30. 決別

 戻りたくない。

 全てが溶け合った心地よい闇から醒める、その一瞬に浮かんだ意識が叫んだ。しかし、容赦なく意識が浮上し、めまいとともに身体の感覚が一気に依夜に襲いかかった。

 全身を絡め取る倦怠感と胸のむかつき。冷や汗のせいだろう、ひとえがびっしょりと濡れた感覚がする。気持ちが悪い。


 今はいつだったか。なにをしていたのだったか。

 ゆっくりと目を開くと、見えたのは薄暗く浮かぶ見慣れぬ小組格天井こぐみこうてんじょう


(あぁ……)


 思い出す。依夜は生成きなりに押し倒されて……それでどうなったのだろう。そんなことをぼんやりと考えたものの、すぐにその思考を放り出す。

 なにかあったにしろなかったにしろ、もう終わってしまっている。それよりも今は気分が悪い。

 身を起こそうとすると、白い手が依夜の胸を押さえた。


「生成」


 依夜の腹の横辺りに生成が座している。その瞳には先ほどまでの棘や狂気は見当たらない。それどころか、依夜を心配しているかのようにさえ見えた。

 都合のいい解釈だ。そう思うのに、その瞳から目が離せない。今自分を力づくで妻にした憎い男のはずなのに。

 その感情すら、依夜の真実なのかも知れなかった。


「まだ顔色が優れません。寝ていなさい」


 生成に押し戻され、再び身を横たえる。息を吸う。息を吐く。問題なく出来るようだ。

 なにか夢を見ていたような気がした。だがなにも思い出せない。


「どれくらい、経った……?」

「わずかです」

「そう……」


 瞳を閉じる。身体が下へと落ちていくような倦怠感。

 そうしたままどれくらい経ったのだろうか。もう一度瞳を開き、深呼吸をする。

 生成を避け反対側に身を返し起き上がる。今度は生成も止めなかった。


 目線の先に、しょう龍笛りゅうてきが安置されている。そこまで這うように進み、笙を手に取った。

 身体が重い。立つことすらままならない。それでも今縋れるのはがくの音だけだ。

 生成に背を向けたまま、笙を掲げた。ゆっくりと息を吹き込む。

 倦怠感で息の調節がつかず、音がぶれた。それでも呼吸を繰り返す。吸って吐いて、また吸って……息をするたびに清涼な音が天上から降る。その音で身体を満たす。なにも考えられないほど、倦怠感すらわからなくなるほど深く。


 目の端に白い手が映る。その手が背後から伸び、龍笛を取り上げた。衣擦れの音がして、生成が離れた場所へ移動した気配。

 やがて、笙に重なるように龍笛の音が鳴り出した。依夜の瞼の裏に、この世で最も美しい夜空の清流が広がる。

 これ以上ないほどに絡み合う音と音。


 頭の奥が痺れたようになにも考えられない。ただ、その美しい音に身を委ねる。

 もう合奏をすることもないと思っていた。その覚悟でここへ来たのに、今その音が依夜を満たしている。ずっと合奏を続けていたい欲に駆られる。そうしたまま魂が尽きたらどんなに良いだろう。

 そうしたらきっと鳥になれる気がした。美しい声で、笛と共に歌える鳥に。

 だが、その時間は長くは続かなかった。突然、頭の中で金属が擦り合わさるような耳障りな異音が鳴り響いたのだ。


「————ッ、魔が!」


 慌てて立ち上がろうとして、長袴に足を取られてよろめく。その依夜を生成の腕が支えたが、今はそこに触れる時間すら惜しい。


「来たか……」


 生成の声が聞こえたが、その意味を問いただすことは出来なかった。胸が早鐘を打つ。めまいがした。それでも生成に支えられ、なんとか立ち上がる。

 依夜が立ったのを見届け、生成が離れた。扉を強く叩く。


「魔だ! あなた方もわかるでしょう、扉を開けられよ‼︎」


 目付け役としてここにいるのは清藍せいらんの神官二人と、庭で神事を行っているはずの雅だ。魔が出たことなどとっくに気がついているだろう。


「雅殿‼︎」


 生成の声にも、扉を叩く音にも反応する者はいない。


「生成、誰もいないのか⁉︎」


 魔が出たからと駆けつけて行ったのだろうか。ここに退魔の力を持つ依夜がいることをわかっていながら。


「わかりません」


 生成が扉を押す。開かないとわかると、二度、三度と体当たりした。しかし、扉が開くこともなければ誰かが反応することもない。


「チッ、やはりか。謀ったな……ッ」


 吐き捨てるように生成が呻く。


「どうした、なぜ誰もいない⁉︎」


 依夜も扉を叩き、雅を呼んだ。だが返答はない。

 扉には外から閂が差し込まれている。内からそれを抜くことなど不可能だ。


「誰か! 誰かいないのか‼︎」


 扉を叩く。異音は鳴り続けている。

 急激に胸が不快感でいっぱいになる。身体の奥から吐き気が込み上げた。


(こんな時に————ッ)


 魔の放つ異音が響くたびに、酷いめまいと吐き気が依夜を襲う。一瞬意識が遠のき倒れそうになったのを、背後から生成が抱き止めた。


「はぁ……はぁ……くそ、誰かいないのか……」


 なおも扉を叩こうとした手は、後ろから生成に押さえられる。

 胴に回った腕に力がこもった。


「もうやめなさい」

「なぜだ、魔が……」


 前に出ようとする依夜を、生成は離さない。めまい。体調が悪くなくても敵わなかったのだ、今の依夜に対抗など出来るはずもない。

 胸が、疼く。


「依夜姫、あなたは鳥になられると言った」

「なん、の……話だ……」


 もがくが、力が入らない。


「そんなことにはさせない。あなたが鳥になりたいと思う原因は、この私が取り除きます。あなたは未来永劫、私の妻として臣民をお助けせよ」


 依夜の手を押さえていた手が離れ、依夜の胸元に回った。生成の吐息が首筋にかかるほど近づき、強く抱き締められる。


「放せ! それはわたしが決めることだ!」

「あなたはそう決められるでしょう。あなたが世を捨てたい理由さえなくなれば」


 キギ……と外からなにかが軋む音がした。


「きな、り……っ」

「私は、生まれて来てはならなかった」


 低い、消え入りそうな声。それは依夜に聞かせるための言葉ではなかったのだろう。乾いた嗤いが生成ののどから漏れた。


「なにを、言って……」


 木材の軋む音。誰かが閂を抜こうとしていると合点がいく。

 早く行かなければ。魔を祓わなければ。


「私にはあなたの顔がよく見えない」

「生成!」

「ですが、その光ははっきりと見えます」


 それは一瞬のことだった。生成が腕を解放すると同時に、依夜の正面に回った。あっと思う間もなく、依夜の唇が生成によって塞がれる。

 めまいがした。なにが起こっているのかもわからないまま、その熱が依夜の身体を蹂躙する。そこから広がった波で全身が痺れたように動けなくなる。

 閂が抜かれた音。扉が開いていく。


「生成殿!」


 まだ少し高い童子の声。

 生成が離れ、薄灰の瞳と視線が交わった。瞬間、強い衝撃に後ろへと倒れ込む。

 生成に突き飛ばされたのだと悟った時には、床でしたたかに身体を打って倒れていた。

 痛い。


「秋史、よくやった」


 生成の声。その後ろ姿が扉の外へと出ていく。


「待て、わたしを連れていけ!」

「今回ばかりはお断りですね」


 外へ出た生成が扉に手をかける。


「あなたはそこで休まれているといい。魔は私が引き受ける」


 言うが否や、扉を閉めた。


「待て! 生成‼︎」


 再び閂の差される音がし、二人分の足音が遠ざかっていく。


「————ッ‼︎」


 這って扉へと進み、両手で叩いた。だが、なんの反応もない。


「誰かいないのか‼︎ 生成‼︎ どういう、つもりなんだ……っ」


 めまいでふらつきながら立ち上がり、扉に体当たりする。それでも扉はびくともしない。閂を差され、依夜だけ閉じ込められたのだ。


「どうして……ッ」


 異音が激しく鳴る。同時に込み上げた吐き気に耐えかね、床に伏した。


(わたしを、置いていくのか——生成)

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