29. 傷
発作を起こして意識を失った依夜の身体を、褥へと運び横たえた。
「私は……なにをやっているのだ……」
こんなことをするつもりではなかった。もちろん、少し負荷をかけなければならないだろうとは思っていた。しかし、これほど無体なことをする予定ではなかったのだ。
止められなかった。久方ぶりに見た依夜の苦しむ表情が、声が、
(母上と同じだ……)
生成を殴り、蹴り、痛めつけるその行為が母の理性をさらに壊す。自分のしたことに興奮してさらに激しくなる。
愛しているものを、壊したくなる。
(あなたのせいではない……)
ここのところ依夜の生成への憎しみが薄れている。それは、生成が依夜の住まう
それなのに、憎しみを向けられないからと——自分を見てもらえないからとことさらに傷つけようとするなど。
「それでも、私は、あなたに傷が付いた事が嬉しい」
生成を一生忘れないような、傷を。消えてもなお、消えないでいられる傷を。
「消えぬ傷君につけばやとこしへに我思ひ出し忘るまじくと」
つぶやくように詠み、微かに笑む。
あれだけ扉の前で騒いだのだ、婚姻の儀の形式は終了したと判断されるだろう。これで依夜は生成の妻だ。「桜の宮」で暮らす限り、一度嫁いだ依夜を誰も娶ることは叶わない。夫がこれから、どうなろうとも。
白く血の気の引いた額を撫でる。そこに確かにある体温を感じる。
(鳥になどさせてなるものか————)
* * *
雪が降っている。
庭一面が白い。渡殿も冷たく、幼い依夜のほおを撫でる空気もキンと冷えている。耳はいっそ痛いほど冷たくなっていた。
それでも、行ってみたかった。父には行くなと言われた、まだ知らない「桜の宮」の端へと。だから人目を盗んでこっそり出て来た。
懸命に足を動かす。
空から白いものが舞い始めた。早く戻らないと女官達から大目玉を食らうだろう。
それは嫌だなと思う。
どんなところかちょっと見るだけ。そう言い聞かせて歩く。足が冷える。寒い。
角を曲がった。その先に、人影が見えた。
その人影はこんな寒空の下、渡殿の上に倒れているようだ。動かない。
駆け寄る。
(だれ……?)
顔がぼやけて見えない。
(これは、夢?)
そうだ夢なのだろう。依夜はもう十七なのだから。
よく見えない人影に、赤い色が滲んでいる。幼い依夜から見ればずいぶんと大きく見えるが、まだ元服前のようで水干を着ている。髪は珍しい散切り頭だ。髪の色は、見えているはずなのに認識出来なかった。
「お兄さま? それどうしたの、大丈夫?」
動かない人影の口の端から血が流れている。目を閉じたその人物は動かない。
「お兄さま!」
膝をつき、その胸をゆする。
(もしかして死んでいるのかしら……⁉︎)
その手をにぎる。ぞっとするほど冷たい。慌ててほおに手を伸ばすと、そこには微かな温かさが感じられた。
「お兄さま、しっかりして」
さらにゆすると、やっと人影から呻き声がもれた。その瞳がゆっくりと開く。
(まあ、綺麗な色。こんな綺麗な色初めて見たわ)
赤みがかった薄灰の瞳。角度によっては青にも見えそうなほど澄んだ————。
「う……」
「良かった、死んでいるのかと思った」
「————⁉︎」
薄灰の瞳が依夜を捕える。
「金の髪……」
呆然としたような、まだ少し高い声。
突然、人影ががばりと身を起こし、顔をしかめて左腕を押さえた。
「痛いの……?」
「い、いえ! あ、あなたはまさか、依夜姫では……?」
「そうよ」
「——ッ、こんなところでなにをされていらっしゃるのですか! ここはあなたのような尊いお方が来るところではありません!」
痛みに顔を歪めながらも、彼はなんとか依夜から這いつつ離れ、その場に平伏する。
「どうかお戻りを」
「どうして?」
「ここは、下々の者が暮らす場所ですので」
その声は震えている。声だけではなく、身体も小刻みに震え、歯がカチカチと音を立てている。
「そんなの関係ないわ。わたしの行きたいところはわたしが決めるのよ」
そう言い切ると、薄灰の瞳が揺れた。
「……いけません」
「それならお兄さま、私を連れて帰ってくれる?」
「え……?」
「そのお傷を診てもらいましょう。わたしも調子が悪い時は診ていただくのよ」
腕を伸ばす。痛がっていた腕にそっと触れ、水干の上からよしよしとさする。
「こうすると少し良くなるの。どこかにぶつけた時は、紫上がこうしてくれるのよ」
薄灰の瞳が大きく見開かれた。得体の知れないなにかを見るような目で、その小さな手を凝視する。次の瞬間、はっとした様子でまた後退さった。
「だ、駄目です良いんですこんなの痛くありません! 私のことは放っておいてください」
依夜から離れた彼に、幼い依夜の心が癇癪を起こす。
「もう! お兄さまは関係ないの! わたしがそうしたいの! 下々の者と言うなら言う通りにしてよ!」
笑ってしまうほどに傲慢な幼さ。
「あなたのお母様に言いつけるわよ」
「やめてください、お願いします。行きます、行きますから。でも
「どうして?」
「これは私が転んだせいだからです。恥ずかしいので……」
ぼうっとしていて庭に落ちたのだと上ずった声が告げる。
「まあ。じゃあ、紫上に診てもらいましょう。今は鈴鳴家にいるけれど、わたしが呼べば来てくれるわ。紫上はすごいのよ、なんでも出来るんだから」
ゆっくりと立ち上がった彼に、にこりと笑う。
(これは……誰だった……?)
遠い、記憶の底に沈んだ思い出。
雪が降っている。白い……。
* * *
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