9. 赦し
ああ、嫌だ戻りたくない。意識の浮上の
際限なく広がった空間。そこにはなにもなく、そして全てがあった。
しかし、そこから情け容赦なく意識が浮上していく。引き込まれるように意識が身体へ引き寄せられ、その狭い入れ物に閉じ込められた。
途端にひどい頭痛とめまいを感じ呻き声をもらす。
目を開くと、薄暗い室内だ。
「お気づきになりましたか」
低い声。視線を向けなくともわかる。今一番聞きたくなかった
「魔の障りはあなたと
「そう……」
それに良かったと安堵する余裕はない。頭が痛い。横になっているのに身体がぐるぐると回っているようで気持ちが悪い。
「ここは……」
「山吹殿です」
「……っ」
婚姻の儀が行われる場所。この中へ入ってしまえばもう逃げられない。その象徴のような場所。
目にもしたくなかったところに今いるなど。しかも生成と。
「最悪だ……」
「ええ、そうでしょうね。私も同じ気持ちです」
忌々しげに吐き捨てられた言葉に、胸の奥が疼いた。同じような状況なのに、今と昔ではあまりにも気持ちが違う。
いや、生成の方は昔から同じ気持ちだったのだろうが。
「今も体調はお悪いか」
「……頭が痛い」
「そうですか」
感情のなくなった冷たい声。
「今朝は薬を飲まれていますか」
「……」
飲んでいない。それは今朝だけではなかった。それを言うのが憚られ逡巡している間に、生成は事実を察したらしい。わざとらしいため息が降ってくる。
「飲まれていないのか。今朝だけではありませんね?」
「————……」
「答えられよ。お出ししている薬は、ちゃんと飲んでいらっしゃるのか。飲んでいてこれなら量を調節しなければならない」
「……飲んでいない。ここしばらく調子が良かったから」
「なるほど、そうですか」
生成の声が震えた。怒りのためだ。
「あなたは本当に傲慢だな! 世の中にこの薬をどれだけの民が必要としていると思っている‼︎ それでもあなたにお出しするのは、あなたが臣民を護る力をお持ちだからだ‼︎」
全ての感情が溢れたような大声が寝殿内を震わせる。その大声が依夜の頭痛をさらに増幅させ顔をしかめた。
そうだ、その通りだ。依夜はおそらくこの国で一番強い退魔の力を持つ
(傲慢……あぁ、その通りだ……)
自分のせいで力を使えず、魔を取り逃し臣民を危険にさらすなどあってはならないことだ。それを理解しているのに、なぜ薬を飲まなかったのか。それを自覚しているからこそ痛い。自分の幼稚な思考が嫌になる。
ただ、生成が差し出すものを拒否したかっただけだなど。
「あなたのような我儘なだけの姫が妻になるなど、神託でなければ願い下げだ、くそッ」
姫である依夜の前で声を荒げた生成に驚き、すぐに納得する。これは生成の偽りなき本音なのだろう。
面と向かってそう言われると胸が痛んだが、冷静に嫌味を言われるよりはましだ。
それよりも今は、生成の声が頭に響いて痛い。
「やめろ、あとで聞く……」
「いいえやめません。あなたの体調がまだ悪いのは承知していますが、自業自得というなら甘んじて受けられよ」
なにも言い返せない。その通りだ。
なにをどうしても、感情に支配されてしまう。それがわかっているのに、逆らうことが出来ない。自分の感情すら制御出来ない。
「臣民を護るために、その力を発揮するために必要ならば嫌でも従うべきだ。薬が嫌でも、臣民を護るために飲む。そうしなければならないお立場でしょう⁉︎」
「そうだ……」
生成の言うことは最もだ。反論の余地もない。
脳裏に、先ほどの魔の声が蘇る。
お前は誰が護るの? 答えなど最初から決まっている。
(わたしは誰にも護られない)
依夜が護りたいものはある。だが、依夜を護りたいと思うものはいない。
「わたしが……望んだ、わけじゃ……ない……」
神子に生まれなければどんなに良かっただろう。いや、貴族でなければ。臣民のように、自由に笑う人生はどんなものなのだろう。
辛いことだって多いはずだ。病を持っていては長生きも出来ないだろう。魔に怯えて暮らすことにもなるだろう。
それでもそこには、依夜が望んでも得られないものがある。
「はっ、あなたの気持ちなど関係ない。あなたを神子たらしめたのは神だ」
のどの奥が引きつった。瞼が熱くなり、耳鳴りがした。
神が依夜を神子として選んだ。苦しむことさえ赦し愛した。神は依夜が神子であることを望んだのではない。神子として生まれた依夜が苦しむことすら愛しただけ。
そう、皆が信じ救いを求める神は、なにも救ってなどくれないのだ。
頭の痛みをこらえて、生成の声に背を向ける。生まれつき弱視の生成にはそもそも見えないだろうが、それでも滲んだ涙を悟らせたくはなかった。
「これより薬は毎回ちゃんと飲むようにされてください。薬を拒否することによって苦しむのはあなたではない、臣民たちなのですから」
「……わかっている」
「では、私は薬を調合しに参りますので」
衣擦れの音で、生成が立ち上がったのがわかった。
「薬は
「……ああ」
かすれるような声だったが、その声は届いたらしい。生成が動き、足音が遠くなっていく。
御簾と狩衣の擦れる音。やがて静寂が訪れた。
瞼から堪え切れなくなった涙があふれ、くぐもった声が漏れた。
(わたしが望んだんじゃない……)
神子に生まれたことも、生成との婚姻も、この苦しみを神に赦されることも。だからと言って、護ることはやめない。だが。
(つらい……)
ただ一人でこの苦しみを抱えて生きて行く事が。そうだ、辛いのだ。
(いっそあのまま)
目が覚めなければ、良かったのに。
* * *
外はすでに暗く、空には闇が降りている。
ため息をつき、生成は空を見上げる。そこにはなにも見えないものの、それが逆に心地良かった。
陽の光も、月の光も自分にはまぶしい。所詮、自分など暗闇の中が似合いなのだ。
「ずいぶん、嫌われたものだな」
誰もが美しいと謳う月の姿は、生成の瞳には映らない。ただ、ぼんやりとした静かな光があるだけだ。
それが月の光だということは間違うはずもない。だが、その姿は見えないままだ。
だからこそ、月の見えないこんな夜の方が心がざわつかなくて済む。月の光は、生成にとっては別のものを思い出させるから。
「はッ……」
乾いた自嘲がのどから漏れた。
我儘だと怒鳴りつける資格など自分にはない。それなのに、そうするしか出来ない自分が愚かだった。依夜に対する感情に流され、責め立て、苦しませては仄かな悦びを感じているのだから。
依夜に偉そうになにかを言えるほど、清廉潔白ではない。それどころか、深くて暗い闇でしかないというのに。
——わたしの行きたいところはわたしが決めるのよ。
幼い女童の声が甦る。その、まだなにも知らない無垢な笑顔を。自分とは違う、尊き身分の光を。
その清らかさが妬ましかった。自分にはないものを全て持つその光が。
(神よ、大神よ。なぜ私を、神子に選ばれたのだ)
神子でなければ、赤子のうちに闇に葬られたであろう命だったのに。
(あなたはこんな私の存在をも、赦されるのか……?)
その問いに答えるものはない。
静かで冷たい月明かりが頭の中に浮かんだ。その中に匂い立つ白い桜の花弁も。
その過ぎ去った日の月明かりだけが、ただ生成の胸の闇を照らし続けていた。
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