28. 婚姻の儀

 山吹殿へ続く廊下を歩く。歩かされている。

 空は薄暗く、陽の残りが微かに雲を紫に染めているばかり。庭の桜は昨日よりもさらに開き、薄暗い中でも白く浮き立つようにその存在を誇示していた。

 依夜の前には、先導として紫上局しじょうのつぼねが歩いている。そして、後ろには依夜に仕える女官たち。逃げ出したいのに逃げることも出来ず視線が足元をさまよう。


 依夜が着ているのは、向かい蝶丸の紋をあしらった紅色のうちぎ。生成から贈られたものだ。

 婚姻の儀が小袿こうちぎなどの礼装でない理由は一つしかない。日暮れから始まる婚姻の儀で行われる事はただ、夫婦の契りを結ぶ、それだけなのだ。だから改まった着物など必要がない。婚姻の儀を行う山吹殿も、それを行うためだけの寝殿だ。その造りは簡素で小さい。

 わかっていたことだが、どうしようもなく足が震えた。それでも歩みを止める事は許されない。

 逃げ出したかった。だが逃げないと昨晩決めた。


 昨晩、自分を救ってくれない大神の元へ出向いた。恨み言を言うつもりだったのに、やはり神は神。なにも言えず、ただしょうを奏でることしかできなかった。

 その時に響いてきた龍笛りゅうてきの音。聴き間違うはずのない、この世で最も美しい音色。一つのもののように絡まり、重なり合う音。ただそれが美しく、悲しかった。明日が来なければ良いと願うほどに。できるなら夜が明けるまで、合奏していたかった。そんな自分の未練を断ち切るために、演奏を終わらせた。

 あの美しい音を、記憶に刻み付けた。だからもう逃げない。


(大丈夫だ、もう、誰にもなににも奪わせない。なにがあっても)


 顔を上げた。紫上の背越しに、こぢんまりとした山吹殿の屋根が入ってくる。その下には、白い狩衣の神官が三人。うち一人は、清藍せいらんの長であり神官長の雅だ。あとの二人は目付け役に選ばれた清藍の神官たちだろう。

 そしてその三人と並ぶ白い影。生成きなりも薄水の袿姿だ。その背後に付き添いの従者だろう水干姿の童子がいる。あれは秋史だ。

 生成は臣下とはいえ帝の血筋、決して身分は低くはない。従者の人数が一人なのもごく一般的で妥当な人数だ。ただ、依夜の身があまりに尊いだけでこんなにも差が生まれる。


(この差が、妬ましいのか……そう、なってもおかしくはないな……)


 それは生成にも与えられるはずだったもの。なのに生まれながらにして剥奪されたものだ。

 山吹殿の前へ辿り着く。足を止め生成を見上げた紫上が、深く息を吸った。小さく依夜をふり返り、一度頷く。その顔は、いつもの厳しさではなく、母のような心配の顔。


 紫上に向かって少しだけほほ笑み、頷きを返す。それを認めた紫上が脇に避けた。生成と真っ直ぐに向き合う。

 生成の袿からはほんのりと伽羅が匂い立った。その香りに胸が疼く。

 なにを考えているのか読めない無表情の顔。その中で、赤みがかった薄灰の瞳だけが少しだけ憂いを帯びている気がした。


「これより、婚姻の儀を執り行う」


 雅が進み出る。その手には大麻おおぬさ。二人で雅の方へと向き直る。

 婚姻の祝いと祝詞を上げながら、雅が大麻を左右にふる。それを、少しだけ頭を下げて受け入れた。神からの祝福。

 だが神は、本当はなにも望んでなどいない。これは神の祝福ではなく、人間の呪いだ。


 目付け役の二人が生成と依夜の外側に立ち、中へ入るよう促す。

 ふり返った山吹殿は、町にあった臣民の家より少し広いくらいの大きさだ。蔀戸しとみどのようなものはなく、壁は締め切られ塗籠のような造りだ。

 その正面には観音開きの扉。その扉は外から閂を差して閉じるようになっている。婚姻の儀の間——夜が明けるまでは、基本的にはこの閂が抜かれる事はない。

 中には火が灯され、中央に据えられたしとねが浮かび上がっている。その他には、多少の調度品。そして龍笛と笙が隅の方に安置されているだけだ。


(あまりにも皮肉だな……)


 薄い自嘲が浮かぶ。

 山吹殿に持って入るものを聞かれたときに、とっさに笙をと答えた。笙など必要ないと思ったのは答えた後だ。それでも、演奏などしなくても側に置いておきたかった。

 生成の気持ちはわからないが、彼も龍笛を持って入る事を望んだのだろう。


 先に足を踏み出した生成に続いて、山吹殿の中へと進む。せめて顔を上げて、なんでもないことのようなふりをして。

 中に入り、生成と並んで外へと向き直る。正面に雅が立ち、改めて祝いの言葉を述べた。それを黙って聞き流す。


「これより夜明けまで、婚姻の儀となります。扉は閂をかけますが、目付け役が外におりますので何かあればお声がけを」


 頷く。魔が出たとか、そういう依夜や生成がどうしても必要だという場合以外、どうせ閂が開けられることなどない。たとえ助けてくれと言ったとしても無駄だ。

 彼らは、夫婦の契りが結ばれたかどうかを確認するためにいるのだから。


「私は庭で夜明けまで婚礼の神事を執り行います。どうかつつがなく儀を終えられますよう」


 雅が深々と一礼をし、目付け役の二人に合図を送る。左右から二人が扉を押し、外の景色がせばまっていく。

 見えるものが雅の強い瞳だけになり、そして閉じた。閂の差される音。


 うつむく。ここからはもう、どうして良いのかわからない。ただ、自分の気持ちの真実だけを見つめることしか出来ないのだ。

 動くことも出来ず、さりとて生成と向き合う事も出来ず。そのままの姿勢でどれくらいの時間が経っただろう。


「やはり、その色の方があなたにはお似合いのようだ」


 不意にかけられた声にびくりと肩を震わせる。それでも、生成の方を向くことが出来ない。


「お座りになったらいかがか。夜通しそうしているわけにはいかないでしょう」


 呆れたような声がかかり、目の端で薄水の袿が動く。衣擦れの音が背後へと動き、座した音がした。

 ゆっくりとその場に腰を降ろす。目の前にはいまだに閉じられた扉しか見えない。


「そのようにわかりやすく拒絶されるとやりにくいですね」

「……言っておくが、拒絶したのはお前が先だからな」


 息を吸う。背に感じる視線をふり払うように拳を握った。力を込める。


「そうですね」

「わたしは、未熟で愚かで、お前の気持ちになど全く気がついていなかった。さぞ腹立たしかったことだろう」

「……そう、ですね」


 生成の吐息のような声。その抑えた声が、余計にそれが事実だと言うことを告げてくる。


「だが、その時のわたしの気持ちはお前の思惑とは無関係だ。わたしは、何度やり直しても同じ選択をする。だから、これは仕方がないことだったんだ」


 やり直したところで依夜はまた生成に淡い恋心を抱いてしまうのだろう。結末は何度やっても同じ。これが自分の生まれ持った運命だったのだ。

 まるで胸に空洞が空いて、その中に飲み込まれて行くような暗い痛みが走る。

 背後で息を呑む音が聞こえた。


「なにを……おっしゃって……」

「だが、運命にしてやられているばかりなのは気に食わない。ひと泡吹かせてやる気でいる」


 それがどんな手だったとしても。


「お前は今ここにいるが、これは運命だったのか?」


 やっと、決心がついた。生成の方を向き直る。生成は脇息にもたれかかり寛いでいる様子だ。そのだらりとした姿は新鮮だ。だが、こんなことがなければ一生見ないでいられた姿でもある。

 なにかを言おうとして生成の唇が動いたのが見えたが、それは音にならなかった。

 しばらく視線をさまよわせ逡巡しゅんじゅんしていた生成が顔を上げる。お互いの視線が絡み合った。


「そうかもしれませんね」


 生成が脇息から身を起こした。その顔が忌々しげに歪む。


「奇遇ですね。私も運命にはひと泡吹かせようと思っていた」

「そうか」

「だが、あなたばかり澄ました顔をしているのは気に食わない」

「どういう意味だ」

「私は、あなたが私だけに向ける憎しみを悦んでいた」


 ふと、夜中に発作を起こして生成が診に来てくれていた時の事を思い出す。

 あの時夢の中で、生成は依夜に嘆き苦しめば良いのにと言った。あれは夢だと思っていたが、依夜の神子としての力で生成の深淵を覗いていたのだろうか?

 腕が粟立つ。本能が危険を告げていたが、そもそも逃げる場所などない。


「ところがここのところ、あなたはそれすら忘れてしまわれたようだ」

「……⁉︎」


 生成が立ち上がり大股で距離を詰めてくる。慌てて逃げようと後ずさりしたものの、すぐに背が扉へぶつかった。

 目の前には、怒りの表情を浮かべた白い影。その手が上から伸びて、依夜の両手につかみかかる。


「なにをする、離せ!」

「なにをするだと? はっ、あなたはここになにをしに来られたのだ」

「————ッ」


 引き攣った悲鳴がのどからあふれた。

 抗おうとしてもやはり男の力。まるで抵抗などしていないかのように簡単に身体が押さえられ、そのまま床に押し倒される。

 ふわりと広がった伽羅の香りに息が詰まった。


「やめ……離れろ! これは命令だ!」

「聞けませんね。これは神がくだした神託ですので」

「くそっ」


 生成が両腕を押さえ、あっという間に胴に馬乗りになる。足を暴れさせたところでびくともしない。


「もう終わりですか?」

「————っ」


 腕に力を込めるが、床に縫い付けられてでもいるかのように動かない。本能的な恐怖にめちゃくちゃな音がのどから出るのを止められない。

 涙がにじむ。

 覚悟してきたはずだった。それでも、どうしようもない悲しさと虚しさが依夜を苛む。生成と婚姻を望んだ時夢見ていたのはこんな結末ではなかったのに。


「はは……」


 生成の歪んだ嗤いが降ってくる。床に押さえつけられた手にさらに力がこもり、痛みに呻く。


「良い眺めだ」


 赤みがかった薄灰の瞳が仄暗い光を灯して依夜を射抜いた。

 息が上がる。力をどんなに込めても動くことすらままならない。涙が次々とこぼれ、情けない声がのどから漏れる。嗚咽を止められず顔をそらしても、生成の視線からは逃げることすらできない。

 憎しみよりも、胸の痛み。どうしようもない悲しみに胸が押しつぶされていく。深淵の闇に引き摺り込まれていく。


「痛い……はな、せ……っ」

「まだだ。もっとだ」


 怒りとも、憎しみとも、悲しみとも取れる表情で生成が嗤う。それは他の者たちには決して見せない生成の顔。依夜にだけ向けられるその嘲笑。


(同じだ、わたしも)


 頭の奥がすっと冷たくなる。依夜だって生成にぶつけていた憎しみを、他の誰かに向けたことはない。紫上の局や、それこそ生成との婚姻を推し進める兄には感情的に訴えたこともある。だが、それは生成に向ける感情とは根本的に違うのだ。

 依夜を妬みながらも、命懸けで助ける生成。生成を憎みながらも、愛情を期待していた自分。いっそ滑稽なほど似ている。


(わたしは……わたしの心は、尊厳は明け渡さない)


 それだけが最後にできる依夜の精一杯。自分だけの真実。

 瞳を閉じ、全身に込めていた力を抜いた。息が上がっていてどの道、長くは保たなかっただろう。


「観念しましたか」


 生成の手が離れる。それでも動くことが出来ない。


「はぁ、はぁ……」


 息を吸う。しかし、上手く吐く事が出来なかった。苦しい。

 生成の右手がほおを撫でた。びりびりとした感覚がほおから全身へと広がる。その手が首を撫で、そしてまたほおへと戻った。


「あなたが鳥になると言うなら、いっそ……」


 大きくて骨ばった指が流れた涙を拭い、依夜の目を覆い隠す。

 馬乗りになった生成の身体が動いた。床に投げ出していた左手に生成の手が重なり、依夜の指をそっとすくう。その感触は、あまりに優しい。力づくで依夜を押さえつけた人物と同じとは思えないほどの。


(どうして……)


 覆われた瞳からはまた涙が出てこぼれる。胸が苦しいほどに早鐘を打ち、全身を言いようのない波が駆け抜けた。

 生成の気配が近づく。目を覆われていてもわかる。至近距離で依夜を見ている。

 肌の熱が伝わるほどの距離。その熱が唇に触れた。熱いものが依夜の口を塞ぎ、その熱を注ぎ込む。


「うぅ……」


 息を吸えない。その苦しさと、あまりに優しくついばむ熱になにもわからなくなって行く。

 急激に身体が冷え、全身に冷や汗が吹き出した。闇に引き込まれるように意識が落ちていく。頭の中で耳障りな音が響き、その中へと依夜を引き摺り込む。

 依夜を呼ぶ生成の声が聞こえたものの、返事をする間もなくすぐにそれもわからなくなった。


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