15. 闇

 そこは闇だった。

 自室に横たわっている依夜の身体は動かない。いつもはうるさいと思うほど女官がいるのに、今は誰一人見当たらなかった。

 ただ、依夜と闇だけが存在している。

 しんと静まり返った空間に、自分の胸の鼓動だけが響く。

 なにか酷い臭気が鼻をついた。


(なんだ……?)


 闇に目を凝らす。暗がりに沈む梁になにか黒いものが隠れている。

 ぼたり、となにかが落ちる音。その音に、本能的な恐怖を感じる。

 目が暗闇に慣れてくる。梁の上には、なんだかわからないぶよぶよした黒いものが広がっていた。

 それらは次々と梁から溢れ出し、下へと落ちていた。ぼたりぼたりという、水音にしては重量のある音。


「だれか! 誰かいないのか⁉︎」


 叫んだ声に返事はない。否、声にならない声が応えた。

 それは頭上の梁から聞こえたもの。

 びしゃっという音とともに、依夜のすぐ隣に赤黒い塊が落ちた。据えた金属の臭いだ。

 必死に身体を動かす。床に縫い付けられてでもいるかのように重い。なんとか横を向いた視線の先に、赤黒い影。それはぶよぶよと膨らんで蠢いている。


(————‼︎)


 悲鳴を上げそうになりのどが詰まる。ぼたりと背後にまたなにかが落ちてきた音。その音を確かめることなどできない。歯が噛み合わず耳障りな音をたてた。


「なんだ、これは……夢か……っ」


 夢。そうだ夢だ。こんな現実があるわけがない。


「そうですか? 本当に?」


 背後から急に歪んでひび割れた声がして、全身から一気に冷や汗が噴き出す。

 胸が苦しいほどに鼓動を打った。恐怖が全身を駆け巡る。ぼたぼたと落ちる音が加速する。依夜の目線の先にも次々に落ち蠢いた。


「これをあなたは望んでおられるのでは?」

「……ち、ちが……」


 夢だと思うのに動揺してしまう。背後にいるのはきっと————。

 依夜の肩に手がかかる。その大きさは、男のものだ。そっと肩へと視線を向けると、その手は暗がりの中に白く浮かんでいる。背後の男が依夜へと身を寄せた気配。首筋に息があたり、全身が総毛立つ。


「あなたが嘆き苦しめば良いのに」


 耳に吐息がかかるほどの距離で、低い声が告げる。


「あなたの中から私が永遠に消えぬよう、傷を負えば良い」

「なにを言って……」


 薄暗い乾いた笑いが耳朶を弄ぶ。


「これは私の血で、肉だ。ははっ————」


 囁かれた言葉に吐き気が込み上げた。視界に蠢く肉塊が映る。


「生成ッ」

「なんですか、依夜姫。私がおぞましいのか。そうだ、もっとだ」


 くつくつと笑う声に唇を噛み締めた。

 これは夢だ。全部でたらめだ。そう思うのに胸が痛む。


「もっと苦しんで下さい。苦痛で歪む顔を見せて下さい」


 肩から離れた生成の手が、依夜の首にかかる。後ろから両手でつかみ、絞めた。息が詰まる。


「……やめ、ろ……」


 その手を引き剥がそうともがくも、生成の手は吸い付くようにぴったりと依夜の肌に食いつき離れない。

 涙がにじむ。

 どうして自分はこれほど生成に憎まれているのだろう。一体なにをしたと言うのか。意識が遠くなる。闇に覆われた視界が、さらに深い闇に覆われた。

 ふっと身体が軽くなる。のどを息が通った。そう思ったのも束の間、めまいに襲われて思考が乱れた。

 低い話し声がする。


「……このままご安静に……」

「ありがとうございます」

「まだ効果が出……早い……を見ま……。それから結……はそのままで……」


 なにを話しているのだろう。ああ、それにしてもめまいが酷い。

 瞳を開く。薄暗い部屋。薄水の袿が見える。


(あぁ、わたしはまた)


 視線を上げる。そこには薄暗い中でもぼうっと光っているかのような白い顔と髪。

 袿を羽織っているだけなのは、休んでいたところを呼ばれたからに違いない。

 薄灰の瞳が無感情に依夜を見下ろしている。それを見ている事が出来ずに瞳を閉じた。

 衣擦れの音。


「依夜姫、気が付かれましたか」

「紫上……」


 そばに座したのは紫上局だ。もう薄水の袿は見当たらない。


「休んでおられた時に発作を起こされたのです」

「ああ……」


 本当に調子が悪い。これまでもなかったわけではないが、こんなに短時間のうちに繰り返すことは今までなかった。


「水をお持ちしましょう」

「いや、いい。……それよりも休ませてくれ」

「……はい。近くにはおりますから、なにかあればすぐ呼ぶのですよ」

「わかっている」


 紫上が立ち上がり、離れていく音。おそらく近くにはいるのだろうが、暗がりではその姿までは確認できない。そのことにほっと息を吐く。

 慣れ親しんだ者とはいえ、側に誰かがいるのは気が疲れる。


(嫌な夢だった……)


 神楽巫女退位の儀でまた幻覚を見た。昔の、優しかった頃の生成を。そして、その生成が闇に呑まれていく幻を。真っ白な肌に落ちる黒い染みがあっという間に広がって、魔と化し依夜を襲った。

 その上、悪夢を見て発作を起こすなど。生成に、助けに来てもらうなど。


(生成は……魔に呑まれたのか……?)


 優しかった生成が、あんなに急に依夜を突き放したのは魔に呑まれたから。そうだったら良かった。

 だが生成は魔に憑かれてなどいない。正気だ。その事実が重くのしかかる。

 呼吸が苦しい。薬はちゃんと飲んだというのに。


(眠れていないからか……)


 ここ最近はずっと眠れぬ夜を過ごしていた。婚姻の儀を目前にして、安眠などできるものか。

 寝不足に気をつけろと伝言して行った生成に余計に苛立ちが募る。眠れないのは誰のせいだというのだ。それをわかっていて、あんな伝言を残したとしか思えない。

 しかし体調が優れないのは確かだ。悔しいが宿直はしばらく休むしかないだろう。

 もうなにも考えたくない。そう出来たらどんなに良いだろう。いっそ……。


(わたしはどうしたいのだろう……神が全てを赦されているなら、なにを)


 こんな人生から逃げて全てを終わらせることだろうか。それも赦されている。それとも生成を徹底的に攻撃して負かしてしまうことだろうか。それすらも赦されている。

 真実望めば、生成と離縁することも叶うかもしれない。反対になにもかもを諦めて、苦しみながら生きていくことも出来る。それならばなにをする?


(わたしは、確かめたい)


 生成の本心を。どうして依夜を攻撃し、憎ませるのかを。そうでなければ、この悪夢は終わらない。これからも一生続く。

 確かめてからでもいい。全てを終わらせることなど。依夜も生成も神子みことして臣民を護らなくてはならない。その力があるのだから無意味に命を投げることはできない。

 だから終わらせるのは、最後の手段だ。もがいて苦しんで醜くあがいてもどうにもならなかった時の。

 かつて依夜に優しく接してくれた生成も、本心ではなくとも彼自身だ。今でも依夜以外には当たりがよく優しい。それは彼の一部のはず。


(ああ、この後に及んでわたしはまだ……期待していたのか)


 生成に苛々させられ、傷ついてしまうのはきっとそう、優しかった頃の生成に戻らないかと期待しているのだ。それが否定されるのが苦しかった。

 もう戻らない、それを受け入れなくては。生成も自分も、もうあの頃とは違うのだから。

 依夜に原因があるならそれもぶつけてもらうべきなのだ。一方的に攻撃されて苛立っているのはもう嫌だ。夫婦になる運命から逃れられないのならば、なおさら。


 ぬるい闇が依夜を包む。 

 どこからか風に乗って龍笛の音が流れてきた。脳裏に満開の桜と星空が浮かぶ。この世で最も美しいと感じるその音。


(ああ……どうしてこの音を美しいと思うのだ。どうして憎めない……)


 胸が詰まり、のどの奥とまぶたが熱くなった。知らず涙が溢れる。

 一体いつ、なにを間違えたのだろう。それとも、ただこの存在が許されないものだったのだろうか。


(大神よ、わたしは)


 初めての感情が胸の奥にわき起こる。


(全てをただ赦すだけで救わないあなたが、憎い————)

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