27. 月影

 深夜にも関わらず、「桜の宮」はうっすらと明るい。生成きなりにははっきりと見ることはできないが、月が輝いているのはわかる。生成の心情などお構いなしとばかりに、美しい月夜。

 清らかで優しく、それでいて少し憂いのある青白い光。明日、婚姻の儀が満月となる。


 まだ少し頭痛が残っているが、体調は回復した。しかし、婚姻の儀の前日ということもあり出仕はない。そのため着ているのは天色あまいろの狩衣だ。

 まだ任を解かれた訳ではないと依夜の薬を調合し、その様子を後任に指導した。やったことはそれだけだ。その上、薬は後任の匙に届けさせた。依夜の顔すら見ていない。


 やっと頭痛も治ってきた深夜、寝れるかと思ったが実際は眠れなどしなかった。


 魔が生成を狙い、山吹殿に現れるよう誘い出す。その手筈はまだ伏せっていた昨日のうちに雅から聞いている。そのため山吹殿に近寄らないよう重臣たちに指示を出すとも。しかし、なぜかそれに生成は軽い不信感を抱いていた。


 雅は帝のいる紫神殿を護るのではなく、山吹殿での神事を優先するという。自分が魔に狙われているのは間違いない。だからそれも納得のいく理由ではある。だが、なにかが引っ掛かる。こういう勘は外したことがない。

 雅は曲がりなりにも神官長、食えない人物だ。万が一のことを考え、その手配や説得をしていたらすっかり頭が冴えてしまった。


 渡殿を進むと、大神を祀る祭壇の据えられた神殿へと向かう道になる。そして、そこへ向かって足を一歩踏み出すごとに、楽の音が聴こえ出した。

 清らかで優しく、それでいて少し憂いのある青白い光。その光とほとんど同じ旋律を思わせる笙の音。

 依夜だ。あんなに姫らしからぬ猛々しさを持つのに、なぜか太陽ではなく月を思わせる尊い姫。


(皮肉なものだ、同じことを考えているなど)


 今一度、心の整理を大神の前でつけたい。そう思ってここを訪れた。おそらく、依夜も同じなのだろう。

 立ち止まり、高欄こうらんに腰を預ける。

 どれだけ、そうしたままその音色を聴いていただろう。短かったのか長かったのか、天上から降る音色の前に時間の間隔はどんどん麻痺していく。


(美しい……)


 こうしていると、まるで昔に戻ったかのような心地になる。

 清らかで優しくて、全てが透明になるかのような……。

 ふと視線を動かすと、暗がりに人影が見えた。地面を前屈みに走り、神殿の下へと移動する。上へ上がろうとしているようだ。


(またか)


 舌打ちした。この時間を邪魔されたことに苛立つ。

 龍笛を取り出し口を当てた。

 息を吹き込むと、人影の動きが止まった。気づいていないふりをして横目で伺うと、人影がこちらを見ている様子がうかがえた。神殿に上がるのを諦めたのか、そのまま走り去って行く。

 ほんの一瞬、笙の音がかすかに揺れた。しかし、すぐに美しい旋律を取り戻す。音も途切れることはない。演奏を止める気はないようだ。


 笙に龍笛を重ねていく。絡まり合う音は、いつもながらぴったりと寄り添い一つのもののように響き合う。天上からの光が、その下を渡る龍を照らし出す。

 月明かりに開きかけの桜の花が青白く浮かび上がった。


 絡み合う音と音。ますます透明になる身体。

 これはこの上もない皮肉だ。楽以外では決して交わることができない。楽ならばこんなにも一体になれるというのに。

 重なり合い一曲を奏で、静かに音が終わっていく。


 静寂。


 龍笛から口を離す。依夜の笙の音ももう聴こえない。

 これ以上ここにいれば依夜と出会ってしまう。顔を見ればきっとまた溝が深まるだろう。せめて依夜が退出する時に姿を見られない、それでいてちゃんとわかる場所へ身を隠さなければ。


「はっ……」


 自嘲が浮かぶ。先ほど生成が追い払った人影と同じ場所に行かなければならない。そんな自分が滑稽だった。だが、甘んじてそうしよう。

 今ここでなにがあろうとなかろうと、明日は来る。ならば、全ては明日で良い。


 大神の前でしようと思っていた心の整理ももう必要ない。自分の身体の中は今、透明になってしまったのだから。


 * * *


 聴き間違うはずなどない。それは、この世で最も美しい、夜空の清流の音。生成の龍笛が、近くで鳴っている音だった。


(回復したのか……。あぁ、美しいな……)


 知らず涙がひとすじほおを伝った。

 どこまでも邪がなく澄み切った音。

 なぜなのかはわからない。依夜がぴたりと合う演奏をできるのは生成だけだ。あんなに嫌い合っている相手なのに。


 共に楽を重ねている、しかもこれ以上ないほどに合う。関係が悪くなる前からそうだったのだから、当たり前といえば当たり前のことだ。

 それが今は、たまらなく悲しかった。この美しい音色は、その音色のような心は自分に与えられることはないのだ。どんなに、焦がれていても。

 永遠に明日など来なければいい。しかし、明日は来るだろう。情け容赦なく。


 曲が終わると同時に、のどから引きつれたような嗚咽が上がる。それを止める術を依夜は持たなかった。


 * * *

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