8. 穢れの痛み
空気を震わせる鳴弦の音が身を切るように響く。弓を構えた大勢の神官たちが山吹殿を背に庭に居並んだその先に、魔はいた。
(————っ)
真っ黒な人影。歪な形をしているものの、かろうじて人型だと思えるような闇。その闇の発する不協和音と、肌を犯していくかのような不気味な殺気に息を飲む。
夢が蘇る。生成を呑み込み、依夜を手にかけようとして来た闇。その闇がそこにいるかのような錯覚を覚えて、知らず身震いする。
あの闇が、魔が今生成を呑んだらおしまいだ。今依夜は生成の腕の中なのだから。
その闇の向こう、外壁の近くに楽隊が陣取り魔を封じる楽を奏でている。依夜が命じたように、琵琶が多めに見えた。
これは感覚だ、説明出来るものではない。あの魔はなんとなく、琵琶で足止めするのがいいと感じる。龍笛や篳篥も効くが、笙の効果はいまいちだろう。
魔は鳴弦と楽の音に動きを阻まれ、憎々しげな殺気を放っている。
「なんだこの圧は。あれか……?」
薄暗くなってきた周囲を照らすために数人の神官が松明を手にしている。それでも弱視である生成にははっきりと見えていないのだろう、目を凝らしているのが見えた。魔の気配からおおよその場所はわかるようだが、微かにずれている。
「そうだ」
生成の指に力が入った。依夜の腕を痛いほどに締め付ける。
「距離は」
「池の淵にいる。橋の辺りだ」
依夜の言葉に、生成は視線をわずかにずらす。気配と合わせて、魔に焦点が合ったのがわかった。
「これほどの魔が、一体どこから……」
依夜に言っているのではない、純粋な生成のうめき。周りの神官たちの顔も引きつっている。
(確かに、これほどの強い気をまとっているのなら、桜の宮に接近して来た時点で気がつくはずだ……)
胸騒ぎがする。
もちろん、魔は外からやってくるだけではない。先日のように、身近な人物から恨まれ魔が生まれることもある。身分でがんじがらめにされ自由もないこの桜の宮で魔が生まるのはむしろ自然だ。だからこそ、神殿を宮の中に抱えているのだから。
「依夜姫。めまいはまだ続いておいでか」
「少し……だが心配は要らぬ」
身体が重いのは変わらない。相変わらず泥のようだ。吐き気はおさまったが、腹の中はかき回されたかのように気持ちが悪い。それでも、少しずつ容体はましになっているのがわかる。
生成の指にさらに力が入った。
「私も龍笛を。降ろしても?」
「問題ない」
ここで足手まといになるわけにはいかない。どうあっても自分の足で立たなければ。
魔が言葉にならない声を発した。その慟哭に胸が刺されたように疼いた。
(あれは……)
足をゆっくりと降ろされる。ふらついたものの、生成の狩衣をつかんで耐えた。
「生霊だ」
「……そのようですね」
依夜の腕を引き、支えながら生成も頷く。その目は魔だけを見つめている。
依夜がしっかりと立ったのをちらと確認すると、すっと前へ出た。懐から龍笛を取り出す。
「あとは頼みましたよ、依夜姫」
「言われなくても……ッ」
自分はこのために生まれてきた。魔から臣民を護るために。
——じゃあ、お前は誰が護るの?
周りの風景が消えた。
どこまでも続く真っ暗な闇。その中にあって、なお闇の深いものが、そこにはいた。
女だ。醜くその形を崩しながら、依夜に手を伸ばす。
まるで、母親のように。
——お前は他人を護るけれど、お前を護る人は居ない。夫とてお前などただの道具としか見ない。お前は傷つけられ、尊厳を奪われてなお護ることを強要される。
「————ッ」
それを違うとは言えない。そうだ、そうなるだろう。それ以外の未来など来ない。
——わたしにはお前の気持ちがわかる。だから一緒にそんなもの壊してしまおう。良い提案だろう?
闇としてしか認識できない魔が、にたりと嗤ったのがわかった。薄く張り付く不気味な笑み。
「わかる? お前のような魔にわかるものか!」
この世は美しいと思っていた。それが砕かれた時の痛みは、この魔と似たものかもしれない。憎いものは山のようにある。
それでも釣殿から庭を見れば心が安らぐ。神官として町へおもむけば、弾けんばかりの笑顔に力づけられる。兄も、母のように思う紫上も大切だ。
護りたいものだって山のようにあるのだ。
高く澄んだ龍笛の音が依夜の周りを跳ねた。
(生成か……ああ、気に食わない……)
こんなにも美しい音色を奏でることが。これまで聴いたどの音よりも美しい事が。
——我が夫はわたしを踏みにじった! お前もそうなって良いのか!
「それがお前の恨みか……」
世界に色が戻る。目の前に生成の背が見えた。その向こうの魔に視線を移す。
慟哭を上げた魔がこちらへ踏み出そうとするものの、生成の龍笛の音に阻まれ足踏みをした。
それでも手を伸ばす。その姿は、己の不幸に執着する醜い女の姿だった。
(哀れだ……)
こんなものを返されれば、ただでは済まないだろう。これは依夜の行く末なのかもしれないと思うと胸が痛む。それでも、祓わねばならない。依夜が護ると決めたものを護るために。
楽隊の音は遠い。それでも、生成の龍笛はよく聴こえる。
脳裏に言葉が浮かぶ。胸がむかむかする。めまいで一瞬平衡感覚がわからなくなったが、唇を噛み締めて耐えた。
息を吸い込む。胸がきりきりと痛んだ。
「貝覆い勝ることは、叶えども……ッ」
常人には見えない光が天から降り注ぎ、魔を包んだ。依夜の退魔の力だ。その中で身をよじり、魔が咆哮を上げた。その圧が走る。
生成の龍笛が乱れた。
悲鳴。
鳴弦を行っていた神官数人が胸を押さえて倒れる。魔の邪気に当てられたのだ。
「はぁ……は……」
息が上手く吸えない。依夜も当てられたのか、胸が苦しい。ますます呼吸が乱れる。
「合はせられぬは、……」
冷や汗が吐き出す。あと一息。それなのに。
魔の形が膨らんだ。
——お前を助けてやれるのは、わたしだけだ。
ひどく醜い声が頭の中に響いた気がした。意識が朦朧としてくる。
「我が————」
「刀を貸せ!」
鋭い声が背後からした。あれは雅の声だ。
依夜の横を刀を引っ提げた雅が走り抜ける。その刀に退魔の力を宿して使うのが雅の力だ。
振り上げた刀が、天上からの光を受けて輝く。その切先が魔を捉えようとした瞬間に、魔はどろりとその姿を崩した。
「————⁉︎」
雅の刀を交わし、地を素早く這いながら魔が真っ直ぐにこちらへと向かってくる。早い、避けられない‼︎
どこにあるかもわからない魔と眼が合い身体が硬直する。
「ッ危ない‼︎」
魔の接近を感知したのだろう、生成が踵を返した。一足跳びで依夜の身体を抱きしめるように掬うと横に転がった。視界が反転し、衝撃に息を詰まらせる。
数名の悲鳴が上がり、やがて周囲から音が消える。
「逃げられたか……」
込められていた力が抜け、依夜を解放する。身を起こした生成が、依夜の手を引き身体を起こすのを手伝ってくれる。
立とうとしたが身体が重すぎて足が上がらない。起こしてもらった上半身も揺れ、簡単に地に伏しそうになってしまう。ただ生成と繋がった手だけがそれをとどめていた。
(逃した……?)
そうだ逃げられたのだ。もう不協和音は聴こえない。それほど遠くに逃げたか、もしくはその力を隠したのか。どちらにしても、逃したというその事実が胸にのしかかる。
来るなと言われたのに生成の手を煩わせてまで来た。それなのに逃すなど。
体調が悪かった、魔の力が強かった。そんなものは言い訳だ。逃すくらいなら来なければ良かったのだ。
胸が痛む。まるで針を刺されるような鋭い痛み。
「お怪我は」
頭上から降る生成の声。その顔を見ることが出来ずにうつむく。握られたままの手を引くが、生成は離さない。
「依夜姫、大事ありませんか」
少し苛ついて尖った声。
「……」
あまりにも情けない。
「——大丈夫だ」
「そうですか。……神官が数名魔の気に当てられて倒れたようです。魔の障りはこの場で祓います。すぐにでも休んでいただくべきですが、祓うまでは辛抱なされてください」
「わたしが……」
「あなたには無理です。障りを祓うくらいならば他の退魔師でもできます。清藍殿もいらっしゃる」
なんの役にも立たない。そう言われても反論は出来ない。
「依夜姫。参上が遅れて申し訳ありません」
雅の声だ。うつむいた視界に、雅のものらしき白い袴が映った。
「障りはすぐに祓いますゆえ、お気を確かに」
そう言い残し、雅の気配が離れていく。慌ただしく交差する足音。やがて近くに移動してきただろう楽隊が、荘厳な音色を響かせ出した。
少しだけ顔を上げると、楽に合わせ乱舞する雅の姿が映った。清められているからなのか、その舞はいつにも増して美しい。その手ににぎられた刀が、空間を裂いて魔の穢れを祓っていく。
胸のむかつきが幾分かおさまる。やはり障りを受けていたらしい。
(あぁ……わたしも、少しくらいなら……)
息をできる限り整えた。そして口を開く。
「貝覆い勝ることは叶えども」
弱々しいものの、再び天上から神の光が依夜を中心にして降り注ぐ。その光を受けて、雅の剣が輝いた。
「合はせられぬは、我が背なりけり……」
刀身が光を反射し、四方へと広がる。その光の中には、薄灰の二つの瞳。その瞳は、相変わらず忌々しげに依夜を見下ろしている。
光が走るたびに周囲の空気が正常になる。魔の障りに当てられていた人々も、無事に動けるようになったようだ。
それを確かめて、依夜はどこか遠くへ引き摺り込まれるように意識を手放した。
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