5. 夢
依夜は
ああ、また倒れてしまったのだ。そう考えたとき、人の気配が現れた。
「依夜姫、お薬を持って来ました」
低いけれど、優しく温かい声。
「……
目を開くと、そこにあったのは真っ白な中にある二つの薄灰の瞳。その瞳は依夜を気遣うように、それでも柔らかくほほ笑んでいる。
(そんなはずがない)
生成がこんな顔をすることなど……。
(これは、夢か……)
それも、過ぎた日の夢だ。二年以上前の。
夢なら醒めて欲しい。それなのに自分の意思とは関係なく口が動く。
「いつもありがとう」
「いえ。お加減はいかがですか?」
「まだぐらぐらしているわ。寝ているはずなのに」
「……薬は後にしますか?」
「いいえ、今飲む」
ゆっくりと身体を起こす。めまいがして揺れた背中を生成の腕が支えた。
(……やめろ)
呼吸が早まる。胸が苦しい。それなのに、夢の中の依夜は生成へ笑みを浮かべた。生成が差し出した薬包紙を受け取ろうとして手が震える。その手に生成の少し冷たい手が添えられた。
「ゆっくりで大丈夫です」
頷く。胸がむかついてたまらない。それなのに、その手をふり解くことも出来ない。そのまま生成に支えられる格好で薬を口へと含む。苦い。その薬の苦さに体温が上がる。
生成の手が離れ、水の入った杯が差し出されてくる。その水もそのまま生成の手が支え、口へと運ぶ。
口の中いっぱいに広がった苦味がのどへ流れ込む。夢なのにそれは鮮明に依夜の胸に広がり、黒い影を落としていく。
(ああ、めまいが……)
手から一瞬力が抜けた。杯が傾き、口の端から水がこぼれた。取り落としそうになった杯は生成の手に受け止められ、素早く下げられる。
「ごめ……」
「失礼します」
口にやわらかい布が当てられる。
「大丈夫ですか? もう少し水をお飲みになりますか?」
「ありがとう。ええ、いただきます」
口の中にはもう薬はなくなっている。それなのに水を欲しがった、その気持ちを見たくないのに夢はまだ醒めない。目を逸らすことも出来ない。
夢の中の依夜がその時に感じていたのは、確かに気持ちの高揚だった。そのことに吐き気がするほど嫌悪感がわいた。
(わたしは騙されていたんだ……)
水の冷たさがのどを通り抜ける。生成にもう一度礼を言うと、杯が下げられた。生成の瞳が依夜をのぞき込み、驚いて身を引こうとしたものの背を支えられているためそれが出来ない。
薄灰の瞳が近づく。
「近い……っ」
「申し訳ありません。少し、視力が……顔色は良くなりましたね」
すっと生成の顔が遠ざかる。
「横になりましょう」
生成の腕がしっかりと背を支え、依夜を寝かせてくれる。見上げると、生成が優しくほほ笑んだ。
白い手が依夜の額に触れる。冷たい、骨張った指の感触。
(これは夢だ……最悪の)
生成が依夜を騙していた頃の。生成が、依夜にも優しかった頃の。
「合奏の約束をしていたのにごめんなさい」
「いいんですよ、合奏はいつでも出来ます。もう数日すれば桜も満開になるでしょうから、釣殿で桜を愛でながらの合奏にいたしましょう」
「……それは楽しみだわ」
「ええ。ですから今は休んでください」
ふわりと薫るような笑みを浮かべ、生成の手が離れる。
その手はいつも優しかった。依夜が幼い時から、あの時までは。
「そう、目的を果たせればお前など用済みなんだよ、依夜姫」
「————⁉︎」
冷たい声とともに、生成の白い顔に黒い斑点が浮かび上がった。それはあっという間に全身に広がり生成を飲み込んでいく。
悲鳴を上げる間もなく、闇に包まれた生成の両手が依夜の首に絡みついた。
「き、なり……」
「お前など所詮私の駒だ。私のために子を成せばそれで良い」
闇の奥から響く嘲笑が依夜の脳裏を焼く。依夜の鼻先に触れそうほどに、かつて顔だっただろう闇が近づく。その闇の中に浮かぶのは、虚な二つの瞳。
「さあ、全てを明け渡せ……」
さらに近づく闇。
「その血を————」
闇が依夜の唇に触れた。顔を背けようとするのに出来ない。ねっとりと絡みつくような闇が口腔内に侵入し息を塞ぐ。
これは夢だとわかっているのに、おぞましさと酷いめまいにぎゅっと目を閉じた。まるで宙にでも浮いているかのように身体の感覚がなくなり、気がつくといつの間にか依夜は床に座している。
夢が変わったのだ。そのことにほっとして顔を上げる。そこにあったのは生成ではなく、優しげな兄の姿。
「依夜。久しぶりに会えて良かった」
「兄上もご健勝のこと、嬉しく思います」
「そんなに堅苦しくならなくていいよ。兄妹なのだから」
「はい」
いつも優しい兄。血を分けた兄妹。
(これは、あの時の……)
聞きたくない。そう思っても夢は進んでいく。
「それにしても依夜も大きくなったね。そろそろ婚姻を考えてはどうかと周りがうるさくてな。年頃からするとそうだが、まだ、いいだろうという気もしてな」
年の離れたこの兄は、時々父のような顔を見せる。本当の父親である先帝は近寄り難い存在だった。だからこそ依夜は、兄の方に優しい父の面影を見るのかもしれなかった。
「依夜は
「ありがとうございます、兄上」
兄は真剣に依夜の今後を考えてくれている。そのことが嬉しかった。
兄の選んでくれた殿方なら、間違いはないだろう。でも、もし……。
「私はね、依夜。政略結婚には違いないが、妻を愛している。だからこそ、お前にも思う相手がいればいいのにと思うんだよ」
「思う相手?」
「そう。依夜の身分は変えられないだろう? だけど君は、大概な跳ねっ返りだからね」
おかしそうに笑う兄に、依夜もつられて笑う。依夜のことをわかってくれていることが嬉しかった。
「そんな依夜をわかって、思い合える相手がいればいいのだがと思っているんだ。私が今、幸せなようにね」
「兄上……それは、とても素敵なことです」
兄夫婦は愛し合っている。それが幸せなのはわかる。兄に大切にされていることが嬉しいのだから、それが夫だったらさらに幸せだろう。
「お前は賢いから聞くが、誰に嫁ぐのが良いと思う?」
それは言外に、誰か想い人がいるのかと聞かれているようなものだ。それに気がつき、依夜は考えるそぶりをする。
(————っ)
思い浮かんだのは、一人だけ。
「そうですね。生成はいかがですか兄上。華村生成」
「ほう。生成か。彼も神子だし、優秀だからな。最近は
「はい。私の薬も調合してくださっているんです」
「聞いているよ」
優しげな笑みを浮かべた兄が、一瞬顔を曇らせる。
「だが、生成は臣下だからな。降嫁ということになると……」
生成は先帝の妹である茜姫の子だ。しかし、先帝によって華村の姓を与えられ臣下に
「わたしの嫁ぎ先は重要です。誰を選んでもわたしより下になってしまう」
「そうだ」
「つまり、わたしを娶れた方は勢いを増すことになる。位の高い皇族であればあるほど、兄上に口を出して来ることもあるかもしれません」
「ふむ」
「ですが生成なら臣下ですからそうも行きません。それに降嫁になるとはいえ、生成の血は尊いものですし、なんと言っても神子ですから」
神子は魔を祓い臣民を護るための要だ。神子を産むことができるからこそ、貴族は貴族として高い地位にいる。そしてその地位にいるからには、臣民を護らなければならない。
神子を産み臣民を護るのが、神から賜った貴族の務めなのだ。
「確かにな。私も生成は気に入っているのだよ」
「そうですか」
笑い合う。この時はまだ、なにも知らずに。
生成はもとより依夜のことなど嫌いだったのだ。ただ、自分の目的を成すために優しくしていただけで。
場面が変わる。目の前には薄緑の直衣を着た生成。それ以外のなにも見えない。白い空間。その白の中にいてさえ、生成は白く浮き立っている。
「帝が、依夜姫を私に降嫁させるご意向だと伺いました」
その声は固く、眉間には皺が寄っている。険しい瞳が依夜を貫く。
「私はあなたのことが嫌いです」
「え……?」
好かれてはいなくとも、嫌われているなどと思ったことはなかった。いつでも優しく依夜を気遣ってくれていたのに。
「ずっと気に入らなかったが、できる限りお仕えしていたつもりです。ですが、こうなればもうその必要などありませんね、依夜姫」
胸が痛む。なにを言われているのか理解できない。
真っ白な生成の肌が黒ずんでいく。醜く上がった口角が背筋を震えさせた。
生成が足を踏み出す。一歩依夜の方へ近づくごとに白は黒く染まり、生成が闇に飲まれていく。
(これは夢だ、そのはずなのに)
動けずに立ちすくむ依夜に伸びてくる二本の黒い腕。
全身が、直衣さえも闇に呑まれた生成の腕が依夜をとらえた。悲鳴を上げることもままならないまま、その腕の中に閉じ込められる。
耳元にかかった息。
「生成、やめ————」
闇が身体の中へと入り込む。依夜の中も闇で充満していく。
苦しい。どうして。
必死でもがくが絡みつくような闇を祓えない。そのままどろどろと溶けるように闇に飲み込まれた。依夜自身も溶け、闇と一体となる。
(助けて————)
依夜ははっと目を開いた。夢から醒めたのだ。
暗がりの中、乱れた息を整える。じっとりと汗をかいているようだ。その不快感に顔を歪める。ただ夢を見ていただけなのに、身体が泥のように重い。
(気に入らない……)
この後に及んでまだ依夜の心を乱してくるなど。
最初から依夜に優しくしていたのは婚姻のためだった。そんなものに騙されて自らその道へ踏み込んでしまったなど。
それが自分の意思であるはずがない。そうであってはならない。
寝返りをうち、瞳を閉じる。
(わたしは、生成が————)
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