参ノ歌 見上ぐ碧真中を貫き飛ぶ鳥よ

12. 退位

 四方の御簾みす蔀戸しとみども家具も全て取り払った紫神殿ししんでん。いつもは帝の公務の場である寝殿は今、巫女舞のための巨大な舞台となっていた。

 うちぎ姿でもなく、狩衣でもない。今の依夜は、白小袖と緋袴の上に千早ちはやを羽織った神の妻としての姿だ。依夜にとっては最後の。


 舞台に立つ依夜の左右には楽隊が居並ぶ。紫神殿の庭には席が設けられ、その中央に帝である兄の姿が見えた。柱に切り取られた四角いその光景は、まるで絵のように厳かだ。向こうから見た依夜も、おそらくそういう風に見えているのだろう。


 いつかこの日が来ることはわかっていた。わかっていたが、見たくない現実だった。巫女装束を着て、髪を結われながらどれだけ逃げ出したいと思ったことか。それでも逃げられなかったのは、己の立場ゆえだ。なにより、兄の顔に泥を塗ることなどできるはずもない。

 神はなにも望まない。ただ全てを赦し愛しているだけ。神に従わないこともまた赦されている。許してくれないのは人なのだ。


(……虚しいな)


 なにもかもが色褪せて見えるようだ。

 目の端に白い影が映る。この世のものではないような、真っ白な手が横から差し出された。その手には、依夜のしょうが乗せられている。

 笙を手に取ると、白い影——生成の気配がすっと左斜め後ろに下がった。


 楽隊とは別に、依夜のそばで楽を奏でる人物を選択するのは退位する巫女自身だ。自分が笙を奏でる時、最も美しく合奏できるのは誰なのか。忌々しいことに答えなど最初から決まっていたようなものだ。

 生成以外を指名することは可能だった。だが生成以上に依夜の笙とぴたりと合う演奏を出来る楽師を知らない。生成以上に美しい龍笛りゅうてきの音を鳴らせる者も。


 そっと笙に口をつける。吹き込んだ息が光のように周囲に広がる。その音に導かれるように、依夜の周囲が淡く光る。常人には見えない、神の慈愛の光だ。

 同時に清らかな龍笛の音が笙を追い、二つの音が絡み合う。まるで違う旋律を奏でているようですらあるのに、その音色はお互いを高めあう。


(なぜ、こんなにも美しいのか……)


 生成の顔など見たくもないのに、その音色は聴いていたい。その矛盾した想いに毎回苦しめられる。

 口を開けば、暴言とも取れるような手酷いことしか言わないのに、龍笛の音はどこまでも清らかで優しく、そして美しい。そのことに胸が締め付けられた。


 皆、この音色を生成だと思っている。真実、生成の龍笛は誰よりも美しい。そして生成自身もまた、依夜以外の誰にでも優しい。生成の本性に気が付けと言う方が無理な話だ。

 紫上局しじょうのつぼねは依夜が騙されていたことを訴えたため事情を知っている。だが、それでも彼女はどちらかというと生成を評価している節がある。

 二人が言い争っている場を目にしたことのある雅はどう考えているだろうか。雅は嫌い合っていることは知っているが、生成のことはかなり評価している。それに、雅にその本性を見せているわけでもないだろう。

 誰も気づかない。依夜を騙していたなら、騙したままでいてくれれば良かったのに。

 そうすれば今の気持ちも違ったはずだ。


(このまま消えてしまえたら良いのに)


 そう願う依夜の身体を、空間を龍笛の音が走る。天と地の間を翔ける龍を現す音。神の遣いの軌跡が天上からの光を受けて輝いている。

 その光景が、依夜の意識を引き止めた。

 この舞台から降りれば、もう後戻りすることはできない。

 笙と龍笛の音が重なり合い、響き合う。この美しくも儚い、それなのに強さを思わせる音色。依夜の身体の隅々まで透明にしてしまうような……。


 龍笛の音が依夜の笙とぴったり重なる。一切のずれすらない。まるで手に取るように龍笛の音色が、その光がわかる。それがより一層、虚しさを感じさせた。

 なにもかもが透明になる。思考も、しがらみも、悲しみも、数少ない喜びも全て。ただ美しい音と一つになって呼吸をする。その度に新たな音が生まれて空間を満たした。


(あぁ、もう全てどうでも良い)


 美しく清らかな音に身を任せる。もうなにも考えたくない。この舞台から降りた後のことなど。

 神々しい光が周囲を舞う。その光に導かれるように、笙が柔らかく繊細な音を響かせた。それを龍笛が受け止めて清らかな流れに乗せていく。

 やがて二つの音が静かに、静かに消えた。


 笙から口を離すと、すぐに生成の手が差し出され笙を受け取る。

 しゃらしゃらと光のようであり、水の音でもあるような清らかな音が背後で鳴る。それを合図に振り向くと、生成の姿。その手には、三段の輪に計十五の鈴が付き、持ち手の下に五色の垂れ布が付いている神楽鈴が持たれている。


 そしてその横に、琵琶を抱えた幼さの残る栗色の髪の少女が進み出る。齢十二だっただろうか。栗色の髪からわかる通り神子みこだ。さして力の強い神子ではないが、貴重な退魔の力を持つ神官の一人だ。鈴鳴家の姫で、この歳で琵琶の名手だ。

 依夜の乳母である紫上局が、依夜の後に乳母として育てた姫でもある。


 彼女は依夜と同じく巫女装束をまとっている。まだ幼いせいか琵琶を抱える姿が妙にほほ笑ましい。その姿に、少しだけ心が安らいだ。

 依夜の気持ちを察したように、少女がふわりとほほ笑む。まるで桜の蕾が花開くかのような愛らしい笑み。


 生成が床に片膝を付き、鈴を頭上に掲げ差し出す。それを受け取り、前へ向き直った。

 背後で少女の座する音がし、すぐに哀愁漂う琵琶の音が始まった。まだ十二だとは思えない、色香の漂う音。

 鈴を持った右手首をふる。しゃんと鳴った音を合図に腕を大きくふり身体をひねる。その後を追いかけるように龍笛が鳴り、三つの音が重なる。

 大きくなり、うねる音が一つになる。腕をふるたびにしゃんしゃんと鳴る鈴の音すら楽器の一部だ。


 左右に控えていた楽隊がそれぞれの楽器を構える。まず篳篥ひちりきが長い音を出し、それを追うように笙、そうの琴、葦笛あしぶえ、太鼓が列に加わり依夜の身体を押す。

 楽の流れるままに身体が動く。身体を動かしているのが神か自分か、生成か、それとも楽隊なのか、誰の意思なのかもわからない。しゃんしゃんと鈴が鳴るたびになにもかも遠くになる。ただ、身体の動くままに舞い、跳ね、鈴を鳴らす。


(神よ、大神よ……わたしは退位しなければならない。あなたはそれも、もう赦していらっしゃる)


 なにも望まず、ただ全てを赦す神。


(あなたが命じてくだされば良かったのに)


 神が神楽巫女を退位して生成と婚姻を結べと、そう望んでいると直接言ってくれたら神を憎めた。どうしようもない感情の行く先があったなら、憎みながらもその命に従っただろう。

 それなのに依夜の見る神はそうしない。なにも望まない。ただ赦しているだけだ。神託と言いつつ人の意思の入っているであろう命ですら。


 しゃんとひとつ鳴るごとに意識が遠くなる。まるでもう一人の透明な自分が、神楽を舞う自分を背後から見ているような奇妙な感覚。

 身体は動き続ける。だがその身体の中に依夜はいない。

 右を見れば、琵琶を一心に弾く少女の姿。その様子さえ愛らしいのに、そこから出る音はなんとも言えない哀愁と艶やかさ、そして強さを含んでいる。

 左を見る。生成だ。龍笛の上を走る白い指。その瞳は、舞い続ける依夜をとらえている。


(————……⁉︎)


 その表情は、柔らかく優しい。依夜が長く親しんでいた者の顔だ。


(どうして)


 視界が揺れた。喉の奥が熱くなり、慌てて唇を噛み耐える。

 なぜ、そんな顔をしているのだろう。いつものように依夜を睨みつけ、嫌悪に満ちた表情をすれば良いものを。

 鈴が鳴る。昔はあんな優しい顔をして、笑いかけてくれていた。鈴を鳴らす。わたしを嫌いだと言ったのは生成の方だ。鈴が鳴る。わたしは騙されていた。鈴が続けざまに音色を奏で、龍笛がその鈴の音を拾い上げ天上へと運ぶ。


(わたしは、生成から憎まれることを望んでいるのか……?)


 もし、あのまま生成が嘘を貫き通していたなら、きっと依夜の気持ちは違っていたはずだ。

 力強い琵琶の音が鳴る。

 今の生成の気持ちなどわかっている。依夜のことを気に入らない姫だと嫌っていると。自分の地位の安定のために利用していると。


 だから自分も嫌い返したかった。憎んだ。そうしなければ耐えられなかった。あんなに慕っていた青年に手をふり払われたことに。

 窮屈な桜の宮での生活で、唯一屈託なく笑い合える人だったのに。ずっと騙していてくれれば良かったのにそうしなかったのは、それほど依夜のことが気に入らなかった、耐えられなかったのだろう。


(わたしはなにをしたのだろうか)


 わからない。舞い続ける自分の身体を他人事のように眺め、息を吐く。もう一度生成を伺うと、その視線が身体ではなくこちら側へ——依夜の意識の方へ向いた。見えるわけではないのだろうが、なにかを感じたのだろう。その瞳が一瞬細まり、表情が険しくなる。

 すぐに視線はそれたものの、その顔は険しいままだ。


(そうか……そうだな)


 今更なにを考えたところで、もう遅いのだ。騙し続けて欲しかったといくら思っても戻れるわけもない。

 楽の音に集中する。その美しい旋律に。


『依夜姫』


 柔らかい声が依夜を呼んだ。それはもう聞くことがないだろう遠い昔の、生成の声。

 鈴を鳴らす自分の向こう側に、懐かしい青年の姿が見える。


『生成。どうした?』

『いえ、今日はとても良い天気だと思いまして』

『そうね。桜も満開だし、空の色に映えてとても、美しい』


 見上げた視界には、満開の桜。まるでこの世のなにもかもを祝福するかのような絢爛な、それでいて儚い花びら。


『ええ。それに、今夜は満月です。夜桜などいかがかと思いまして』


 ほほ笑んだ生成がこちらへと手を伸ばす。


(あぁ、こんなこともあったのだな……)


 それに答えようと一歩踏み出した瞬間に、身体へと意識が戻る。それでも、目の前の生成の姿は消えていない。

 差し出された手のひら。それは、生成の内側がどうであれ依夜にはまだ優しい。


『喜んで。合奏もしよう、きっと美しくなる』


 その通り美しい夜だった。とても————。


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