7. 不協和音
怒りで身体が震えた。しかし、身体に力が入らず身体が折れた。床に伏す。
今なんと言った? 聞き間違いでなければ、想う殿方がいるかと言ったのか。それを問うてどうなるというのだろう。その答えでなにかが変わるわけでもないのに。
息が上がる。
「はぁ……はぁ……」
「しっかりされてください、夜は冷えます。せめて近くの寝殿に」
「うるさい……要らぬと言っている、だろう……」
「いい加減にしなさい!」
怒気を含んだ生成の怒鳴り声が鼓膜を穿つ。しかし、その続きは発せられなかった。
依夜の耳の奥で、まるで金属同士を擦り合わせたような耳障りな音が響いたのだ。生成も同じものを聴いたのだろう、険しい表情で周囲を見渡している。
魔の気配だ。近くに魔が出ているのだ。こうして感知できているということは、おそらくはこの宮の中だろう。しかも、かなり大きく強い魔だ。
「……こんな時に」
低い呻きを上げ、生成が立ち上がる。
「あなたはここでじっとしていてください、人を寄越しますゆえ」
「要らぬ、わたしも行く。魔を……祓わなくて、は……っ」
全意識をふり絞って身を起こす。呼吸を整え、
「なにを⁉︎ その体調でその衣装、無理に決まっています!」
「だめだ、わたしが行かないと……この魔は他の退魔師には手に余る」
「
清藍——神官長である雅ならば確かに可能に思える。しかし。
「忘れたのか、雅殿はわたしたちの婚姻の儀までの神事を……行うことになっている」
口に出すことに激しい抵抗を覚えたが、今は躊躇っている時ではない。
「ッ清めに入られているのか」
清め、すなわち水行だ。駆けつけるにしても時間がかかる。
「わたしなら出来る。魔を祓うのは、わたしの務めだ」
そのために生まれてきたのだから。
「馬鹿な」
「なにをしている、行け。わたしも、すぐに行く……」
「あなたは残られよ、その状態では退魔などできないでしょう。我々の邪魔にもなる。足手まといになるおつもりか!」
「だいじょうぶだ……」
耳の奥で魔の耳障りな不協和音は続いている。もちろん神殿から神官たちが向かっているだろうが、この音の歪さは稀に見るものだ。
強い恨み、憎しみの念を感じる。
「それならば五衣など脱いでしまわれよ!」
「……なん、だと」
五衣を脱げば、単と長袴だけだ。それは、裸でいるのとなんら変わらない。
「出来ぬならそこで大人しくしていなさい」
押さえた声がそう告げ、踵を返す。
後を追い一歩踏み出そうとし、よろめく。衣装が重い。生成の言う通りだ、これではなにもできない。ただでさえ泥のように重い身体だ、動くことすらままならない。
(わたしの務めは、魔を祓うことだ。この力で臣民を守ることだ)
その臣民とは、ほとんど全ての国の民だ。依夜の上になる者など、現帝かその子くらいのものなのだ。
悔しいが、生成も臣民の中に含まれるだろう。上に立つものには、それだけの責務がある。
(そうだ、わたしの恥や感情など関係ない……)
裳の小腰に手をかけ、解いていく。裳を身体から引き剥がし、唐衣、表着、打衣、五衣から単だけを残し腕を引き抜いた。
衣装を後ろへ落とすと、急に身体が軽くなった。長袴では走ることはできないが、なんとか移動はできそうだ。
「はぁ……」
一度うつむき、胸に手を当てた。息を整える。冷え切った指先が微かに震えているが、もう最悪の状態ではない。めまいはあるが、吐き気はおさまりつつある。
魔の発する不協和音に集中する。
(西の方角……山吹殿のあたりか)
山吹殿は、婚姻の儀で使用する場所だ。
(なんと皮肉な)
目にしたくもない場所だ。それでも行かなければ。
一歩を踏み出そうと顔を上げ、絶句する。そこに見たのは、白い人影。
「あなたはなにをされているのか!」
生成だ。その姿に怒りがわく。先に行って魔を押さえねばならないところを、なぜこの男は戻って来たのか。
「それはお前だ生成。
「……本当にあなたは目障りだ」
生成の顔が忌々しげに歪んだ。足音荒く依夜の右手へと歩み寄ると、有無を言わせずに腕を背に回される。
「っなにを、————⁉︎」
一瞬下に沈んだ生成の腕が膝裏を捕え、ふわりと身体が宙に浮く。あっと思う間もなく依夜は生成に抱き上げられていた。胸が痛いくらいに脈打ち、ほおに血が昇る。
生成はそのまま歩き出した。その歩調に乱れはない。
頭の中が混乱する。身体が不安定で心もとない。生成は上背はあっても線が細いと思っていた。依夜は決して小柄ではない。それなのにこれほど。
なにより狩衣ごしとはいえ密着していることに耐えられない。
「なにをする⁉︎ 降ろせ!」
身をよじると、生成の白すぎるほおに朱が入ったのが見えた。燃えるように依夜を睨め付ける瞳には、明らかな怒気が見える。
「黙れ!」
一喝。その勢いに息を呑む。これまで、こんなに感情的に依夜を怒鳴ったことなどなかった。生成はいつも、嫌になる程冷静で嫌味だったのに。
「無礼の罰を下すなら後にしろ! 体調の悪いあなたが魔のそばへ行くなら護衛が必要だ。その分私の到着が遅れる。被害が出たらどうされるおつもりか。一人でも早く駆けつけなければならないところを、あなたがよろよろ歩くのに付き添ってのんびりしている場合ではない!」
「護衛など……」
「要らぬと申すのか! それであなたの身になにかあれば私が罰せられるのだ。そんなこともお分かりにならないのか!」
「————ッ」
「あなたはご自分の立場がわかっておられないようだ、依夜姫」
姫、と呼ぶ生成の声には、明らかな侮蔑の色が浮かんでいる。これが神官として狩衣を着ているのならば話は違っただろう。しかし、確かに依夜は今、生成が言うように帝妹の姫なのだ。
たとえそれが生成自身の保身だったとしても、言っている事は正しい。これが生成でなく他の者だったとしても、絶対に護衛すると申し出ただろう。
「……すまない」
「わかったなら息を整えておかれよ」
息を吐く。密着した体から、伝わるはずもない熱が伝わってくるような気がする。
なんて情けない。嫌いな相手に助けられるしかできないなんて。
息を吸う。落ち着け、今は魔を祓わなければ。
鳴り響く不協和音に集中する。酷い憎しみの念に胸がむかむかしてくる。頭の中に浮かんだのは、闇に飲まれた生成の姿。
(————ッあれは夢だ)
魔の憎しみの念に当てられているのだろうか。
(こんなことでは駄目だ、本当に足手まといだ。引っ張られるな————)
人の足音。白い狩衣が走り抜けていく。
「生成殿! ——ッこれは依夜姫!」
神官の男数人が足を止め、驚いたように依夜に視線を寄こす。
「依夜姫はお加減が悪い。だが、退魔には必要なお方だ。私がお連れするから、お前たちは先に行って封じ込めを」
「鳴弦を。楽は琵琶を入れろ」
「はい!」
神官たちが頷いて走り去っていく。その背を、生成の瞳が苦々しげに追った。
生成も本当は走って行きたいはずなのだ。依夜さえいなければ。だからこそしっかりしなくてはならない。
(わたしはわたしの務めを、果たさなくては……)
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