった……)


 自分が生み出した生霊を調伏するなど、命取りでしかない。

 天緑てんろくの長は、今は生成だ。生成はもともと依夜の側近として遺憾なく力を発揮していたが、長になってからは少しあらが目立つ。

 生成はどちらかというと、人を助けることで活躍出来る性分だ。天緑の長に依夜を任命した自分は慧眼けいがんであったと思えた。

 しかし今は依夜がいないのだから仕方がない。生成には今しばらく長として励んでもらわなければ。

 風が吹いた。桜の花びらが舞い散り、風に乗って空へと舞い上がる。


「美しい……」


 美しい春の錦を目に焼き付ける。一度くらい、こうして狩衣を脱いで依夜と花見をしてみたかったものだと考え、笑みを浮かべる。

 桜はただそこで咲き誇っていた。


 * * *


 歩き慣れた渡殿を桜の花びらが彩っている。その花びらを巻き上げながら、生成きなりは大股で歩いていた。

 やがてたどり着いた古びた寝殿の前で足を止める。それは「桜の宮」の外れにある茜の寝所だ。


「母上。入ります」


 一応御簾みすの向こうへと声をかけ、御簾をめくった。中へ入ると、茜が強張った顔で座しているのが見えた。


「なにをしに来たのじゃ! 薄情者めが」


 開口一番で脇息をつかみ投げつけて来る。しかし、その脇息は難なく避けた。


「生意気な!」


 生成は、黙って茜から痛めつけられることを徐々にやめた。そのことにより茜に当たられるかもしれない従者たちにはより良い環境を与え離れてもらった。

 日に日に人は少なくなり、うらびれていくばかりだ。


「お鎮まりください母上」

「なぜじゃ! 生成、お前を愛しているのは妾だけじゃ。妾のする事を甘んじて受けよ!」

「それは出来ません」


 生成の薄灰の瞳が茜を射抜く。その冷たい色に恐れをなしたように、茜が身体を小さくした。


「母上。お話がございます」


 一歩近づく。


「母上は、私に生まれて来なければ良かったとおっしゃる」

「……っ、そうじゃお前など」

「ですが!」


 強く声を張ると、茜が息を飲んだ。


「私に、お前は生まれて来なければならなかった命だと、生きろと言ってくださった方がいます」


 ずっと、自分は生まれて来てはならなかったと思っていた。自分が生まれたことが全ての不幸の元だったのだと。

 それなのに、その歪みを受けて苦しんでいたにも関わらず、生成は生まれて来なくてはならなかった命だと言ったのだ。それは自分の命を下卑するなということだ。

 あの時に見せた笑みが忘れられない。あれほど尊く、気高く、美しいものなどありはしない。

 その尊い姫が、生成に生きろと命じた。その言葉に従わないわけにはいかない。


「私は、その言葉を真実といたします。母上といえど、もうあなたの悲しみのはけ口にはなってあげられません。お許しください」

「なんと無体な……」


 茜の顔が引きつる。さらに一歩近づいた生成を避けるように立ち上がり、後ずさった。


「それから、これが本題ですが」

「————……」

昨年さくねん、私と依夜姫でお救いしました。覚えていらっしゃいますね?」

「それがどうしたのじゃ」

「それは婚姻の儀の夜であり、依夜姫はすでに私の妻となっていました。私たち夫婦の働きにより、このたび母上には恩赦おんしゃが与えられます」

「なん、じゃと……?」

「あなたはこれより、萌葱もえぎ殿へと居を移されよ」


 萌葱殿。以前は依夜が暮らしていた寝殿だ。そこから、主が去ってもう一年近く経つ。


「ご一緒しましょう。おいでください」

「な……今か⁉︎」

「はい。母上のために新しい衣も調度品も揃えてあります。女官や侍従らも同様です。身一つで参られよ」


 茜に歩み寄る。その手をにぎると、一瞬びくりと茜が震え、その手をふり払う。


(お可哀想な方だ)


 貴族の華やかな生活を忘れられず、さりとて臣民を護る義務は忘れている。そもそもが、精神を病んでいるのだ。

 その原因は自分だ。自分が生まれて来てしまったからだ。そう思っていた。今も、やはりそう思う気持ちは残っている。

 だが自分が生まれて来なければならなかった命だったとしたら。やはり母を救えるのは実の息子である自分なのだと思える。


「て、できぬ。ここで妾に仕えている者達はどうなるのじゃ。どんどん減って……誰も居らぬようになるじゃと⁉︎」

「彼らはよきに計らいましょう。今より悪くなることはございません。これまで母上をお世話申し上げて下さった方々だ」


 良くも悪くも、これまで茜と縁のあった者は遠ざけなければならない。

 茜の狂気を、もう誰かに代行させてはならないのだ。


「嫌じゃ」

「恩赦は要らぬと申されますか?」

「————……」

「私達の働きに帝から賜ったのが母上への恩赦です。それを要らぬと言われては、帝へ顔向けが出来ませぬ。私はあなたと縁を切らなくてはならなくなる」


 自分をこの世に生み落とした母。どんな狂気に取り憑かれていようとも、生成にとってはただ一人の。


「どうか、たった一人の母を私からお奪いなさいますな」


 自分もまた、母に縋って生きて来たのだ。母に鞭打たれることで、母の愛を確かめていた。臣下に降ろされた身を、自分の叶えられない思いを正当化するために無意識に利用していたのだ。そう思えば、申し訳ないことをしたと思う。

 もっと早くに母から自立していれば、結果は違ったものだったのかもしれない。


「なにを恐れていらっしゃるのです。あなたにも、私にも、なにも罪などありませぬ」

「————っ」

「胸を張って戻られよ」


 もう一度手を差し出す。


「私の愛する母上はあなたお一人だ。どうか」


 震える手が伸びる。生成の手をにぎった。それに笑みが浮かぶ。

 母の手を取り外へ出ると、庭には満開の桜の花。

 生成には霞んでよく見えなくとも、その桜色の風景は十分に美しい。

 尊い光の側で生きることなど、所詮は叶わない夢だと思っていた。それなのに気がつけば、世には尊い光があふれている。これまで気がついていなかっただけで、それはこんなにも近くに、当たり前に存在していたのに。


「美しいの……」

「萌葱殿からの眺めはもっと美しいですよ」


 たった一言。生まれて来なくてはならなかった命だと肯定してくれた、その言葉が生成に光を見せたのだ。


「さあ、参りましょう」


 淡い花びらが風に舞い散る。その中を一歩ずつ進む。

 世界は、こんなにも美しい。


 * * *


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