33. 調伏

 前方には紫神殿ししんでん。その前に多数の神官たちの姿が見えた。どの神官もあこめの色は藍。清藍せいらんの神官たちだ。

 その中に、ぐったりとして力なく首を垂れている者が見えた。あの亜麻色の髪は、雅だ。


「雅殿ッ」


 その白い狩衣には多少とは言い難い血の跡。

 歯を食いしばり、雅から視線を逸らす。今は魔を祓うことが優先だ。雅のことは今は清藍の神官たちに任せるより他はない。

 魔の放つ異音が高まる。


生成きなりッ‼︎」


 壊れた御簾みすを跳ね上げ中へと踏み込む。


「————ッ‼︎」


 そこにうつ伏せで倒れ呻いていたのは、薄水のうちぎに包まれた白い影。その周囲は血で汚れている。そしてその上に覆いかぶさる魔の黒々とした闇。

 全身をおぞましい嵐が吹き荒れる。嫌な予感に全身が粟立ち、鼓動が走る。


「お前ッ‼︎」


 魔がその身を起こした。依夜の方を向く。にたりと魔が醜く嗤った気配。

 その闇の中から射る二つの、金の瞳。その、顔。

 のどがひりつく。


「そんな、まさか……」


 思わず一歩後ずさる。全身をこらえようのない寒気が襲った。血の気が引く。それは間違いようがない、自分の顔!

 胸が破裂しそうなほど大きく鼓動を打った。息が上手く吸えなくなる。


 ——生成さえいなくなれば……。


 しわがれた魔の声が依夜の胸を貫く。


「わ、わたしが……生み出したのか……っ」


 その憎悪に吐き気がした。ガタガタと身体が震える。


「わたしが、生成を……?」


 瞬間、魔から大量の憎悪が依夜に流れ込む。それは依夜自身が生み出した憎しみ。そして生霊となり思いを遂げようとしている、底のない悲しみだった。


 ここのところ依夜の体調は悪く、生成が闇に呑まれる悪夢をずっと見ていた。それは生成を狙う魔と繋がっていたからだったのだ。

 そして今、依夜の体調が急に良くなったのは、魔が生成に取り憑いたからだろう。生成を痛めつけ、その想いを遂げつつあるからだ。


 なんという憎しみ。なんという怒り。その凄まじさにおののく。

 自分の弱い心が魔を生み出してしまったのだ。人の命を奪えるほどの力を持った魔を。


「……め、い、よひ……」


 生成ののどが震える。


「生成ッ」

「なぜ来た……ッ」


 薄灰の瞳が彷徨う。依夜の姿を探している様子だが、捉えることが出来ないでいる。


「わたしを助けるなと、あれほどっ」

「はっ、あなたを助けているのでは、ない……。私は臣民を……」


 いつかも聞いた台詞。


「魔の想いが遂げられれば……生霊は消える。あなたがこれから、臣民をお助けすれば、よい……」

「なにを言っているんだッ⁉︎」


 ほとんど悲鳴のような声が出た。生成に近づこうとする依夜を、魔が退ける。


 ——わたしの夫は、わたしを見ることもなく蔑ろにしていた。


 魔の呻くような想いが依夜に流れ込む。それは、ずっと依夜が思ってきた、感じてきたことそのもの。

 依夜の憎しみの具現化。


「まさか、それで萌葱もえぎ殿に結界を張っていたのか⁉︎」


 依夜が就寝中に発作を起こした翌日。萌葱殿の四方に生成のひっせきで呪符が貼り付けられていた。それは萌葱殿に結界を張っていたが、なぜそれを施したのかを聞けずじまいだった。


「お前、知って……」


 生成は依夜を護ることしか考えていなかったという秋史の言葉が蘇る。

 あの時から、依夜は自分の尊厳を守ろうと決めた。そう決めることで、生成への憎しみが少し和らいだ気がしていた。だがそれは、結界が効いていたせいだったのだ。

 依夜が萌葱殿の中にいる間、結界が魔から依夜を切り離していた。依夜の憎しみや恨みは魔に凝縮され、それと繋がる依夜も憎しみをさらに募らせる悪循環。それをほんの一時でも切り離してくれていた。

 生成はこの魔を依夜が生み出したのだと気付いていたのだ。依夜の生霊に自分が狙われているということも。


 確かに依夜は生成を憎んだ。だが、まさか神官たる自分が魔を生み出してしまっていたとは。しかも、こんなにも手のつけられない化け物のような生霊を。


 ——この男が死ねば、楽になれる。

「ちがう‼︎」


 生成が苦しんでいるのを見ても嬉しくもなんともない。ただ、自分の激しい憎しみの念に恐れ慄くしか出来ない。

 恐怖で全身に震えが走り、目頭が熱くなる。しかし今泣くわけにはいかない。

 生成は方法はどうあれ依夜を護っていた。その生成を、依夜は憎しみで焼き滅ぼそうとしているのだ。

 生成が命がけで依夜を救ってくれた時も、今も、そんなことを望んだわけではない。自分が楽になるために、生成の命を奪うなどあってはならない。

 生成が今ここで儚くなったとして、楽になるわけがない。その責めと後悔を一生抱えて生きるなど出来ようか。

 自分の矮小な心が魔を生み出してしまったというなら、その責は自分が負わなければならないのだ。


 ——わたしの不幸は全てこの男のせいだ。


 魔が憎しみとも悲しみともつかない念を依夜へ投げかける。それは、抑圧していた自分自身の想い。


(わたしは、生成を憎むことでしか自分を保てなかった)


 依夜を護るためなら憎まれても良いと、自らそう仕向けた生成の方がよほど強い。

 魔は依夜自身だ。その全てを生成のせいにしてなにも行動出来なかった醜く弱い自分だ。


(わたしは、生成に執着していたのか……)


 手酷いことを言われようとも、側でずっと仕える生成にすがっていたのだ。真実依夜を捨てないでいる生成に、淡い期待を抱いて。それが叶えられないことを憎んで。

 なんと幼稚なことか。なにもせずただ泣き喚く子供でしかない。真実望めば、もっと違った道があったのかもしれなかったのに。真実、生成と向き合えていたならば。


「魔よ、お前は神の元へ行くべきだ」

「……っ、いよ、姫っ……手を出される、な……」


 荒い息を繰り返しながらも、生成が依夜の方へ視線を送る。


「これで、いい……あなたの荷が一つ降りるなら……悪くない。母上も、これで……」

「馬鹿なことを言うな!」


 呼吸が早まる。息が吸えない。


「私など、さいしょから……生まれては……」

「黙れ‼︎」


 ずっとこうして生成に庇われていたのだ。護られていたのだ。依夜が生成を憎み、荒れ、魔を生み出しつつあってもずっと。

 のどの奥が熱くなる。


 ——そうだ、生まれて来なければ良かったのだ。その命、もらい受ける!


 魔の闇が深まり、生成の背へと再び覆い被さった。そのまま生成の中へと押し入っていく。

 低く呻いた生成へ走り寄ると、その口から新たな血があふれた。


「生成‼︎」


 元から白い顔は青ざめ、その瞳はすでにうつろになりつつある。

 その唇は小刻みに震えていた。

 望んでいたのはこんな結末ではない。夢みていたものは、もっと明るい道だった。今さら戻ることなど叶うはずもない。それでもこれからの未来が閉ざされてはもうなにも出来ない。恨み言を言うことすら。


「——調伏する‼︎」


 生成の身体を上向かせる。単の襟を引き、胸元を開いた。その肌には赤黒い痣。そしてその下に、蠢く闇が見え隠れしている。


「————ッ」


 生成の身体が跳ねた。魔が内側で暴れているのだ。生成の顔が苦痛に歪む。


「くそっ、許せよ!」


 肩を押さえ、生成に馬乗りになる。弱った身体とはいえ、体格差がある。こうでもしなければ押さえられない。

 生成の吐いた血に右の指を浸す。


「ば、かな……やめ……なこと……なたのいのち、が……」

「だめだ、秋史に生成は必ず助けると約束した‼︎」

「あ……みが、あけ……」


 生成の血で、額と両頬に呪を描く。


「責めてやるなよ。秋史は魔をわたしが生んだと知らなかったのだろう? お前を助けたい一心だったんだ」


 再び血だまりに指を浸し、今度は胸から腹にかけて呪を描いていく。

 魔を祓い、生霊を本人へはね返すための退魔の呪だ。

 これまでこの生霊を祓おうと和歌を詠んでいたが、その度に体調が悪くなり失敗していた。それもそのはず、この生霊は依夜自身なのだから。

 今度は失敗出来ない。依夜の体調に左右されない呪も合わせて、確実に調伏しなければならないのだ。確実に、生霊を自分へ返さなければ。


「やめ……」

「生成、お前は生まれて来なければならなかったんだ」

「……よ、ひめ」

「もしお前が生まれて来なければ、茜姫のお心はもっと壊れていたやもしれぬ」


 もしもの話などしたところで、所詮はただの妄想だ。だがそれが、時には力になりもするだろう。


「それにお前は力ある優秀な神官だ。周りに気を配り、的確な判断が出来る。神官としても、人としても、貴族としてもさじとしても優秀だ。それに……楽師としても。お前の龍笛りゅうてきは本当に美しい」


 生成に伝わるだろうか。


「この世で最も美しい夜空の清流のようだ」


 どんなに憎んでいても、そのことだけは悲しいくらいに感じていた。その美しさを否定することなど出来なかった。


「そんな、もの……わた……はみえ……い」

「お前に見えるはずがない。それは生成、お前のことだったからな」


 龍笛を褒めることでしか気持ちを伝えられなかった。そんな思い出が忌々しかった。騙されていたと知って憎しみが生まれるほどには、慕っていた。

 生成の腕が震えながら上がり、依夜の手をつかもうとする。

 呪を描き終え、生成の手をにぎった。


「秋史から全て聞いた」

「ちが……」

「違っても、いいんだ」


 秋史がなんと言おうと、生成の本心は生成にしかわからない。


「ただ今お前は、わたしを護ろうとしてくれている。それは事実だ」


 依夜の命を助けるために、一度ならず二度までも自分の命を危険に晒している。これを護られていると言わずしてなんと言おう。

 それなのに鳥になろうとしていた自分の浅はかさが恥ずかしい。


「お前のしたことを許せるかなどわからない。だが、ずっと護ってくれていたのだな。礼を言う」


 誰にも護られないと思っていた。兄も紫上しじょうも自分を大切にするけれど、生成からは護ってくれないと。そう思うことで自分を守っていた。

 それなのに、生成にも、兄にも紫上にも護られていたのだ。依夜が気が付かず恨み言や我儘を言ってもずっと。


「自らの生み出した闇は、生まれたところへ還るしか道はない」

「いいえ、私、が……っ」

「もういい。お前が魔を引き受けたことで魔の怨念が少し削がれている。あとはわたしが。お前と共に戦おう」


 この強さの魔をはね返されて無事でいられるかはわからない。命が助かるかすら。

 それでももし、一度は捨てようとしたこの命を永らえることが叶うならば。


「またお前と合奏がしたいんだ」


 満月。夜桜の下で合奏をした。その時にこの世で最も美しい夜空の清流を見たのだ。

 それをもう一度、いや何度でも見たいと望むのは、すぎた願いだろうか。

 ずっと、そうしたかった。それが叶えられないと思うと辛かった。なぜ生成があんなにも突然依夜を突き放したのか、その理由すら考えられなかった。


 生成がそうさせていた。そう仕向けられていた。だからと言って、自分の望みまで怒りと憎しみで覆い隠していたなど。

 その挙げ句に魔を生み出したのだから目も当てられない。


「お前も、わたしが護るべき臣民の一人だ」


 退魔師である自分の方が、魔への耐性はあるはずだ。それでも自分が作り出した生霊をはね返されて無事でいられるとは思えない。だが生成は助けなければ。

 生成の手を握りしめる。生成が病に苦しむ臣民にそうしていたように、笑ってみせた。上手く笑えただろうか。

 こんな時なのに、なぜか心が清々しい。


「お前はこの宮に要る。生成、お前は生まれて来なくてはならなかった命だ。生きろ」


 薄灰の瞳と視線が絡み合う。身をかがめた。

 弱々しい息を吐いた唇に口付け、生成の血を舌ですくう。

 口の中いっぱいに広がる鉄の味を飲み下した。身体を起こし、息を吸う。


「鶯の————」


 依夜の声に導かれるように、天上から退魔の光が降ってくる。胸に鈍痛が走った。

 額に脂汗がにじむ。


「鳴く声あはれ、君いぬる」


 心拍が上がる。鼓動が跳ね、耳の奥でどくどくと血の流れる音が響いた。

 生成の身体に描いた呪に黄金の光が走る。上手く行っている。

 吐き気が込み上げる。息が吸えない。苦しい。あと、一息だけ。


「春の錦ぞ何にかはせむ」


 一気に歌を詠み上げたその瞬間、依夜の身体の隅々まで全てにこらえようのない激痛が走った。

 のどから裂けるような絶叫が出たのを聞いた次の瞬間、依夜の意識はぶつりと途切れた。


 * * *


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