32. 真実

 生成が出て行ってからどれくらい経ったのだろう。吐き気がおさまり、依夜は身を起こした。

 息を吸ってください。そんな生成の言葉が脳裏に浮かび、依夜は口を開いた。

 あれは、歌会の時だっただろうか。


「はぁ……はぁ……」


 呼吸をくり返す。息をするごとにめまいが遠のき、呼吸も心拍も耳鳴りも楽になっていく。


「なぜだ……」


 あんなに体調が悪かったのに、それが立ち消えるかのように薄れていく。

 なにかがおかしい。そう思ったものの、その考えをふり払う。今はそれどころではない。

 立ち上がり、扉を叩く。


「誰か! 誰かいないのか‼︎ 雅殿、生成!」


 二度三度と体当たりをして閂の刺さった扉はびくともしない。

 扉を再び叩こうと手を上げ、止まる。もうやめなさい、そう言った生成の声が思い出される。

 無意識に、手を唇に当てた。


「生成……どうして……」


 生成は魔を引き受けると言った。普通に考えれば、退魔師を手伝うという意味だろう。だが、あの時の口調はなにかが違っていた気がする。退魔師でもない生成がどう魔を引き受けるというのか。

 それに。


「生まれて来てはならなかった、だと?」


 生成は神子みことしても、神官としても、さじとしても秀でている。龍笛りゅうてきの腕は生成に嫌われていると知っていても美しいと認めざるを得ないほど。生成の龍笛は、この世で最も美しい音色だ。

 生成と依夜の間のわだかまりを別とすれば、生成は「桜の宮」だけでなくこの国に必要な人間だ。それに、誰も生成が依夜に向ける妬みなど知らないではないか。

 それなのに、なぜ生まれて来てはならなかったなどと言ったのか。依夜を苦しめているにも関わらず、崇高すぎる使命感で依夜を護る生成が。


(母上のことか……?)


 生成が生まれて来て一番実害があったのは、生成の母親の茜だ。生成が生まれなければ、生まれたとしても神子でなければ、なかったことに出来た。だが神子であったために、茜の罪は暴かれてしまった。

 今でも精神を病んで暴れているというのだから、その傷は深いだろう。


(ずっと、生まれて来てはならなかったと、そう思っていたのか?)


 自分が生まれたことで茜が苦しんでいるのだと、それをずっと……。


「ちがう」


 それでも、生成が生まれて来てはならなかったなどということはない。神子である生成は、神に選ばれた魂だ。神が地上へ遣わした神の代理だ。

 その力で臣民を護るために————。


(それは、わたしもだ……)


 この命は、魂は臣民を護るために神が遣わしたもの。そのことすら重かった。捨てたかった。

 本気で鳥になろうと思っていた。


(あの時の生成も、こんな気持ちだったのか)


 死ぬつもりだったのかと聞かれて、肯定した。生成は目に見えて動揺していて、人間らしいところもあるのだなと思った。


(生成は……)


 自分の命をかけてまで依夜を助けた。その相手が鳥になると再び言うのを、どんな気持ちで聞いていたのか。生成が自らの命を危険に晒したことまで無駄にするような、馬鹿な女の戯言たわごとを。


「誰かいないか! ここを開けろ‼︎」


 扉を叩く。魔の異音がうるさいほどに鳴り響いている。

 助けに行かなくては。その後にいくらでも、なんでも考えればいい。


「誰か‼︎」


 その時だった。外で聞いたことのある少し高い童子の声がした。閂の抜かれる音。

 開いた扉の外にいたのは、水干姿の秋史あきふみだった。その手には、切袴きりばかまを持っている。


「姫、こちらを!」

「助かる!」


 うちぎを脱ぎ捨て、長袴の紐に手をかける。


「本当は、絶対にここは開けるなと生成殿には言われています」


 依夜を直視しないよう横を向き、うつむいた秋史が告げる。


「でも、でも……お願いです依夜姫。生成殿を助けてください」

「どういう事だ?」


 生成が出て行った時、ここを開けたのは秋史だった。よくやったと褒めていたことから、事前に頼んでいたか、もしくは秋史の判断で開けたのか。どちらにしても、生成は依夜を出すなと秋史に命じた。はなから依夜を出す気はなかったと見える。


「生成殿は、死ぬ、おつもりだ……魔と相討ちなさるおつもりなのです……ッ‼︎」

「……‼︎」


 合点がいく。生成の声が蘇った。


『あなたが鳥になりたいと思う原因は、この私が取り除きます。あなたは未来永劫、私の妻として臣民をお助けせよ』


 あの言葉は、生成が死ぬ事で依夜の鳥になる理由を取り除くと、そういう意味だったのだ。


「今夜魔を誘い出すと、生成殿は……言われました。山吹殿をこっそり見張って、もし扉を開ける者がいなければ私が、閂を抜けと……」

「魔を誘い出すだと?」


 依夜の疑問に、秋史はそれ以上はわからないと首をふる。


「生成、殿は昨日……私に、ご自分の文箱と香炉を……下さったんです。もう使わないからと。そんなはずないのに‼︎」


 ぽろぽろと秋史の瞳から涙がこぼれて下へと落ちた。


「依夜姫には辛く当たっておられたので、し、信じてもらえないかも……しれませんが……どうか聞いてください」


 両のこぶしをきつくにぎり締め涙を流す秋史の様子に、ただならぬものを感じる。


「話せ」


 長袴を脱ぎ捨て切袴に足を通す。


「生成殿は、依夜姫をお護りすることしか、考えておられませんっ‼︎」

「なん……っ」


 思わず手が止まる。

 生成は自分の命を危険に晒してまで依夜を護ってくれた。それは崇高なる神子としての使命のため。そう思っていた。

 依夜を助ける事で、臣民を助けるためなのだと。だが、秋史の口調はそうではないことを思わせる。それは————。


「本当です。あの方はいつもあなたに目を配っておいででした。生成殿が見えない場所や、どうしても別行動しなければならない時は私が」

「でも……」

「釣殿で体調を崩された時は私がお知らせしました。依夜姫はお気付きになっていませんが、何度もよからぬ輩に後を尾行けられていたこともあります。それらは生成殿が散らしていたのです」

「信じられない……」


 たしかに、釣殿で体調を崩した時は、今思えばなぜ生成がやって来たのかわからない。それが、依夜を見張っていた秋史に呼ばれてというなら合点がいく。

 だが他は全く身に覚えがない。身に覚えがないということ自体が、護られていた証なのだろうか。


(それとも、あるじ助けて欲しさに……いや、違うな)


 秋史の様子に嘘は感じられない。まだ幼い童子だ。彼は心底生成を慕っているのだろう。


「生成殿は、あなたをお護りできるなら、あなたに恨まれ憎まれても良いと……みんな、みんな姫をお護りするためだったのです……信じて、ください……」


 秋史の声が震え、嗚咽が上がった。


「本当は、生成、殿はっ……依夜姫のことを……とっ、とても、大切にっ、想われておいでです。ずっとです」

「————……」


 頭が混乱する。ずっと大切に想っていた?


「匙になったのも姫のためだと、話して……くださったことがっ……あります……」


 神子である生成がなぜ匙になったのだろうと思ってはいた。ただでさえ視力に問題があるのになぜ、と。

 それが自分のためだったと?


「だが生成はっ」

「生成殿が大切に想う方は茜姫から酷い目に遭わされますだから‼︎」

「————っ」


 茜姫。精神を病み、しばしば暴れるという生成の実母。その茜を鎮めるために生成は痣だらけになっていた。

 あの狂気を、こちらへ向けてくると?


「依夜姫に危害が及びます。そして……それが明るみに、出れば……っ、茜姫も……」


 もし依夜が茜によって害を受けたとしたら。それが露見したとしたら。

 茜は今度こそ罰を受けるだろう。それは身分の剥奪かもしれないし、「桜の宮」からの追放かもしれない。

 あんなに痣だらけになっても庇うくらいだ、生成はそれを望んでいない。

 だから依夜に嫌われることで、双方を護っていたと?


「私のことも必要以上には、構いません。茜姫のところに同行した時にはっ……き、厳しく、叱責されることも、あります……でも、でもそういう時はっ、決まって後で甘いものを下さいます……」


 依夜の知らない生成の顔。


「私のことも茜姫からお護りくださる……」

「そう、か……」


 知らなかっただけで、護られていたのだろうか。


「本当に、お、お優しい……方、なんですっ……」

「わたしは……護られていたのか……?」


 秋史が頷いた。真っ赤に晴らした瞳で依夜を見上げる。その瞳に気圧された。同時に、胸に言いようのない熱が広がる。

 耳の奥に、お前は誰が護るの? という魔の言葉が蘇った。


(わたしは、護られて……)


 依夜を護る者などいないと思っていた。生成には嫌われていると思っていたから、憎くてたまらなかった。騙されていたことが許せなかった。辛かった。

 それなのに、騙されていたのは護るためだったなど。ずっと大切に想ってくれていたなど。

 臣下としての使命感ではなく、大切に思うから自分の命を危険に晒してまで助けてくれたのだろうか。そう思うのは都合のいい解釈だろうか。

 信じられないという思いと、そうであったらという思いが交差する。


 生成は確かに依夜を騙していた。だが、それは思っていたものとは違った。それを今はどう受け止めるべきかわからない。

 ただわかるのは、助けに行かなければということ。魔を祓わなければということだけだ。


 かつての、優しい笑みを浮かべた生成の姿が脳裏に浮かぶ。あの時から時は経ち、関係性は変わった。それでも変わらないものも、あるのだろうか。

 切袴を着付け終え、秋史の正面に立つ。その顔をのぞき込んだ。


「秋史。教えてくれてありがとう」


 生成の本心を知るためには、助けなくてはならない。責めるのも、問いただすのも、全部その後だ。


「姫、どうか……」

「お前の主は必ず助ける」


 力強く頷き、足を踏み出した。魔の気配をたどり駆ける。


(どうか、間に合ってくれ……!)


 * * *


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