25. 鳥になる夢
「
「死ぬおつもりだったのか」
「————……」
死ぬつもりだったのかと言われれば、そうだったのだろう。だからこそ、生成の命を脅かしたことが重くのしかかる。
「答えられよ」
「——そう、だな。楽になれると、思った」
「馬鹿なことを。臣民をお捨てになるおつもりだったとは」
「そういうことになるな」
依夜は
「ようやく鳥になれるかと思ったんだ」
「なにを言っておられる」
「……そうすれば、お前の
自分の立場も、能力も、臣民も、皆依夜を縛るものばかりだ。
あの瞬間に悟ったのだ。自由になりたい、全てを捨ててしまいたいと。依夜を縛るもの全てから逃げて、自由な鳥になりたいと。
「ハッ。そんな薄情な鳥に聴かせる音はありません」
「そうか。残念だが仕方がないな。違う庭へ行こう」
「そういう話ではない! ————っ」
声を荒げた生成が顔をしかめる。頭痛がするのだろう、手で額を押さえて苦悶している。安静にしていなくてはならないのに生成を怒らせている、そのことに少しだけ心が痛んだ。
「なぜ助けた」
「……なぜ? おかしなことを言う。あなたは尊い立場の姫であり、退魔の力を持つ神官であり、私の仕える主だ。助けたくなくても助けないわけにはいかない」
「助けに来たのはお前だけだ」
「なにが言いたいのです」
「お前のその忠誠心は度を越している、と思う。愚かな主が自滅しようとするのまで助ける必要はない」
生成の眉間に険しい皺が刻まれる。歯を噛み締めた耳障りな音が依夜の鼓膜まで届いた。
「わたしはあの時、自分のことしか考えていなかった。全て捨てようとした。そんな愚かな者と自分の命を引き換えるな」
「はッなにを言い出すかと思えば! この私に説教ですか」
憎々しげに依夜を舐めつけた瞳にも、今は前のような怒りが不思議とわかなかった。
生成の感情はどうあれ、それと忠誠心を切り分けていられるのは依夜には出来ないことだ。正直、理解できないと言っていい。
なぜ依夜を嫌いながらも、そこまで我を捨てて仕えられるのか。
「なぜわたしを嫌いながらも助ける?」
「私が助けているのはあなたではなく臣民だ。勘違いなされるな」
「……それがお前の忠誠心の理由か」
あまりにも誇り高い。それは貴族でさえなかなか持てないほどの高潔な想い。
急に腹の奥から嗤いが込み上げた。
「ははっ、わたしとは大違いだな!」
自分のことしか考えず、あろうことか全てを見捨てて楽になろうとした。なんと浅ましい姿だろう。
「お前のような者がいるなら大丈夫だ。神がまた新たな神子を選ばれる」
「なにを言って……」
「お前がずっと、嘘をついていてくれたなら良かったのに」
「依夜姫……?」
「だが、こんな愚かな者を相手に嘘を貫くのも無理だったな。今ならわかる」
優しい嘘をついていてくれたのは、依夜が生成の人生の外側にいたからだ。それが、婚姻をという話になって一気にふり切れてしまったのだろう。
「一体なんのことです」
「もうわたしを助けるのはやめろ。無駄だ。わたしは、全てを捨てる。臣民さえも。お前の期待には応えられない」
期待。そう生成の忠誠心は期待だったのだろう。臣民を護ることを期待していた。これまではそうしていたから余計に。
それももう終わる。終わらせる。
「お前は自分の道を生きろ。わたしの巻き添えになるな」
「なにを言っておられるのです……」
赤みがかった生成の瞳が揺れる。
「あの生霊は必ず祓う。お前の任も解く。わたしを助けなくても罰せられることのないように計らおう。だからそれでよしとしてくれ」
「依夜姫‼︎ まだそんなことを言われるのか‼︎」
生成の腕が上がった。その手が依夜の手首を力任せにつかんだ。生成の顔が苦痛に歪む。頭痛が酷いのだろう。
「なんと傲慢な!」
「そうだ、わたしは傲慢だ。お前の命をかけるに見合う人物ではないんだ」
いがみ合うようになってからも、お互いになにかを期待していたのだ。それが叶えられることなどないというのに。
「わたしは、わたしの尊厳を守ることを選んだ。愚かなままでいることを望んでいるんだ」
「そんなこと、許されない……ッ」
依夜をつかんだ生成の手に力が入る。痛いほどの強さ。
「許さずともいい。だが、わたしの道はわたしが決める。神にも帝にも、お前の許可も取るつもりはない」
「————ッ」
身を起こそうとした生成が、顔を歪めた。起き上がれずに呻く。
「生成、手を離せ」
「巻き添えだと? いまさら……」
「離せ。これは命令だ」
ぶるぶると生成の腕が震えた。その手に一度力が入り、そして緩まる。
生成が瞳を閉じた。手が離れる。その腕が生成の瞳を隠した。
(生成も、人の子だったのか)
明らかに動揺しているであろう生成の姿は新鮮だった。それだけで、行く先が明るいように思えて少しほほ笑む。
この先はそうやって、人間らしく生きられればいい。目障りな者がいなくなれば、昔の優しい生成が残る。それがお互い一番いいのだ。
「お前の期待に応えられないことを、心苦しく思っている。わたしはわたしの期待に答えることにしたから」
自分の尊厳を守る。こんなに簡単で、だからこそ難しいことを皆も、生成も紫上もやってのけているのだろう。誰にも迷惑をかけない形で。
依夜にはそれが出来ないともうわかってしまった。
「婚姻の儀は三日後だ。明日、明後日は寝ていろ」
「————……」
「昔のお前は、楽しそうだった。夜桜の下での合奏も。これからはそうなるといいな」
目を覆う生成に見えないとわかっていてほほ笑み、立ち上がる。生成がなにか呻いたが聞き取れなかった。
踵を返す。そうして唐突に認めた。自分は生成をとても、慕っていたのだと。あの夜桜の下での合奏で、最も美しい夜空の清流のようだと伝えた。それがその時の自分の真実だった。
お互いを想い合うような、そんな夢を見ていたのだ。
だからこそ、生成が辛く当たってくるのが憎かった。誰にでも与えられる優しさが依夜にだけ与えられないことが辛かったのだ。それならばいっそ、全てを捨ててしまえばいい。
知らず、口元に笑みが浮かんだ。
生成の気持ちや思惑など関係ない。その時の自分の気持ちは、自分だけの真実。それさえわかっていればいいのだ。
それだけで————。
* * *
依夜が去った寝所に低い呻きが響いた。それが自分の声だと気がついた時には、もう涙が滲んでいた。そのことにひどく動揺する。
「私は間違っていたのか? どうすれば、良かったのだッ」
生成を愛するもの、愛したものを傷つけ排除し、それを悦んでいる母から依夜を護りたかった。依夜に心を寄せようものなら、なにをするかわからなかった。
かつて、生成を我が子のように想い茜から庇ってくれた女官も、兄のように懐いていた茜の侍従も酷い目に合いここを去った。女官に至っては精神を病んでしまったと聞く。
あれほどでなければ、酷い嫌がらせを受け去った者も多い。
だが母は、この世でひとり、茜だけだ。生成を生んだせいで不幸になった母は、生成を愛するがゆえに罪を犯す。だからその罪を犯させないようにしたかった。そうすることで守りたかったのだ。自分が不幸にしてしまったからこそ。
依夜は、尊い姫だ。臣下である生成と結ばれることなどない。想いが通うことなどないと思っていた。茜もそう思っていただろう。帝が依夜との婚姻の意向を示した、あの時までは。紫上局の推薦でまだ幼い依夜の側仕えに任命された時は、満足そうにすら見えた。
時が経ち依夜が立派な姫へと成長し、そろそろ潮時だと思ってはいた。それなのにずるずると先送りにしていたのは否めない。そのせいで帝や依夜に期待を持たせたのなら自分の落ち度だ。
どの道、こうなることは避けられなかった。生成は依夜に憎まれねばならなかったのだ。そう自ら望んだ。それなのに歌会では失態を犯した。歌会の時に生成が詠んだ和歌は茜の耳にも入っただろう。
この世でただ一人の母は、生成を愛しながらも酷く憎んでいる。母はとうの昔に壊れているのだ。生成を愛するもの、そして生成が愛するものを許さない。
依夜には嫌われ、憎まれていなければならなかった。依夜と母を、母の狂気から護るために。
二人を同時に守るなど、生成には無理だったのだろうか。守りたいと思っているのに、二人ともを不幸にしている。
いや、不幸になるだけならまだ良かった。生成を憎み、その怒りをこちらにぶつけながらでも生きていてくれるならそれで。
それなのに、依夜は今なにを望んでいる? なにを生み出させてしまった?
舞台の屋根が崩れたあの時、依夜は危険を知りながら逃げなかった。あろうことかほほ笑んで舞い続けた。あの瞬間本当に、全てを捨てて死ぬつもりだったのだ。
そうさせたのは自分だ。自分が依夜からの憎しみを悦んでいたからだ。自分にだけ向けられるその感情を欲していたからだ。
母も、こんな気持ちで自分を痛めつけていたのだろうか。母と同じことをしている自分もそう、もうとうに壊れていたのだろう。
「だめだ……」
させるものか。鳥になどならせるわけにはいかない。
わたしの行きたいところはわたしが決めるのよ。遠い日の依夜の言葉。それを迷いもなく口に出せるのその立場が、生成が奪われたそれがたまらなく妬ましかった。そして、眩しかった。
今も依夜は変わらない。自分の行く道を自分で選んで進もうとしている。それが他人からは到底許容出来ないことであったとしても。
「依夜姫……」
そして全てを捨てると言ったのに、その口で生成の今後の道を案じていた。あまりにも気高い。あまりにも、眩しい。
「あの結界は効いている」
やはり自分の勘は正しかった。
(私が全て引き受ける)
唇を引き結ぶ。全てを丸くおさめるにはもうこうするしかない。最初から他に方法などないのだ。
(母上や依夜姫に執着するあまり、私は道を誤っていた……もっと早く……)
だが何度やり直しても自分は道を誤るだろう。この存在が穢らわしく、生まれなければ良かった命だったとしても。
知らずひとすじ涙がこぼれた。
どんな形でも良かった。
(ただその光の側で、生きていたかった……)
* * *
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