19. 尊厳

「依夜姫!」


 生成きなりの声。荒い足音と共に差し出された白い腕が依夜を支える。


「お加減が悪いのですか⁉︎」

「ちが……」

「光を降ろせますか」


 頷く。今の自分がやるべきことは退魔だ。ここには帝もいるのだ。なにを置いても護らなくてはならない。

 帝は臣民ではない。だが、依夜の敬愛するたった一人の肉親なのだから。


 ——お前はそうやって使い潰されるだけだ。

「黙れ‼︎」

 ——お前の尊厳など誰も護らない。

「違う‼︎」


 たとえ誰が依夜を騙していたとしても、いいように使っているだけだとしても、依夜の尊厳を守れるものはいる。

 そうだ、そう誓ったばかりだった。自分の尊厳を守れるのは自分だ。生成に騙されていたとしても、その時の依夜の気持ちは嘘ではない。嘘になることはない。


 ——いつまでそう強がっていられるかな。


 魔が、いやらしく嗤った。どこにいるのかもつかめないのに、闇に染まった二つの目がこちらを視ている強烈な視線を感じた。

 口を開こうと息を吸う。その瞬間、魔の異音が小さくなり、そして消えた。


「逃げたか……」

「息を吸ってください」


 静かに告げる言葉に頷き、ゆっくりと息を吸う。耳鳴りがして、生成に支えられた腕が微かに震えた。

 そうだ、生成はいつもこうして今も昔も依夜のもとに駆けつける。それが臣下としての務めだからなのか、周りの心象を良くするためなのか、心配しているのかなどどうでも良い。内面はどうあれ、行動は一貫している。

 生成がかつて優しく接してくれたことも、理由はどうあれ事実だ。なくなることはない。

 それすらも認めることが尊厳というものなのかもしれない。そんなことに今更気がつき、小さな笑いが出た。


「依夜姫?」

「なんでもない」

「ご気分は。まだ少し————」


 生成の顔が近づく。瞳を細めた生成は、頷いて離れた。


「顔色がお悪いようだ」

「そうだな……耳鳴りがする。あとめまいと」

「わかりました。……御前を失礼いたしました」


 生成が御帳台へ向き直り平伏する。


「依夜姫はご体調がすぐれないご様子。歌会の形式は終了致しましたので、退出のお許しをいただきたい」

「許す」

「ありがとう存じます」


 もちろん兄は依夜の気の病を知っている。それをずっと生成が診ていることも。


「立てますか」


 再度生成の腕が依夜の腕を取る。

 いつもなら離せ、触るなと反論しているところだ。大勢の前で声を荒げたりはしないだけの判断はできそうだが、とにかく生成には助けられたくもなかった。

 それなのに今は、なぜかそんな感情が浮かばない。

 生成の思惑がなんであれ、いつも依夜を助けるために動いている。それが事実なのだと急に腑に落ちた心地になる。


(もうなにもかもが、二度と目にできないものだ)


 もう一粒、雫が下に落ちた。それならばもういいのかもしれない。そっと静かに、この日々を生きても。


「手を、貸してくれ」


 生成の束帯そくたいをつかむと、一瞬だけ生成が戸惑ったような顔をした。そんな表情もできるのかと依夜の方が虚を突かれたような気持ちになる。

 しかし、すぐに頷いた生成が依夜を支えた。しかし、衣装が重いせいもあり立ち上がることすら出来ない。


「生成、手伝うことはあるか」

「雅殿は帝のお護りを。誰か、几帳をご用意していただきたい!」

「几帳?」

「その衣装で歩けるとお思いか」


 いつもの調子で忌々しげに吐き捨てられた言葉に苦笑する。確かに、これでは支える方の労力も計り知れない。


「几帳はすぐに用意させよう」


 そう言ってすぐに従者を呼んだのは依夜の叔父である季守きしゅだ。

 やがて二脚の几帳が届き、依夜の姿を周囲から隠した。


「その衣装は脱ぎなさい」

「だが」


 今は魔が暴れているような緊急事態ではない。さすがに先日のように単だけになるのは憚られる。


「姫、こちらを」


 几帳の中に顔を出した女官が、手に持ったもの——うちぎを掲げた。それは先日魔を祓ってやった季守の女官だ。


「助かる。着替えを頼めるだろうか」

「もちろんです」


 頷いた女官が、誰かを呼んだ。もう一人女官が来たようだ。


「めまいがあってふらつくご様子。気をつけて差し上げてくれ」

「承知いたしました。姫はお座りあそばしたままでいてくださいまし」


 さっと寄ってきた女官二人に、生成がそばを離れ几帳の向こうへと退出する。手慣れているだけあって、女官たちは素早く腰紐を解き重い衣を取り払った。

 座ったままで、袿を着せ掛けていく。


「生成殿。お手を」


 呼ばれた生成が几帳の中に姿を見せた頃にはほとんどの着せつけが終わっていた。


「姫をお支えして立たせていただけますか。形を整えますので」

「いや、もう十分だ。下がりなさい」


 言うがいなや、生成は御帳台側の几帳を持ち上げた。それをもう片方の横へと運ぶ。下座側の貴族たちから姿を隠す形だ。几帳二脚分の距離しか隠せないが、依夜の弱っている姿を隠すのにないよりはましと言うところだろう。


「めまいは」

「まだ……」


 そう酷いものとは言い難いが、それでも平衡感覚はおかしい。

 無言で差し出された手をつかむ。手が引かれ、もう一方の生成の腕が依夜の脇から背を抱え込むようにして身体を上に引き上げた。

 途端に視界が回り、膝が砕ける。抱き止めた生成の束帯から伽羅きゃらの香りが匂い立ち、依夜の思考を奪った。


(ああ、この香り……本当に、久しぶりだ……)


 かつて好んで、しばしば共にある時間を過ごしていた者の香りだ。あれ以来、生成と職務以外であまり顔を合わせなくなったせいで、この香りとも縁がなくなっていた。

 懐かしさに胸がきりりと痛み、まぶたがまた熱くなった。


「仕方ありませんね」


 生成のため息。


「不本意でしょうが我慢なされよ」


 言うがいなや、依夜の身体が宙に浮き小さな悲鳴を上げる。気がつけばいつかのように、依夜は生成に抱き上げられていた。


「あなたがここで発作を起こされると困ります」

「……そうだな」


 確かにそうだ。体調不良までは致し方ないが、それ以上を見せるのはあまり得策ではないだろう。


「御前失礼いたします」


 生成が御帳台へ向かい目礼をした。依夜を抱き、退出する。

 婚姻が決まった日に、こうして運ばれたことを思い出す。あの時は抵抗し、生成に一喝されたのだ。今思えばそれも当然のことに思われた。

 生成の肩にほおをあずける。接することがなくなって忘れていたが、この香りも愛していた。生成は必ずこの香りを衣に焚き染めていた。いい香りだと伝えていたし、伽羅を贈ったこともある。


(まだ香りを変えていなかったのだな……)


 知らずまた涙がこぼれた。生成は気がついていないはずはないのに、特になにも言わない。そのことになぜか安心する。

 これは皆過ぎた日のことだ。今なにを聞かれても答えられることなどない。

 外の風が依夜のほおを撫で、鼻腔に生成の香りを運ぶ。


「生成」

「なんでしょうか」

「わたしは、魔に憑かれているのか?」


 目がまわる。上下すらわからなくなるような感覚の中、依夜を抱く生成の腕が上下をかろうじて依夜に伝えていた。

 こんなふうに体調を崩す時は、いつもあの生霊があらわれている。神楽巫女退位の儀まではなんとも思っていなかったが、さすがに三度目となると無関係とは思えない。


「……そんな様子はありませんね」

「そうか」


 生成がそう言うのならそうなのだろう。そもそも毎日神殿にいるのだ、憑かれていて誰にも気が付かれないということもないだろう。


「ならいいんだ」


 瞳を閉じる。冷えた目で依夜を見下ろしているだろう生成の顔など見たくなかった。

 生成が憎い。それなのに、思い返せば助けられたことばかりが思い出される。いつも側に控え、依夜の手助けをし、危ない時には身を挺してまで護ろうとする。臣下だからと言えばそれまでだが、それは生成の偽りの姿なのだろうか?


(いや、もういいんだ……そんなことは)


 じきに全て終わるのだから。


 * * *


 瞳を閉じて大人しくしている依夜を見下ろし、生成は眉をひそめた。

 先日の稽古の時から、依夜の様子がいつもとは違う。

 魔に憑かれているわけではない。だが。


(こういう勘は外したことがない)


 思う通りなら、生成のすることは一つだけだ。

 それに、考えてみればそれが一番良い。全てを解決できるかもしれない。

 歌会では失敗した。面目を保つためとは言え、あそこまで仲睦まじさの演出などしなくても良かった。なぜ、あんなことを口走ってしまったのか。


(少し面倒なことになりそうだ……)


 目を細めなくてもはっきり見える距離に依夜の顔がある。

 どうしても憎まれたかった。そうしなければならなかった。そしてそれは叶えられた。依夜が自分だけに向けるその憎しみの感情が悦びだった。

 だからこそ、成さねばならない。この妬ましいのに眩しく、月の光のような尊い姫を護るために。

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