4. 神託

 自室に帰り藤のうちぎ姿に着替えると、依夜はため息を付いて脇息にもたれかかった。

 神官として勤める時の多くは生成と一緒なのは苛立つが、狩衣を脱ぐとそれはそれで煩わしい。年を重ねるごとに息苦しさが増していく。どこに身を置いても心が休まらない。

 あちこちからする、人の声。視界を遮る女官達。いっそ塗籠ぬりごめの中にずっと閉じこもっていたいほどだ。

 どうしてこんな自分が帝妹などに生まれたのか。こんな気性が荒くて姫には似つかわしくない自分がよりにもよって。


(気が、おさまらないな……)


 喧騒を遮るように瞳を閉じる。退魔を行った後は特に気の揺れが大きい。それともこれは生成きなりが苛立たせてくるせいなのか。どちらにしても好ましい状態ではない。

 知らず眉間に力が入った、その時。


「お待たせしましたね、依夜姫」


 いつもの厳しい声にはっと頭を上げる。そこにいたのは、見慣れた自分の母代わりだった女官・紫上局しじょうのつぼねだ。

 依夜の前に座し、深々と一礼する。


「どうしたの?」


 いつも真面目を絵に描いたような彼女の態度は、依夜には安心できるものだ。依夜が相手だからと言って変な気もおべっかも使わない。依夜が依夜でいられる相手だ。

 しかし、そんな気の緩みは、紫上の次の一言で全て吹き飛んだ。


「あなたの婚姻が決まりましたよ」

「————は?」


 言われた言葉はしっかりと耳に届いていたのに、その意味が理解できない。いや、理解しそうになるのを拒否してしまう。

 今、なんと?


「聞こえませんでしたか? 依夜姫、あなたのご婚姻が決まりました。神託がくだったのですよ」


 ぎちりと歯を噛み締める音が耳に届いたものの、それがさらに依夜を食いしばらせる。このまま口を開けば言いたくないことまで口走ってしまう。


「お相手は、帝のご意向通り生成殿です」

「——ッくそっ」


 思わず吐いた悪態に、紫上の眉が釣り上がった。周りの女官たちは怖いものを見るような眼差しで後ずさっていく。


「依夜姫! そのような言葉遣いをなさいますな!」

「うるさいッ」


 拳を握り締め、脇息へとふり下ろす。鈍い音とともに拳に痺れが走った。


「生成が、あの男が夫だと?」


 胸が苦しい。うまく空気が吸えない。


「決まっていたようなものでしょう。今更そのように取り乱すことではありません。しっかりなさい」


 そうだ、決まっていたようなものだった。だが、やはり現実を突きつけられると息が詰まった。なにか胸の奥から黒いものが溢れて依夜を押しつぶしていくようだ。

 あの白い散切りの髪とぞっとするほど白い肌、その中から依夜を射抜く赤みがかった薄灰の瞳。細められたその瞳が依夜を睨みつけている。見張って、捕らえて離さない。あの瞳の前では、自分は永遠に惨めなままだ。


「気に入らない……」

「気持ちはわからなくもありませんが……。依夜姫、あなたの人生はあなたが決めるものです。あなたの幸せも」

「ふざけたことを言わないで。わたしの意思じゃない、わたしはッ」


 喉の奥が熱くなる。今にも迫り上がってきそうななにかを必死に押さえ込むように顔を手で覆い隠す。

 こんな風に心を乱されていることすら気に食わない。


「わたしはなにも決められないっ……」

「もともとはあなたのご意思でした」

「やめろ! あれは、あんなのは騙されていただけだ! 臣下に降ろされたからと私を謀って地位を盤石にしようと!」


 悔しい。生成に騙されたことを自分の意思だなどとは到底思えない。そういう風に動かされただけだ。それが悔しくてたまらない。

 帝妹とはいえ、生成にとっては自分の地位を築く駒でしかない。それがこれから先ずっと続くのかと思うと吐き気がしてくる。


「わたしは騙されていたんだ……それなのに帝は、兄上はなにも……わかってくださらなかった。わたしを謀ることは兄上を謀ることだ、違うか⁉︎」

「ええ、そうですね。違いませんよ。ですが、神はそれを望まれた」

「そんなわけがない! 神はなにも望まれてない、神は欠けるものがないから神なのだ。神託など降すはずがないだろう⁉︎」

「口を慎みなさい!」

「————っ」


 怒りを含んだ紫上の声に我に返る。ずっと力を込めてにぎり込んでいた拳が震える。


「神を疑うなど正気ですか」

「疑ってなどいない。だが神は……なにも、望まれない……」


 紫上は神子ではない。だから言っても詮無いことだとはわかっているのだ。それでも。


「わたしの視る神は完全だ。わたしたちを見ていらっしゃる。それだけなんだ」

「それは、あなたが祭主ではないからでしょう」

「……」


 祭主にだけ神託を降す神。その神託は本当に、神の意思なのだろうか。もしそうでないのなら、依夜は誰の意思で生成に降嫁させられようとしているのだろう。


「もし依夜姫が言うことが本当でも、神託に否やがないことには代わりないのです。諦めなさい」

「諦める……?」


 そうしてこの先の人生は全て諦め、生きているのに生きていない日々を過ごすだけになるのか。そう考えた途端に、喉の奥から乾いてしゃがれた笑いが出た。

 それが貴族として生きるということなのか。


「ねえ紫上。わたしは祈冥聖きめいせいの姫として、そして天緑てんろくの長として、臣民を護っていかなくてはならない。そうだな?」

「ええ。おっしゃる通りですよ」


 そのために自分を殺して、道具として生きていく。それが依夜に残された道なのか。


「婚姻の儀の日取りは次の新月に神託をいただくそうです」

「そう」


 もうそんなことなどどうでもいい。

 依夜に残された選択肢はあまりにも少ない。


「わたしの人生は終わったようなものだ……」


 臣民を護る力を持っている、今となってはそれだけが依夜がこの世に残る理由だ。それがなければ、こんな苦しみしかない人生など終わらせてしまえるものを。

 気分が悪い。


「なにを……」

「御簾を上げて。外へ出る」


 立ち上がる。息が詰まりそうだ。

 紫上が御簾の近くに控える女官たちに指示をし、自らも加わり御簾を巻き上げていく。

 御簾など巻き上げなくても、狩衣の時ならば簡単に隙間から通り抜けられる。だが袿姿ではそうもいかない。そして、依夜の立場的にも。

 自室ならともかく、外に出るならそれ相応の立ち振る舞いをしなければならないのだ。兄の顔に泥を塗らないためにも。


(馬鹿馬鹿しい……)


 そんなことすら煩わしい。

 外からの光を受けて依夜の髪が金糸のように輝く。もし依夜が神子でなかったなら、神官にもならず、生成に降嫁することもなかっただろうに。

 ただ神子の血を欲しているだけだ。神ではない、誰かが。それは帝かもしれないし、祭主、もしかしたら神官長かもしれない。それら全てに依夜の人生は握られたままなのだ。生まれてからずっと、この先も。足を踏み出す。上がった御簾をくぐり外へ出た。

 薄曇りの空。それでも、少し冷たく吹く風がいくらかは気を沈めてくれるような気がした。


 特に目的もなく渡殿を歩く。庭にはかたい蕾をつけた桜の木。

 この蕾は時が来ればほころぶだろう。だが自分はどうだ。これからますます、かたく閉じなければ気が持ちそうにもないなど。


 ゆっくりと歩を進める。通りがかった女官が深々と礼をして脇へと避けた。そのことに無性に腹が立つ。

 誰も依夜を見ないのだ。本当は貴族の生活が心底性に合わないのも、気性が激しいのも、なにを感じているかすら全て。夫となる男が憎いことも。


 角を曲がる。と、向こうに白い狩衣が見えた。背で結えた亜麻色の髪。凛とした佇まい。あこめの色は、藍。

 先ほど退魔の報告を行った神官長の雅だ。

 雅は依夜に気がつくと、笑みを浮かべたようだった。真っ直ぐこちらへと歩み寄り、優雅な仕草で礼を取る。


「これは依夜姫。ご機嫌麗しく……はいらっしゃらないようですね」


 神官としてなら尊敬してやまない雅も、帝妹として会うと厄介な相手だ。なまじ人の心の機微を読めるとわかっているからなおさら。


「ご婚姻のことお聞きしました。こう言うのは貴女様を知っている身としては躊躇われますが、おめでとうございます」


 依夜が生成を、生成が依夜を嫌っていることは雅も承知済みだ。その上で祝いの言葉を言うのだ、この神官長は。

 それくらいの割り切りが出来なければ神官長など務まらないのだろう。依夜など足元にも及ばない。雅に指摘されたように、心を乱してばかりで冷静さがないのだから。


「……なぜここに」

「他ならぬ帝妹の依夜姫の事ですので、私が婚姻の儀までの神事をお務めいたしますれば」

「そう」


 確かに依夜の身分を思えば、神官長が自ら取り仕切るのが道理だ。婚姻が決まったと聞いて飛んで来たのだろう。


「ひとまずは、紫上局殿にお話をいたしましょう。依夜姫はこれからどちらへ?」

「わたしがどこへ行こうがあなたには関係ないこと」

「そうですね」


 雅が頷き、道を開ける。


「いってらっしゃいませ、依夜姫」


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