13. 結界

 依夜の様子がおかしい。それは巫女舞が始まってからしばらくしてからのことだった。

 それまで切れよく鈴の音色を鳴らしながら、身体を大きく動かし舞っていた。それなのに、なぜか途中でその勢いが落ちたのだ。


 一見普通に舞っているようではあるが、その表情には力がない。よく見えない生成にとっては勘のようなものだったが、依夜は今、文字通り心ここにあらずになってはいないだろうか。

 やがて動きが緩慢になり、ついには止まってしまう。眼前の何もなく誰もいない空間に向けてなにか小さな声を発した。


(まずいな、気の病が出ているのか? まさか薬を飲んでおられないのか)


 周りからは、依夜が途中で舞をやめてぼーっと突っ立っているように見える。楽隊もちらちらと演奏を止めるものが現れ始めた。皆一様に戸惑った表情だ。

 同じように生成を見上げてきた琵琶の少女に、続けるように目配せする。こくりと頷いた少女は琵琶の演奏を再開した。


「依夜殿には神が見えておられる!」


 声を張ると、場の空気が一瞬で高くなったのがわかった。神官たちの顔が引き締まる。楽を続けるよう促すと緊張した面持ちで皆演奏に戻る。

 端から舞台を見守っていた神官長の雅も頷き、外へと早足で出ていく。帝の前に膝をつき報告をしているようだ。

 依夜へと近づく。


「依夜殿」


 声をかけるが返答はない。覗き込んだその顔は、ゆるやかな笑みを形作っている。


「————……っ」


 それは生成が最もよく見た、そして自分が壊してしまった少女の笑みだ。

 その唇が動き、小さな声で生成の名を呼んだ。そのことに、頭を殴られたような痛みを覚える。

 その声色は少し弾んでいるようにも思えた。そう聞こえた自分に吐き気がするほどの嫌悪感を覚える。

 今更なにを。今の関係を望んだのは自分の方だったのに。


「依夜殿。なにが見えておられるのです。しっかりなされよ」


 周囲に聞こえぬよう低く声を放つが、反応はない。


「……ッ目障りだそのような顔を私に見せるな」


 自分を憎んで、怒りを向けていればいい。この先もずっと。そうすれば……。


「依夜殿‼︎」


 不意に依夜の顔が曇る。一瞬声が届いたのかと思ったが、依夜の瞳は生成を見ない。そのことに苛立ち、依夜の手首をつかむ。


「来るな……」


 一歩後ずさる依夜。その瞳はそこにいるはずのないなにかを恐れている様子だ。


「依夜ど……ッなんだ⁉︎」


 鼓膜を耳障りな異音が貫いた。全身に悪寒が走る。魔の気配だ。しかも、先日取り逃した生霊の‼︎


「こんな時にッ‼︎」


 がくには魔を封じる力がある。止めないよう楽隊に指示を出し、帝の方へと瞳を向けた。帝の周りには神官たちの白い狩衣が見える。細長いなにか、おそらくは刀を持っているのは雅だろう。

 魔の気配が近づいてくる。


「依夜殿、目を覚ませ! 帝を、あなたの兄上をお守りしろ‼︎」


 肩をつかんで揺さぶる。


「来るな、やめろ!」


 おそらくは神ではないなにかを見ている依夜が生成の手をふり払おうと身をよじる。


「依夜殿‼︎ チッ」


 いまだ正気に戻れないでいる依夜を離し、その前へと出る。懐から扇子を取り出した。ひらりと広げたそれには簡易結界を貼るための術式が書き込まれている。


「来たか」


 ざわめきが大きくなる。帝が上を見上げた。


「天に在りて我らを赦せる神よ、我は天の護りを乞い願ふ。我にその光通し障壁を成し給え」


 生成がしゅを唱え終わると同時に、怒号が響いた。帝の真上から黒い影が堕ちてくる!

 神官たちに庇われ地に伏した帝の上を雅の刀が一閃した。刃から放たれた退魔の力が魔に迫る。

 魔が咆哮を上げた。その影が膨らみ弾け飛んだ。周囲に広がった黒い粒がおぞましい虫の集団のようにうごめき、神官たちの間を縫って紫神殿へと飛び込んで来る。あっという間にそれはまた一つになり、真っ直ぐに生成へと向かってきた。


(帝を狙っているのか、それとも……)


 琵琶の奏でる音色が変わった。その退魔の力を含む音に魔が一瞬減速する。それでも、生成との距離は人なら五歩ほど。

 強烈な殺意が生成を襲う。心臓を握りつぶされるかのような圧迫感。

 身を焼かれるような憎しみと怨みの念が、生成を焼こうと手を伸ばす。同時に、ある疑念が生成の内にわき起こった。

 この魔が狙っているのはもしや————。


(だが、ここを通すわけにはいかぬ)


 扇子をふる。


煌々輝月令コウコウキゲツリョウ!」


 呪を発動させる。退魔の力を持たない生成が得意とするのは結界。生成と魔の間に、魔を避けるための障壁が展開した。ただ人には見ることすら出来ないその障壁に、勢いよく突進してきた魔が止まれずにぶつかる。

 声にならない叫び声が魔から発せられた。


「捕縛!」


 腕を伸ばす。結界の表面がしなり魔を覆うように形を変えていく。結界の中に閉じ込められればなんとかなるかもしれない。

 魔の抵抗が捕縛を阻む。


(強い……!)


 楽の力も後押ししているのに力が拮抗し魔をなかなか捕縛できない。


「——生成ッ!」


 鋭い声が背後から飛んだ。依夜だ。正気に戻ったのだろう、鈴の音が鋭く鳴った。背後から捕縛結界を後押しする光が押し寄せる。

 魔の咆哮。


「ッあ————」


 生成の横で依夜が膝を付く。その額には脂汗が滲んでいる。


「依夜殿ッ」


 気が逸れたその一瞬。魔が結界から逃れるように霧散した。しまったと思ったその瞬間に琵琶の音が鳴り、魔がその音に弾かれ生成の頭上をこえる。そのまま耳障りな音と共に後方から外へと飛び出し、一つに戻りながら逃げていく。


「くそっ追いかけ……」

「危ない!」


 立ちあがろうとした依夜がふらついた。前のめりに倒れようとしたところを抱き止める。怪我などされてはここにいる意味がない。望もうが望むまいが、自分は依夜の臣下なのだから。

 魔の発する耳障りな異音が小さくなり、消えていく。


「放せ、魔が……」

「逃げました」


 異音は消えた。害を成す意志はひとまずなくなったようだ。

 依夜を支え立たせる。


「加減がお悪いのか? 薬は」

「飲んでいる。効かないようだけど。放せ、もういい」


 生成をふり払った腕が小刻みに震えている。すぐにおさまったものの、匙としての知識が警告音を鳴らした。

 この震えは良くないものだ。鎮めた方がいい。顔色は幾分良くなっているようだが、油断は出来ない。


(しかし飲んでいてこれか。量を調節しなければ)


 ごまかしもどこまでできるかわからない。依夜に視えているものがなんなのか、知られない方がいいだろう。依夜には神が視えている、それでいいのだ。


「お前たち、無事か?」


 まだ抜刀したままの雅が走り込んで来る。


「はい、それよりも兄上……帝は⁉︎」

「大事ない。可能ならば退位の儀を続行したいと申しておられる」

「——っ兄上」


 沈んだ声。依夜にしてみれば退位の儀を中断したかったはずだ。そうすれば少しなりとも婚姻の儀を先延ばし出来るかもしれない、そんな思いがあったのだろう。


「桜の宮中を見回るように神殿には伝達した。紫神殿は、依夜が退魔の光を降ろして魔の触りを浄化して欲しいとのことだが」


 雅の退魔の力は、刀を媒体に発揮される。つまり、範囲が狭いのだ。依夜のように直接天から光を降ろし広範囲を一度に祓うことは出来ない。

 それだけ、依夜の力の強さがわかるというもの。


「体調が悪ければ私がやろう」


 雅では少し時間がかかる。それでも危なげなく遂行するだろう。


「……帝の仰せなら従いましょう」

「依夜殿、体調は」

「大事ない」


 言葉とは裏腹に、唇を引き結んだ表情はかたい。


「わかった、では頼む。生成、桜、お前たちも依夜を手伝ってくれ」


 雅が琵琶を弾く少女へ声をかける。少女——桜は、頷いてまた演奏を変えた。その音色は退魔の力をまとって淡く発光し周囲に漂い出す。


「……わかりました」


 依夜の後ろへと下がり、龍笛を構える。琵琶の音に合わせて息を吹き込んだ。

 この世で最も美しい、夜空の清流のようだ。満開の桜ごしに星を見上げてそう評した声が蘇る。

 これが清流なものか。最も醜い心が生み出すものがそんなもののはずがない。生成の目には星など霞んで見えないのだから。


 依夜が前に差し出した鈴をふる。しゃんと鳴った音と共に鈴を持った右手が平行に滑った。上半身も遅れて右へと向き、そのまま一回転してまた鈴を鳴らした。

 依夜が息を吸ったのだろう、背中が大きく動いたのがわかった。


「見上ぐ碧————」


 真っ直ぐで鮮烈とも言える依夜の声が周囲を震わせる。その声にぴたりと龍笛の音が合う。

 造作もない、依夜に合わせることなど。龍笛の音色だけならば。ままならないのは、己の心だけだ。


 頭上から退魔の光が降りてくる。屋根など関係ない、それは神が降す力。

 光が紫神殿だけではなく庭をも包んだ。


真中まなかを貫き飛ぶ鳥よ」


 しゃんしゃんと鈴を鳴らしながら依夜が跳ぶ。外は快晴だ。絵画のように切り取られた青空を鳥が飛んでいくのが見えた。

 鳥は自由で良いなと空を眺めたことがあった気がする。あの時の依夜は、笑っていた。


「心うし我ぐしゆきたまへ」


 光が消えると、清涼な風が吹き抜けた。魔の穢れは祓われたようだ。

 静かに動きを止めた背に合わせて演奏を終わらせる。少し息が乱れている様子だ。その背中がいつもより小さく見える。


(は……馬鹿馬鹿しいことを……)


 鳥に向かって連れて行け、などと。本当に、気に触ることしか言わない女だ。

 桜が立ち上がる。その琵琶を近づいてきた神官が受け取り、代わりに鈴を渡した。それを確認し、他の楽隊のところまで下がる。


 桜が依夜の横に並び立つ。退位する巫女と、これからを担う巫女。その代替わりを象徴する神楽を神へ奉納するのだ。

 二人の姿はぼやけている。瞳を細めてみたものの、月明かりのような金の影にしか見えない。所詮よく見ることはできないのだ。誰も。心も。


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