17. 花衣
「用ですか? 私にはありませんが」
「そうだろうな」
つぶやくようにそう言うと、依夜が歩み寄ってくる。その瞳は、真っ直ぐに
まずい、と思う。なにがかはわからないが、このままここに居てはならないと本能が告げている。それなのに、足が動かない。
「不本意ながら神が……いや神の名で、お前と婚姻を結べと神託を降された」
「————……」
「お互いにとって不幸なことだ」
「……そうですね」
依夜の瞳が生成を射抜く。その強さに知らず一歩後ずさる。
まだ齢十七。自分よりも五も若いのにその気迫に押される。
依夜の唇が動いた。そこから発せられた言葉に瞠目する。
「お前は、わたしのなにが気に入らない?」
言葉を失うとはこういうことなのだ。まさか面と向かって直接そんなことを訊かれるなどとは思わなかった。
それを訊くために桜をだしにして呼んだのか。
「態度か、姿形か、それとも生まれか? わたしのなにが憎いんだ」
いつものように声を荒げるでもなく、静かに問う依夜。その様子に拳を握る。まだ取り戻せるという
無駄だ、取り戻すことなど出来ない。そのはずだ。これは自分が望んだ事なのだ、取り戻すものさえ初めからない。
「答えろ、生成。これは命令だ」
「ハッ……」
乾いた嗤いが出た。そのために、姫扱いを煩わしいと嫌う依夜が
神官としてこの命を出すのはおかしい事だ。依夜が長とはいえ階級は同じということもあり、不当な命令だと拒否出来るだろう。
しかし今はどうか。ここには明確な身分の差がある。尊き姫と、仕えるしか出来ない臣下とでは天と地ほどの差。その差は埋めることなど出来ない。
それは婚姻を結ぼうと同じだ。生成にとっては、自分の地位を盤石にするためのもの。盤石にしなければという事実は変わらない。一生、臣下のままなのだ。
望んだことでもないのに!
「なにがだと……? 全てだ。なにもかも!」
「……答えになっていないな。全て? それはないと言っているのと本質的には変わらない」
「そんな屁理屈を言うために引き留めたのですか。なんという時間の無駄を……」
「話を逸らすのも時間の無駄だ。端的に答えろ」
「くっ————」
依夜の声は静かだ。それが逆に生成の心拍を加速させていく。気取られないように平静を装うものの、握り締めた拳は開けない。
「あなたは全て持っている。私が生まれながらに剥奪されたなにもかもを」
「そうだな」
「私が望んで臣下になったわけではない。私はなにもしていない。それなのに、こんなにも隔たりがある」
もちろん、生成を臣下に降したのは依夜ではない。そんなことはわかっている。
「依夜姫、あなたが妬ましい。その尊き生まれが憎い」
「そうか」
小さくつぶやき、依夜が頷く。
「生成、わたしは————」
一瞬言葉に詰まり俯いたが、すぐにその頭を上げた。生成を見つめてくる。
輪郭のぼやけた顔。額に力を入れ目を細めると、少しだけ輪郭がはっきりしたような気がした。
「わたしは、今までお前に期待を、していたように思う」
「は……?」
なにを言い出したのだろうか、この姫は。
期待?
「かつてお前は優しかった。それが本当のお前で、もしかしたらまた戻ってくれるかもしれないと期待していた。だから、お前がなにか言ってくるたびに苛ついていたんだ」
「なにを言って……」
「だが、憎いのがこの生まれや立場ということなら、それは婚姻を結ぼうとも生涯埋まる事はない」
依夜の金色にも見える瞳が揺れた。
「お前は生涯わたしを憎む」
「そうなりますね」
「つまり期待をしても無駄だということだ」
「なにを分かり切ったことを……」
上手く声が出せずにかすれた。
期待をしていた? これだけこっぴどく痛めつけていたというのに?
(馬鹿馬鹿しいことを……)
「側近の任を解くよう神殿に願い出よう。わたし付きの
「な、ん……だと……?」
言われたことの意味を理解するのに、日頃では考えられないほどの時間を要した。
そして次にわき上がったのは怒りだった。
「あなたはなにをおっしゃっているのかお分かりか」
「もちろんだ」
「いや分かっていない。あなたのような我儘な長を誰が補佐出来ると?」
「優秀なのはお前だけではない」
「匙もだ。あなたの気の病を熟知しているのは私だけだ」
「そう。それならばしっかりと後任に申し送りをしろ」
味気なく返された言葉に二の句が継げなくなる。
どうして自分は、こんなに必死に依夜にしがみついているのだ。どうしてこんなに執着しているのだ。
どうして。
(誰があなたを、お護り出来るのだ……誰が)
その方法では依夜は護れないと言った紫上局は正しかったのだろうか。
これまでずっと……。
(いや、違う)
護って来たなどおこがましい。自分は依夜から向けられる憎しみに悦びを感じていた。苦しむ姿を見て嗤っていた。
自分だけに向けられるその視線が、感情が、心地良かったのだから。
「婚姻の儀が……控えているゆえ、すぐにとはいかないがなるべく早く手を打つ。もし雅殿が反対するなら、私は帝妹として神託のお伺いを立てよう」
「神が私を側近から退くよう望まれるとでも?」
「神ではない、人の意思の入った神託だ。誰の意思であろうとも神託は神託。否やはない」
神託に依夜の意思を反映させる。その宣言に息を飲む。本気でそうするつもりなのだ、この姫は。自分の持てる権力全てを使って。
「もっと早くこうすれば良かった。無駄な期待を抱いていたせいで思いつきもしなかったとは滑稽だ」
薄く口角を上げた依夜のその瞳の奥は笑っていない。
「お前はわたしの夫となり目的は達成された。もう地位の心配はせずともいい。それならば側近でなくても良いだろう。一定の距離を保った方がお互い楽だ」
「……そうですか」
声が震えた。頭の奥が熱い。
依夜に憎まれる事だけを考えていた。その憎しみの視線を自分だけに向けられる事を望んでいた。その目的は果たされたと言っていい。
それなのにどうしてこんなにも胸騒ぎがするのか。
ふいと視線を逸らし、依夜が静かに歩き出す。紅色の袿に金の髪が映え輝いた。いつかの薄桃の唐衣よりも、こちらの方がやはり似合う。
目を細めた。心持ちその袿の紋が輪郭をあらわす。どことなく見覚えのある……。
依夜が足を止めた。生成を見上げる。
「金の糸月の明かりに輝かば
「————ッ‼︎」
全身を雷に打たれたような衝撃が走る。この袿はまさか。
「覚えているか、夜桜の下で合奏をした事があっただろう」
答えは返せなかった。依夜がそらんじた和歌は、夜桜の下で生成が詠んだものだ。まさか覚えていたとは。
依夜は生成の返答など始めから期待していないとばかりに話を続ける。
「この袿は、その翌日にお前が贈ってくれたものだ」
目を凝らした先にうっすら浮かぶのは、向かい蝶丸の紋。
空を飛ぶものに憧れる依夜に鳥ではなく蝶を選んだのは、遠くに行けないからだ。その事を苦く思い出す。
「あの後色々あったからな。これまで一度も袖を通した事はなかったが……衣には罪はないと考え直した」
「趣味の悪い当てつけを……っ」
「お前がなにを奪おうとも、私は心の尊厳までは奪われるつもりはない。美しいものは美しいと認めよう」
真っ直ぐな瞳。何者にも侵されない気高さ。はじめて邂逅したあの瞬間から、妬ましいほどに眩しいその尊さ。
護るなどおこがましい。
(私は、間違えたのか)
もう何もかもが取り戻せないというのに。
「お前がわざわざ贈ってくれたのだから少しは似合うのだろう。今日は一段と褒められたよ」
小さな自嘲じみた笑みを浮かべ、今度こそ依夜は歩き去っていく。
その背が見えなくなるまで、生成はその場から動く事が出来なかった。
* * *
寝所である
昨晩、しばらく生成の
ただ、その音色だけは今も変わらず美しいままだ。力強くまっすぐ音を鳴らしたかと思えば、静かに儚く哀愁を帯び、星のように瞬く。その星はやがて空を流れる清流となる。
それは、ただ美しかった夜桜の下での合奏を思い出させるには十分だった。
生成の龍笛を美しいと思う。彼が選んだ袿もたしかに美しく、自分にも似合う気がする。その感情は間違いなく自分のものだ。たとえ生成が変わってしまったとしても、生成の事が憎くても、そう感じるのは事実。それを否定することは出来ない。
たとえ相手が自分を嫌っていようが、人格者ではなかろうが関係ない。美しいものは美しい。それは誰も、たとえ生成でも侵すことの出来ない依夜の心の内側だ。
だからそれを認めてみようと思ったのだ。生成がそのことにあれこれ突いてくるだろうことは予想できるが、そんなことは関係ない。生成の人格と龍笛の音色の美しさは同一ではない。同じと思うから苦しいのだ。
そうは思っても、いざ本人を前に宣言するのは背筋に震えが走った。努めて感情を出さないようにしたつもりだったが果たして上手くいったのか。
萌葱殿にたどり着き、視線を上げた。上げられた隣り合う
結界だ。昨日の昼間にはなかったはずだ。気がついたのは今朝。だとすれば、昨夜ここへ来た生成が施したものだろう。
(これのことは訊き忘れたな……)
なぜ生成がこんなことをしたのかはわからない。わざわざ施したからにはなにか理由があるのだろう。だが、自分を保つのに必死でそれを問いただす余裕などはなかった。
生成は依夜の生まれが気に入らないのだ。それはもう変えることが出来ない。本当に、期待など無駄なのだ。それがわかっただけ、ましだったのかもしれない。
(もういい、どうでも)
ただ自分の心だけは誰にも奪わせない。美しいものは美しい、憎いものは憎い。その想いは自分だけのもの。それだけを持って、もう————。
* * *
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