24. 頭痛

 月夜だ。月の白い光に、庭の桜の蕾が映える。もう数日で花開きそうなその蕾は、依夜と生成きなりの婚姻の儀が近いことを思い知らせてくる。

 月の下に響くのはしょう。月を見上げながら笙へと息を吹き込む。


 崩れた舞台は、少し老朽化しているが問題ないように見えた。だが、実際には、柱の中身が虫喰いでぼろぼろだったらしい。

 運が悪かったといえばそれまでだ。だが、もし巻き込まれたのが臣民だったらと思うといたたまれない。建物の管理を出来る者を各所に常駐させるか、定期的に派遣する必要があるだろう。


 生成は命に別状はなかった。痣を除けば怪我もない。ただ頭を強く打っていてしばらく安静が必要だという。


 月明かりが周囲を濡らす。

 先日、桜に稽古をつけた日に来ていたうちぎは、生成が贈ってくれたものだった。金糸のような美しい髪をしているのだから、濃い色がお似合いになります。そう言っていたことを今更思い出した。

 婚姻が決まった日、薄桃の唐衣を着た依夜に似合わないと言ったことに腹を立てた。だがあれは、嫌味でもなんでもなく、ただの感想だったのかもしれない。


 生成は口では到底許せないようなことすら言う。生成が依夜を騙していたことをことさらに思い出させるようなことも。逢い引きの相手がいるのかと言われたこともあった。

 だが、思い返す限り生成が依夜自身を粗末に扱ったことはない。側近として常に仕え、さじとして体調管理もずっと担ってくれていた。依夜自身が体調を軽んじれば本気で怒り諌める。本当にどうでも良いなら、そんな事などする必要もない。

 依夜に仕える任を解くと宣言した時も、いつもなら見せない動揺をしていたように思う。


 自分は、生成の表面しか見ていなかったのではないか。そんな気がしてならない。

 笙の音が依夜の内側を満たしていく。月明かりに音があったなら、きっとこんな音なのだろう。


「依夜姫」


 依夜を呼んだのは、護衛に連れて来ていた二人の随身ずいじんのうちの一人だ。供は欲しくなかったが、依夜も事故に遭った身。大丈夫と思っていても後から症状が出るかもしれないと言われている。そのため、不測の事態に備えて供を連れて行かないわけにはいかなかった。いらないと言えば、紫上局しじょうのつぼねの怒りをかって夜通し説教されることになってしまう。


「生成殿が依夜姫にお会いしたいと。いかがなさいますか」

「……行こう」


 笙から口を離す。

 生成のことは気になったが、依夜に出来ることはなにもなかった。だからと言って落ち着いていられるほど強くはない。冷静さを欠くと雅にも言われたように、気持ちが騒いでいる。なぜだ、どうしてと生成に詰め寄りたい衝動にかられてしまう。

 頭を冷やそうと外に出ると月がしっとりと辺りを照らしていた。生成の寝所へ向かったものの、やはり今負担をかけるわけにはいかない。そう思い直し、少し離れた場所で笙を奏でていたのだ。いつかの、生成のように。

 そこへ、生成に仕える童子——秋史がやってきて随身に声をかけたようだ。秋史としても、笙を演奏している帝妹に声をかけるのは憚られたのだろう。

 淡緑の袿が月明かりで輝く。


「行くと伝えて来てくれるか?」


 秋史にほほ笑んでみせると、彼は安堵したように大きく返事をして駆け戻って行った。

 その先触れから少し間を取り、生成の寝所を訪れる。依夜の暮らす萌葱もえぎ殿などと比べればこぢんまりとしたものだ。それでも一人部屋が与えられているのは、臣下とはいえ尊い血筋だからなのだろう。

 御簾みすの向こうには、小さな灯りが灯っている。


「外で待っていてくれ」

「承知いたしました」


 随身二人に御簾を上げてもらい、中へと入る。部屋の中央にしとねがあり、そこに生成は横たわっていた。

 側に歩み寄ると、少しだけ生成の瞳が依夜を向く。だが、すぐに視線は逸れて上を向いてしまった。


「やはり、そのような薄い色の袿はお似合いになりませんね」

「そうか」


 似合う似合わないはやはりただの感想だったらしい。依夜の体調が悪かろうと、自分が臥せっていようと口に出すくらいだからなにかこだわりがあるのかもしれない。

 そんな人間らしいところにいまさらながらに気がつく。いつも冷静に聞けず、腹を立ててばかりで気が付かなかった。


「本当は私が出向かねばなりませんが、ご足労いただいた上床に就いたままで申し訳ありません」

「……いいんだ」


 褥の横に座る。本人を前にするとなにを言うべきか思考が彷徨い、言葉が出て来ない。


「大丈夫か」

「そうですね。酷い頭痛がしていますが無事です」

「そうか」


 沈黙。

 視線が泳ぐ。なにからどう話せば良いのかわからない。胸が締め付けられるような錯覚を覚えた。体調は問題ないはずなのに、身体が急激に冷えたような感覚に襲われる。


「依夜姫のお身体はいかがか」


 尋ねた生成の口調は心なしかいつもより穏やかだ。頭痛のせいなのかもしれないが、そのことに微かに胸が疼いた。

 身体の心配をされる資格などないというのに……。


「大事ない」

「痛むところはありませんか」

「わたしはどこも痛くなどない。だが生成……その、痣はなんだ」


 気がつけばそんなことを口走ってしまう。生成の瞳がはっとしたように見開かれ、剣呑とした輝きを放った。


「怪我を、見ようとして……」

「そうですか」


 小さなため息。


「この痣を付けたのは母です」

「は……?」


 予想外の答えに動揺する。

 依夜は早くに母親を亡くしている。だから、母親がどんなものか真実知っているかと言われれば知らない。だが、乳母として育ててくれた紫上局は愛情深く、母とはあんな感じなのかと思ってもいる。

 その母が、実の息子をああも痛めつけることがあるのだろうか。


「母上は精神を病んでおられる。たまに錯乱して暴れられるのです。だからと言って、殴ってお止めするわけにもいかないでしょう」

「じゃあ、町に行く前のあれも」

「そうです」


 知らなかった。もちろん、依夜が知る必要などない話だということは理解できる。

 それなのに、胸が締め付けられて苦しい。錯乱する茜も、それを止めようとして痛めつけられる生成もお互いに辛すぎる。


「お前が治療してやれないのか」

「母上は薬がお嫌いなのです。薬を飲んだせいで……おわかりか?」


 ぼかされた言葉に息を飲む。生成の顔を見ることが出来ずにうつむいた。

 茜がどうしてあんな場所にいるのか。その醜聞は知っている。生成の生い立ちも。だが、おそらく真実は違うのだろう。少なくとも、茜の中では。


「だから、薬は拒否される。飲ませようとすれば錯乱して暴れる。薬なしで養生していただくしか方法はありません」

「だからって……お前のそれは、あまりに、ひどい……」

「そうでしょうか? 母上は私に頼るしかない。そうやって私だけをよすがに生きておられる。私だけを愛して」

「愛しているのにそんな事が出来るのか⁉︎」

「これは錯乱しているせいです。母上をそうさせたのは、どこかのケダモノだ」


 淡々とそう言う生成の表情は静かだ。それが逆に、依夜に恐怖を感じさせる。


「これで宜しいか」

「———違うんだ」


 違う。そんなことを言いに来たわけではない。

 伝えなくてはならないことが他にある。

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