14. 執着

 静かに腕を降ろす。無駄にふらなければ鈴は大した音は立てない。しゃりしゃりとした音を鳴らし、やがて音が消える。

 右隣で舞っていた桜の方を見ると、彼女もこちらをみて笑った。花開く、愛らしい笑み。

 桜に軽くうなずきを残し、楽隊のいる場所へとはける。ここからは新しい神楽巫女の奉納だ。

 依夜の視線の先にいるのは白い影。生成だ。


「美事でした。もう見られなくなるのが残念ですね」


 小声で囁いた生成の台詞に鼻白む。いつかは来る事とはいえ、相手が生成だと思うだけで腹立たしい。

 生成が手に持っていた笙を差し出す。それを小さく舌打ちしつつ受け取る。


「別に舞いなどいくらでもする機会はある」

「でも、あなたはもう清らかな巫女ではなくなりますので」

「————っくそ」


 周囲に聞こえないように悪態をつく。全身が熱くなり、足元がふらついた。その意味がわからないわけではない。だが、考えようとすると吐き気がする。


「大丈夫ですか」


 その手を生成がすかさずつかむ。


「放せッ」


 こんな時にまで下らない暴言で依夜を動揺させてくるその神経が心底憎い。

 生成の手をふり払い無理やり姿勢を正した。中央では、桜が鈴を鳴らしながらゆっくりと動き出す。

 笙を構えた。息を吹き込む。

 輝く光のような音が流れ出す。それと同時にぴたりと合った龍笛の音が重なり、楽隊もそれに続いた。

 ただただ、美しい音が中央で舞う巫女を祝福している。もう依夜の巫女としての役目は終わったのだ。その事実に瞼が熱くなった。


 龍笛の音が依夜を包む。その音だけは変わらず優しいままだ。

 舞の間中、依夜はなにも考えず鈴の音と生成の龍笛の音を聞いていた。生成の龍笛は、悔しいが美しく完璧だ。依夜が合わせるのも、生成が依夜に合わせるのも容易い。


(生成はなにを考えているのか、わからない……)


 なぜ自分にこれほど突っかかってくるのだろうか。気に入らないなら離れていればいい。依夜の薬とて別に生成が調合せずとも良いのだ。神官として依夜の側近に命じられたとはいえ、雅ならば真実訴えれば配置換えをしてくれるはずだ。


(それは……わたしも……)


 真実願えば。


(わたしはなにを、望んでいる……?)


 神はなにも望まない。それならば自分は一体……。


 * * *


 神楽巫女退位の儀は、魔の出現や依夜の体調不良があったものの無事に終了した。

 生成は後片付けを終えて神殿へと戻り、依夜の薬を調合していた。症状を見て含有生薬の量を変更している。それを届けようと神殿を出た頃にはもう日が傾いていた。

 赤く染まりゆく空を見上げながら歩く。


 依夜は神の妻ではなくなった。あと十日もすれば自分の妻となるのだ。依夜にとっては苦痛でしかない道へと放り込まれる。

 哀れだ。はじめから優しく接したりしなければ良かったのだ。ご機嫌を取り、甲斐甲斐しく世話をしなければ良かった。そうすればお互いこんな苦痛を味わうこともなかったのに。

 鋭い痛みが胸を走った。茜に脇息を投げつけられた場所はまだ少し痛みが残っている。


『わたしの行きたいところはわたしが決めるのよ』


 遠い昔の幼い依夜の声が蘇る。

 そう言える立場が、その屈託のなさが、その真っ直ぐさが妬ましかった。全て生成が生まれながらに剥奪されたものだったのだから。

 その笑顔を曇らせてやりたい。そう思ってしまうほどには眩しかった。あの時あの場所で、出会わなければ良かったのに。


 渡殿を曲がり進む。依夜の暮す萌葱殿へ着いた頃には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。空の赤もほとんどが消えようとしている。


「誰か」


 御簾の中に声をかけると、女官が返事をする声が返る。その女官に紫上局を呼ぶように言付け、静かに待つ。

 今日はもう依夜も中にいるはずだ。


「ご苦労様です」


 御簾から壮年の女官が顔を出す。彼女は依夜と桜の乳母を勤めた後に、依夜付きの女官になった人物だ。生成も昔から知っているが、真面目で信頼できる。苦手な部類の人間ではあるが。

 外に出てきた紫上が、真っ直ぐに生成を見上げた。


「依夜姫のお薬ですが、本日より少し蒼朮ソウジュツを増やしました」


 蒼朮は発汗、鎮静、抗けいれん、利尿、健胃整腸などに使う生薬だ。水毒による浮腫やめまいの改善にも使うことがある。


「……理由は?」

「依夜姫の手が震えておいででしたので」

「そうですか。わかりました」


 依夜の気の病については彼女も承知済みだ。最低限の会話だけで伝わるのはありがたい。

 身体の震えはあまりいい兆候ではない。それが全身に及ぶ意識障害を伴う痙攣になる場合もある。先日、山吹殿の庭で依夜が魔と対峙し意識を失った時も、軽度な痙攣の症状が出ていた。周囲が薄暗かったのもあり介抱するふりをして隠すことができたが、雅あたりは気がついたかもしれない。

 あの時は薬を飲んでいないからだったが、飲んでいて震えが出ているのならば調合を変えなければならない。


「二、三日は念の為に様子を見ておいてください。私も気をつけておきましょう」


 紫上に薬を入れた袋を渡す。


「それから寝不足にはお気をつけください。調子が悪ければ宿直とのいは休まれる方がよろしいでしょう」

「伝えておきます」

「ありがとうございます。それでは、私はこれで」


 踵を返して二、三歩足を踏み出したところで紫上が生成を呼び止めた。ふり返ると、厳しい色をたたえた瞳と視線が交わる。


「やはり一言申しておきましょう」


 歩み寄ってきた紫上にため息をつく。良い話ではなさそうだ。


「あなたは、依夜姫をどうしたいのです」

「どう、とは?」

「あなたは依夜姫をいたずらに苦しめているように思えます」

「そうですか」


 そう言われても否定などできない。その通りだからだ。


「理由は察しますが、そのやり口は正しいとは思えません」

「理由などありませんよ。強いていえば、妬ましいからです。私から奪われたもの全てを持つ依夜姫が。私も祈冥聖きめいせいの、帝の血筋なのに」

「私を騙せるとお思いですか」


 紫上の瞳が剣呑に輝く。


「あなたたちは夫婦になるのです。この先は長い。それなのにこのままでいては……いいですか」


 紫上が一歩踏み出す。


「依夜姫をこのまま傷つけ続けるのなら、ただではおきません」

「あなたになにかできるとでも? 臣下とはいえ、帝の血筋の私を?」

「この身一つで済むなら、なんだってできますよ」


 そう言い放った紫上の声は真剣だ。彼女なら、依夜のためと思えばなんだってやるだろう。その覚悟が見える。


「あなたはその醜い性根を正す必要があります」

「ハッ……薬も調合し、側近としても真摯に勤めているのにひどい言われようだ」

「そんなもの他人に任せて依夜姫から離れれば良かったのです。原因はあなたの……執着のせいでしょう」

「————ッ」


 執着。そうだ、執着だ。そんなことなどわかっている。依夜に優しく接していた時から、いつか自分の存在が依夜を脅かすことなどわかっていた。それなのに側を離れなかったのは、執着していたからだ。妬ましくてたまらない、尊き姫に。


「なんとでも言えばいい。もう遅い」

「いいえ、まだ取り戻せます」

「勝手に言っておけばよろしい。あなたが寝首を掻いて下さるなら歓迎いたしましょう」

「生成殿! あなたのそれは、依夜姫をお護りできませんよ!」

「なにを仰っているのかわかりませんね。では」


 今度こそ紫上の声をふり払い萌葱殿をあとにする。


(わかったようなことを)


 いや、彼女はわかっているのだ。生成を醜いと評したのだから。

 まだ取り戻せる? なにを取り戻せと言うのだ。


(本当に、生まれて来なければ良かったのだ)


 こんな醜い人間など。そうすれば母も、依夜も、笑って過ごせたのだろう。だが生まれてしまった。だから彼女たちは幸せになれない。それすらも、神が赦したことなのだから。


 * * *

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