弐ノ歌 貝覆い勝ることは叶えども

6. 神の病

 重い身体を引きずって歩く。

 五衣唐衣裳、依夜は滅多に身につけない正装を身にまとっていた。薄桃の唐衣が陽の光を受け艶めいている。


 依夜は、帝から正式な招聘しょうへいを受けた。普段なら堅苦しいことは抜きで兄として会っていたが、今回ばかりはそうはいかなかった。

 前も後ろも女官に囲まれ、帝のもとへと出向く。大勢の公達たちの控える空間。そこで正式に依夜は、生成との婚姻の儀が神託によって十四日後に決まったことを告げられたのだ。


 大勢が控えているのは承知で、それでも万に一つの望みで生成との婚姻を考え直すよう進言はした。公達がざわめき、口々にあれこれ騒ぎ立てる。その中には、息子を依夜の相手にと名乗りを上げていた季守きしゅも見えた。一瞬期待のこもった眼差しをしたが、覆ることはなかった。これは神託なのだから。

 ただ依夜が恥をかいただけだ。それでも可能性があるならかけたかったのだ。


 それから一人にしてくれと女官を追い払うのにも難儀し、心底疲れ切っていた。それでも自室に帰ればまたやかましいだろうと思うと、無駄に渡殿を歩き回っている方がましに思えた。

 視界に釣殿が入る。池の上に吹き放ちで作られたそこは、庭の季節を愛でる場所だ。なにも考えたくない時には、時折訪れて一人の時間を過ごすこともある。


 自然と釣殿へと足が向く。手入れされた庭に並ぶ桜はまだかたい蕾だが、それもまた今だけの光景だ。

 空は曇天。時刻は夕刻に近くなり、時折ゆるやかに吹く風も少し冷たい。その空を、高欄こうらんに身体を預けて眺める。

 自分は臣民を護るために生まれてきた。そう思えばこれも道理なのかと理性では考えられるものの、感情がそれに追いつかない。


(神よ、あなたは本当にこう望んでおられるのか……?)


 神託。それを祭主も、兄も当然のこととして信じている。信じているように見える。だが、それは真実そうなのだろうか。

 それが真実なら、依夜もそう信じることができるなら良かったのだ。


(大神よ……)


 急にめまいが依夜を襲った。急激に手足が冷える。視界の端から光が差した。それは神が降臨する前触れ。

 依夜の前に光が集まっていく。末端からどんどん冷えていく身体とは裏腹に、依夜の胸は異常な程の早鐘を打ち出し、息が苦しくなる。

 目の前には神々しい光。それが依夜に認識できる神の姿だ。その光は高欄の向こう側、池の上に浮かんで瞬いている。


「あなたは……」


 光に手を伸ばす。届きそうで届かない距離。

 光から、神から降り注ぐのは欠けることのない無償の愛。それは、こうして苦しむ依夜のことも全て許容するもの。苦しむ姿すら愛しているという神の赦し。


「わたしは苦しむことを望んでいない。でも神よ、あなたは……この苦しみすらそのままで良いとおっしゃるのか……このままで……」


 光が瞬く。言葉ではない、だがなにかが依夜の心に語りかけている。それはただ、今の依夜の全てを赦す。


(今を全て肯定するのは、神が完全だからだ。完全ゆえに不完全なわたしたちをそのまま愛してくださる……)


 まぶたの奥が熱くなる。そこから一粒、雫が流れた。

 やはり依夜の視る神はなにも望んでなどいない。なにも。ただそこにあるものを肯定しているだけだ。ただ自愛の光で照らしているだけ。

 その光によってできた影さえ、いや、その影をも愛しているのだ。


 神託が真実神の声でないとしても、神はそれすら赦している。依夜がそれでどんなに傷ついても、苦しんでも、その痛みごと全て。

 神のように全てを赦せない醜い依夜の感情でさえ。 

 その圧倒的な光の前ではなにも言えなくなる。神になぜ、どうして、助けて欲しいと言いたいのになにも言えない。それを言ったところで全てを赦す完全な神には助けてもらえないことを、目の前にすると体感としてわかってしまう。

 自愛の光が降り注ぐ。その中に溶けてしまいそうなほど身体の感覚がなくなっていく。同時にわけのわからない多幸感が押し寄せた。


(あぁ、大神よ……このままわたしを連れて行って……)


 どこか遠くから笙の音が聴こえてくる。天上から降る光の音。

 意識が透明になって……。


「——め、よ姫! 依夜姫!」


 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。


(この声は……あぁ……)


 今最も聞きたくなかった声。

 神の自愛の光がかき消え、意識が身体へ急激に引き戻される。身体が揺さぶられている感覚。


「依夜姫、しっかりなされよ!」


 目の前に険しく歪んだ薄灰の双眸。白い狩衣。

 生成の姿が見える。その顔に黒いシミがぼとりと落ちた。闇に呑まれていく生成。悲鳴を上げ身をよじろうとしたが、生成に腕と肩を押さえられ動きを封じられる。

 闇に染まった生成。それは依夜を害するものだ。


「なにを見ておいでか!」

「っ生成……! は、なせ……!」


 めまいがする。揺れた身体を支えた生成の腕は白い。見上げたそこにあるのは、いつもの白い生成の姿。それを確認した瞬間に、全身が総毛立った。どっと冷や汗が吹き出し、身体の中の何もかもが足元に落ちてしまったように重い倦怠感が依夜を支配していく。

 胸の奥から強烈な吐き気が込み上げた。


「————危ない!」


 身体が傾いだ。生成がつかんだままの依夜の腕を引き、抱きとめるように支えたのが分かったが、抵抗などできない。

 膝をつき、身体を折った。生成の身体がすっと離れる。


「——っ、うっ……ううぅ……」


 のどの奥が痙攣し、下から何度も嘔気が突き上げてくる。

 逆流してきた苦いものが口腔内に広がった。口の端から垂れたそれは、すぐさま柔らかい布で押さえられる。依夜の前に膝をついた生成が差し出したものだ。


「そのお着物を汚されるおつもりか」

「ぐ……う……うぅっ」


 吐き気で上手く反論ができない。


「薄桃の唐衣は、あなたの髪色には似合いませんね」


 その一言にすっと頭の芯が冷える。


「は……はぁはぁ……そんな、ことを言いに来たのか」


 口元に添えられた手を払い除ける。上手く息が吸えずに、荒い音がのどからもれた。


「いえ、遠目ではそこまで見えませんでしたから。今思ったことです」


 目の前は生成の着ている白い袴。そこから顔を上げることができない。


「別にあなたにお会いしたくはありませんでしたが……」

「わたしに会いたくないのならばっ、放っておけば良いだろう……!」

「私は臣下としてもうじき暗くなると忠告に来たまで。その上お加減が良くないと見える。声をかけたくなくとも馳せ参じるしかないとお分かりにならないのか」

「……っ」


 言い返したいのに頭の中が霞んだように上手くものが考えられない。

 身体中が重くだるい。まるで泥かなにかになってしまったようだ。単の中も冷や汗で濡れじめじめと気持ちが悪い。

 その上、目の前には生成がいる。最悪だ。


「お前は戻れ生成」

「できません。あなたの寝殿まではお送りいたしましょう」


 再度伸びてきた生成の腕を叩く。生成の白い顔が歪んだ。


「要らぬ。触るな」

「わがままもいい加減になされよ、依夜姫」


 明らかに怒りの表情を浮かべて、生成が口を開く。


「帝から神託をいただいてから戻りもせず、こんなところに長時間いて体調を崩されるとは!」

「————……」

「つまらない感傷に浸る時間がお有りなら、さっさと着替えて神殿に参じれば良いものを……」

「そんな気分じゃない、お前のせいでな」

「気分だの誰々のせいだの、神にお仕えする行為には関係のないことです」

「————っ」


 怒りでほおに血が昇った。ごうごうと耳の奥で音がする。

 その通りだ。だからこそ腹が立つ。


「それとも、婚姻の儀が決まりそれほど消沈されているのは、他に想う殿方がいらっしゃいましたか」

「なんだと……?」




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